はてなキーワード: ブルジョアジーとは
北海道帯広市の野江呉服店の娘として生まれたふみ子は、左乳房の切除手術を受けたが、
がんは転移しており放射線治療を受けるも1954年になくなった。
中城ふみ子が育った野江呉服店は、開拓地の都市のなかでではあるがかなり裕福で、
ふみ子を帯広高等女学校から東京家政学園に学ばせる余裕があった。
ふみ子の写真は多く残されているが、どこか気取っていて、
しなを作ったりポーズをとったりするものがほとんどだ。若いころは特にそうだ。
彼女は「プチブル」なのだ。「私はあなたたちとは違うのよ」とでも言いたげな、言い方が悪いが、
いかにも「成金」的な姿勢が写真からにじみ出ているようで、私はひどく嫌だった。
彼女の容姿はかなり整っている方で、それが彼女の「気取り」に拍車をかけているようにも感じた。
ほどなくして彼女は結婚し母となる。結婚は恵まれたものではなかった。
写真で「気取り」を見せることは少なくなったが、
「罪と罰」と捉える論者も多いが今回の話では割とどうでもいい。
この一緒に写っている女性は顔も体もでかくて(お笑い芸人のバービーに似ている)、
ふみ子と一緒に写ると自分のボリュームが強調されてしまうから少し下がって写りたい!と訴え出たそうだ。
今に残る写真では、この女性とふみ子の顔の大きさは同じくらいで、
病に侵され余命いくばくもないふみ子も、
この写真を取る際のやりとりには僅かにだが笑顔を見せたという。
この、弱ってボロボロになってたたずんでいるふみ子が一番好きだ。
彼女の可憐な学生時代も性の奔放さも、実は「プチブル」に担保された性質のように思う。
病は「プチブル」的なものをごっそりそぎ落とし、何かが残り写真に写っている。
歌人としての才はギリギリそぎ落とされずふみ子の手元に残った。
ブルジョアジーというものを、革命でも何でもなく、がんというこの時代の不治の病が打破したのだ、と私は思う。
一つの身体においての事例だが、近代の克服を自分の身体を削ることで成し遂げたのだ、と本当に勝手だけど思う。
冬の皺(しわ) 寄せゐる海よ 今少し 生きて己の 無残を見むか
明らかな釣りですね。
本当に出席したならこのような文章を書くわけがない。
おそらく2が目的でしょう。
1が目的であるとすれば、なにも正直に『俺は男だ』と宣言する必要はないからです。
『私はブスで貧困に喘ぐ女だ』という設定で『フェミとオフ会をしたが、美人でブルジョアジーなフェミニストに違和感を感じた』と論じれば、
2が目的であるとすれば『俺は男だ』と設定するほうが都合が良い。
女が他の女を『美人だ』と褒めてもその評価には信用が置けないという考えの人間が多いからです。
一般社会では男が『口説きたくなるような女』だけが『正しい美人』とされるので、
2が目的であるなら、男の筆者に『口説きそうになった』と語らせたほうが良いのです。
品が無いね
恋愛漫画なんて憧れとかを固めたものだから、恋愛ブルジョアジーでもいいと思うんだけどね
主人公も地味な子が多かったりするし
ブルジョアジー諸君!我々は君たちを世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、
ここに公然と宣戦を布告するものである。
君たちの歴史的罪状は、もうわかりすぎているのだ。君たちの歴史は血塗られた歴史である。
君たち同士の間での世界的強盗戦争のために、我々の仲間をだまして動員し、
互いに殺し合わせ、あげくの果ては、がっぽりともうけているのだ。
我々はもう、そそのかされ、だまされはしない。
我々にも君たちを好き勝手に殺す権利がある。
君たちにブラック・パンサーの同志を殺害しゲットーを戦車で押しつぶす権利があるのなら、
我々にも、ニクソン、佐藤、キッシンジャ―、ドゴールを殺し、ペンタゴン、防衛庁、警視庁、
君たちの家々を 爆弾で爆破する権利がある。
君たちに、沖縄の同志を銃剣で突き刺す権利があるのなら、
我々にも君たちを銃剣で突き刺す権利がある。
君たちの時代は終りなのだ。
即ち世界革命戦争の勝利のために、 君たちをこの世から抹殺するために、最後まで戦い抜く。
君たちは殺されるのがいやなら、その銃を後ろに向けたまえ!
君たちをそそのかし、後ろであやつっているブルジョアジーに向けて。
誰でも容赦なく革命戦争の真ただ中で抹殺するだろう。
小林よしのりに感化されて軍拡マンセーしていた昔の俺みたいなオタクもいれば、
ヘルメットかぶってアキハバラ解放!とか叫んでたようなオタクだっている。
また、ガンオタでも作中で使われている技術や理論について語りたがる(エセ)理系オタクもいれば、
俺ニュータイプ論やシャア史を語りたがる(エセ)文系オタクだっている。
俺の身近なオタクにも、メンヘラさんやかまってちゃん、空気が著しく読めない奴(俺のことだけど)に、
陰謀論大好きさん、新興宗教ガチはまりさん……等、いろんなタイプがいて、
十把一絡げにオタクと言う分類わけをするのは難しいと思う。
だいたい元増田の言ってることなんて、どんな思想にも当てはまりそうなものだけどなぁ。
共産主義思想だってブルジョアジーを悪の枢軸に仕立て上げ(善悪二元論)、
搾取される労働者とやらに感情移入をして(感情移入と過度の思い入れ)、
歴史必然的にプロレタリア革命は起こると自身の暴力を正当化する(観念的空想、拗ね者意識、ルサンチマン)。
また、ヒトラーだってユダヤ人とその資本を絶対悪に仕立て上げ、
アーリア民族の優秀性を説いて、文化破壊者であるユダヤ人をぶっ潰せと喧伝したわけだ。
構図としては上の共産主義思想と大して変わらないんじゃないかなぁ?
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
ってあるけど、俺が上に挙げたような点は、一般的に見られる普遍的な傾向であって(当時はみんな熱狂してたしね☆)、
”オタクにおいて”比較的傾向的に強くは見られるっていうのは違うんじゃないかと思う。
俺の私見では、現実の問題について語る素人が増えただけだと思うんだよね。
今まで政治問題なんてのは一部のインテリがどっか遠い場所で語るくらいだったのが、
インターネットの普及によって俺たち庶民にもそういうことを語る機会が生まれたわけだ。
で、そのインターネットにいち早く接触したのが、元来機械好きでリアル交友の少ない(笑)オタクたちだった。
オタクたちの遊び場であった匿名、あるいは非匿名の掲示板では時期的に偶然にも右翼タカ派の言説が多く、
彼らはそれに染まっただけだと思うんだ。
つまり”オタクだから”そういう考え方をしているのではなく、”たまたまオタクが”そういう考え方にいち早く染まったんじゃないかなーと。
ならば、闘争だ! ブルジョアジーを血祭りに上げろ! 討ち滅ぼせ! 殲滅しろ!
……というのは、まあ言い過ぎにしても、当たり前に欲しがるのはおかしいように思う。大衆が何を持っている? 数だけじゃないか。金も、権力も、上流階級の持ち物だ。大衆のためになることをして、彼らに何の益がある?
だから、闘争だ! ブルジョアジーを血祭りに上げろ! 討ち滅ぼせ! 殲滅しろ!
……というのは、まあ言い過ぎにしても、大衆は闘争意識を忘れてはならない。本質的に、大衆と貴族は対立している。「民主主義」や「平等思想」のもとでさえそうなのだ。大衆が数でもって貴族を脅しつけることによってのみ、貴族は妥協点を選ばざるを得なくなる。だから、権利は当たり前には存在しない。奪い取らねばならない。幸い、民主主義は封建主義に比べて、より数の力が働きやすい構造であろう。