はてなキーワード: コミットとは
ちょっと話がずれてると思いますが、俺は元々、SIerを辞めてソーシャルゲーの会社に行こうとしてる増田と、似た選択をする(最近多い)人たちについての話のみをしています。
ある事業をやっている会社に入社してそこで働くことを「(その事業への)積極的なコミット」と言わないという主張だとしたら、単純に言葉の定義の違いですね。
ギャンブルそのものが必要悪として認められているんだから、ソーシャルゲームも必要悪にカテゴライズして問題なかろ。
酒にしろ、タバコにしろ ギャンブルにしろ 民衆のストレスと効果的かつ短期的に捌けさせて暴動を無くすための手段として提供されているものなんだから。
>積極的にコミット
なんて、だれもいってない。
積極的に排除するな。という話をしているだけ。
ネットはこの手の話題が取りざたされがちだから、気になるけど、一般の世界じゃ 景気問題や 明日の仕事の心配や それこそ受験だったり のほうがよっぽど大事。
この問題に積極的にコミットしてる人のほうが少ないよ。というか業界人だけだろ。
Sonyや松下 東芝が 本体として ガチャとか言い出したら、その時は 『積極的にコミット』とか不買運動とかなんだろうけど、ゲーム業界はもともと、そっち側の業界だからなぁ。流行が移動してるだけ。
言ってることが人によってまちまちなのはどういうこと?
ある人は第2ボタンまで外せば問題ないといってた
でも、別の人は原則避けるべきだといってた
いったいどっちを信用すればいいんだよ
ファッションは多種多様で、他者が似合う格好が増田には似合わないだろうし
着たい服と似合う服も違う。
そういう事って普通少し考えれば分かりそうなもんだけど。
あと、モテなくて悩んでいるようだけど
増田はアスペで他者(男女は関係ない)とのコミュニケーション能力が
著しく低いのが問題なのであって、モテるモテない以前に一般社会に
いい加減自分が笑われてるのに気付けよ。
女は「女」の言葉自体に頭や体力のイメージがないからじゃないのでしょうか?
女性が「私は男よ!」と確認しながらテストした結果が気になるところ。
今の高齢既婚女性は家事をするのが当たり前の世代で、定年後働かない男性との生活はただだだ面倒だもの。
死別でも離婚でも子が無くても、金があって悠々自適なら良いよね。
でも子供も無く一人で死ぬのはやはり辛いんじゃないかな・・(そういう展望を女性はアラフォーくらいで一度考えるんではないだろうか?と思う)
年齢に限らず独身だと早死にする統計結果があったとしても、こちらの議論とはどうコミットするんだろうかと思うけど・・。
おばさんはそれほど「女」に固執していないし、男を必要としているわけではないと思うよ。
いや、してるよ。男性の言う「女」ではなく、体機能としての女性は実感として嫌でもある。
閉経ってその後の体調管理にもかかわってくるし、子供が産めなくなるって事はとても大きな人生の節目だよ。
オバサンがオバサンとして納得していく過程は曲がりなりにも必ずある。
そうでないと自分の事「おばちゃんねー」とは言えないよ。
また自分でおばちゃんと言ってても、誰かにおばちゃんと言われたら嫌なもの。そういう人は、絶対自分の中に「女」がいるはず。
悪いけれど人生に男は絶対必要ではないですよね。ただ男がいないと子供が出来ないのでそういう意味では必要。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1877537.html
これは、思うように動いてくれない若者たちに対して「このままだとこんなひどいことになるぞ」と脅かしたり、
「やーいざまーみろ」と逆ギレの悪態をついて溜飲を下げたりする趣旨のものではない。
すでに現実として目の前にあらわれつつある動きを、少々露悪的に(もちろん「本書」のスタイルに倣ったものだ)
書き記しただけのことだ。
まず、エリート的な高機能ビジネスパーソンが国境越えて活動するのは当たり前で、
これを「(露)悪の未来」として論ずる筆者はなにかがおかしい。
防ごうとする意識の方が間違い。
彼らは国に頼らないし、活躍できる場があれば国を選ばない。
彼らに将来を任せれば、わたしたち40代の老後、少なくとも生きているあいだくらいは、
きっと安心していられる状況を保ってくれるにちがいない。
なにを根拠に「ちがいない」のか。
読んでいてなんだか切ない気持ちに襲われる。
国に頼らず「自分の能力を発揮する場」「高い報酬を獲得する場」のみを求めて国境をまたぐエリートが
どういう動機で狩場の原住民の老人の住み心地ケアなんてことに気を掛けるのか。
どうも中高年移民推進論者というのは
を何故か無視する。
(これは移民を「気に入らない日本の若者」のカウンターとして夢想するからで、
いきおい移民若者像は全てが理想的で自分に尽くしてくれる感心な若者として描かれる。)
実際は、せいぜい来日者が比較的貧しいうちは
年金を始めとした日本の高齢者向け社会福祉なんぞ来日者が維持推進する動機があろうか。
彼らにとって年金制度なんぞは「意味不明な控除で自分の手取りを減らすインチキみかじめ料」であり
それではさすがにイヤだという人もいるかもしれない。若者たちはいいとしても、
40代のなかには、あと40年以上生きる方もいるかもしれない。
もし長生きしてしまったらと考えると、現状を「幸福」と感じ、満足してしまっている若者たち、
スティーブ・ジョブズがいうところの「hungry」でも「foolish」でもない若者たちに、
どこの国の「hungry」で「foolish」な若者だったら
あなた達の老後の支えなんかを任されたいのですか
と問いたい。
具体的な答を返せたらたいしたもんだ。
老後の支えというのは
若者個人の才能や情熱やハングリー精神から産まれるものなんかではない。
社会の老後の支えは、よく練られた社会制度と、なにより社会全体の余裕から出てくる。
もう一つの足は構成員一人一人がその社会にコミットする気持ちだ。
日本はどっちも既に破壊したのだから、あとは一人一人が覚悟しましょうということ。
「頼り甲斐のあるニューカマー」なんぞを呼んだところで、
彼等傭兵は絶対に日本社会なんかにコミットをしない(当然で、薄情でもなんでもない)。
安易に助かる都合のいいボートはないのだ。
近々死ぬ人間を除き。
なにより
「見限ろう」もクソも、若者世代はとっくに見捨てられて長い。
「生意気なことを言ってるなら見限ってやるぞ!」なんて、意趣返しにも脅しにもなってねーのだ。
もらったことない仕送りの打ち切り通告で怯える人間が居ようか。
実際に筆者自身、もしくは筆者の世代が、
若者世代に具体的にどんな支援をどれだけしてきたか聞いてみたいもの。
恩着せがましく口にする「実りのないおせっかい」とは具体的になにをしたことだ?
せいぜいが、
「状況も見えてない無責任な若者論で説教していい気になる」ことを
なんとなく凄いことしてあげたみたいに記憶してるだけだろう。
この”暴論”すら結局はそういう匂いが濃厚に漂っている。
「若者を挑発してケンセツ的な議論を導いてあげた」とかなんとか。
「食えもしない”おせっかい”でお為ごかしの恩恵面されてもなあオジサン」
という「本書」の序文をきちんと読みながら
新春のお笑いのつもりだとしても若者から失笑しか買わないだろう。
「暴論」は状況が見えてないことの言い訳にはならない。
若者はこの筆者みたいにあてこすりで人を動かそうとか、なんかを乞うてるとか、そういうことをしてるわけではない。
何よりもう、仮に今から全速力でどのような若者向け政策を打ったって、今の20~30代世代には手遅れだ。
ライフステージにせよキャリアにせよ、取り返しが付かないことだらけだ。
もっと究極的な話をすると、
バブル世代以上中高年が下の世代に何かしてくださるつもりがあるなら、
団塊ジュニアのピークが繁殖期過ぎるまでには彼らの雇用をどうにかしとくべきだった。
あそこを無策に過ぎた時点で日本の人口ピラミッドが回復するチャンスは無くなった。
別にこの山口浩という人がそういう状況わかってたら当時何か出来てたとも思わないが、
ただ何もしてこなかったし何も出来ない人間が吠えんなよということ。
もし「いや違う、俺はやろうとすれば何かが出来る」ということなら、
今の若者世代よりざっと20年長く世に出ていながら何も出来ず今日の状況を招いて
あげく下の世代に恨み節をいうとは烏滸の沙汰だろうバブル世代。
無力を認めたほうが立場はマシ。
要するに、今後はもう全員覚悟するべき。
十年以内に死ぬ予定の人間以外は。
40代は敵に回る?
あんた達にはたいした嫌がらせなんか出来ないし、
なによりあんた達も確実に、絶対に、助からない。子供が居るなら子供もだ。
沈む船の中でまーだ「誰を脅せばいい目見られるかな」「誰を殴れば助かるのかな」
なんてことを考えてる暢気さはさすがのバブル世代の貫禄がある。
繰り返しになるが
「暴論」という体はこの山口浩さんがまるで状況をわかってないことについての言い訳にはならない。
この世代のオッサン達がするべきことは下の世代に喚き散らすことではなく
http://anond.hatelabo.jp/20111230222827
いや、仕事を楽しくて楽しくて仕方ない人でも、この記事とか就活デモ後の合コンとかちょっとありえないと思うんですよね。
あまりにも「ヌルすぎる」「目的へのコミットが軽い」のでこいつなに考えてんの?と思ってしまうんです。
もう完全に思い出作りですよねこれ。
それで大人が耳を貸すつもりにナルトでも思ってるんでしょうか?
挙句に「正しいか正しくないか?」とか何言ってんの?って唖然としてしまいます。
書生論にも程があるというか、書生論でもここまで幼稚な問題設定はしないだろうと。
人間ってものへの理解が浅すぎる。私も人のこと言えるほど人間なんてわからないけれど、どういう世界に住んでるのか逆に興味が出ますよ
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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処女厨の理屈だと、「優しくて誠実だった彼がヤッた途端にDV男に豹変しました」っていう場合でも結婚しなきゃいけないんでしょう?
「結婚して初めて性交渉したら、実は双方がドSで性生活が破綻しました」っていう場合でも、離婚したら中古のゴミなんでしょう?
まず君が例に挙げてるのはいわば
「貞操観念は硬かったけれどやむを得ない事情で非処女になった非処女」とでも言うべき非処女だが、
しかもそのDV被害者の中でも、「元は貞操観念みたいな価値観を持ってた人」となると
これは相当に少ないんじゃないのかいまどき。
より良い相手、より相性のいい相手と一生を添い遂げたいっていう当然の欲求を全否定しているよね処女厨って。
それを「当然の欲求」として全肯定していくと
特定のパートナーがいようが結婚していようがどんどん目移りや浮気をして「何が悪い!」と居直るような行動パターンになるけど
そういう異性と真面目で継続的な関係を持ちたいって人間は居ないぜ。
これは処女厨に限らずとも。
基本、結婚までしておいて、
その相手に全身でコミットする気もなく
更に「より良い相手」を物色するような人間は、結婚なんかする資格ねーんじゃねーのかな。
ずーっと同棲までにしとけよ。
恋愛や結婚に失敗した女に「男を見る目が無いからだ」っていうけど、恋愛未経験の処女が最初からどうやって相性のいい男を見分けられるっていうの?
恋愛を始めるときに「この人と一生添い遂げるのだ」なんてつもりはないと思うんだよ。どうかな。
君は
「堅い貞操観念を持って一生添い遂げるつもりで選んだ相手が予想外の人でなしで仕方なく別れた非処女」
という存在を仮定した上で
「不可抗力の非処女を責めるのか」という理屈を処女厨に迫っているけど
その仮定の存在そのものが、限りなく実在しない・反論するためだけに今作られた存在だよね?っていうことだ。
わかったかな。
君の論は詭弁と無茶が多いので
んー。
なぜ無意味に見えてしまうのかというと、海外のデモと根本的な部分が違うからなんだよね。
「ウォールストリートを占拠せよ(OWSだっけ?)」の場合、ただ集まって馬鹿騒ぎしているわけではない。騒動自体は単なる手段に過ぎない。
とかく世間の耳目を集めて、大衆に共感の得やすい主張を流布し、政治家に「こいつらは利用価値がありそうだな」「こいつらを見方に引き入れると票になりそうだな」と思わせ、そうやって議員たちを取り込み、議会で一定の影響力を行使できるようにした上でデモ本来の目的を達成しようという生臭い計算があるんだよね。
リンク先の就活デモにはそれがない。騒いで鬱憤を晴らしてるだけ。いや、アメリカのデモ参加者も大半は鬱憤を晴らすために参加してるんだろうけども、少なくとも主催者の見ている方向はまったく違う。
これは個人的な印象だけど、日本のデモって、自分たちの主張を政治の世界にコミットしやすく設定するという発想がない場合が多いよね。だから議員たちから見向きもされないし、見向こうにも「で、我々にどうしろと?」といいたくなるような頓珍漢な主張ばかりになってしまう。リンク先の就活デモに連帯するメリットがありそうな議員ってほとんど居ないでしょ。
そうなってしまう要因はいろいろあるんだろうけれども、大きなものとしては、「政治の世界」をケガれたものと認識し、政治の世界へ足を踏み入れることを忌むべき事とみなすような考えが、彼らの中にあるんじゃないかと思ってる。特定の分野で成功し大衆からポジティブなイメージを持たれてる人、たとえばノーベル賞受賞者やオリンピックメダリストといった人が、特定の政党から議員として立候補したときに抱くネガティブな感情。
3次元の人は違うのかな。写真より握手券か・・・写真が大事な段階で2次元なのか・・・。
ショップ様?ごとに特色を出していってるわけじゃねっすか。
各ショップ様だって自分の所で買ってほしいから、売れそうな絵柄を指定するわけっしょ。
主じゃないとりあえず、なら、とりあえずなりに、いろいろ遊べばいいのにとも思うし・・・
まゆゆさんが右上の丸の中で欠席状態とか?遊び方はいろいろあると思う。
できるかどうかわからないけど・・・定価で2枚買うともう1枚ついてくるキャンペーンとかで枚数コミットする代わりにいいのとってもらうとか。
なんだろう 難しいのはよく分かるんだけど・・・なんか、おんなじ感が・・・ とりあえずというか、
こういうのでいいんだ・・・的なさびしさを覚えました。どこもお金ないんだろうけどさ・・・。写真とかグッツとか、いいの欲しいじゃん。
長くなったので、先に結論だけ書いておきます。
もしドラには2つテーマ性を感じた。(作者的にはもっとあるのだろうけれど力を感じたのはこの2つだけ)
・人間の出会いや出発点を描く、という意味では素晴らしい作品だと思う。
・社会からズレてしまっているor適応する振りをして生きている人の生きづらさとその解放を描く、という意味では中途半端。もったいない。
というわけで、「小説の読み方の教科書」の次に「もしドラ」の感想を書こうかと思ったけど、
この不思議な「小説」については、単体で語りにくいので、「少女不十分」という「小説」を補助線として使わせてもらいたいと思う。
ちなみに、西尾維新の作品を読んでない人にはわけわからん話ですがご了承ください。
◆ものすごく読みたくなる西尾維新「少女不十分」感想文 http://zeark969.blog38.fc2.com/?no=2968
私はこの感想読んで、少女不十分よりもむしろむしろ「もしドラ」を読み返したくなった。
(というか少女不十分の内容としては不適切だと思っている。少女不十分は「難民探偵(白)」のようなものなので、こっちも読んで見るよろし)
はてなベテランが小説家としては新人として「少女不十分」を書いた結果がもしドラなんじゃなかろうか、と。
僕は本作以外に西尾作品を知らないが、西尾維新の作品がいくつも映像化されていることくらいは知っている。
つまり、できるのだ。
西尾維新にだって、シンプルな文章と無理のない展開でベストセラーとなり、映画化されるレベルのものを仕上げるのは容易なはずなのだ。
ではなぜそうしなかったのか?
それはこの作品が小説家を目指していたかつての西尾維新の半自伝的内容であることを思えばすぐに答えは出てくる。
もしかしたら今よりも小説に対して真摯だったかもしれない時代の話。
西尾維新はこの作品を絶対的に小説としてだけ存在させたかったに違いない。
間違ってもいつものように高く評価され、メディアミックスされないために、あえて未熟な箇所を多く設置したのだ。
少女不十分が新人の作品だとしたら、おそらく三ページも読まれない内に棚に戻されてしまうだろう。
西尾維新という安心のブランドがあるから、読者は多少の違和感は覚えつつも読み進めてくれるのだ。
そして気づく。
普通に書けば一行で済む文章に、比喩、暗喩、掛詞、反語、反復、倒置法、隙あらば韻を踏もうとするなど
数々の言葉遊びを仕掛け、自分の小説を支えてくれたファンに精一杯「活字」で恩返しをしてくれていることに。
そこに筋の通ったストーリーなど必要ないことに。
これこそ本作が絶対的に小説でなければならない理由だ。
↓
僕は本作以外に岩崎作品を知らないが、岩崎夏海の作品がいくつも映像化されていることくらいは知っている。
つまり、できるのだ。
岩崎夏海にだって、シンプルな文章と無理のない展開でベストセラーとなり、映画化されるレベルのものを仕上げるのは容易なはずなのだ。
ではなぜそうしなかったのか?
それはこの作品が小説家を目指していたかつての岩崎夏海の半自伝的内容であることを思えばすぐに答えは出てくる。
もしかしたら今よりも小説に対して真摯だったかもしれない時代の話。
岩崎夏海はこの作品を絶対的に小説としてだけ存在させたかったに違いない。
間違ってもいつものように高く評価され、メディアミックスされないために、あえて未熟な箇所を多く設置したのだ。
もしドラが新人の作品だとしたら、おそらく三ページも読まれない内に棚に戻されてしまうだろう。
ハックルという安心のブランドがあるから、読者は多少の違和感は覚えつつも読み進めてくれるのだ。そして気づく。
普通に書けば一行で済む文章に、比喩、暗喩、掛詞、反語、反復、倒置法、隙あらば韻を踏もうとするなど数々の言葉遊びを仕掛け、
自分の自尊心を支えてくれたはてな村住民に精一杯「活字」で恩返しをしてくれていることに。
少女不十分に対する批判と、もしドラに対する批判って、文章力「以外」ではほとんど同じだと思う。
ご都合主義だとか、作者の自慢だとか、作者のこと自体が気に入らないとか、これが本当だったら俺の人生は何なんだ、とか色々。
テーマも似てると思う。
少女不十分の少女はみなみであるし、少女不十分の主人公は岩崎夏海であり、
あるいは、少女不十分の少女は岩崎夏海であり、少女不十分の主人公はドラッカーである。
(この「混在」のせいで、読者からすると「ドラッカー」の価値がわかりにくいを通り越してドラッカーなめてるような小説に見えるのはご愛嬌。)
そういえば、岩崎夏海がめずらしく西尾維新の化物語をほめていたのが結構印象的だった。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111006/1317885951
しかし読めばわかるが、彼はその褒め方について化物語の面白さを全然語れていないと思う。的外れもいいところだと思う。
多分、それはもっと本質的な部分で感動させられたのだろうけれど、猫物語(白)の羽川翼のように、
化物語が自分の本質を付いているということを、それにゆさぶられることによって見えた自分の核の部分を見つめることを避けたのかも知れない。
彼はジョブズについても的はずれな分析とか論評を書いているが、
意外とブログに書いているとぜんぜん違う部分で本当にジョブズに救われたような部分があるのではないか?
彼が的はずれなことを書いている記事ほど、彼がその対象に本当に揺さぶられてるんじゃないかとおもう。
この人は結構こういう「出会い」の体験を何度もしている人なんじゃないだろうか。
ぎりぎりの所でなにかと出会って救われたり、出会いが自分を飛躍的に変化させる、ということを、体験から、理屈を越えたレベルで信じているのだと思う。
(この部分に思いを馳せないと、この作品には、つながりとして「?」を感じてしまうことになると思う。)
ブログを読んでいても、この人は「真の教師」を求め、自分も誰かにとってのそれでありたいんだろうな、という点はよく伝わる。
もしドラの成功後は、デュルケムの言うところのアノミー的自殺に対抗するためだろうかその傾向を加速している印象だ。(あまりにも空回りしている印象があるが)
「もしドラ」も、正直ドラッカーについてすべてを理解できているようには感じなかった。
ただ、その必要はないんだ、と思う。それは学者の仕事で会って読者の仕事ではない。
むしろ化物語のヒロインが阿良々木暦に出会うことで、生まれ変わりを果たすように、
みなみもドラッカーにコミットしていく過程で自分をみつめ、劇的に変化する。その部分が大事なんだと思う。
経営学者としてでもなく、社会生態学者としてでもなく、一人の人物としてドラッカーに出会い、
そこから何でもいいから自分の物語に必要な何かを学び取り、自分を自分で救い、クソッタレた世界の中で生きていく。
そういう「一人の人間の、出発までの話」を書こうとした部分はすごいと思う。
私はそういう意味で、この本は「ドラッカー入門書」という言葉は正しいと思う。まぁドラッカーに限らずの「出会い入門書」と言いたい。
先に感想を書いた「小説の読み方の教科書」は少し茶化したような書き方をしたけれど、もしドラは本当に「小説との出会い方の教科書」と読んでもいいと思う。
(もちろんもしドラは「出会い方」しか教えてくれないので、その後の「斬り結ぶ」方法や「深める」方法などは別の書物を参考にするべきだが)
「成長ではなくて出会いを描く物語」「劇的な結末ではなくて出発点を描く物語」「恋愛や友情以外でも人を変える出会いはある点を語った話」という点に絞ってみれば、この作品はかなり素晴らしい作品だと思う。(逆に前者側の評価指標で見るとすごい低評価になる)
作者がもしドラで成功した後すぐ別のところに興味が移ってしまうあたりを見ると(的はずれなことも多いけれど)
おそらくこの人はそういう「出会い」や「出発」を求めてやまないタイプなのではないかと思う。
正直アニメでもなんでも、ありきたりな結末には飽き飽きしているので、むしろこういう「強烈な出会い」や「強い動機の出発点」を描ける点を大事にしてほしいなと思う。
時代的にも、大人が語る将来や成功といったものにはネガティブなイメージがつきまとう。
今大事なのは、そういうつまらないゴールを目指してごちゃごちゃやる話とか、決断主義もののような、義務感で戦うみたいな話じゃないと思う。
ゴールはよく分からなくても、スタートせずにはいられないような強烈な出会いを描くことなんじゃないかと思う。
大人が読んだら無責任で、危険な話かもしれなくても、まずワクワクさせられるスタートをこそ、読みたいと思う。
ここまでわかってた上で、要するに結末部分はおまけだ、というのはわかっていても、まぁラストはひどい。笑えない。
あれは物語をカスにする要素であったと思う。蛇足どころの話ではない。この結びによって、この話そのものが茶番になっている。あまりにも若者を馬鹿にしている。
出版社がダイヤモンド社でなければこの部分は書かなかったのではないかと今でも信じたい。
もちろん、作家としては新人の彼が、出版社の意向を無視して好きな様に書けるわけではなかっただろう点は承知している。
だから、この作品については特に序盤については高く評価しつつも、次回作以降の期待を込めて全体としては低い評価を付けたいと思う。
そういうわけで、私は序盤と中盤以降で、別の作品とまでは言わないが、作者の本質は序盤にあると思っているため、
作者がその「結末」を持って、「序盤」部分の書店員の行動を正当化したあれは、全く理解できなかった。 http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20110812/1313128129
作者自身が、序盤と結末をつないでしまうこの感覺が私には今でも理解出来ない。どういうつもりなんだろうか・・・。
結論 うまくここに接続出来なかったのでやや唐突ですがご了承ください
良くも悪くも40歳のこれはオッサンでないと書けない、40歳のオッサンの感性で書かれた話だと思う。
この作品を理解する上でドラッカーの知識は全く必要ないが、ある程度の人生経験というか前提を共有できることは必須だと思われる。
「少女不十分」が、西尾作品を読んだ人でないとほんとうの意味で感動出来ないように
(彼の10年の積み重ねや作品傾向を知らないと、作品の芯の部分に心から共感できず、ただのお話に読めてしまうのと同様に)
次はfateかPersona4の話をしたいと思います。zeroじゃなくてstay/nightの話ね。
本当はもしドラのもう一つのテーマであろう「生き辛さ」について書きたかったのだけれど、
正直もしドラはコレについて十分に描き切れた作品だとは到底言いがたいので、それはPersona4とfate stay/nightにまかせる。
僕は手を抜いてしまっていた。
終わりに向かってゆるやかに死にむかうように
ゆったりと終焉を迎えようとしていた。
まわりは何を思うだろうか。
薄ら笑いを浮かべてひとりありがとうございましたなんて
うそぶくのだろうか。
お世話になりましたとひとりひとりに薄ら笑いでろくなあいさつにもならず
全力で駆け抜けてだめでも全力でかけぬけて
死に向かっていたとしても全力で駆け抜けようとしたはずだ。
僕はもう終わるだろう。
ただし最後は走りきるのか絞りきるのか全力疾走で体を投げ出して
終わるのかはっきり決めたい。
いや、はっきりと思い出した自分のやり方を今はっきりと自覚して
明日から本気出すキリッじゃなくてどっちにしろ明日から終わりに向かうわけだから
僕は働きを見せつけてもっともっとチームにコミットして人を動かして
汗かいて冷や汗かいて怒られて怒鳴られながらもやりきって生ききって
明確な終わりに向かって死ぬ気で死んでやりきって終わろう。
この人は問題分析のウチ、
1問題指摘と
2関連の文学素養を
一つのつながった文章と考えるからおかしいのであって、要素要素はレベルが高い。
解決策部分は全く期待しないほうがいい。
http://blog.tatsuru.com/2011/10/18_1255.php
ふざけんな。
内田樹の中にあるゴーイング・コンサーンの前提はなんとかならんのか
弱者の切り捨てに対して効果的な抵抗を組織できないでいるのは、彼らが「連帯の作法」というものを見失ってしまったからです。どうやって同じ歴史的状況を生きている、利害をともにする同胞たちと連帯すればよいのか、その方法を知らないのです。
ここは素晴らしい。
「平等・自立・団結」がワンセットで在るということを指摘している点は慧眼だと思う。
平等だけを主張することは不可能だし、自立のみ、団結のみというのも不可能であることを上手に説明されている。
これはネット出現以前のコミュニティの大原則である。この原則を違えるとモンペとかバカ民主党みたいなことになる。
ネットが出現しても人が人であるかぎりそう変わるものではないだろう。とても大事な事である。
ただし
それは彼らの責任ではありません。それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた「イデオロギー」の帰結だからです。
は論外。上のことがわかっていて、なぜイデオロギーの問題だけで解決できるように語るのか。
本当に、この人のこういうところは本当に、困ったところだ。困ったちゃんである。
この人の指摘がいつもずれてるのはなんでかなーと思ってたんだけど
この人は結局のところいつまで経っても社会が存続すると思ってるんだよな
贈与の考え方ってのは大前提として、社会が安定したまま続く状態がある。
余剰は必要としないが、関係性が維持されていることは絶対に必要な条件だ。
後に自分の何かを残したい、引き継ぎたいって思う対象がいなければその発想は生じない。
むしろさっさと全てが壊れてなくなってしまえって思ってる時に贈与の発想なんてクソみたいなもんだ。
「希望は戦争」とまで言わなくても「何ものこさずにひっそりと消えたい」とか「何一つ引き継がないことで今の世を否定する」ことにしか希望がないひともいるんだ。
もっとはっきり言おうか。
若者の問題を論じる場合、先に親の世代が病んでることを論じるのを避けるほどアンフェアなことはない。
それは遺伝性の病気に対して、子供がその病気にかかっていたら、子供に責任があるように語るほど間抜けなことだ。
自分が生きることで精一杯で、自分が生きるために子供を殺す親がたくさんいることについてはどう考えているんだ?
局所的に見たら、その過程ではすでに戦線が崩壊している。どうやっても持ちこたえられない。
その状態で、なお若者に戦線を死守しろという指揮官があなただ。
それは無能ではないかも知れないが、残酷であるという自覚はあるのだろうか?
私には後方でふんぞり返って最前線を見ていない無能な指揮官にすら見える。
彼にはどうせ答えられないだろう。
そんなに連帯が大事で素晴らしい物なら、なぜ連帯がうまくいってた彼ら団塊世代はいまこんなにも老害を晒しているのか。
彼らが連帯して世の流れに反発しているという視点をなぜ持てないのか。
なぜ「大人」のやってるというだけでそれが幼稚な反抗という評価を免れることが許されるのか。
なぜ「若者」のやってるということだけで未熟であったり不足という評価をつけることを当然としているのか。
そういうことに彼の論法では全く答えられない。
そしてなにより、連帯はプラス要素もあるが、マイナス要素も多分にある。むしろ停滞期には負の面が強く出る。
それも多分彼はわかっていて、とぼけているのだ。なんともずる賢いことだ。
この人が解決策を論じるために書いているなら、まず話を若者からすたーとするのも良かろう。
しかしこの人は問題しか論じないのだ。解決策はいつもイデオロギー的な理想論に終止するのみだ。
ソレにもかかわらず、この人は若者の話しか取り上げないのだ。自分が含まれる大人たち、老人たちについては触れようとしない。
そこに大いなる欺瞞がある。そしてこの人はそれに対して自覚的だ。自覚的であるから文章のテクニックを用いて読者をけむにまく。
問題を責任者のない不可避の現象として表現し、問題について責任者の存在を隠匿した後で、解決の部分だけ責任を若者に割り振ろうとする。
社会の存続に必要な「少子化」に絞ってもご覧のとおりだ。怒りを通り越してうんざりしてさらに一周して怒りを覚える。
本当に頭のよい人というのは、自分の立場をまもるためにここまでやるのか、と唖然とする。
http://blog.tatsuru.com/2006/11/11_1038.php
http://blog.tatsuru.com/2007/02/01_1103.php
http://blog.tatsuru.com/2009/09/13_1040.php
この人はとにかく卑怯だと思う。さすがマルクスの信奉者といったところだが、私はこういう小賢しさが大嫌いだ。
一度でいいから、マスコミと若者とアメリカの陰謀以外に責任を割り振るのをやめて「私はコレについて責任を持つ」と書けよ。
もっとも、処世術としては、自分が何について責任を負うかについては自分より偉い人にのみ語るのが正しいことだ。
大衆や目下の者に対してそれを語り、そのとおり実行しても彼らは自分に報いてくれるわけではないからだ。
自分の責任は、自分とソレより上の者の間で共有し、下のものには結果のみを示すのは何も間違いではない。
ハックルさんみたいにところかまわず自分の使命を吹いて回るのはキチ○イである。
しかし、自らの周囲との関係を重視して、大通りに出て狂人あるいは政治家として振る舞うことを避けるのであれば、他人に対して責任を強制する資格はない。 この人は無認可で街頭演説する政治家みたいでたちが悪い。
結局のところ、贈与云々を言ってる人が、誰よりも計算高く、出し惜しみをしているというところがオチなのだ。
若者が求めているのは年寄りの説教ではない。年寄りが何らか社会の問題にコミットする姿勢を見せることである。
今は価値が分からなくても将来は、とか、この贈与の価値がわからないのはバカだなどと言い出すならばハックルさんと同レベルである。
ちなみに、冒頭のタイトルと反するようだけれど、私は内田樹の著書のファンだ。著書は大好き。
さらに繰り返すがこの記事において「平等・自立・団結」がワンセットで在るということを指摘している点は慧眼だと思う。
そういう風に理解する、ということに考えさせられた。横入りだけど。
(1)「他人を試みることは失礼だ」
(2)なぜなら「(私の)不信によって相手が傷つくだろうから」
(3)「それは自意識過剰」
この(2)に対する(3)のリアクションについて。
確かに、「自分の為した行為等によって相手が傷つく可能性を考えて行為しない」という行動様式の帰結として、一般的にいって「肥大した自己意識」があり、そのため本来なら行うべきであった社会的に必要な行為すら行えなくなるとしたら、それは確かに病的な「自意識の過剰」であると言える可能性は否定しない。ちまたで見かける自意識の過剰を羅列すれば、
「みんながオレのこと監視して笑ってるような気がしてむかつく」
「頭の悪いオレが一票を投じても間違ってる可能性が高いから投票しない」
「すれ違うたびに気持ち悪がられてるだろうからもう外出しない」
とか、まあそういう感じ。
確かに、どんな「行為とそれに対する他者のリアクション」の場面においても、他者の心の内でどのような感情が渦巻いているかは外からしか見ることができない。そのため、その反応を基に、自己意識の外延としてしか他者の心を思いはかることはができないため、あらゆる「配慮」は原則的に自意識の産物足らざるを得ないし、そればかりでなく、常にそれが他者からみて(それが健全な社会関係を阻害するレベルに至るか否かは別として)不足であったり過剰であったりする可能性は免れ得ない。つまり、どんな「配慮」行為においても「自意識過剰」という批判は常に投げかけ得るマジックワードとなる、ということだ。
ただ、健全な社会性を保つためには、この「配慮」が過剰であっても、そして過『少』であっても、よろしくないことは理解されると思う。そこで、配慮を一定の規範とする考えが登場する。マナー、作法あるいは「礼」というのがそれである。ただ、これらのマナーや作法や礼というのは、決して「形式的にそれを満たしておれば、誰からも問題とされない」という許可を与える法律のようなものではなく、それらのマナーや作法や礼が要請するところの「基の感情」で内面が満たされていることが他者から見ても分かることが、社会的に必要な要件とされることが多い。
頭を下げるのは「礼」だが、ニヤニヤしながら頭を下げていれば不真面目だと言われる。テーブルマナーを形式的に身につけることは大事だが、頑なにそこから逸脱しないことが重要なのではなく根底にある「みんなが食事を楽しめるように、不快なことをしない」を満たすことが需要なのであるから、たとえばマナーを知らない人と食卓を囲む際にマナー知らずであることをもってその人を笑いものにしたりする人は、むしろ重大なマナー違反を犯していると考えるべきだ。
このことを前提として最初に戻ると、
(1)他者を試みることは失礼である
これは理解できる。聖書にも「汝、神を試みるなかれ」とあるが、試されるようなことをすれば、神様だって怒るのである。怒る理由は「信じていないから」であって、一般的に「試す」のは「確信がもてないとき」であることは言うまでもないから、「試す」ことが「確信をもっていない」というメッセージになりうることは、事実であると言える(これは、たとえば「私はそんな風に受け取ったりしない」という個人的主張を否定するものではない。たとえば「てめえぶっ殺してやる」を愛情のメッセージと受け取る人も世の中にはいるだろうから(範馬勇次郎とか)。)
次に、
という説明も問題はない。(1)が、メッセージの含意する「不信感の表明」という事態避けようとする意図から生まれた規範であることをベースに考えれば、その意図するところが(2)のような理由であると推測することに飛躍はないからだ。相手を傷つけることが、健全な社会関係を維持する上で不利であると考えるのは、理にかなっている。
そこで問題は(3)だ。(3)の発言者(以下、(3)の人と呼ぶ。)は、なぜかように考えたのであろうか。本当は、特に考えていたわけではなくて、単にマジックワードを振りかざして、ちょっと反社会的でカッコよさげなことを言ってみて悦に入りたいだけなのだろうか? それにしては中途半端な発言なので、一応そうではないと仮定すると、この文脈でこういう発言が登場するからには、(3)の人は「試すことは悪いことではない=私は試したい」と思っているのであろう。(2)の発言者に「相手を傷つける可能性」を指摘されてなおかつ(3)の人は、それを否定するために「自意識過剰」というワードを持ち出したわけで、そうすると、(3)の人の中では「相手を傷つけること」よりも「自分の願望を抑えること」の方を(あるいは、前者をしないために後者をすることを)悪とみなしているということになるからだ。
これはとても不思議な感性である。「自分の個人的な不信や疑念を払うこと」を重視する一方で、「他者を傷つける可能性」を低く見積もっているのみならず、その「他者を顧みない」行動により「自分が他者から不信や疑念を抱かれる可能性」を全く考慮していないからだ。この(3)の人にとって、他者とは、自分に決してコミットしない、窓の外の存在であるかのようだ。
肥大する自意識に脅えながら、同時に他者を窓の外に放り出して顧みない。彼は一体何と戦っているのだろうか?
「平気で嘘をつく人たち」ではないが、このような「平気で人を試す人たち」から見えてくるものは、確かに一つの時代、世界の風景である。それを、「核の時代」のうすら寒さと共通している、と言ってみると、飛躍して聞こえるだろうか。しかし「核抑止論」とは、「私の不安を解消するためなら、核武装するのが一番だ。みんなが核武装すれば、平和だからだ」という言明ではなかろうか。そう考えれば、これはそれほど突飛な比較ではないだろう。そして、核抑止論が、現代世界において一定のコンセンサスを得ていることも事実として認めておこう。「私の不安と核武装」が隣国の不安と核武装を呼び、それがまた次なる核武装を……と連鎖が続くという事実を眼前にしながらも、今のところ人類は、理性と対話というか細い支えで対抗しつつ、民族や文化の壁を越えることには必ずしも成功していない。「中の安心」が一番大事で「外との対話」は二の次なのだ。「外との関係」が「中の安心」を生む…というアイデアは、そこでは顧みられない。私たちの生きる「国際社会」は、残念ながら依然そのレベルにとどまっている。
(3)のつぶやきが示すことは、もはや個人と個人の間ですら大国間のように理解と協調を求めることが難しい時代だということであり、その中で、恐怖心のシェルターに閉じこもる人々が(3)のように振る舞うことは、もはや不可避のことなのかもしれない、ということである。異文化間における理解と対話のためのメソッドを確立することは、我々にとって真の意味で喫緊の課題である。
基本的にその論理は既に実装されている。
ソープランドなどはセックスに至る独自の理屈をこねて暗黙の了解を得ている。
・結婚詐欺との類似性
ちょっとこれは無理だ。
といより大間違いだこれ。
「将来これこれのものを渡す」を匂わせてカネをとる騙しだけど、
キャバクラなんか市中引き回しの上獄門が必要になる。
前者の方が圧倒的に態度が悪いしネット上で客を馬鹿にするのも前者だが、
詐欺的商売をやってる商人・真面目な量り売り商売をやってる商人、と考えれば
この自分の商売への態度の差は説明が容易だ。)
この辺のことを適当にデータ集めてロジカルな文章にまとめられたらいいと思うんだけど、
頭が働かないので誰かよろしく。
こうやって考えるのはとても面白いよね。
レスや追加のお題が合ったら是非。
数多くの男が、心を煩わされ、病み、憔悴し、時に、恐れ、逃げ回わったメンヘラビッチ。
この問題を、真剣に捉える必要がある。これ以上、被害が拡大しないために・・・。
メンヘラビッチは、特に、ゆとり世代のネット充女子に、多数生息する。
彼女らは、承認欲求から、数多くの男を、ある種、身体を伴い、虜にしてきた。
彼らを救わなければいけない。そして、もうこれ以上、被害を増やしてダメだ。
「なぜ、ここまで、20代、特にネット充に、メンヘラビッチが多いか。」
そして、本質的な問題は、「自己表現とか、自分らしくという名の弊害」であると考える。
※以下、文章は、個人的な積年の恨み節で、書くことを了承いただきたい。
何にもねぇ自己主張の強い女子らが、「らしく」「らしく」と多用する。
彼女らのコミュニケーション活動を通じた自己実現の過程を考察すると、
リアルとバーチャル(←あえて)の二つの外部環境と対峙しているのだ。
そして、「らしく」生きたい思いを
「らしく」いられないのは、
そこには、全くコミットせず、
「らしく」なれないけど、
いつかは、なりたい、私らしさを、夢見ながら。
なりたい自分のような他者と関わることができる。
関わり続ければ、少なくとも、バーチャルでは、
「なんか、こんな人とも繋がってる私はスゴイ。」である。
しかし、それは、私ではない。
彼女らは、ソーシャルメディアの無数の情報を読み、理想をポストし続ける、動物的に。
そして、「らしさ」を持続するためには、バーチャルに、住み続けなければならない。
恒常性が求められるのだ。
自己成長のために、本来するはずの「リアルの自身を再定義して、内部環境(精神と思考)を掘り下げる」行為はせず、
リアルにおいては、自分らしくなく、ネットにおいては自分らしそうという狭間で、
最終的には、
ココではない、どこかに、行きたいけど、
いけないので、承認欲求が高まる。
その不安定性を埋めるのが、リアルで、ビッチになることなのだ。
少しでもルックスがよければ、うってつけである。
なぜなら、彼女らは、リアルでは承認されてはいないが、ネットでは承認されている。
最も簡単な行為は、触れるである。・・・触れたあと、互いの承認行為として、最も簡単なのはry。
みなさん、所詮この程度なのだ。
大いに刹那的な今を生きよう。
そして、精神性を、持ち込むな。
最後のRubyKaigi2011ということで、3日間おこなわれたRubyKaigiが昨日終了しました。皆様お疲れ様でした。
Matzをフェローに迎えて、ROMAとかいうKVSをだした、楽天という上場企業があるのですが、どう考えてもおかしいスポンサーの位置なんですよね。
個人事業主や中小企業のほんとに小の企業と一緒のGoldスポンサーになっている。
Matzの声がけで、とりあえず、って感じなのかもしれないけど・・・。
一方、Macだらけの会場に惜しげもなく最大のスポンサーをしているMicrosoft。
全文版をひととおり読んだ。
リミット値を再設定して実行→異常終了を繰り返していたり、障害箇所は違うようだが、義捐金、リミット値越えという意味では同じ障害(「B社」)が続いて起きたりと現場の迷走ぶりが伝わってくる。手動オペレーションに切り替えた時点で、原発に例えると原子炉の海水注入くらいの事態なんで、まああれでよく収めたものだと思う。現場は実に良く頑張った。報告書の改善案の「人材の育成」って難しいことをいうなぁ。ああいう状況で的確な対処ができる人材なんかそう簡単に育成できるわけはない。じじつ、今回、教科書的な対応ができた人間は社内のどこにもいなかったということではないか。一体誰が教育すんの?っていう話。むしろシステムの構造にメス入れんといかんと思う。リミット値越えごときで「異常終了」してまるごとアウトになる設計がどうかと思う。夜間バッチもコミットする単位を細切れにするとかちょっと考えてあげろと言いたくなる。夜間バッチ突き抜けなんて絶対起しちゃいかん。これでは運用側の人間がかわいそうだ。原発もそうだが、そろそろ日本のあらゆるインフラを無責任でアホで「落ち着いて行動」しすぎのトップとマニュアルロボット的な現場運用者(こちらも無責任)でも動かせるシステムに作り変えていかなくてはならない。そしてシステムを作る側に企業や国家の叡智を結集すべき。悲しいことだが、「優秀」だった日本も遂にそういう時代になったということ。
コミットと間違えやすいので使わないな。
こんにちは、弱小ディストロを開発しているうぶん厨です。私は学歴も知識もありませんしブスですが、恋愛に関してはプロフェッショナル。今回は、モテるLinux女子力を磨くための4つの心得を皆さんにお教えしたいと思います。
あえて2~3世代前のライセンスを使うようにしましょう。そして勉強会の場で好みの男がいたら話しかけ、わざとらしくソフトウェアをリリースしてみましょう。そして「あ~ん! このライセンス本当にマジでチョームカつくんですけどぉぉお~!」と言って、男に「どうしたの?」と言わせましょう。言わせたらもう大成功。「ライセンスとか詳しくなくてぇ~! ずっとコレ使ってるんですけどぉ~! 広告が収まり切らないんですぅ~! ぷんぷくり~ん(怒)」と言いましょう。だいたいの男は新しいライセンスを採用したがる習性があるので、古かったとしても1世代前のライセンスを使っているはずです。
そこで男が「新しいライセンスにしないの?」と言ってくるはず(言ってこない空気が読めない男はその時点でガン無視OK)。そう言われたらあなたは「なんかなんかぁ~! 最近AGPL4が人気なんでしょー!? あれってどうなんですかぁ? 新しいの欲しいんですけどわかんなぁぁああい!! 私かわいそーなコ★」と返します。すると男は「AGPL3でしょ? 4はまだ出てないよ。本当に良くわからないみたいだね。どんなのが欲しいの?」という話になって、次の休みの日にふたりでFSF参拝のデートに行けるというわけです。あなたの女子力が高ければ、男がリコーダー買ってくれるかも!?
「キャー!」とか「悲しい!」などを表現する「><」をコミットログに入れると、男性プログラマは「なんかこの子カワイイなぁ」や「パッチあげたいかも」と思ってくれます。VCS上では現実世界よりもさらに殺伐として相手に伝わるので 「><」 を多用することによって、男性はあなたを可憐で女の子らしいと勘違いしてくれるのです。そういうキャラクターにするとほぼ絶対にハッカーに嫌われますが気にしないようにしましょう。
勉強会などで男が女性に話すことといえばアニメやエロゲの話ばかり。よって、女性にとって嫌悪すべき話ばかりです。でもそこで本気で「キモッ」とか「よくわかんないですけどウィザードなんですねぇ」と返してしまうと、さすがの男も「この女ダメだな」と気がついてしまいます。ダメ女だとバレたら終わりです。そこは無意味にテンションをあげて、「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておくのが正解。たとえキモい話題でも、テンションと積極性でその場を乗り切りましょう。積極的に話を聞いてくれる女性に男は弱いのです。
いろいろと話を聞いたあと、「〇〇は〇〇で、〇〇が〇〇なんですね! 覚えたぞぉ! サインサイン!」とコメントすればパーフェクト。続けておもむろにGPG指紋を印刷した名刺と免許証をだして、「どうしたの?」と男に言わせるのもアリ。そこで「僕と契約してデベロッパーになってよっ☆」と言えば女子力アップ! そこでまた男は「このディストロおもしろくてカワイイかも!?」と思ってくれます。私は学歴も知識もありませんしブスですが、こういうテクニックを使えば知識がない私のようなバカ女のほうがモテたりするのです。男は優越感に浸りたいですからね。
男とLaunchpadに入ったら、真っ先にGPLなどのコピーレフトをうたったソフトウェアを探して「あーん! 私これ採用できないんですよねぇ~(悲)」と言いましょう。するとほぼ100パーセント「どうして? 嫌いなの?」と聞かれるので、「嫌いじゃないし使いたいけど採用できないんですっ><」と返答しましょう。ここでまた100パーセント「嫌いじゃないのにどうして採用できないの?」と聞かれるので、うつむいて3~5秒ほど間をおいてからボソッとこう言います。「……だって、……だって、使用したらGPLに感染しちゃうじゃないですかぁっ! New BSDLのソフトウェアがかわいそうですぅ! せっかく広告条項撤廃したのにぃぃ~(悲)。今度はヒゲのおやじがついてくるんですよ……」と身を震わせて言うのです。
その瞬間、あなたの女子力がアップします。きっと男は「なんて身持ちの硬い淑女のようなコなんだろう! 絶対にゲットしてやるぞ! コイツは俺の女だ!」と心のなかで誓い、あなたに惚れ込むはずです。意中の男と付き合うことになったら、そんなことは忘れて好きなだけGNU Emacsを使って大丈夫です。「採用できないんじゃなかったっけ?」と言われたら「大丈夫になった」とか「慣れた」、「そもそもkernelがLinuxだった」と言っておけばOKです。
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