はてなキーワード: 傍若無人とは
あのインフルエンサーが悪質だから叩くってのは別の話で、あれが話題になったことで世の中のバリアフリー化について考えるきっかけになれば良いのにって話をしたつもりです。快適に見れるんなら、快適に見たいじゃないですか。でも障害者が故に快適に見れないってのは、もう少しバリアフリー化について考えたほうが良くないですか?車椅子スペースで見るのは健常者だってツラいでしょうから。
それはそれとして、、、
このインフルエンサーが事前に調べて、わざわざ狙ってクレームだしてるってのは何を根拠に言ってるんですが?
過去に別の件でやっていたとしても、今回のこともそうなんですか?
寝転んで見たいと思うのは、別に普通のことだと思うし、前回やってもらったから今回も〜って思うのは別に普通の発想だと思います。
それに対して映画館側の発言は配慮が足りなかったと思いますよ。もう少し言い方ってのがあるだろうと。
批判している人は、炎上商法をやってる(ように見える)から批判してるんでしょうか?
過去にこのインフルエンサーが何をやったかなんてどうでもいいです。
過去に悪いことをしたから、今回もそうに違いない!って思う気持ちは分かりますが、
それを「車椅子ユーザーは専用スペースがあるんだから我慢しろ。十分合理的な配慮はしているだろ!」で盛り上がるのは、問題の解決にはまったくなりません。
明らかに言動や態度に問題があって周りに迷惑をかけたり自分勝手な振る舞いをしてきた女子が、少しでも周りから指摘を受けたり発言の矛盾点を突かれた途端に非を認める訳でも説明などする訳でもなく被害者ヅラして泣く、ヒスを起こす、暴れる等の騒ぎになり
結局皆が指摘した根本的問題の改善は有耶無耶にされたままとなったり、その「被害者ぶったもん勝ち」というムーブに味を占める事によって本人の傍若無人さが余計悪化して迷惑するも子供同士の事なので我慢する他なかった、といった経験がある奴は少なくないと思ってるので
そういうクソ女を「お前ティンコンカンコンするなよw」というツッコミで容易に笑いものにできる今の子供ガチで羨ましい
経験則、そういう奴って自分の主張が真面目に取り合われず大勢からネタにされて面白おかしく茶化されるのが一番効くから、ティンコンカンコンみたいな雑にインパクト強くて簡単にウケるミームがそこそこ広まっている環境がどれ程頼もしいことか
客観的におかしいことを真剣にやってしまいネットにさらされるバカ
目立ちたがりだが特に能力がないので馬鹿にしてよさそうなものを全力でバカにして目立とうとするバカ
誰でも見れる場所に投稿する癖に自分の想定する反応以外が来ないように予防線はりまくるバカ
パブリックだからと手あたり次第見えるようにそれに反応するバカ
色々把握しすぎた気になって何やっても二番煎じだと何もできなくなったバカ
とにかく早く出すことだけ考えて情報不十分なものを世の中に出すバカ
いくら準備しても100%なんてこないのにひたすら準備だけしてるバカ
ただ発言しただけでは周りが動かないと思い、必要悪ぶって周りをあおるバカ
煽られたのが普通にムカついたのでレス場に持ち込もうとするバカ
数字追っている奴を見ると本能的に嫌悪感を抱く本能に全力で屈しているタイプのバカ
能力、容姿、金、その他もろもろ何かしらに恵まれて歯に衣着せぬ物言いをしても許されるようになった傍若無人バカ
周りが気分良くなるように立ち回りまくってるバカ
なぜかメンタルダメージが全然効かないタイプの化け物、人も自分みたいになれると思っているが決してなれないことに気づいてないバカ
自分のメンタル状態を理由にネット上の知らない人間にならどんな立ち振る舞いをしてもいいと思っている画面の向こう側の人間すら想像できてないバカ
努力なら誰でもできるだろうと自分レベルの努力を他人にも強要するバカ
自分にできることならほかの人にもできるだろと安易に進めて道を踏み外させるバカ
自分のポジション的に有利だから賛同しているだけなのに、無駄に回る頭で後付けで理論をくっつけて論者ぶってるバカ
あらゆることを客観的に見れるような気分になっているが当事者に引きずり落されたとたん人間性を取り戻すバカ
文春砲の後、松本およびダウンタウンを崇め奉る記事は多数書かれているが、その多くで「ダウンタウンは笑いの天才である」という表現がある。
以下の記事でもダウンタウンは、いじめや無礼を平気で行う悪童キャラとして「時代に求められた2人」だったとブレイク当時の様子を書いている。
デイリー新潮「常識の修正を拒否した松本人志、ダウンタウンに批判的だった横山やすし…「天才」2人の歩みは今になって重なる」
とはいえ、当時から賛美一色ではなく、苦情の投書も多かったことは併記されているのだが、
ダウンタウンの笑いが受け入れられなくなっていったことを「時代のせい」にしていることは問題である。
この記事では「お笑い人の常識が時代とズレるのは珍しいことではない」とし、
かつての大物芸人も自分の常識を修正し、時代に合わせてアップデートしてきた人が何人もいたと書いているが、
そういう人たちは、単にやっちゃだめなことをして怒られて、反省して常識的になっただけであり、決して「時代のせい」ではない。
あえて時代的背景ということを考えるのであれば、
ダウンタウンがブレイクした時代は、日本社会全般として、今より上下関係が厳しかったり、若い人に対するシゴキというかパワハラが酷かったのかもしれない。
年上世代に日々苦渋を舐めさせられている若者たちがダウンタウンのテレビに魅力を感じる理由があったとすれば、
若い2人が先輩に楯突く様子がカッコよかったり、どんな人の前でも傍若無人な振る舞いをするダウンタウンに憧れたりしていたのかもしれない。
だがそれは、攻撃的な気持ちを発散させるための一時的な憂さ晴らしに過ぎず、「笑い」と呼べるものだったのか、自分には疑問でしかない。
この記事では、松本はアップデートを拒否したとして「一方で自分が納得することが第一だった松本は修正しなかった。むしろ積極的に修正を拒絶した。」と書いているけど、
前にバズっていた『教養がないと冗談のレパートリーが、セクハラとパワハラと下ネタだけになる』という話じゃないけど、
「教養を意識して身に付けなさい」という父にその理由を聞いたら「教養がないと冗談のレパートリーがセクハラとパワハラと下ネタだけになる」とのことで納得した
https://b.hatena.ne.jp/entry?url=https%3A%2F%2Ftogetter.com%2Fli%2F1832733
(パクツイらしいけど)
結局のところ、松本は何歳になっても教養や社会性を身につけることができず、
「わがままを言って大暴れして周りを恫喝する」以外に人を動かす方法を学べなかったというだけのことなんだと思う。「天才」がやることじゃないよね。
まぁ、こういう暴力的な幼稚性を持った芸人の威を借りて、やりたい放題やっていた吉本やテレビ業界の連中も共犯ではあるんだけどさ。
発達障害に誠実な対応しても相手は何も感じないし、その配慮や気配りに気づくことなんて永遠にない
健常者は発達障害者も理解できる・思いやりが持てると思いがちで、何か返ってくると夢見がちで
真面目な人ほど一生懸命向き合ってどうにかしようとするけどさ
そんなことほぼないって気づかないと永遠に食い物にされ続けて病むだけで
発達障害用の対応に切り替えて適当に切らないと身がズタボロになるんだよな
ほとんどの発達障害者は「思いやり」という概念が入るだけの余地がないんだ
脳にそんな余裕がなくて、自分の周りするだけで精一杯
きっちりお医者さんにかかってて、自分のことを理解してる人はまだいい
問題は、本人が自分は健常者だと思ってて、傍若無人に振る舞う勘違い人間
アグレッシブな分、もうすっごく害悪…思いやりも配慮もないし自己中心的
これを健常者だと思ってまともに対応していると気が狂う本当に
本人にはきっと制御できないんだよ
そう考えると冷めた目で優しくなれる
明らかに頭おかしいのに健常者ぶってる人間が結構いるのが問題で
そいつらと真面目にやり取りしてるとこちらが悪いみたいな気分にさせられるから逃げるんだよ
直接的に問題となっているのは既報通りの性加害があったかどうかで、それはしっかり裁判に明らかになるのだろうと思う。
一方で、この問題の本質は吉本興業、ひいてはテレビ業界や芸能界に蔓延している「強者は弱者を虐げて構わない」というカルチャーなんだろうと思う。
一度テレビ局で働いてみればわかるが、基本的にバラエティの現場での力関係は大御所タレントや芸人、プロデューサーやディレクター、中堅や若手タレント、その他スタッフの間には明確な序列がある。ましてやいわゆるADや若手芸人と言った現場最下層の人間に至っては、人権など贅沢品と呼べる扱いだ。
松本や相方の浜田がスタッフに怒鳴り散らかしているのは当人や周りが悪びれもせずネタにするほど日常的な姿だし、それはなにもダウンタウンに限った話ではなく多くの芸人やタレントに共通のメンタリティだと思う。
目の前の1人のスタッフや若手が尊厳を持った個人で、家に帰れば自慢のパパであり息子なのだろう、という最低限のリスペクトすら失ってしまった人間は、おそらくタクシーや飲食店での些細なミスに劣化の如く怒鳴り散らすだろうし(そういえばかつて番組のフリートークで散々そうしたネタを開陳し、客も大笑いしていた)、後輩が連れてきた初対面の女性を好き放題、欲望の捌け口にできる錯覚を抱くであろうことは想像に難くない。
おそらく、これは個々人の責任に帰するものでなく、彼ら自身がかつてはひどく虐げられながらも頭角を表し、のしあがった自負があるからこその傍若無人なのだろう。
そうした振る舞いが許されること自体が成功の証明であり、その地位を手に入れるために辛酸を舐めながらのしあがってきたのだ、という自負もあるのかもしれない。
中高の部活動で、先輩に虐げられた1年生が、みずから先輩となった時に後輩を好き放題に使えると錯覚するのと同じ構図だ。
つまるところの問題の本質が他者に対する絶望的なまでのリスペクトの欠如であるなら、それはダウンタウンに特有の問題ではなく、芸能界全体に蔓延する極めて前世紀的な価値観にあると思う。
そこまで視点を広げない限り、今回の騒ぎも単なる松本個人のスキャンダルとしてワイドショーのネタに消化されて終わり、不幸は再生産され続けることになる。
直接的に問題となっているのは既報通りの性加害があったかどうかで、それはしっかり裁判に明らかになるのだろうと思う。
一方で、この問題の本質は吉本興業、ひいてはテレビ業界や芸能界に蔓延している「強者は弱者を虐げて構わない」というカルチャーなんだろうと思う。
一度テレビ局で働いてみればわかるが、基本的にバラエティの現場での力関係は大御所タレントや芸人、プロデューサーやディレクター、中堅や若手タレント、その他スタッフの間には明確な序列がある。ましてやいわゆるADや若手芸人と言った現場最下層の人間に至っては、人権など贅沢品と呼べる扱いだ。
松本や相方の浜田がスタッフに怒鳴り散らかしているのは当人や周りが悪びれもせずネタにするほど日常的な姿だし、それはなにもダウンタウンに限った話ではなく多くの芸人やタレントに共通のメンタリティだと思う。
目の前の1人のスタッフや若手が尊厳を持った個人で、家に帰れば自慢のパパであり息子なのだろう、という最低限のリスペクトすら失ってしまった人間は、おそらくタクシーや飲食店での些細なミスに劣化の如く怒鳴り散らすだろうし(そういえばかつて番組のフリートークで散々そうしたネタを開陳し、客も大笑いしていた)、後輩が連れてきた初対面の女性を好き放題、欲望の捌け口にできる錯覚を抱くであろうことは想像に難くない。
おそらく、これは個々人の責任に帰するものでなく、彼ら自身がかつてはひどく虐げられながらも頭角を表し、のしあがった自負があるからこその傍若無人なのだろう。
そうした振る舞いが許されること自体が成功の証明であり、その地位を手に入れるために辛酸を舐めながらのしあがってきたのだ、という自負もあるのかもしれない。
中高の部活動で、先輩に虐げられた1年生が、みずから先輩となった時に後輩を好き放題に使えると錯覚するのと同じ構図だ。
つまるところの問題の本質が他者に対する絶望的なまでのリスペクトの欠如であるなら、それはダウンタウンに特有の問題ではなく、芸能界全体に蔓延する極めて前世紀的な価値観にあると思う。
そこまで視点を広げない限り、今回の騒ぎも単なる松本個人のスキャンダルとしてワイドショーのネタに消化されて終わり、不幸は再生産され続けることになる。
性加害うんねんは当事者たちが法廷で決着を付ければいいと思うが、気になるのは松本人志の笑いがいじめを肯定する笑いだという意見だ。
正直、理解ができない。自分の知っている松本人志とは別の誰かの話しているかとすら思った。
まったく逆だろう。
ダウンタウンの笑いとは、いじめられている人間の放つ蟷螂の斧である。
個人的には、笑いを「いじめる側の愉悦」から「いじめられる側の反撃」に変えたのが松本人志の最大の功績だと思っているぐらいなのに。
おそらく、ダウンタウンをいじめの笑いと思っている人は若い人が多いのだと思われる。その人たちにとって、ダウンタウンは物心ついたときから大御所で、昔のダウンタウンを知らないんだろうなと思う。
私が若いころ、とんねるずは嫌いだったがダウンタウンは好きだった。それはとんねるずの笑いが「いじめる人間・人生の勝者」の笑いだったのに対して、ダウンタウンのそれは「いじめられる人間・世界に居場所のない人間」の笑いだったからだ。
ダウンタウンの笑いを構成する元素は「根暗、貧乏、田舎者、友達がいない、喧嘩が弱い、勉強ができない、ブランド品を知らない、ダサい、舌馬鹿」等である。これはとんねるずとは真逆の属性であった。
ダウンタウンの笑いは、虐げられた人、世間に馴染めない人間が世間を下から見ることによって生じる笑いである。
これは言い換えればオタクの笑いである。今でこそオタク系の笑いは珍しくないが、当時は画期的だったのである(それこそダウンタウンの影響で普通になった)。
ダウンタウンがあっという間に天下を取ったのはいじめ系の笑いに対するアンチテーゼとして世間を馴染めない人間に圧倒的な支持を受けたからだった。これは若い人には信じられないかもしれないが、当時の空気感を知っている人、特にダウンタウンが東京進出してきたころに学生だった人であれば首肯いただけるかと思う。
(「笑っていいとも」レギュラーだったころの松本は、東京に馴染めず、友達がいなくて、髪はズラ、というキャラだったのを不意に思い出した)
当時はとんねるずに限らず、「おれたちひょうきん族」や山田邦子、森脇健児など陽キャの笑い、いじめの笑いが普通だった。
「明るくノリのいい奴こそ偉い、正しい。いじめる側に回れる奴が成功者」という風潮への反抗の旗手がダウンタウンであった。
松本は「俺は根暗」「根暗のほうがお笑いに向いている」と言い続けた。
松本だけではない。浜田の傍若無人もただの暴力キャラではなく、あくまで「何も持っていない若者が権威に噛みつく」キャラだった。
甲本ヒロトのように「ダウンタウンに救われた」という人がいるのは、こういう背景によるものである。
甲本に限らず、現在40代~50代ぐらいの人の中には、ダウンタウンのおかげで勇気づけられた、元気が出たと言っている人間は多い。
ここらへんのことは若い世代にも、もうちょっと知られていいことだと思う。
実際、当時のダウンタウンの影響というのはすごいもんで、全国の男子学生が松本や浜田のノリを真似していた。
もちろん、そいつらのほとんどはただの劣化品で、ダウンタウンのエレジーは理解していなかったため、ダウンタウンへの誤解が生じる原因にもなっているのであるが、なにはともあれ凄いブームであった。
今や陰キャ系の笑いは芸能界に限らずエンタメ全般に進出している。M-1などを見ても間漫才コンビのネタ作り担当は根暗そうな人間が多い。こういった一連の流れに大きな影響を与えたのがダウンタウンであることは間違いない。
もし、ダウンタウンがいなかったら、今のお笑い界の形も、エンタメもまったく違ったものになっていただろう。
いじめ・いじり、内輪受け、体育会系の部活ノリ、のひょうきん族、とんねるず系統の笑いからの脱却は、むしろダウンタウンよってもたらされたものである。
そして、「世間を下から見る」松本のスタンスは年取ってからも、そんなに大きくは変わっていないと私は思う。
ただ、ダウンタウンというネームは大きくなりすぎた。松本も『遺書』で書いているが、権威を笑う側が権威になってしまった。正直、こうなってしまってはダウンタウンが何をやってもいじめに見えるという人が出てくるのも仕方ないところである。
松本も芸能界に長く居すぎたのかもしれない。彼自身が若いころに言っていたとおり、老いる前に引退すべきだったのかもしれない。そうすれば、「ダウンタウンの笑いはいじめの笑い」などという真逆の受け取り方をされることもなかっただろう。退き時というものは難しい。
さて、長々と松本人志の笑いについて書いてきたが、私の文章を読んでも若い人にはいまいち伝わらないと思うので、実際にダウンタウンの笑いを見てみてほしい。
違法視聴なので大っぴらには言えないけれど、Youtubeで「ごっつええ感じ」「松本人志 コント」などで検索してみるといろいろ出てくる。
お見舞い、思春期、ストリッパー物語、トムとマイク、おかんとマー君、ガタンゴトン、西日本番長地図、記者会見、挑戦者、豆、日本の匠を訪ねて、悪魔、あざみ、くさや団子虫、しょうた、いかがです、ザ・バイオハンター、サラリーマンツアーズなどがおすすめだ。
これらを見ているとうすた京介をはじめとする00年代に出てきたギャグ漫画家がダウンタウンから非常に大きな影響を受けていることがわかる。
また、ピー助というコントは島袋光年がもっともお気に入りのコントだと述べているものなので、見てほしい。
Youtubeにはないもので一例をあげると「荒城の月」というコントがある。
便所の底に住む夫婦の話である。便所の底から上にある便器の穴を見上げると、便器の形に切り取られて蛍光灯の光が月のように見えるという話。「世間を下から見る」松本の世界観がよく表れている。
これらを見れば、ダウンタウンの笑いがいじめの笑いというの違うというのはわかるだろう。ここにあるのは弱者のペーソスである。
具体的な名前は避けるけど(X氏)ネット民のおもちゃになっているとんでもない性格破綻者に噛まれたことが合って。
私は特別にフォロワーとかもいなくて、慰めてくれる人もいない。犬に噛まれたからと諦めることにするが、気持ちが追いつかない。
気休めに、X氏の過去の傍若無人ぶりをwebで眺めてその異常性をはっきりさせて溜飲を下げるか(我ながら情けない行為だが)、と思って調べていたら、なんと2chのウォッチスレを見つけてしまった。
スレを眺めていると私に対するX氏の言動まで監視されていた。ああ、あの通りすがりに私が殴られた様子をちゃんと見てくれてた人がいるんだ。
そう言う感じ。ウォッチスレに対して他人を監視する下品な印象しか持っていなかったんだけど、この過去の件で私の中でウォッチスレに対する評価がガラッと変わった。
私みたいに、ネットの問題児に反撃できずに泣き寝入りする人にとっては救だった。ありがとうウォチスレ住人の人!
おまいらのぬくもりてぃ最高だお!
なにはともあれ、今年2023年。日本社会を席巻したのは「ジャニーズ」問題であろう。ジャニー喜多川が築いたアイドル王国が、BBCの番組1つで崩壊していった。昨年末、こうなるとはだれも予測できなかった。愛すべき依存物が突然消失したことで、一部のマニアたちは今日もSNSで呪詛をふりまいている。
と思っていたら、秋になって「宝塚」の全公演が中止、さらに「羽生結弦」の突然の離婚宣言、あるいは従前からの「韓流」界隈やら「ホスト」界隈やら......ジャニーズに限らず、「女の園」のパラノイア的な「負」の言葉が噴出している今日この頃である。
宮崎勤氏の例の事件から34年。男系のオタク界隈の一部の偏執狂ぶりはこれまでさんざんと語られてきた。最大勢力のアニメオタクはもちろん、撮り鉄に代表される鉄道オタク、AKBや坂道、地下系のアイドルオタク.......21世紀になってオタク趣味の「浸透と拡散」でかなり薄まりつつあるものの、往年の臭いを漂わせる10代~60代のオタクたちのアレな行動はしばし語られる機会があった。
一方、女性系のオタクのアレな部分はほとんど可視化されてこなかった。ジャニーズ系のおっかけ、宝塚の異様なファン組織、あるいはBL・同人誌界隈のあれこれ.....などなど。報道される機会がなかったわけでもないが、運営側も当事者もトラブルをあまり前面に出したくないこともあって、週刊誌などで取り上げられる機会は本当に少なかった。知らない人も多いのだろう。
そういや、20年前、暴露本で有名な鹿砦社が「ジャニーズおっかけマップ」「タカラヅカおっかけマップ」という名前の本を発行して話題となった。タレントの個人情報を暴露したり、自宅の地図を掲載した書籍である。一部の女性オタクが、この本を片手に、SMAP、嵐、V6、そしてヅカガールらの家に押し掛け、つきまといをしたり、郵便物や洗濯を盗んだり、無言電話をしたり、と傍若無人なふるまいをした。それらの本の「監修」をしていたのが、ジャニーズ性加害問題当事者の会の代表、平本淳也だ。平本はジャニーズタレントの被害者でもあり、「加害者」でもあった。
https://www.translan.com/jucc/precedent-1998-11-30d.html
当時、ジャニーズと宝塚界隈のアレっぷりには驚かされたものだが、女性オタク界隈の「負」の部分が2023年になって可視化されるようになった。
そして今週の羽生結弦界隈。クマの人形をスケートリンクに投げていれていたあたりからもちろんアレな空気は漂っていたが、年長の元タレントと結婚と報道されたあたりで、マイナスのオーラが爆発した感もある。何故人は傷つけあうの。幸せに小石を投げて。
と、2023年の女性系のオタク界隈のアレっぷりを見ていると、男女のパラノイアなふるまいは、思っていたほど違いがないもんだなあ、と改めて認識しました。撮り鉄界隈とジャニーズ界隈と本当に似ているなあと思ったり。
きっかけは職場起因の適応障害でしたが、今はそれは治っていて、今後同じことが起きても適応出来るように認知行動療法を通じて自身の耐性を高める為に通っています。
認知行動療法の中にはコラム法と呼ばれる手法があるのですが、そのワークの中で
という指摘を頂きました。
これは正に仰る通り。
職場内のチームチャットにAさんが投げかけた質問に対して、その他チームメンバーが反応していなかったのを見て「冷たい人たちだ」「なんで助けようとしないんだ」と憤りやら不信感を勝手に覚えたり、
「何らか困っている人がいればそれは助けるべきだろう」という価値観に基づいて、それに反した(ように自分は捉えている)Aさん以外のチームメンバーに対して冷たい人間、ク◯共、と捉えて見下したりしていました。
自分はいじめられっ子でコミュニケーションにコンプレックスがあったことから、ネットに落ちてる情報やら心理学、果ては哲学の本も読んだりして、
的なパターンを結構頑張って勉強していて、それを元に動いているからです。
ワーク後に私は健全な人間関係を築けるように「自分にとって安心出来る関係はどのようなものか?考えてみて下さい」という宿題を貰いました。これは非常に難しい。
自分の人間関係を検討すると、ネットの情報や心理学やらの勉強のお陰でそれなりの人間関係は築けるようになったと思うし、社会人になった今は一緒にいれば楽しめるみたいな関係性の人もそこそこいると思ってます。
でも、どこまで行っても安心なんて出来ないんですよね。
世俗的には実の親との関係は安心出来るものという考えがあるのかなと何となく思っていますが、自分にとってはこれは当てはまらないので除外されます。
仲のいい人、昔からの友人、酒をよく飲む関係性、いずれを検討しても、楽しさはあれど安心は出来ない
今の自分にとって人間関係と安心は絶対に相容れない関係に思えるんですね
私にとってその答えは間違いを冒さないように神経を使わなければいけないからです
私にとって人付き合いは、その場その場で相手が求める内容を会話の流れに応じて間違えないように返答することです。
会話の流れから逸れる返答だったり、相手の求めているものと違うレスポンスを間違いと私は捉えてます。
ですが、ある程度のルールのもと成り立つのが人間関係なのではないか、という観念も同時にあって、それはもっともらしい風にも感じています。
守らなければ死ぬ!法律と同じレベルの拘束!義務!ではないにしても、互いができるだけ守りましょうねという形で定められた努力義務レベルの効力はあるものではと捉えています。
そして、それを守ることは、やはり私にとっては安心出来るものとは言えません。神経をとても使います。
守るのが苦しいのであれば
守らない方面であれば簡単な結論が一つ思いつきます。自分が何をやっても許されるってことです。
傍若無人に振る舞ったって何だって誰にだって許される。それは安心でしょう。
ただそれに対して思うのは、そんなん非現実的すぎるということと、それが私の望むような関係だろうかということ。
自分の中のいい子ちゃんが反射的な反応を示しているようにも思えますが、常識的な対人場面を想定した時に、他人に対して「あんなことこんなことやってやりてぇぜ」みたいなことはあまり思いつきません。
てかきっと気持ち悪さを感じる。なぜ相手がそんな自分を許す必要があるのか疑念が湧くだろうし、疑心暗鬼になり、そんなものは安心とは言えない。
ただ、自分はきっともう1人の自分にも気を遣うと思う。その時の私は出来るだけもう一人の自分が辛くならないように「まぁ気にしないでよ」みたいな声をかけるでしょう。
ただ、その声をかけられるもう一人の自分はきっとその声を受ける前に「マジで気にしなくていいからなんでも好きなこと言ってよ」と先制してくるでしょう。もう一人の自分なのだから気を遣ってくることは想像出来るので、相手が変に気を遣ってくる前に先制をします。
ただ、そうやって先制してくることはやってきそうだな、と私はもう一人の自分からの先制を読んで……
私がもう1人という無理筋で勝負したとしても安心には辿り着かないように感じます。
1人はとても安心します。なぜ1人は安心なのか。それは何も気を使う必要がないからだ、とすぐに返答できます。
何か試される訳でもない、求められる訳でもない、それは非常に安心します。何をやってもいいということだからです。
では、その自由さが私にとっての安心出来る要因だとして、それを通常の人間関係に適応出来るものなのか?と考えると、そんな気はしません。
気を使わないことなんてありえなくないか??と感じて袋小路に感じてしまいます。ここまで来て、手詰まりを感じて今こうやってブログにしています。
人付き合いで安心ってするんですか?