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2023-02-02

お経に混じっていても気づかなそうな非仏用語

色素沈着

2016-02-23

http://anond.hatelabo.jp/20160223105606

でも世の中に出回ってるインチキ瞑想は他宗教ですらなく

インチキさんのオリジナル瞑想でしょ。

から仏教瞑想みたいなすごい効果はないし、

宗教瞑想のようなそこそこの効果すらない。

何にも効果が無いっていうのはオリジナルインチキ瞑想証拠だよ。

仏教瞑想は最大の効果があり

非仏教系宗教瞑想はそこそこの効果があり

宗教系の瞑想には効果がない。

まあ宗教系の人にありがちな偏った思考ではあるけれども、

「正しさ」については主観的信仰としてさておくとしても

宗教から効果が無いんじゃなくて

伝統メソッドも無いから効果がないんだよ。

仏教瞑想宗教から効果があるわけでもない。

というか仏教宗教では無いという立場

信じるものなんか無いから

効果」については、客観的評価されるまで判断を保留せざるを得ないだろうという理性と

科学の手中に収まるまでは客観性効果も無い

という立場から見るならレメディと変わらない存在だと思う。

現在科学心理学がすごくのろのろと仏教に追いついてきてる状況。

http://anond.hatelabo.jp/20160223103627

いやいや、今問題にしているのはお前の「正しさ」についてなのよ。

でも世の中に出回ってるインチキ瞑想は他宗教ですらなく

インチキさんのオリジナル瞑想でしょ。

から仏教瞑想みたいなすごい効果はないし、

宗教瞑想のようなそこそこの効果すらない。

何にも効果が無いっていうのはオリジナルインチキ瞑想証拠だよ。

お前の「正しさ」が主観的な「効果がある」のと連動してしまっているのが、突っ込みどころとしてあるわけ。

仏教瞑想は最大の効果があり

非仏教系宗教瞑想はそこそこの効果があり

宗教系の瞑想には効果がない。


まあ宗教系の人にありがちな偏った思考ではあるけれども、

「正しさ」については主観的信仰としてさておくとしても

効果」については、客観的評価されるまで判断を保留せざるを得ないだろうという理性と

どう折り合いつけてんの?

もしかしてそこんとこ疑問ないの?

2015-01-31

日本仏教守護霊インタビュー

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.tachibana-akira.com/2015/01/6712

これのブ米みると「日本仏教デタラメ」に違和感を持つ人がいるけど大乗非仏説すら知らないのか?

日本仏教はほぼ大乗仏教でその経典釈迦が死んでから数百年後にでっち上げられたもの原典と内容が全然違うというのが定説

代表的なのが夏のお盆のもとになってる盂蘭盆経で中国祖先崇拝を仏教風の経典にしてるだけ

有名人が言ってもないことをでっちあげた新興宗教書籍嘲笑してる人達釈迦が言ってもないことをでっちあげた伝統仏教経典をありがたがるなんてことないよな?

まあもちろん中身が素晴らしいとか言うんだろうけどいくら中身がよかろうと釈迦の教えじゃないなら仏教は名乗るべきではないし

独自宗派を立ち上げないのは高名な釈迦に乗っかっとけば布教やすい(消防署のほうから来ました的な詐欺同然の有利誤認)ということでしかない

2012-12-31

日常底」について

こんにちは。前の記事(http://anond.hatelabo.jp/20120720212651)に、エピクテートスの「日常底」について「あとで調べる」と書き、あとから少し調べたのに、そのまま忘れてたので、結果を報告します。

  • 仏教学関連の論文で「日常底」という語が用いられている例がある。

仏祖の言をこのように考え来り、その言葉の内奥に潜む仏祖のこころ(語り手と聞き手という二重の意味で)こそが第一義であるとするとき、いま一つの問題が残ることになる。それは、日常底の人間が未だ仏祖ではないということである。(岡島秀隆「禅仏教言語観」、『禅研究所紀要』第21号、愛知学院大学研究所1992年、108頁)

日常底の宗教とは、先の臨済の四料簡での四つの境涯に愛(アガペー)や慈悲の裏打ちをして各個が生き得るような宗教である。(花岡永子「仏教キリスト教との出会い: 根源的いのち経験から」、『宗教研究』77巻2号、日本宗教学会2003年、219頁)

即心即仏、非心非仏、不是物とか、その他、ふつう理解できないような数多くの言葉が、禅匠たちによっていわれて来た。それはわからないといえばわからないけれども、それほど明らかなものもないわけで、それは眼の前にはね返っているもの、それなくそれを離れては、日常の行動、人との対話、仕事実験無神論者唯物論者の論争さえもできないような、根本的なものなのである。そういった日常のものではあるが、それに気づいているか、ということになれば問題である。(鹿野治助「禅と倫理」、『講座 禅 第2巻 禅の実践筑摩書房1967年、185-186頁)

さて、しかしだからと言って、私には「日常底」という語の意味は分かりません。ご存知の方いましたら教えてください。以上、報告おわり。

2011-11-28

anond:20111127161444

視野が狭いのかもね。

創価学会への悪意はないけれど、911,311のどちらの時もこっちの宗教(非仏教系です)のメディア

「○○さんを探しています」とか、「この施設はどこに移転しました」とか、

一生懸命お知らせ掲示板やってました。

911の時も、イスラム系の一般人への聞き取り調査もあって読みました。

創価学会だって、広い範囲に信者さんいるでしょうに…

意外と人情があまりないんかね。あなた自分なら、離れてしまうと思う。

でも、どうするかはあなたの自由だと思いますよ。

信仰は一人でもできることです。無理はしない程度に。

2008-04-13

仏教系の宗教議論にありがちなこと。

1、経典の経文が全てにおいて正しいという前提のもとに議論をされる。

2、経文どおりでない言葉は論証として認められない。

3、漢訳だけでは飽き足らず、訳知り顔にサンスクリット語の訳を持ち出す。

4、結果、誰にもわからない話に終始する。

5、経文と現実の境目がわからなくなる。

6、現実には何の役にもたたない。

7、むやみに感情的になる。

8、大乗非仏説は禁句だ。

9、カルトを指差して笑いながら指している指の残り三本は自分を指差してるばい。

10、いいひとぶりながら、内心は自分の謙虚さに慢心しておぼれている。

11、なんやかんやで自画自賛。

12、確実に全員地獄に墜ちそう。

13、なぜかチベット問題には興味無し。

14、ROMからは自分の考えが無いように見られているのに御満悦。

 
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