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はてなキーワード: パフォーマとは

2010-01-10

なぜ良いコンサートは眠くなるのか?

くだらないことから、……やはりくだらないことまで増田にいろいろ記事を書いてきたが、そうだ、苦手なジャンルの記事も書いてみよう、ということで、音楽の記事を軽く書く。

とは言え、私はほとんどアニソンしか聞かないので、さて何を書こうと思ったとき、前々から思っていた疑問である「駅前で演奏している生の音楽に(音楽のセンスのない私が)たまに異常にインパクトを受けるのはなぜか?」をちょっとだけ言及したい。

もちろん、音楽にはちゃんと音楽理論があるらしいので、的外れかも知れないが書いていきたい。

まず、やはり私がインパクトを受けるのは、「演奏が(ある程度)うまい奏者」だと思う。別の楽器から紡ぎ出される……別の場所から空気の振動として、自分の体それ自体にも伝わってくる音色リズムアセンブルされて一つの調和になってしまうという驚き、インパクトというのはあると思う。ヘッドホンスピーカーでは、あまりその辺が分からない。もっとも、私の使っているオーディオがしょぼいから、という面は大いにあるだろうが、音響の良い映画館音楽を聴いても、やはり、何か違うなあ、と思ってしまうのも確かだ。

それでもう一つ思ったのは、月並みだが、ライブかどうか、という面が大きいのではないかという点だ。

なぜ、ライブかどうかが重要かというと、観客の心の一部に「演奏者の失敗を期待している自分」という面があるからではないかとと思う。それを別に責めている訳ではなくて、スリルの裏返しでもある訳だから、それも含めて観客は楽しんでいるし、演奏者もそれも含めて楽しませようとしているのではないか。

だから、そういう意味……ストリートパフォーマーという意味で、大道芸人とミュージシャンは一緒くたにされるのだろうと思う。

そして、題名の件に話が移る訳だが、「良いコンサートは眠くなる」らしい。私もネットで見た発言なので、そうらしい、としか言えないが。おそらく高級なクラシックコンサートハイソ現代音楽のようなコンサートの話をしていると思うので、ふーん。そうですか。おにぎりおいしいです。としか言えない面はあるが、何となく理由は想像できるような気がしてきた。

要するに、無茶苦茶設備が整ったホールで、マナーの良い観客の前で、一流の演奏者が演奏する訳だから、もはや「精密すぎて」もはや人間演奏しているのか、機械が音を出しているのかよく分からない境地に達しているのではないだろうか。……いや、そう書くと語弊があるか。「安心感」が異常にありすぎるということだと思う。

だから、街の雑踏の中では、「それなりにうまい奏者がうまく弾ききれるか」という面で、スリルを感じた衆目の目を惹きつける、という様な意味では、なかなか良くできたシステムだと思うし、「良いコンサートは眠くなる」という話は、なかなか贅沢な時間の使い方で大変結構なことではないか、などと思う。

2009-12-20

ネトウヨはなんで、ネト「ウヨ」なのか

ネトウヨはなんで、ネト「ウヨ」なんだろうか。

ネト「サヨ」でもいいじゃないか。

ネット上で、日本人としての弱者派遣や偽装負従事者や肝炎患者や孤児やポスドクDV被害者等を暖かい目で見つめ、

東京じゃなく田舎を褒めたたえ、

経団連2世議員エリート達をけなし続ける。

今と変わらないと思うんだけど、ネト「ウヨ」になるんだよなあ。

経団連批判でも、在日と結びついているという陰謀論めいたものを持ち出すし。

基本的に、現実社会への不満が多い人や、疎外感を感じている人間ネトウヨとなって、好き放題言っていると思うわけで、そこに論理的なイデオロギーなんてないと思うし、

基本的には今の風がなびけば適当投票する無党派層と変わらないものだと思うのだけれども、

結集するときの合言葉が「ウヨ」になるのがとても不思議

弱者」とか「労働者」とか「ダメ人間」といった社会身分的な属性よりも、

「ウヨ」という心情的なもので統合されようとしているんだよね。

理由の一つは、天皇なんじゃないかと考えている。

やっぱり日本人天皇を批判することができないというメンタリティ(刷り込み)を持つがゆえに、

最終的な帰属をどこに持っていくかというと、天皇→フルキヨキ日本ネトウヨとなるのではないかと。

となると、それだけのパフォーマンス国民に与え続けてきた平成天皇とやらは、戦後最大にして最強のパフォーマーなのだろうなあ。

なんとなく、パフォーマーということで、アントニオ猪木を思いついたけど、異種格闘技の頃の猪木幻想猪木信者と、今の天皇ネトウヨの関係は似ているのかもね。

そして、その幻想は打ち破られる事はないという事で完璧だ。

2009-03-20

EXILEパフォーマ

ボーカル以外のその他大勢って、CD印税とか収入は入るのか?

コーラスすらしてないならCDってボーカル以外関係ないよね?

2008-12-22

http://anond.hatelabo.jp/20081222195924

→こちらに修正して転載すた。http://d.hatena.ne.jp/maskin-monotonicity/20081222/

1.池田さんがいいこと言っているかどうか、というのは分野による。

2.経済学系の記述はおそらくかなりまだ信頼性の高い記述もおおい。というか、この分野はわたしがよく知らない。

3.技術系の記述は、まあ、主張を信じるのは話半分でよい。

4.哲学倫理系の記述は、だめだめでもないけどそれほどよくもない。まあ、こんなもんか。

5.上司とするには、やめてほしい。この点については、池田氏とこれまで仕事で関わってきた諸氏からの情報総合的に判断。私怨で人を困らせすぎる。暴れん坊。思い込みが激しい。

6.仕事人として付き合いたいかどうかはともかく、優秀な人ではあるだろう。

7.学者は間違ったことを言う、のは当然。間違ったことを言わない学者などいない。学問はそもそも常に仮説でしかない。学問とは、より妥当な議論を可能にする知識の継承、発展のフレームワークなのであって、間違ったことをいわないことが学問なのではない。

8.a.自分のよく知らないことについては発言せず妥当性が高いと思われることについてしか発言しない口数が少ないが誠実な学者と、b.自分のよく知らないことであっても果敢に思考し、学問間のネットワーキングを図り、啓蒙することに価値を見いだす学者 という二種類の学者がいるのだとすれば、池田さんは後者(b)の部類に属する。(a)の部類の学者が嫌いな人もいれば、(b)の部類の学者が嫌いな人もいる。(b)の途を選び取った学者は、しばしば間違いを言う。しかし、そのことの是非は、「学者」の発言が社会的にどのように扱われるのかという文脈形成も込みで考えられなければならない。「学者A」の発言が即座に、社会的影響力を与え、間違いが甚大な被害を与える可能性をある場合には、(a)のような発言が推奨されるかもしれない。全国放送のTVカメラの前で、軽々しいことを言う学者は非難されてしかるべきである。しかし、「学者B」の発言が、リテラシーのある程度高い相手に向けて、「学者が常に正しいことをいうわけではない」ことを前提にしているようなコミュニケーションが成り立つ場合には、(b)のような態度が推奨されるかもしれない。池田氏ブログの影響力はかつて、リテラシーがある程度まで高い層に限定して書かれていた。しかし、有名になるにつれて、その影響力は変化しつつある。よって、(b)のような態度を諸手を挙げて推奨するわけにもいかない。しかし、(b)の立ち位置を担う学者ポジションをまったく評価しない、というのはありえない。

追記1 2008/12/23

上記「8」は次のように言い換えることも可能である。

上記の記述は多少よく書きすぎている、との意見はもちろん一定以上、妥当である。

間違いをしばしば発言するインテリは、そのような態度をとる自分をしばしば「今コレが間違いであるという以上に、発言していくこと自体の意味が裏に何かある」という別の合理性を担保している場合が多い。たとえば、コンスタティヴな価値に対する、パフォーマティヴな態度を称揚するといった合理性は代表的なもの。池田さんの基準がいかなるものであるかについては、わたしはあまり池田ウォチャーでもないので正確にはわからないし、評価できない。が、しかし、個別の発言の妥当性以外のなんらかの合理性を彼自身の中では担保しながらしゃべっていることはほぼ確かだと思う。

 ただし、そういった別の合理性が持ち出されるすぎると、個別の発言における「今言っていることのことが正しいかどうか」ということに対するチェックが甘くなる、という現象はしばしば起きる。学者の発言について、個別の発言の妥当性の高さだけが、学者を評価する基準だという思い込みは、知のシステムの多様性・効率性を著しく阻害する。だが、学者の発言が、非学者層の発言と同程度に妥当性の低い発言を連発してもよいという基準もまた、知のシステムの多様性・効率性を著しく阻害する。

 両者のバランスをどこでとるか、ということは難しい。

 池田さんが何をしたいのかは知らない。なので、池田さんの考える、個々の発言とは別の水準の合理性が何なのかがわからない限り、池田さんを評価しようとおもったとき、「とりあえず」個別の発言の妥当性という基準を適用することには一定の合理性がある。だが、その合理性が合理性の一部でしかないことを考えるべきである。それは「とりあえず」の一部の評価の合理性でしかない。

*この「追記」の記述は、東浩紀と、東批判者たちについても同様に適用可能。ただ、東さんは明確に自らの価値アジェンダ・セッティングという行為の中に見つけているとは思われるので、池田さんと比べると、「担保すべきだと考えている別の合理性」の水準が理解しやすい人だという印象はある。

追記2

fromはてぶ

「なんで支持者も不支持者も、人格人間性で主張の妥当性を判断しようとするのか。「人」を信頼してはいけない。面倒でも個々の主張についていちいち信用すべきか否かを検討すべき」

 もちろん、それも一つの合理的な態度だとは思う。しかし、「人」や「組織」をある程度まで、使い勝手のいい単位だとしておかないと成り立たないところもやっぱりある

 たとえば、わたしがよく知ってるor考えていることであれば、そのことについて「××さんが言った」「○○さんが言った」ではなく、主張の内容レベルでの判断はもちろん可能だし、できる。そういうときには「人」という単位はほとんど機能しない。単に主張Aを言っている人がいて、主張Bを言った人がいた、という程度の意味合いしかない。

 しかし、わたしが全く知らないことをはじめて知ろうと思ったら、まずは「人」「組織」「定評のある本」に対してある程度まで高い信頼を置いて、そこから情報を得るというのはとても効率的で、合理的な行動になってしまう。それは、わたしにとっては検討しようのないことなので、「人」や「組織」や「定評のある本」を採用するしかない。不案内な分野の入門書を読むときに、「ハーバード大学教授で、全般に頭良さそうな人が書いている最新の本」と、「三流大学教授の、いまひとつ何を言っているかわからない10年前の本」で対立している主張があり、わたし自身に、その対立を検討するための十分な情報がないのであれば、「へぇ、対立する議論もあるんだなぁ」というぐらいに思いはする。でも、とりあえずはハーバード大学教授の言っていることのほうが「たぶん、こっちのほうが妥当なんだろうな。よくわかんないけど」という形で、ある程度、組織とか評判を信じてしまうよね。

 我々は、出会った知識の全てを検討するだけの無限時間などは与えられていないので、誰がよりよいことをいってそうか、どの本が最も定評のある本か、ということは、「より、まっとうそうな知」を得ていくための効率性にかかわることになる。はじめて仕入れるたぐいの知識が、いままでの自分経験上/知識の上で整合性があるかどうか、ぐらいのことは考えられるけれども、分野が遠くなれば遠くなるほど、「とりあえず、たぶん、この人の言うことはかなりの度合いでレベルが高いはず」という情報はとても役に立つ。教える-学ぶ関係においては、そういう「権威」がもっている効率性の問題は避けて通れない。

 理想的には、おおざっぱなクオリティ選別の効率性を機能させるために存在している権威や評判のようなシステムよりも、一つ一つの主張の妥当性を検討できるような態度に至れることのほうが望ましいのは言うまでもない。だけれども、わたしたちは、能力にも知識にも限界があって、そういうことができない。だから、権威や評判のシステムをわたしは利用するし、今後も利用し続ける。

追記3

http://anond.hatelabo.jp/20081223163942

クルーグマン経済学受賞に関する記事なんだけど、ここからトラバ先をたどると経済学blogでの池田氏への批判の主なものは見られるんじゃないかなあ。

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20081014

だそうです。

まあ、山岸俊男風?にいえば「信頼」性はともかく、誰かが池田の発言に対しては必ずレビューをしているという意味での「安心」の対象としては機能しやすいとか言ういいいかたはできるかもなぁ。それがインターネットというもののよさというか。手間かかるけどね。

追記4

池田ファン扱いされた…なんという微妙な気分。これが池田効果か。

わたしはそれほど熱心な池田読者ではない、…と自分ではおもっています。

実際、エントリ100個も読んでないんじゃないかな。

むしろ、池田被害者

追記5 

上記の記事に対してid:lets_skeptic氏から、よいコメントをいただいた。

http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081224

そもそも問題は「間違ったことを言う」ことなのだろうか?「畑違いの分野に言及する」ことなのだろうか?違うと思うのだ。

自分が断言したことでも間違っていれば撤回する(必要に応じて訂正する)という誠実さ。自分が言及すること(したこと)をきちんと知ろうとしているか?という知的誠実さ。求められているのは、そんな当たり前の誠実さじゃないんだろうか。

主張の信頼性は基本的に別問題です。といっても、誠実な人ならば「ろくに調べずにものを言っている」「無根拠の思いつきを言っている」「嘘をついている」という可能性は、不誠実な人に比べて相対的に低くなるので、関係がゼロだとは思いません。

議論の建て方として「誠実さ」という別の軸を立てられる、というのはいい指摘だと思う。インター・ディシプリナリだからと言って許されるわけでない。ただ、わがままを言えば「追記1」に書いた部分についても一応目を通していただければ幸い。追記1、はこういう批判に対する防御線として書いたわけだけれども、かえって問題の建て方を曖昧にしてしまったようで反省。「インターディシプリナリ志向であれば、誠実でなくとも許される」として、確かに読めてしまう。

で、発言の「誠実さ」と、個別の発言の「信頼性」が別問題であり、問題を分けて考えるべきだ、というのも、その通りだとおもう。(その点については、上にちょこっと書いた、山岸俊男氏の「安心」と「信頼」の区分にも通じる問題系である)

そして、その基準でもって池田さんを論じることは、意味があるだろうと思う。

ただ、もちろん、だからといって、先に挙げたわたしの、区分そのものが<一般的な区分として>まったく無意味なものだ、ということを認めるわけではない。また、<池田さんに対して>わたしが挙げた基準で判断をすることが適当か、という点については、いくつかの基準のうちの一つとしては、やはり適当だと思う。論じる基準が、一つである必要はない。論じるべきは、どの基準が最も正しいか、ではなく、、基準A「誠実さ」の問題と、基準B「学者としてのアプローチの違い」の問題と、どちらが池田さんを論じる上でより重要な問題とすべきか、ということになる。その点は、どっちなんだろうなぁ。前者かもしれない。

それと、lets_skeptic氏は知っている話だとは思うが、さらにやっかいな話をもう一点してフォローしておくと、パフォーマティヴな発言の「誠実さ」というのはとても評価がめんどくさい。

議論のための議論のように聞こえてしまったら恐縮だが、

たとえば、

1.「XXがよりよいことなので、みんなで××にコミットすべきだ」と発言があり、

2.XXがぜんぜんダメでぽしゃった

3.しかし、原因はXXがそもそもへぼかったからではなく、みんながXXにコミットしなかったことが原因である可能性がある。(つまり、みんなが××をしていれば、××はほんとうによりよいことだった)

というようなことがあったとする。

このとき、「XXがよりよい」と発言していた人は、「間違ったことを言った」とどこまで言えるだろうか。

もちろん、「現時点の観測からすると、結果的には間違っていた」といえる。その限りで詫びてもよい。

しかし、「現時点の観測からすると、間違っているように見えるかもしれないが、やっぱり私の言っていたことは正しい。みんながコミットしなかったことにこそ原因がある。だから、わたしは、一時的に、結果的に間違っているかもしれないが、××はただしい、と言い続けるし、そのことについては謝らない」という人がいたとして、その人の「誠実さ」とはどのように評価可能だろうか。

わたしの知っている人のうち、この手のパフォーマティヴな価値に言及しようというようなタイプの人、(ネガティヴな言い方をすれば、自己成就予言的な性質のある話をしている人)というのは、議論するとやっかい、つーか、めんどくさい、つーか、並大抵のことでは謝らない。この手の人々に対して、「誠実さ」とか言い出すと、話がズレることが多い。

データみせても、「いや、現時点でのそういう結果を出されても、それはぼくの言っていることの根本的な反論にはまったくなってなくて…」といわれて議論にならないことが多い。かなり理論的なところで闘う以外に手がない場合が多い。人によっては、理論的なところですら闘えないような話をする人も多い……。これが、「ムー大陸が~」とかって言うタイプの人だったら、「DQN乙」で終わってよい場合も多いけれど、、ガチインテリの人でもこういう話はけっこうやる。こうなると、どこまでが謝ったりする範囲で、どこまでが謝らなくていい範囲なのかが、遠目にみると混迷を極めているように見え、エンドレス不毛な会話がなされる場合がけっこうある。

というわけで、結局何が言いたいのか、というと、

・「誠実さ」概念をめぐる指摘には同意するし、すばらしい指摘だとは思います。

・だけれども、「誠実さ」という変数だけで全部解決しようとしても、そこでもまた、ディスコミュニケーションは起こりうるのでは?

 まあ、自己成就予言的な話をするとき、それは社会科学者ではなく、批評家とか政治家とか呼ばれるたぐいのものになってしまう、という解釈もありうるんだろうけれど。政治的/批評的行為によって、理論の実証を目指してるんだ、という言い方もできるので、そういうことを言い始めると、社会科学における「科学的」と認められる発言の境界線はどこに引けるのか、ということになってくるので、わたしの手には扱いあぐねる。たぶん、科学哲学的にアツいところなのだろうけれど。そこらへんの話については、わたしはぜんぜん科学哲学についてフォローしているとは言えない人間なのでlets_skepticさんのような人から教えを請いたいぐらいの話です。

***

しかし、やっぱり、増田なんかで書くとどうしても脇の甘い書き方をガンガンとしてしまうなぁ。まあ、脇が甘くても、「たかが所詮は増田記述」だと思われ、その程度によまれればいい、ということを期待してしまっている自分がいるから、そういう書き方になるのだろうけれども。

それと、トラックバック先のskeptic氏へのはてブコメント

「豹変できないからこそ君子と呼ばれないのだ。誤字や言い間違いレベルの些細なことですら、ちょっと謝って訂正して感謝する程度のことが出来ない人が多い/ただ、誠実な人に限って「当たり前」以上の誠実さで潰れる」

もまた、的を得た指摘だと思われる。

結局、誠実…というか、ノイズを気にせずになんでもかんでも答えずにはおけないような人は、たとて、どんなに頭がよく、<知にたいして>誠実な人であったとしても、ウェブ上で活動するのはかなり負担がかかる。すくなくとも、学際的なひろがりのある人とかだと、ウェブ上で何かやろうとすると、潰れやすい。それをまた、「議論に負けだ」のなんだのとはやしたてる連中も発生すると、ごっそりとやる気をなくす。その結果、ウェブ上で「ちょうどいいぐらいの」コミュニケーションのできるインテリというのは、一定度以上にノイズを気にしないでいられるタイプか、ノイズがそもそも生まれないような振る舞いでいられるタイプインテリかということになる。実際には、ノイズが生まれないような振る舞いというのはそんなに簡単なことではない。はてブコメントのうちの5%ぐらいには文脈ぶっとばして、一読して偉そうなことを言う人、というのがいる。はてブ以外に、ブログであってもいるけれども。

 もちろん、「ノイズ」に類するようなどうでもいい話に対応する「誠実さ」と、重要な指摘に対して対応するような「誠実さ」は別種のものだ、というように理屈上の区分は付けるはできる。しかし、実質的に、外からの指摘に応答する当人にとって、指摘がノイズなのか重要な指摘なのかを判断する根拠は、曖昧であり、当人が、常に、「誠実に」悩み続けることによってしか、それらは区分できない。結果、在る一定以上まで有名になると、「誠実」な人であればあるほど、外部への応答コストの負担によって潰れることになる。

 ちなみにわたしは、わたしが実名で発言しているところに100ブックマーク以上ぐらい付けられると、うれしい反面、だいぶむかむかしてくる。「はてブ/2chの連中は全く…!」とは思わないけれども、はてブ2chのようなアーキテクチャが出てくると「ウェブ上でどの程度、冒険した発言がOKか」「ウェブ上では、どの程度外からの指摘を気にしないメンタリティがいいのか」といったことに対する「望ましいありよう」の最適さが変わる。これはつまり、政治家が演説でくだらない発言しかしなくなる、ということに似ている。政治家がバカなのではなく、現行の世論システム/投票システムとの相性を考えたときに「望ましい程度の発言」というもののバランスがどこに落ち着くのか、ということだ。ウェブ上が、学者コミュニティとして機能するクローズド空間(※学者の作法を全員が受け入れることによって成り立っている空間、という意味で。作法を受け入れる限りにおいてはもちろんオープンである)ではなく、現状のようなオープンな一つのプラットフォームになっている限りは、学者的な作法が、ウェブ上において必ずしも「ほどよい」ものとして機能するとは限らない。市場システムが、市場に課せられたルールアーキテクチャいかんによって均衡点のありようを変えるように、議論のシステムもまた、議論に課せられたルールアーキテクチャいかんによって、その均衡点のありようを変える。学問というのは、その均衡点のありようを「知の継承、発展」にとっても最も効率的になるように目指し、調整がなされている議論のルールシステム体系のことだと思っている。ウェブが一つのプラットフォームとしてではなく、複数のプラットフォームを切り分けるような(たとえばSNSシステムとしての発展可能性をみせれば、学問の作法がより効率的になるプラットフォームとしても機能しうるだろうと思う。ただ、今のウェブという空間が生み出す、議論の均衡点は、おそらく、かなり傍若無人な人のほうがやりやすいぐらいになってしまっている。理想的には、もっと「誠実」であってほしいとは思う。しかし、「誠実」であることによって、評判を生み出し、注目を浴びやすいようなアーキテクチャにはなっていない。そのことが、池田さんをめぐる最も、面倒な問題なのかもしれない、と思う。

2008-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20081208045345

個人的に秋葉原は好きだし、今でも無意味秋葉原に通い続けてるよ。

もちろん言いたいことはわかるし下手なパフォーマーがいるよりは、スケボーバスケしててその近くでインディーズが歌ってる風景のほうが好きだ。

横だけど、秋葉原バスケやってる人や集団みたことないんだけど。

他の地区ならあるだろうけど秋葉原の話してる以上はその地区の風景を語るのが筋なんじゃない?

http://anond.hatelabo.jp/20081207233141

20年以上アキバを愛好している人間から言わせて貰うと、「悪い」と断言できるものって数年前、中央通り店舗でも平気でエロゲー系のポスターPOP歩道に出てたときくらいじゃないかと思う。

裏に入ればそういうのがあっても仕方ない。だって売れるんだもの。あとその手の人たちは見てて楽しいんだよ。

昔ながらの電気街はどこだ?駅前でコンピュータパーツやゲームのチラシを配ってた店員の兄ちゃんはどこに行っちまったんだ?


売れなくなったから仕方ないんじゃない?

だって、売れないものをお店に出してるだけじゃ仕事にならないでしょ。

そういう風景に戻したければ、まずネットゲームを買うシステムを失くしてDELLAcerも含めてショップブランドPCの値段を全て15万円以上にする必要がある。

そこまでやれば、それなりにまた自作というか組み立てPCの時代はくるだろうしネットゲームが買えなければ少しは客足が増えるかもしれない。

時代は変わる。

個人的に秋葉原は好きだし、今でも無意味秋葉原に通い続けてるよ。

もちろん言いたいことはわかるし下手なパフォーマーがいるよりは、スケボーバスケしててその近くでインディーズが歌ってる風景のほうが好きだ。

でも俺が本当に好きだった秋葉原、というのはガンダムWエヴァンゲリオンが出てきた時代より前。

エヴァンゲリオンの大型ポスターやらPOPやらが歩道に出てきたとき、卒倒ものだったね。

何て恥ずかしくてかっこ悪い街になってしまったんだと思ったよ。エヴァンゲリオンだよ? あんなの中央通りで堂々とたくさん張り出されるなんて秋葉原も狂ったかと思った。

そんなものが出てくる前の秋葉原はさ、書院やコードレス電話ポスターやらがよく目について、ゲーム機ゲームソフトは言うまでもなくバーコードバトラーとかおもちゃ系もよく見かけた。

ああいう街が一番好きだったんだ。

そして今増田が思っているようなことは10年以上前に考えて、これも時代かと悟ったわけだ。

好きなものが変わっていくのは受け入れがたいときもあるけど、ここ15年くらいは特に変化が激しかったわけだし今更そんなこと思っても楽しくないだろうから新しい秋葉原を楽しむように心がけるのが一番だよ。

2008-12-07

アキバ\(^o^)/

飲食店で他に客が居るにも関わらず大声で会話する香具師

道を譲らない、と言うか世界は俺を中心として回ってると思いこんでる香具師

通路に障害物と化してボケーと何を見るでもなく立ち止まってる香具師

中央口周辺で自称インディーズバンドな下手糞騒音発生機。

そんな香具師はどこにでも居るだろうが、売春婦紛いのメイドはほんの少しだけ減ったがまだまだ多いし、街中にはアニメ絵看板が乱立、少し通りを歩けば半裸のロリコン向けイラストや、辱めな格好をさせられた絵なんかが普通にある。

客観的に見ると、もう秋葉原は完全に狂ってる・・・

昔ながらの電気街はどこだ?駅前でコンピュータパーツやゲームのチラシを配ってた店員の兄ちゃんはどこに行っちまったんだ?

いくつかブックマークが付いた+何か眠れないから追記。

昔のアキバが良かったと言うが、無線ラジオ真空管を扱ってた頃と比較したら・・・とか案の定突っ込まれてるが、まぁそりゃ確かにその時代に比べたら秋葉原に来る客の質は下がってるよなって言うのは恐らく紛れも無い事実だと思う。・・・ひょっとしたら違うのかも知れないが、少なくとも無線パソコンと移り変わった時に客のマナーが悪くなったって言う話は聞いた事があるので完全に間違った認識では無いと思いたい・・・・。

でも、現状はその時よりも深刻だと思う。ラジオパソコンの時は買い物客のマナーが悪いって話だったと思うが、今は(現在は落ち着きを見せているが)露出狂が沸いたり、自称パフォーマーが沸いたり、モラルが欠如してるような行動を取る人が多過ぎる。その上に、自己中心的な買い物客が増えていて「カオスって次元じゃねーぞ」って状況かと・・・。

「今が楽しければ良い」「自分さえ良ければ良い」とか思ってて変な行動で笑いや注目を浴びようとしたり、身勝手な行動をしているのかも知れないが・・・。・・・冷静になって、自分のやった行動が客観的に見てどうなのかを判断出来ない・・・いや、出来なくなった人が増えているんだろうか・・・。

また、はてブで「バンドは大きな駅では良くある事」と突っ込まれてるが・・・、・・・何と言うか、実力不足と言うか、何と言うか・・・。

秋葉原なら多少見た目とオタク受けしそうな口調で話せば下手でもギャラリー出来るだろうって思いがあるのかどうかは分からないが、何かレベルが低いんですよねぇ・・・(私の耳が腐ってるだけだったら申し訳無い話だが・・・)

どうしても、通勤先の最寄り駅で歌ってるインディーズと思われる方々と比較してしまって・・・。・・・ビジネス街で、そんなにギャラリーが出来る要素が少ないと思える場所でそれなりのギャラリーを集めてる(バンドの)方々を見てしまうと、大した努力せずにギャラリーを集めてるアキバ駅前のアーティストの方々が小さく見えてしまって・・・。

・・・眠る前に書くとどうしてこんなにネガティブで叩かれ要素満載の文章になるんだろうか;

マナーの悪さと、バンドレベルの低さに独り善がりな苦言を書きつつ、最初に書いた際の「卑猥な絵が多過ぎる」って部分への突っ込みは・・・、・・・もういいや。眠いし、増田愚痴っても改善される訳でもないし(ただ、こんだけネガティブな事を自分IDダイアリーで書いたら炎上するだろから今までモヤモヤとしてたが、一応の匿名増田で書けて少しだけスッキリした)

マナーの悪さが原因であれこれ余計な法律やら規正で雁字搦めにされる前にマナー改善される事を祈りつつ、・・・もう寝よう、午前3時半過ぎちゃったよ・・・。

2008-09-18

anond:20080918180850

増田よ、ちなみにそのチャットボーイのパフォーマバイトは、月収入いくらくらいだったのか教えておくれよ。

http://anond.hatelabo.jp/20080918174855

一時パフォーマやってたよ。

お客様の6割がゲイ、4割が女性パフォーマー、

どちらでもない、あるいはどちらでもないと偽っている方がわずかながら居る。そんな感じだ。

ゲイお客様は脱衣を強要してくることも多い。華麗にスルー

ライブチャットバイトって、女性だけじゃなかったんだ。

ライブチャットボーイって言葉を知らないのに、「ライブチャットガールがあるんだからチャットボーイもあってよくね?」って思って、なにげにチャットボーイ」でググってみたら、出てくるは出てくるは「ライブチャットボーイ」のアルバイト

http://sctme.com/chatboy/

いいなぁ。夜中に裏バイトにやっちゅうかなぁって思ってしまったが、やはりこんなときに限って親と彼女の顔が脳裏をよぎる。

俺はブサメンだけどチャットホストのような語りをするのかなぁ。リアルチャットカメラ回ってたりすると、俺の汚い部屋丸写しになるよな。

待ち時間とかどんな顔して待ってりゃいいんだろう。

素の顔してりゃあいいんだろうか。

それとも、パフォーマーとかいって恥ずかしい行為しながら待っているのかな。そこまで羞恥心を捨てきれないよ。

とりあえず顔のニキビも潰しておいたほうが良さそうだ。

2008-05-27

http://anond.hatelabo.jp/20080527201030

ギーク意味も知らんのか。

geek

【1名】

〈俗・軽蔑的〉〔見掛けが〕ださい[さえない]やつ、〔社会性{しゃかい せい}が低い〕変わり者

〔ある分野{ぶんや}の〕マニアおたく

コンピュータネットワークの〕専門家{せんもんか}、プロ

〈古〉〔サーカスの〕ギーク◆生きているヘビやニワトリの首を食いちぎって見せる、ランクの低いパフォーマー。

http://eow.alc.co.jp/geek/UTF-8/?ref=wl

コンピューターのぎーくってやつがどんな存在だか納得いったか?

2008-05-12

[]一体型でキーボードが中に仕舞えるタイプ

キーボードが中に仕舞えるタイプと聞いて日立のPROSET30がまず頭に浮かんだ。

検索して

http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0033.html

画像があることを発見したが今見てもカッコよすぎるだろと思った。

http://anond.hatelabo.jp/20080512004825

キーボードが中に仕舞えるタイプだとそうですよね。

一体型PCというとパフォーマ5420みたいの連想しちゃう俺はオサーン ヽ(´ー`)ノ

でもキーボード仕舞えないタイプと比較しても、

大きなノートPCだとキーボード部の奥行きが画面の縦幅と同じになるわけで、

無駄に場所を取っちゃうよね。

2008-04-11

ネガティブコメント論:自由からあえて逃れる人々

古代ローマ末期には「自由」なはずだった市民は、城壁の外に荒れ狂う暴虐を恐れるあまり、みずから大土地所有者=領主の奴隷(コロヌス)となりさがり保護を得た。自由というのは危害を受ける自由ではないのだ、そのことを忘れるべきではない。

ネガティブコメントが荒れ狂えば、それを恐れる人々はますますmixiのような城壁の中に逃げ込むようになり、実質的な「自由」は大きく損なわれるだろう。いくら城外が自由であっても、人がいなくなっては意味が無い。

なお、領主がコロヌスを守る制度=封建制度は、後に立ち現れる主権国家によって打破され、国家の力によって市民保護が果たされるようになった。ネガティブコメントのような行為によってネットが細分化されることがあれば、ネット情報伝達効率を落とすことになるのだから、それを嫌った国家公共の福祉の名の下に介入することもないとは言えない。別にそれは悪いことではない、自由を履き違えて最低限の倫理を忘れた人々が悪いのだ。

こういってもわからなければ、こう言い換えてもいい。自由なら何をしてもいいなら、アキバ変態パフォーマーと何も変わりはしない。

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