三十を過ぎて少し腹が目立つようになってきた。これではまずいと近所のジムに通い出したのだが、そこである男性と知り合った。かつてのオリンピック強化選手であった彼は、こんな興味深い話を聞かせてくれた。
* * *
「別れてほしい」
深く長い溜め息のようなその言葉には、長年の不貞による疲弊しかなかった。妻は男から目をそらし、肩を震わせている。男にはそれが同情を買う行為にしか見えず、妻のそのあきらめの悪さに怒りすら覚えた。
早く終わらせたい。脳裏にジュネの顔が浮かぶ。妻よりも、いや男よりも十歳近く若いその女との新生活はもうすぐそこなのに……。
苛立つ男の口調は厳しいものとなり、ついに妻はヒステリックな声を上げた。会話は堂々巡りを始め、冷え切ったディナーは彼らの胃に収まることはなかった。話をさえぎり涙を溜めながら寝室に駆けこむ妻を、男は不思議そうに見つめた。
新婚当時、彼女こそが生涯の伴侶だと信じて疑わなかった。ならば先ほど寝室へ駆けこんで行った女性は、何者だったのか。今と昔。妻を決定的に変えてしまったものは何なのか。間違いなくそれは自分の心だ。自分の心が妻から離れていったのだ。ジュネとの関係が深くなるにつれ遠のいていったのだ。
目を開けると、妻が正面に立っていた。いつの間にかソファで眠っていたようで、時計の針は午前を回っていた。
「別れましょう」
なにか声をかけようとした男よりも早く妻は泣いてかすれた声でそう言った。
男は安堵した。
「慰謝料はいらない。でも、正式に離婚するのはひと月ほど待ってほしい」
それは妻の反撃であったが、男はその危険性を低く見積もっていた。というのも彼ら夫婦には小学受験を控えたひとり息子がいたからだ。来月には面接がある。それまでは夫婦でいたいのだろう。二つ返事でそれを受け入れると、男は肩の荷が少し軽くなるのを感じた。
そんな男の顔色を伺いつつ、妻はもうひとつ条件を追加した。
「それと、これから別れるまで毎朝、私を抱き上げ玄関まで連れて行ってほしいの。そう、新婚当時のように……」
その日の朝、男は妻を抱きかかえていた。二人は目を合わすこともなく、粛々と別れの儀式をこなす。ただ息子だけが嬉しそうに彼らの後を追っかけた。
腕の重みから解放された男は、ちらりと妻の方を見る。やはり“今”の妻だった。
「……行ってくるよ」
「行ってらっしゃい、あなた」
「パパ行ってらっしゃい!」
それでも息子の手前、挨拶は交わした。奇妙な気分だった。昨日見た夢が思い出せないようなもどかしさ。それは会社に着いても、仕事をしても晴れなかった。
おそらくその夢は楽しい夢だったのだろう。妻を抱えながら男はそう確信した。まだ三日目のことだ。あれ以来妻のことを考える機会が増えていた。これから離婚するというのに、よくないな。男はそう考えジュネを誘った。
「油断ならないクソ女ね」
上品なレストランの席でジュネは相応しくない言葉を吐き、不快感を露わにした。男は軽い衝撃を受けた。
「ただの悪あがきさ。ひと月のあいだ辛抱すれば別れられる。しかも慰謝料は付かないんだ。これ以上の条件はないよ」
男は言い聞かせるように言った。
「そう、ただの悪あがきさ……」
一週間が過ぎるころには、男は自分の心境の変化に戸惑っていた。彼女を抱きかかえるたび、一歩ずつあのころ置き去りにした妻の元へ近づいている。そんなたちの悪い予感めいたものに囚われていた。
さて、そんな男の心境をよそに妻の身にも着実に変化は訪れていた。しかし男がそれに気づくのは、さらに五日を要する。
その日も男は妻をベッドから持ち上げようとした。いつもと同じ動作。だというのによろけ、一度妻をベッドに戻した。
「太っとんじゃないか?」
思わず口をついた言葉に男はハッとなる。そうだ明らかに目方は増えていた。しかし、それがどういった意味を持つのだろうか。
「もし期日まであなたが約束を守れず、一日でも抱き上げるのを抜かしてしまえば、その抜かした日数分をこなすまで離婚の手続きは滞ることになる」
「さあ、離婚のために早く抱き上げて」
そう言って首もとに手を伸ばす妻。
男は無言で持ち上げた。背中を伝う一筋の汗は、やけにひんやりとしていた。
妻も男の前で堂々と大量の食事をするようになった。
一週間と五日で儀式は勝負へと移り変わった。それはすなわち贅肉と筋肉の勝負。しかし男にとってこの勝負は圧倒的に不利であった。ひとつは気づきの遅さ。ひとつは職業。システムエンジニアである男はそれまでをデスクワークで過ごしてきた。そしてもうひとつは筋肉と贅肉の付くスピードの差。
期日まであと三日と迫ったこの日、男は完全に妻を持ち上げられなくなった。もう彼女の体型に過去の面影はない。男はますます筋力トレーニングに打ち込んだ。
ジムに通いだしてから三ヶ月が経過し、男は見違えるような肉体を手にしていた。それでもなお妻を持ち上げることはかなわなかった。この時すでに妻の体重は百キログラムを優に越えていた。
「いつになったら別れるの!」
オフィスにやってきたジュネは痺れを切らしていた。男はひどく狼狽した。彼女が仕事場まで乗り込んできたことにではない。ひと月以上も彼女のことを忘れていたことにだ。そして、自分の頭の中が筋肉しかないことに気づかされた。男は彼女に視線を落とす。ジュネのしなやかな四肢は、妻とは正反対の健康的なものだ。しかし今の男にはどちらも魅力的には映らなかった。
「すまない、ジュネ」男はネクタイを緩める。「妻とは別れられない」ひとつひとつ丁寧にシャツのボタンを外していく。「ぼくの結婚生活が退屈だったのは事実だ。だからきみを求めた。きみとの恋は刺激に満ちあふれていたからね。でもそれは妻との恋愛でもそうだった。結局いつの間にか冷めてしまうものなんだよ」男は上半身裸になると、上腕二頭筋を隆起させた。ジュネはただただ彼を睨んでいる。「ぼくは気づいた。いや妻が、あるいはきみが気づかせてくれたのかもしれない。張り合いのない人生がいかに退屈かを。だからぼくは結婚したあの日のように妻を抱き上げたいんだ。三日分きっちりと。それから……ッ!?」
乾いた音がオフィスに響く。男の大胸筋に紅葉のような手跡を残しジュネは去っていった。男は二三度ピクピクと大胸筋を震わせると、おもむろにシャツを着る。だが彼女を追おうとはしなかった。
帰り道、男はケーキ屋に寄った。特大ホールケーキを三つほど注文すると、祝い事かと考えた店員が男に尋ねた。
最初は断ろうとした男だが、思い直し頷いた。
「“死が二人を別つ前に、ぼくはきみを抱き上げる”と、おねがいします」
* * *
「笑える話だろう」
彼はベンチプレスで流れた汗を拭き取りながら私に同意を求めた。初めてこの話を聞いたときの感想は、正直“よく分からない”というものだった。だから曖昧に頷いた。男はそれで満足という表情だった。
「その男が今どうなっているかは知らないが、ひとつだけ言えることはこうだ。マンションや車、お金なんかは人を太らす肥やしに過ぎない。筋肉と骨格の関係においてしか豊かなマッスルは生まれないのだ。それを忘れてはいけない。もしきみが結婚していたとしても、こつこつと細かな筋トレを欠かさないでほしい。それが人生における最後の砦となるのだから……」
この話を聞いたあと、急な結婚が決まり、私と新妻は別の土地へと引っ越した。だからジムで知り合った男性とはあれ以来会ってはいない。
だが最近インターネット検索で彼についていくつか情報を得た。彼は私と知り合う前年にはすでにオリンピックの重量挙げにて金メダルを獲得していた。そして妻とひとりの子供がおり、なかでも妻はその年体重が三百キログラムを突破したそうだ。
メモ帳からコピペした際に最後の1行(蛇足の蛇足ですが)が抜けていたので追加。あと、微妙に修正。
それと、愛人の名前は原文うろ覚えで書き出した際「こんな名前っだったような」と名付けたら一文字もかすっていなかった。これは、もう、せっかくなのでこのまま。
原文については以下参照。
・村上春樹風にしようと末期がんネタに持ち込もうと、ダメ男はダメ男。さらなる改変カモーン! - みやきち日記
ジュネっていいネーミングセンスじゅね?
ジュネと聞くとカメレオン座しか思い浮かばないんだがどういうネーミングセンスなんだ
ジュネと聞いたら少年愛しか思いつかなかった。 (参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/JUNE) 美しい妻と恵まれた社会的地位を持ち過不足のない人生を送っていた男が中年期に差し掛かり、ふ...
ジュネ懐かしいな wikiみて休刊を知って驚いた。時は流れたなあ