はてなキーワード: 知的障害者とは
会社にいるとき隣で何度も屁をする男がいる
この男はどんな神経をしているのだろうか?
他人に不快な思いをさせてまで席で大きな音で屁をする神経は理解できない
もう30、40代だというのにこいつの大人らしいところがまるで見えてこない
着ている洋服も変なファッションで上が緑色下が紫色の洋服、これはどうなの?
前に社会人でその服装はどうよ?と社内で問題になったことがある
この男は喋り方からしておかしい、もにょもにょといっていて何を言ってるかわからない
知的障害者的な喋り方というのだろうか、仕事はまともにはできるが言動、行動ともに幼い
その息子までもが知的障害者だという、身内に障害者がいるって言ってる時点でどうなのよ?
おまけに汗臭い、運動もしてないのにこんな臭いを発するのはこの男だけだ
誰かこの男を止めてくれ。
ttp://diamond.jp/series/yuuai/10007/?page=5
森川さんは、「家族では抱えきれなくなった知的障害や身体障害を持つ方々が、路上に溢れ始めている」と指摘する。
「昔は家族が障害を持つ子の面倒を見ていた。ところが今は両親の高齢化や貧困化などで、それができなくなってきているのです」
「電車賃がなくて帰れない」という知的障害者の男性におカネを渡したところ、家族に「戻ってこないで」と言われ公園に逆戻りしてしまった例もあった。
家族といえど、自分のことで手いっぱい。親や子を支えられなくなっている人が増えている。
ホームレスとは、単に住居のない人々ではない。“ホーム”、つまり、家族の絆を失ってしまった「ファミリープア」でもあるのだ。
twitterである晩目に飛び込んできた会話。
以下はコピー。 @wakusei2nd @d_nak 実現したら「日本を代表するメンヘル女子ハンター」から「日本を代表するメンヘル女子ハンター(博士号持ち)」に
この@wakusei2ndというidの人は、自己紹介欄を見たら、宇野常寛(批評家/編集者)と書いてあった。 私はずっと心療内科に通い、メンタルの病気でずっと悩んでいます。死にそうになったことも何度もあります。
メンヘル女子ハンターというのは、精神的な病を抱えている女子は、尻軽で精神が弱いからつけこみおとしやすいという意味と私は受け取りました。そうじゃないなら狩りだからおやじ狩りというように使われていた犯罪用語なのかもしれないが。
受け取る意味はそれぞれだが、とにかくこの人たちはメンヘル女子をハント(狩り)してるらしい。この不愉快な宇野という人と、「日本を代表するメンヘル女子ハンター」らしい中川大地という人の顔が見てみたいと思って検索したら、宇野という人の画像動画はすぐ見つかりました。恋愛や女子ハンターとか語っていいレベルの容姿じゃない。ルックス偏差値で言ったら30ぐらい。もし家に鏡がないのなら仕方ないけど。中川というハンターはどの程度の容姿なのか未だ不明。顔はともかく二人ともこんなに不愉快で差別的な言葉を使ってはしゃいでいるのだから、自称批評家、編集者でも頭も悪いのでしょう。もちろん、私もメンタルも頭も悪いが。
イケメンなら言っていいってわけじゃない。でもよくあの顔と洋服のセンスでメンヘル女子ハンターなんて差別的な言葉使えますね。心臓病女子ハンター、がん患者女子ハンター、知的障害者女子ハンターと同じようなニュアンスで非常に差別意識が出ている言葉だと自覚があってこの人はこの言葉を使っているのでしょうか?病気なんてなりたくてなったわけではないし、ましてネットで不特定多数に公開するということの影響力も理解できていない。
この醜悪な「日本を代表するメンヘル女子ハンター」から「日本を代表するメンヘル女子ハンター(博士号持ち)」にという会話は数日前の書き込みですが、自分も含むメンタルの病に悩む女性を公で馬鹿にされ侮蔑されたように感じて気分が悪くなりました。今も具合が悪いです。薬を処方してもらいカウンセリングで相談もしてきました。
宇野さんと中川さんという人が結婚していたり姉妹がいるのかしらないけど、自分の身内の女性にメンタルの病を抱えている人がいたらこんな蔑的なことを書けんの?批評家という職業なら、まず鏡で自分の顔と姿をチェックし、自分の言動の醜悪さに対する批評能力を身に付けたらいかがですか?ハント(狩り)をどういう意味で使っているのかしらないけど、女子として性的に食うという意味なら、あなたたちレベルの人に食われるメンヘル女子なんて何人いるんですか?
一字一句、完全に同意します。
あまりに同意したので全文引用します。素晴らしいです。
はてなにおいてメジャーである、気味の悪い逆からの(弱者の皮を被った強者の)レイシズム、
名誉毀損や人権侵害を平気で行う自称弱者たちの歪みきったメンタリティを見事に切っていただいて本当に感謝します
きっとこれからこいつらはてサは集団で根拠のない罵詈雑言の限りを尽くしてくるでしょう。
キチガイを相手にしない、というのも選択肢に入れておくのも悪くないと思います。
こういう事も増田でしか言えないはてな村の気味の悪い同調圧力が本当にむかつく。
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男はケモノではありません(2)
http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p2
http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p1
さて、どういう形で、話を続けたものか、オーソドックスにブックマークコメントにレスポンスすることにする。
誤解無きよう言っておけば、私は先のid:hokusyu氏のロジックとそれを支持する人たちを人権軽視の発想であると糾弾していることを申し上げておく。
id:angmar いやだから、曽野の論が間違っているというなら予防拘禁も軽装抑止もどっちもありえないんじゃないの?/男はケモノ⇒予防拘禁のロジック批判ということなのだろうけど、どうもそう読まれる気がしない。
曽野氏の論は間違っているけれども、その仮定の条件を仮に踏まえたうえでの論理展開をしているのはid:hokusyu氏であり、前提条件が徹頭徹尾仮定の話であるのは言うまでもないことなので、現実の話として予防拘禁も軽装抑止もあり得ないのは言うまでもないことです。しかしid:hokusyu氏がその論理の中で提示した特定の集団の人権軽視をなす発想は仮定の話ではなく現実です。
id:kowyoshi あらあら hokusyu氏を叩きたいから、曽野の間違った仮設が真だとしたらなんて恥ずかしいことを…
曽野の間違った仮説が真だとしたら、が恥ずかしいこととはどういうことでしょうか?hokusyu氏を叩きたいとはどういう意味でしょうか?hokusyu氏の論理展開を批判することが彼を叩きたいことになるのでしょうか。ご説明いただけるでしょうか。
よく分からないのですが、私が「考えていない」というのはいかなる理由から導き出された推論でしょうか。その対策というのは曽野綾子を批判することでしょうか?(それなら批判しているわけですし、id:hokusyu氏も見える部分ではそれ以上のことをしているようには見えないのですが)。ご説明いただけるでしょうか。
追記:『KIM625 書いてないから』との書き込みあり。考えていないとの書き込みもないですよね。その論法で言うならばあなたはid:hokusyu氏の基本的人権軽視について何も指摘していないので、あなたは人権侵害の発想を拡大させる加害者だと思います。
id:steam_heart うーん、どうでも良いが、その理屈通りだと、何時までも女性の人権は侵害されたままだね。そして、それをして来たのが過去ですよ、と。
どうでもいいと言っている人に聞くのはなんなんですが、「その理屈通りだと、何時までも女性の人権は侵害されたままだね」....なぜ?私が指摘しているのはhokusyu氏の男性の基本的人権を軽視する発想ですが、男性の基本的人権が軽視されないと女性の人権が守れないとのお考えでしょうか?ご説明いただけるでしょうか。
追記あり:『id:steam_heart 「女性の軽装禁止」が女性の人権侵害で無いなら何?と逆に聞きたい。どちらの人権も最大限に守るということは出来ないがゆえに「獣」の部分は権利を制限される。』
どうでもいいんでしょうか、よくないんでしょうか。
むろん、権利の侵害ですよ。ただし基本的人権の侵害ではないというだけのことで。ケモノの部分というのは具体的に何を指し、その権利を制限するとは具体的に何を指しているのですか?
id:letterdust 曽野の主張は「軽装」だけでなく「深夜の独り歩きは商売女」ね。それで独身女性は自宅通勤に限定されたり残業のある総合職につくと眉をひそめられたりしたんだけどこれって「広義の予防拘禁だよね」って話はお分かり
それと男性の基本的人権を軽視する発想とどうつながるのでしょうか?
id:Francesco3 意味不明/http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091205←性犯罪が起こる要因
…。あのう。読解力を期待するだけ無駄な人なんでしょうか?性犯罪が曽野氏の言うような原因で発生すると一言でも私が言っているでしょうか。その記事をあの記事に対して持ち出す意図についてご説明いただけるでしょうか。
id:inukorori「男は獣」と「しかし私だけは獣でない」が結びつくと醜悪なロジックが生まれる好例。批判すべきは後者の論理。//なるほど複雑猫さんの危惧は当たっていた。「欲望は本能」とか言い出すやつがいるんだなぁ。
言っていることがさっぱり分かりません。曽野綾子的な意味で、論理上の仮定でなく、欲望は本能だと言っている箇所を提示してください。
id:hokusyu 1:「人権が擁護され、かつ欲望のままに生きることが許されるケモノ」という形象自体が、いかにも男性に都合がよすぎる形象。ケモノを名乗るなら人権は諦めるべき。2:女性の我慢がさらりと容認されているのが差別
id:hokusyuさんは基本的人権というものをどのように考えていらっしゃるのでしょう。私権は公共の福祉の下において制約を受けることがあります。従って、公共の福祉は程度としてはファシズム性を内包しています。その上で制約できないのが基本的人権です。この仮定の一連の話において、「男性のケモノ性が統御し難い本能に根ざす」「しかし女性の衣服や態度によって緩和は出来る」というのは仮定の条件です。現実において欲望のままに生きるケモノであって良いはずがないのは言うまでもないことです(どうしてあなた相手にこれを言わないといけないのか、とほほ)。生物的な性差に基づく不利益を緩和するために、社会的な補正として公共の福祉において私権が抑制されることは、現実の場面でもあることです。我慢は公共の福祉においては誰もがそれぞれにしていることです。
しかしその上で、基本的人権のレベルの抑圧は公共の福祉の名においても正当化できません。私があなたを批判しているのはこの点であり、あなたのブックマークでのコメントは、これがだれぞの言うようには「誤読」ではないことをはっきりとさせました。
あのロジックにおけるあなたの発想は、公共の福祉の名において、知的障害者らを抹殺しようとするものと同様のものであるとの見解を提示いたします。
基本的人権は嫌な人、ケモノのごとき人のものであっても、絶対に擁護されなければならないものです。
id:sionsuzukaze 違くね?hokusyu氏のたとえが適切かどうかは別として、あの前提に立てば状況はなんら改善されないし、結局は性犯罪を助長さえしかねないから、あの前提を持ち出すこと自体が誤りってことでしょ。
たとえが適切がどうかは「別の話」ではありません。あの前提を持ち出すことは誤りだということについて見解が対立しているわけでもありません。あのロジックの中にあった基本的人権を軽視する発想が問題視されずに流布している点を問題視したまでのことです。
追記『id:sionsuzukaze 自分は別にhokusyu氏の潜在的排除論に同調したつもりは無いんだけどな。ただ、それが持ち出される背景を説明しただけで。まぁダイアリにも書いたけど、隔離するなら夜だけじゃダメだけどね。』
よく分からない反応。同調したとかしないとかそういう話はあなたには誰もしていないのですが。
id:manysided "男がケモノであるのは男の責任ではない。ただの本能である。そしてその場合、男がケモノであるとしても、それでもなお男は人間である"君がケモノなのはよくわかった。抑えられないんじゃなく抑えたくないだけでしょ
「君がケモノであるのはよくわかった」。普通に私への人権侵害であり侮辱罪であると思うのですが。ここでは男がケモノであることを抑制し難い本能に根ざすと仮定しての論なので、その仮定において、抑制が難しい本能であるのは当たり前のことです。「男がケモノであることは抑制し難い本能である」と事実として私が提示している部分があるでしょうか。ご説明いただきたいですね。これにスターをつけているid:hokusyuさん、id:KIM625さんでもよろしいですよ。
追記:『id:manysided いや仮定じゃなく断言してるじゃん。男全般ではなく君の意識がおかしいということ。抑制が難しいならいつでもどこでもするだろうがそうじゃないだろう。そもそも君の定義する「本能」って何だ?』との返答あり。…。えっ!?断言してたっけ…。
『そもそも男はケモノではないので、曽野綾子氏のそもそもの論に無理があるわけだが、敢えてその出鱈目な前提にのっかるとした場合、男がケモノであるのは男の責任ではない。ただの本能である。』
これ、どう読んでも仮定だよね?だよね?だよね?ちなみに曽野綾子氏のロジックに沿えば、抑制は出来る/出来ないのデジタルには処理されておりません。くだらない煽り要らないからさー、能書きたれてないで「ここだ!」って提示してよ。
どの部分が誤読でしょうか。ご指摘いただけるとありがたいです。
とりあえずここまで。
[続き]
id:quix_que 今回のこれが始まってから何度「襲われる女性は地味でおとなしい服装が多い」って書かれたか数え切れないけどひとつも目に入らなかったのならばその心理的フィルターをなんとかするのが先決でしょ。
あなたは日本語読解力をつけるのが先決だと思います。
追記あり。『id:quix_que これはひどい, いつまで続くのこれ? 現実にある「女は自衛のためにアレするなコレするな」の人権侵害をスルーしておいて、同じロジックを適用したたとえ話には「たとえ話でもそんなことを言うな」と猛反発ですか。そこまで自分側を正しいことにしたい?』
何なのかしら、この人。正しいことにしたいのではなく、私はいつも自分が正しいと思うことを書いています。そのうえで、修正があるならやりますが、ここでは「同じロジックではない」ことを指摘しているので、あなたがやるべきは「同じロジック」であることを論証することではないかと思われます。
id:ftmaru 健常者でマジョリティの成人男性が少しでも我慢させられそうになると大騒ぎするくせに、女・子供・老人・障害者・外国人・その他マイノリティの我慢は『ある程度はしょうがない』で済ませる人の典型。
あなたは何かの典型に人を落としこむ典型ですね。基本的には「我慢させる」ことについてはよほどの公益性と他の代替が無い限り容認されるべきではありません。ここで比較されているのは、「女性の軽装規制」と「男性の去勢を含む予防措置」です。どちらが基本的人権により深刻な損害を与えるか、分からないのだとしたら、相当なおばかさんだと思います。
id:hit-and-run 男はケモノって仮定してるのに「いや、そうは言っても人間ですから」って時点で、前提条件ぐだぐだやん。ケモノを単にメタファーとするなら駆除や予防拘禁もメタファーと解するべき。相変わらず頭悪いな(笑)
ぽかーん。ケモノってそういう意味じゃないでしょうに(笑)。男はオオカミなのよ、気をつけなさいーと言う時、男はイヌ科になるんでしょうか(笑)。最後の一文はそのままお返しします。
[続き]
id:type-100 たとえ男が獣であるのが本能であったとしても、本能は制御すべきものです。
id:type-100 ミニスカや夜歩いてるのを見ただけで女に襲いかかるような男が本当にいるならば、そいつはもう基本的人権を制限して豚箱にぶち込むしかないと思うが。獣が獣のままでいい道理はない。
本能には統御できるものもあれば不随意のものもあります。そういう男は豚箱にぶちこまれてるでしょ?実際。
id:uchya_x ミニスカのねーちゃんにムラムラするのは押さえられなくても、襲うことは押さえられるし、押さえなきゃいけない。その理屈かわからないというならそりゃケモノと言われてもしょうがない。。
ええ、その通りだと思います。
id:mo81 曽野論でも同調する論でも「女性の行動制限」に触れているのに、男性の行動制限を持ち出したhokusyu氏の論が有意に人権侵害の度合いが強い(ゆえに男性の人権軽視である)とは言えないのでは?
これは単純に文意がとれません。ごめんなさい。
id:NATSU2007 性犯罪 『女性へのレイプを防ぐ、男のケモノ化を抑制するためには、1.女性の軽装を、規制する』…先生!なぜここで、「おとなしそう・地味・清楚な服装を規制する」という結論にならないのかわかりません!
なぜ、ということに答えるなら、曽野綾子氏の仮定に乗っかっているからです。曽野氏の仮定では「おとなしそうな女性の方が被害者になりやすい」という前提がありませんので。
id:sillyfish 曽野文では「男は獣」と同時に「女は犯される性」も本質視されてる。その上で女に「夜歩くな」と自衛を求めるのだから、男も「夜歩くな」と本質への自衛を求められるのは彼女のロジックでは当然
id:sillyfish 曽野の文章は女の「夜の一人歩き」も叩いていて、批判する方は「ミニスカート」だけでなく当然それも視野に入れた上で男の「夜間外出禁止」を対応させてるんだけど。意図的に読み落としてないか。
私がリンクをつけたid:hokusyu氏の記事を読んでください。外出禁止令についてが主眼になっているでしょうか?予防拘禁を求めるのであれば、夜間外出禁止であれば男女双方に求めることが可能であるというのはその通りであろうと思います。そして予防拘禁を求めることがこの場合は、不適当であるというのもその通りです。hokusyu氏はそこを越えた身体的な人権侵害にまで踏み込んでいるわけです。その対比の発想が基本的人権の軽視であると申しているまでのことです。単なるレトリック、ではなくそれがレトリックとして成立すると思う発想があるから、そのレトリックが用いられているのです。
id:SIVAPROD ”男性の基本的人権を極度に軽視”w 笑わしよるな。 ”オトコ”が機会があれば人を刺す気マンマンで刃物持ってる(←ブログ主の主張だよな!)んならその刃物取り上げることのどこが”人権を極度に軽視”?
id:Cunliffe 『基本的人権のレベルの抑圧は公共の福祉の名においても正当化できません』そんなことないですけどー(笑)/典型的な例は児ポ法ね。
id:PAGZIN 軽装規制と予防拘禁のどちらかでしか抑止できないのなら「男は獣」ってことになってしまうのでは?獣でない人間に対する犯罪抑止は基本的に刑罰法規による抑止でいいじゃん。
現実の話として言うならそうですね。現実の問題として言うならば、レイプ被害が実際に統計な件数よりも多数発生しているだろうということで、刑罰による抑止が充分に機能していない点です。これはそれこそセカンドレイプ的な言説によって、犯罪が単純に犯罪として処理し難いことがもたらされているのも一因だろうと思います。
id:baisemoi_bullet そう、ケモノではない。ケモノ(自然現象)ではないのだから、「女性が行動や服装を慎むべき」は通用しない。それでは「男はケモノ」と何も変わらない
その通りだと思いますが、これは私に向けたご意見なのでしょうか?
id:rinsenan 「北守は差別主義者」という意見を表明するのに「女の人権が軽視されている状況を糾弾する為に男の人権を軽視するのはけしからん」という論法を使ったから感情的に反発されてるだけ/端的に言ってデリカシーに欠ける
よく分かりませんけど、いくらなんでもhokusyuさんでも根拠も示さずに差別者扱いされてはそれこそ人権侵害なのではないでしょうか。
id:fjsk 皆そんな聖人君子じゃないんで、逆差別を受けてみろよって思うんでしょ?差別する側の声は届かん。意識して言葉を使うべき。例えばその仮定のケモノは「おとなしそう・地味な服装」を好んで襲うという事実とか、ね。
いいえ、違います。逆であろうが正であろうが、差別は差別です。ただし公益上、許認されている差別があり、公益上でも許認されるべきではない差別があるというだけのことです。
とりあえず、ここまで。
[続き]
id:tikani_nemuru_M 公共の福祉ってのは、ぶっちゃけ他者の人権のこと。だから、基本的人権が衝突した場合は調整されることになる。一元的内在制約説ね。
ええ、法律用語で言えば一元的内在制約説です、私がここで提示している考えと立場は。ただ、純粋に法律の話をしているのではなく、個々人の発想の話をしているので用語は敢えて使っていないだけです。ごく常識的な話であるのですが、比較衡量をしなければ、特定の集団の基本的人権の絶対的擁護は容易にファシズムへと転化してしまいます。ましてid:hokusyu氏らが挙げているのは、精神的自由の制約ですらない、身体的・生物的自由への制約であるわけです。
知能があるかないかの二択じゃないんだから、一見話ができてるように見えて実はそうじゃないというのはありがち。知的障害者レベルでなくても議論がかみ合わなかったり、整合性が取れてなかったりするわけだし、性犯罪に対する感情を書いただけの日記(=そもそも議論したいわけではない)に議論を吹っかけてくる人もいる。ましてやネット上の議論は相手の年齢もわからないし障害の有無もわからない。表情もわからないから意図もつかみにくい。議論する能力や意思を欠いてる人を批判するのが正当でないなら、無関係なこと矛盾したことを書いてる場合は前提条件を満たしてないとみなして批判は控えるべきだろう。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1
ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。
この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。
前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。
●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ
以上の4つのリンク先からブックマーク・コメントを引用させてもらいます。
id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。
私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。
1. 漢字について
4. 国語廃止論序説
5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。
ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。
上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。
それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会が理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。
また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。
とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。
そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。
もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマーク・コメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。
id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。
日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字の学習に費やされていることも。
日本の学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。
いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本の学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本の学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。
あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。
漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。
もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。
私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者、日本語学習者です。
そうした人たちが文字情報にアクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。
こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。
こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。
「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」
これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータや スロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。
同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。
だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。
さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。
「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマーク・コメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?
前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。
id:baumkuchen555 みんなよく読めるな
id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること
id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな
id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる
id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0 アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり。
id:makiyamakoji とても よみに くいね
id:feita さすがによむきがおきないね。
id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。
id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?
id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…
id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない
id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。
id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻の常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ
id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化
id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。
お疲れ様でございます。
みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。
「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。
「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。
上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。
id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。
この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。
なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字を学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。
ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。
そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。
つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。
こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。
「日本語酷すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。
書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?
なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。
すでに述べたように、私は自分の言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。
たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?
その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。
しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。
繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威と権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。
次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。
このごろ建物の階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。
たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。
もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。
つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞のニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。
何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……
見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄りが自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。
文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。
だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。
同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。
そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。
石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。
もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。
多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。
あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。
要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。
その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。
私は前の記事で次のように書きました。
さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分が権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。
これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。
漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。
そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。
id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記。
id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。
ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。
たとえば、「日本語は同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。
しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。
実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。
他によくある誤解はは、漢字は表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。
id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど
ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。
英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。
つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。
要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。
(続き)
こないだ中年男性が飲み物とお菓子を買いに来て、ぼくはそのレジを打った。
風貌、立ち振る舞いからぼくは「アッ知障だ!!」と察した。
こういうとき、努めて健常者と同じように扱おうという気持ちが働く。たとえば電車に知障が現れると、どんな奇声を発しても、奇行を働いても、皆まるでそれに気づいていないかの様に、そこに知障がいないかの様に装うでしょ?そういう心理。正面切って、素直に侮辱するのは中高生くらいじゃないか。
余談だが、ぼくの出身中学では身体障害者を指してシンタイと呼び、知的障害者をチテキと呼んだ。養護学級にいる生徒等をこの言葉で差別していたわけ。
障害者の害の字がイカンので言い換えよう(ひらがなにしよう)という考え方があるけど、このように、中学生は身体や知的という言葉をも差別語にする事ができる。差別をする心をどうにかしない限り、いくら言葉を新しくしても、それが汚れる度に使い捨てる事の繰り返しにしかならないんじゃいかしら。
それはともかく、ぼくが金額を伝えると、そこは知障だけあって手間取りながらも金を支払った。ぼくは釣りとレシートを渡し「ホッ」としかけたところで、質問をされた。
「あのスイマセン」
「はい」
「僕って邪魔ですか」
「いえ大丈夫です」
「僕って邪魔ですか」
「大丈夫です」
応答と裏腹に、ぼくは全然大丈夫ではない。「大丈夫」の一点張りである事がその証左だ。ぼくは大変うろたえた。なんて事を訊くんだ…。
ああ邪魔だよ。キミと接することでぼくは、自らの差別する心と相対するを迫られるから、邪魔なんだよ。それを全力で避けるために、ぼくはキミを健常者として扱ったのに、その質問ですべてぶちこわしだ。二重の意味でキミは邪魔だ。
知障は、そういうふうにぼくから無視をされた事に気づいていたのだ。日ごろ疎んじられている事に気づいているのだ。知障は去り際、他の客にも同じ質問をし、やはり同じ様な返答を貰っていた。早急に会話を切り上げるための、無難で、簡潔な返答を。
知っていて訊く。二回訊く。他の客にも訊く。ぼくには知障の行動が、健常者への復讐に見えた。
知障の背中を見送ってから、ぼくは同僚と苦笑いをした。
「アイツは頭がおかしいな」
「なんでそんな事訊くの!?て思った」
「金出すの遅いし」
「まあ遅くてもいいけど普通に買い物して帰ればいいじゃん。なんで訊くんだよ」
「しかも二回訊いたし」
「ええー、何これ無限ループ?って思った。しかも帰るとき他の客…いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
この件、思ってたんだけど、世の中には性暴力犯罪者のことを、理性を自分でコントロールできない、つまり正常な判断能力のないクマとか野獣扱いする人がいるじゃない?
相手はクマとか野獣で制御不能なんだから責任能力なしで、襲われる女の方に自衛する責任があるっていう考え方。
更には女に性暴力衝動を喚起されたんだから性暴力犯罪者が被害者的な。
そういう文脈で性暴力犯罪者を扱うのは、知的障害者の一種扱いと同じなんじゃないかな。
で。更に、世の中には児童ポルノとか陵辱ものとかいった性暴力メディアを、「これがあるから犯罪をしないでいられる、必要な代償物なんだ」と公言する人もいるわけじゃない。
その人たちは、そういうメディアがなければ自分は理性をコントロールできません、責任能力ありませんって宣言してるわけでしょ。
それって自分たちを障害者として扱ってくださいっていうアピールなんじゃないかなあ。
モルヒネとかだって、一般では使用が禁止されてるけど医療機関での疼痛管理には使われてる。
だから、そういう性暴力衝動をコントロールできない人を障害者と見なして、そういう人たちを対象に、医療行為の一環として性暴力メディアを処方するというのはありなのかなと思うんだよね。
ちゃんと病院を受診して医師の診断を受けて認定されたら、という形で。
元の話はそういうことなんじゃないかと思った。
>障害者、という言葉を聞くとやはり皆さん最初に身体障害者を思い浮かべるのですかね。
必ずしもそうとは限らないと思うよ。
今年の27時間TV見てないけど、TV画面としては一番楽なんじゃないかと思うよ。
精神の人は大変さが画面から伝わりにくい。
(主人公が、知的障害者から、知的障害を持つ子の母になっちゃう)
身体の人は、直接本人にインタビューできるし、できないことも理解しやすい。
ハンディキャプを抱えて○○に挑戦!みたいドキュメンタリが、
(他の二者に比べて)一番簡単に作れるし、絵面も解り易い。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091012/acd0910120913003-n1.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/culture/academic/091012/acd0910120913003-n1.htm
この記事とそのブコメが興味深かったのでちょっと書きます。
私は3級手帳を持っている精神障害者(と国の統計でカウントされている)です。
個人的には「障害者」表記が嫌だとは思いませんし、周囲でも嫌だと公言している人も見かけませんが、嫌な人も居ると思います。
しかし「障がい者」表記には反対です、漢字をひらがなに書き換えれば終わりでは意味がありません。
嫌な人が居るというのなら「障碍者」表記にすればいいのです。
常用漢字についても今まで何度か見直しがされてきましたし、碍の漢字だけルビを振るという運用も出来るはずです。
ただ、「障害者」表記に対する反応は身体・知的・精神の各障害者団体で違いがあるなという気がします。
各々の障害者団体の方針の違いというのは結構大きく、
例えば身体障害者向けの身体障害者手帳と知的障害者向けの療育手帳には顔写真が貼られていますが
精神障害者向けの精神障害者保健福祉手帳には顔写真が2006年まで貼られていませんでした。
これは全国精神障害者家族会連合会、略して全家連が手帳に顔写真を貼る事を拒否したからです。
これにより身体・知的の重い障害を持つ障害者に認められていたJR等交通機関の優遇措置が
本人確認が出来ないという理由で拒否され、現在も認められていません。
障害者と言っても身体・知的・精神で障害者団体が分かれていることがほとんどで、
障害者福祉の根拠法令も身体・知的・精神でそれぞれ別となっています。
私が不満なのは、ある障害者団体の意見が他の障害者の意見とかけ離れていることが多いことです。
先ほどの全家連も、当の障害者や障害者家族から批判されることが多かったですし
身体や知的の障害者団体が出す意見を見て、脱力させられることが何回もありました。
障害者皆が、「障害者」表記に反対・「障がい者」表記に賛成では無い事を知ってもらいたい、と思ってこれを書きました。
以下は上手く文章にまとめられず箇条書きです。
metabodepon 言葉狩りは不毛に思う。本当に身体障害者が障「がい」者と表記することで救われると考えているのだろうか?疑問に思う。障害者の生の声ならば従いたいが、「健常者」たる人権派の考えならば空々しく思う。
http://b.hatena.ne.jp/metabodepon/20091012#bookmark-16660120
saigami 産経 いや、「障害者」に関しては当事者が嫌だって声が結構あるんだけどね。表記に関して当事者が嫌だって言えば配慮するべきだと思うけど。3K新聞とか言われたら嫌でしょ?/「碍」は常用じゃないから使えないんじゃ?
元々独り言は多かった。機嫌に左右されず多かった。
僕の母は独り言は言わなかったが何の脈絡も無く突然ハレルヤをフルコーラス歌い上げるような人だった。父は割と普通の人だった。
兄とは会話が成り立たない。兄は知的障害者だ。非常に簡単な会話、もしくは一方的な会話しかできない。
そんな環境で僕は育ち、独り言が多くなった。
インターネットをするようになってから僕の独り言は「画面の向こうに居る誰か」に向かうようになった。
僕は専らチャット(なりきりチャットが多かった)や掲示板など人とコミュニケーションするようなサイトを見ていたので僕にとって僕がパソコンに向かって言う言葉は独り言ではなかった。それでも聞き手がその場にいない以上それは独り言だった。
この頃から母はちょっと僕の独り言を窘めるようになった。「うるさい」「ごめんなさい」
MMORPGを始め、オタク趣味に染まった頃には僕の独り言は更に多く……ならなかった。
親の教育がよかったのか、僕は独り言でも誰も聞いていなくても下ネタを口にすることができなかった。僕の果てしなくエロくてグロい思想はキーボードでのみしたためられ、僕の独り言は検閲された言葉のみになった。「おはよー」「うんそうだね」「ねーよw」
この頃母にこんなことを言われた。「あんた外でもそんな大声で独り言言ってないでしょうね?」教室の中では言いません。誰も聞いていないだろう路上では言います。
大学に入って独り暮らしを始めると、僕の独り言は加速度的に増えた。家族と会話していた時間が独り言に回されたからだ。
寂しいから誰かと電話・メールするという概念は僕にはなかった。急に「寂しい」なんてこっちの都合で連絡されたら迷惑だろうという気持ちが8割、そもそも寂しいという気持ちがなかったというのが2割。「会話」は自分でして、コミュニケーションはインターネットを通じて文章で行った。余談だが耳が悪いので電話と音声チャットは嫌いだ。
そんな僕に独り言が減る機会が訪れた。Twitterだ。Twitterで思ったことを口に出す前に呟く。脊髄反射的な「ちょwww」とか「ぱねぇ」とかは減らなかったが、長ったらしい独り言は減った。Twitterでは返信のとき@を付ける人付けない人ばらばらだし、色んな人がいるし、流動性が極めて高いので僕が「存在しない誰か」に語りかけていても誰も気に留めない。それがとても楽だった。
最近、独り言が増えた。
家にいる間の独り言は確かに減った。だけど、Twitterを使えない時間、たとえば登下校時の僅かな時間の独り言は徐々に増えてきた。内容もTwitterでは言えないようなものばかりだ。
大学に行く時も帰る時もずっと喋っている。誰と?誰もいない。僕の中にしか居ない人と僕は喋っている。それでも一応人目は気にするので人とすれ違った時は黙る。信号待ちのときに横に人がいると思うように喋れなくてストレスが溜まる。
昨日は大学から家に帰るまでの間、ずっと「殺して」と言っていた。誰が?僕の中に僕が作り上げた人間が僕に殺してとずっと言っていて、僕も僕でその人に殺してと言っていて、でも発声者は僕しかいないので僕の中では複数人の人が誰にとも無く「殺して」と言っている光景も客観的には僕が独りでずっと殺して殺してと言っていることになる。困った。僕はこれっぽっちも殺してほしくなんてないのに。
http://anond.hatelabo.jp/20090808215805
再び元増田です。
ブコメもトラバもこれほどたくさんつくとは、全く予想していなかった。かなり圧倒されている。
なるほどと思うコメントも、いやそれはないだろうと思ったコメントもあったが(押尾学は絶対にねーよ、と思った)、どのコメントもいただけたことが非常に嬉しいし、考えるヒントになった。
本当に感謝している。みなさま、ありがとうございました。
たくさんの意見がいただけたことで、私は自分が抱えている明らかな精神的欠陥について初めて色々な角度から考えることができた。
その結果、思いもよらぬことに気づいてしまって、そのせいか昨夜ほとんど眠れずに朝を迎えてしまったので、ちょっとそのへんについて話す。
まず、彼との結婚を勧める方が多数いらっしゃるのだが、それは有り得ないことだと思っている。
なぜなら、1)私には現在彼氏がいる、2)彼にも現在彼女がいる。
私は今、彼とどうにかなりたいとは思っていない。ただ過去の自分の行為が納得できずにいるだけである。
しかし、そこまで考えたところで、私はなぜ自分が過去の一つの事例にそこまでこだわっているのか、という疑問を抱いた。今現在、彼とどうにかなるつもりがないなら、放っておけばいい話ではないか。
そして私は、自分が過去に何度も似たようなことを繰り返していることを思い出したのだ。
好ましい男性に出会って、親しくなる。その男性と私の距離がだんだん詰まってきて、二人の間の空気が甘い親密さを帯び始めてきたときに、突然私が背を向けて逃げ出す、ということを、私は何度か繰り返している。そのたびに私は自分に対する激しい苛立ちと、深い自己嫌悪を味わった。
一番酷いケースでは、つきあってほしいと言われて承諾した後、私は相手の男性の前から十日ほど姿を消した。十日後、相手の男性が怒って私に詰め寄り、私は平謝りしながら、交際を解消して欲しいと頼んだ。あのときの男性は、その後何年も私を憎んでいる様子をみせていたが、当然のことだ。ごめんなさい。ここで謝っても意味がないが、それでもごめんなさいと言いたい。
おかげで私は、年齢のわりに恋愛経験が乏しい。身持ちが堅い、という言い方も出来るが、それはごまかしだ。私がやってきたのは、心無い仕打ちの繰り返しに過ぎない。
私は自分の理由のわからない逃走癖が、嫌でたまらない。だからこそ今回、増田に件の文章を書いたのだと思う。
今回、はっとさせられたのは、上記のブコメだった。id:rnaに感謝する。
私は自分が言うところの「恋」って何なのか考えた結果、それは相手の男性とのセックスを恐れない感覚であるという結論を得て、なんだか嫌な気持ちになった。
そして私が今まで男性からの逃走を繰り返してきたのは、結局親しくなった男性とのセックスが怖かったのだということに気づいた。
私には性的欲求があり、その欲求の向かう先は男性である。だが、いざ実際に特定の男性と親しくなり、このままだとセックスするかもしれないという状況になると、私は怯えて逃げ出すのだ。そのことを私は今回初めて、きちんと認識した。
今回、「とりあえず抱かれてみれば」という趣旨のコメントを多数いただいた。私はそのコメントが心底正しいと思った。私が仮に友人に似たような相談を持ちかけられたら、同じアドバイスをすると思う。
しかし、自分自身ではこれらのアドバイスに従うことは不可能であると感じていた。私が言うところの「恋していない」とは結局「相手の男性とのセックスが怖い」ということの言い換えに過ぎないからこそ、不可能だと感じたのだと思う。
私は別に男性恐怖症ではないと、自分では思っている。男性と会話することができない、男性が傍にいると怖くて硬直する、そういうことは一切ない。男性の友人も何人かいる。
だから私は自分が男性とのセックスを恐れていることに気づかなかったのだろう。
どうして私は男性とのセックスが怖いのだろうということを考え始めたとき、頭の中にぶわっと黒い靄が広がった。
私は眠れなくなって起き上がり、水を飲んだ。もう一度横になって、うとうとし始めたとき、夢の中で泣きながら小さな女の子が走っていくのが見えた。
そして私はそこでもう一度目を覚まし、今この文章を書いている。
これは生涯、語ってはいけないことだと思っていたが、増田という場所があってよかった。ここに書かせてもらう。
私は子どもの頃、性的ないたずらに遭ったことがある。私はそのことを、長い間、誰にもいえなかった。家族は私がそのような経験をしたことを知らない。
私にいたずらをしたのは、両親の親友の息子さんだった。仮にAくんとしておく。
Aくんは私より七つほど年上だった。Aくん一家は我が家と家族ぐるみの付き合いをしており、私はAくんによく懐いていた。私はAくんの家族もみな大好きで、彼らが遊びに来るのをいつもとても楽しみにしていた。
Aくんは知的障害者だった。子供だった私はそのことがよくわかっていなくて、ただAくんは病気なのだと聞かされていた。
知的障害者であっても、七つ年上の少年は、幼稚園児よりもずっと色んなことが出来る。本当に幼かった私は、Aくんを心から尊敬し、慕っていた。自分を尊敬する存在というのは、Aくんにとって稀だったのだろう。Aくんも私を可愛がってくれたし、たくさん遊んでくれた。Aくんは優しい少年だった。
ある日、Aくんがお医者さんごっこをしようと言った。私はそれまでお医者さんごっこというものをしたことがなかったので、新しい遊びを教えて貰えるのだと思って、喜んだ。
私は患者役となって横たわり、Aくんの診察を受けた。服が脱がされかけ、体のあちこちを彼の手が動き回り、私は恥ずかしくなって、Aくんの手から逃れようと身をよじらせた。
そこで初めて、私は自分の体が自分よりもはるかに力の強い他者によってがっしりと押さえつけられ、身動きがとれない状態になっていることに気づいたのだ。
そこから先のことは正直あまりよく覚えていない。
私は完全にパニックを起こして泣き喚いた。けれどあのとき、たまたま大人は近くにいなかった。
「たすけて、やめて、たすけて!Aくんやめてお願い!痛いよ痛い痛い痛い!」
Aくんは優しい少年だったので、私を別に痛めつけようとは思っていなかったのだろう。私の叫びに驚いた彼の手が緩んだとき、私はなんとか逃げ出すことに成功した。
私は走ってクローゼットの中に隠れた。外でAくんが私を探している声が聞こえた。涙が次々とあふれたが、私は泣き声を必死に殺し、大人が帰ってくるのを待った。
クローゼットの中で私は、自分のこの経験を誰にも語ってはならないのだと気づいた。
その頃の私は、既に少しずつAくんの病気のことを理解し始めていた。Aくんには全く悪気がなく、私を怖がらせたり泣かせたりするつもりはなかったのだということも、それゆえにわかっていた。
私はAくんもAくんの家族のことも大好きだった。両親にとってAくん一家が大切な友人であることも理解していた。
私が今日あったことを誰かに告げれば、Aくん一家と我が家の家族ぐるみの付き合いは、おそらく終わってしまうだろう。両親は大切な友人を失う。
Aくん一家はみな良い人たちで、Aくんも優しい少年だ。Aくんの行動は病気のせいで、Aくんは悪くない。悪い人は誰もいない。みんな仲良く楽しく良い関係を築いている。
その関係を私が壊すわけにはいかない。
悪い人間がいるとしたら、それは私だ。
Aくんの病気がどんなものなのか、私はわかっている。それなのに用心しなかった私が、一番悪い。
だから私は、このことを誰にも喋らない。全部なかったことにする。
私はクローゼットの中でそう心を決めた。その後私は涙を拭いてクローゼットを抜け出し、顔を洗った。
大人たちが戻ってきたとき、私はいつもどおりAくんと遊んでいて、にこにこ笑っていた。
この経験をなかったことにする。私は自分が決めたことを、かなりうまくやりおおせたと思う。
Aくんのことも、お医者さんごっこのことも、私はずっと忘れていた。
たまに、たとえば白木のクローゼットの扉を見たとき、一瞬嫌な気持ちになることはあった。けれど、自分がなぜ嫌な気持ちになるのかは、考えないようにしていた。
何かをなかったことにするために必要な技術は、思考停止だ。嫌だなと思ったとき、なぜ嫌なのかを突き詰めて考えないようにすることだ。私はそれを、今までずっとうまくやってきた。
好ましい男性と親しくなる。そのたびに私は何か嫌だなと思って、逃げてきた。何が嫌なのか、考えることはしなかった。「恋をしていない」というのは、考えることを避けるために、非常に便利なフレーズだった。何が恋だ、と思う。私の思考停止は、間違いなく害悪だった。
私は自分が思考停止していることに気づかないまま、ずいぶん長い時間を過ごしてしまった。この歳になってやっと気づいたことが、情けなくてたまらない。
辛いことがあって思考停止した、というのは言い訳だ。私がやったのは全て、人でなしの仕打ちだ。申し訳ない。本当に申し訳ない。
それでも死ぬまで気づかないということにならなくてよかったと思う。そうならなかったのは、今回増田に書き、みなさんにたくさんのコメントをいただいたからだ。本当にありがとう。
今まで男性から逃げ出したとき、私はいつも惨めで悲しい気持ちになった。中でも件の彼から逃げ出したときが、一番惨めだった。この人が相手ならば逃げ出さずに済むと思っていたのに、それでも逃げしまって、自分はこれからどうやって生きていくのだろうと思った。
だからこそ、他の男性のときは自分が逃げたことを忘れることが出来たのに、彼との一件は忘れることが出来なかったのだろう。私が今回、自分の思考停止に気づくための引き金となったのは、紛れもなく彼の存在だ。
面と向かって感謝することはできないので、この場で感謝し、そして謝罪する。
ありがとうございました、そしてごめんなさい。こんなことをこの場で言っても、決してあなたに届くことはないとわかっています。これが無意味な自己満足であることもわかっています。
それでもありがとう。ごめんなさい。
今現在、私には彼氏がいる。この人とするセックスは怖くないかもしれないと思えた初めての人だ。
なぜ怖くなかったのかはわからない。たまたま、タイミングの問題なのかもしれない。それでもそういう人にめぐり合えたのは、僥倖だったと思う。この幸運を大切にしたい。
ありがとう。
普通学校へ進学させた親を怨みます。脳性まひの男性:Birth of Blues
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50847397.html
を読んで、少し考えたことを書く。
私の兄は自閉症だ。
小学校、中学校と養護学級のある公立の学校で過ごし、高校は養護学校(今は特別支援学校と言うらしい)に通った。現在は障害者用のワークセンターで働いている。
兄自身は自分の幸・不幸とか難しいことは語らないのでわからないが、毎日ちゃんとバスと電車を乗り継いで仕事に行って、時々携帯のカメラで風景を撮影して帰ってきて、暇な時間は絵を書いたりインターネットをしたりして過ごしているので、多分充実した毎日を送っているのではないかなと思う。
私も兄がいることで何らかの不利益を蒙っていると思ったことはないし、両親も決して兄のことを不幸だとは思っていない。はずだ。
ここまで書いて、元記事で紹介されている方々と私達家族では境遇が違いすぎるということに気付いた。
でも気にしない。考えるきっかけとなった、というだけで十分だ。
「普通の学校に入れる」ということはそんなに重要なことなのだろうか。
勿論、様々な理由があると思う。
通える距離に養護学校・学級がない場合は近くの学校で受け入れてもらいたい、特別支援学級を新設してもらいたいと思うのは普通だと思う。
でも、そうでない人が頑なとして「普通」学校・学級に行きたいと思うのは何故なのだろうか。
友達と同じ学校に通いたい?
友達なんて学校が変わったらまた作ればいいだけの話だし(第一、クラスが変わったらまた新しい友達を新しいクラス内に見つけるのが普通)、現在は電話もメールも発達しているのだから毎日顔を合わせなくても友達関係を続けるのは可能だろう。
健常者であってもここで学力差により学校が離れて、友達関係が薄れてしまうこともあるというのに。
(なので個人的には、以前どこかで見た「知的障害者が普通高校に入れるように問題を解きやすくして便宜を図る」ような活動には懐疑的だったりする。
目の不自由な人のために問題用紙の字を大きくするとか、拡大鏡の持ち込みを認めるとか、そういうのは歓迎だが、問題そのものを「障害者のために」変えるというのはどういうことなのだろう?と。
それで合格したとして、彼らが本当に普通学級の授業についていけるのか。高校は義務教育ではないし、留年だってありえる場所だ。テストのたびに彼ら用に解きやすい問題を作るのか。それは結局彼らに対する「特別扱い」であって、普通学級という肩書きの下で行われる養護教育に過ぎないのではないか)
他にはどんな理由があっただろう。主張はさまざまあったと思うが、全てを追う時間はないし、そもそもそこが本題ではなかったので切り上げる。
(さっき別の増田を見たら「特別支援学校の現状は~」というものがあった。特別支援学校の現状に問題があるというのも理由の1つかもしれない。何が問題なのか把握してない身で申し訳ないが、本題はやはりそこではないので切り上げる)
20数年間自閉症の兄と共に生きてきて、こういう報道や話題には敏感になった(と言っても何か社会に対し意見を発するために敏感になっているのではなく、野球が好きだからプロ野球速報が気になるとかそれと同じような敏感さだ)が、親や子が出て涙ながらに訴える記者会見とかを見てもあまり共感はできない。
私は私であって、彼らではないというのも共感できない理由の1つだろう。
だがきっと、共感できない一番の理由は、特別学級・養護学校に通い、障害者ワークセンターで働く兄が、充実した毎日を送っていると思っているからだろう。
「普通学級に通わない」ことが全ての障害者に統一化された不幸ではない、ということを、私は兄を見て、知っている。
むしろ、本当に不幸なのは、親と子が通じ合えず、元記事のように親を恨んでしまうことなのではないかと思う。
誤解を避けるために書くが、前述の通り私は障害者を必ずしも普通学級に入れる必要はないと考えているし、特に受験の問題を解きやすくするといったことには懐疑的な人間ではあるが、障害者とその親が「普通学級に行きたい」と希望し訴えること自体には反対してはいない。
本人たちが強く希望しているのならばそれを咎める権利は誰にもないと思う。
その希望が通って普通学級に行けたなら「よかった」と思うし、希望が通らなかったら「希望通りにならなくて残念だった」と思うだろう。
ただ、思うことは、普通学級に入学した「その後」のことをきちんと考えてほしいということだ。
入学はスタートであって、ゴールじゃない。普通学級で過ごした彼らが将来どうなるのか。それをよく考えてほしい。
高卒で就職を考えている人が名門進学校に進むのはよい選択とは言えない。進学校には大学のパンフレットは来ても、企業の求人票は来ないからだ。
それと同じように、学校を出たら子供を就職させたいと考えている障害児の親が、その子が働くために必要な技能を身に付けさせられない学校に進ませるのはよい選択とは言えないと思う。
長い目で、自分の子供の幸福を考えてもらいたい。その上で、子供にとって何が本当に最善かをじっくりと考えてもらいたい。
勿論、今活動している多くの親がそこまで考えた上で子供は普通学級に行くのが最善だと考えていると思うので、当人達に訴えることはしない。
増田の片隅でこうしてひっそりと祈るに留めておく。
どうか全ての人が己の人生にとって最善となる選択ができますように。と。
そういえばこれを書いている最中に思い出したのだが、誰が教えたわけでもないのに(多分高校時代の私が四六時中インターネットしてるのを見ていたんだろう)兄がインターネットを始め、両親が非常にやきもきしている。
怪しいサイトに行かないかとか、変なウィルスに感染してしまわないかとか心配だそうだ。
ウィルスに関してはウィルス対策ソフトをインストールし、ファイヤーウォールも動かしている。だけどサイト閲覧に関しては現在はスルー状態だ。
両親には「たまにブラウザの履歴を確認するように」と連絡したが、いつの間にか兄は履歴の消し方まで覚えたらしい。どこで覚えた。
なので、最終手段としてフィルタリングソフトを導入したいのだが何かオススメはないだろうか。条件はだいたいこんな感じで。
・有料/無料は問わない
・メンテナンスに極力手間がかからないこと
普段そのPCに触れるのは私ではなくPC知識のほとんどない両親(どの程度かと言うと、インターネット自体はできるが、FLASHやAcrobatReaderの更新が来るたびに「これってどうすればいいの」と私に電話してくる程度。あと、気付いたらSafariがインストールされてた)と兄なので、これは必須。
・制限オンオフの切り替えが容易であること
両親は制限ナシでインターネットできる必要があるため、これも必須。
ただ、ワンクリックで解除できるとかだと少し困る。兄は学習能力が高いためこの程度ならば簡単に外してくるだろう。
ちなみに、ログオンするたびにいちいちクリックしたりパスワードを入力するのが面倒臭いという両親のために窓の手の自動ログオン機能を使っているため、ログインユーザと設定を紐付けするタイプは×。
こんな大事なことを思い出させてくれた元記事には本当に感謝している。
---
追記
ブコメでhpHosts教えてくれた人どうもありがとう!無料でこんなものがあったなんて知らなかった!
というわけで早速調べてみたのだけども、英語アレルギーの私には辛うじてどういうものかを理解するのが精一杯でしたorz(しかもhpHostsでぐぐって理解したとか…)
というわけで追記。
ホントすいません(;´Д`)
ちなみに暫定的な対処として、家のPCのブラウザは起動時にキッズgooを表示するようになってます。無意味に近いですけど…。
元増田です。
元増田が思ってたよりも真面目に考えてるみたいなんで書くけど、累犯障害者みたいな問題を想定すると、生活の場と仕事を共に提供する施設が必要だと思う。
全く同感です。リンクしていただいた記事も読みました。なるほど福祉先進国家はちゃんとやっているんですね。
日本の日本理化学工業も、一企業で(知的障害者のみだったと思いますが)大変な努力と工夫を積み重ね、
http://www.toyokeizai.net/life/column/detail/AC/b37e4dc58d49359e7d2f01d054b08524/
社員の7割にあたる知的障害者に最低賃金を保証できるほどの優秀な経営をしています。
(余談ですが、以前ここの会長さんとお話しをする機会があり、その実直で柔らかな人物にとても感銘を受けました。)
こうした企業を公的に支援する枠組みをもっと整える、という方法もありだとは思うのですが、
他の営利集団にもこうした活動を期待するのは、今の時点では無理があると思います。
やはり、自治体なり政府なり教育機関なりが主導して、この問題の啓蒙や雇用の創出をもっとして行く必要性を感じました。
自分の中でも考えがまとまっていないのでつらつらと無意味な文章になってしまいましたが
元増田です。
>元増田が思ってたよりも真面目に考えてるみたいなんで書くけど、累犯障害者みたいな問題を想定すると、生活の場と仕事を共に提供する施設が必要だと思う。
全く同感です。リンクしていただいた記事も読みました。なるほど福祉先進国家はちゃんとやっているんですね。
日本の日本理化学工業も、一企業で(知的障害者のみだったと思いますが)大変な努力と工夫を積み重ね、
http://www.toyokeizai.net/life/column/detail/AC/b37e4dc58d49359e7d2f01d054b08524/
社員の7割にあたる知的障害者に最低賃金を保証できるほどの優秀な経営をしています。
(余談ですが、以前ここの会長さんとお話しをする機会があり、その実直で柔らかな人物にとても感銘を受けました。)
こうした企業を公的に支援する枠組みをもっと整える、という方法もありだとは思うのですが、
他の営利集団にもこうした活動を期待するのは、今の時点では無理があると思います。
やはり、自治体なり政府なり教育機関なりが主導して、この問題の啓蒙や雇用の創出をもっとして行く必要性を感じました。
自分の中でも考えがまとまっていないのでつらつらと無意味な文章になってしまいましたが
よくミクシイのプロフィールなどで書いてあること。
.
「楽しいことが大好き」
.
俺はこれが大嫌いだ。
.
楽しいことが大好きなのは、誰でもそうであって、何も言ってないのと等価である。
別の観点から見れば、その人にとって何が楽しいかというのは人それぞれなのに、「楽しいことが好き」だけでは
その人が何を楽しいと感じるかについて何ら情報を与えていないことになる。
.
こういう事を書くのは大概馬鹿な女性と相場が決まっていたが、近頃は男性でさえこういうことを書く奴がいる。
一体何を考えているのだろうか?
そもそも、プロフィールなのだから、他の人と差別化できる部分を書くべきであって、「楽しいこと大好き」なんぞ、
自己紹介でもなんでもない。あえて言うならば、「自分馬鹿です。思考停止しちゃってるどうしようもない馬鹿なんです」
という自己紹介にはなっているけどな。
.
なぜこんな馬鹿なことをあえて書くのだろう。知的障害者ならばともかく、脳科学・精神医学的には正常であろう多くの若者が
こういう事を書いているという事実。これは厳粛に受け止めないといけない。自分の言っていることが中身のない馬鹿丸出しの発言
だということを自覚できないくらい脳が麻痺してしまっているのだから、脳科学・精神医学的には正常であっても、脳機能は著しく
異常を来していると言わざるを得ない。
ここ数日話題のケータイ小説読んだ。
なにこの「視野狭窄」ぶり。
確かに表現としてはすごいと思うよ
読みやすいし、間の使い方とかすごく雰囲気出てる。
でもそれ以上に気持ち悪いんだよ
吐き気がする。
そりゃあさ
これだけ世界が狭けりゃ
さぞや自分一人で盛り上がって
それで自由に満足できるんでしょうけど。
こういう世界の見方って
(知的障害者を悪く言うつもりはない。他のいい表現を知りたい)
20歳過ぎた人間がこんな頭の悪いことで
それでいいのだろうか。
こういう作品が手を変え品を変え多くの人間によって手がけられ、
多くの人間に繰り返し届けられるのってすごくヤバい気がする。
言っちゃ悪いけど、ケータイ小説読んでる人たちって
これを「リアル」とかいって受け入れてしまう気がするから。
だから、この小説は、もっとたくさんの「まともな人」に読んで欲しい。
世界はこんなに単純じゃねーよって
ウザいけれど、ちゃんと説教できるような人が増えてほしい
もう大人はこれを単純に無視してられないと思う
ある意味児童ポルノよりこっちの方がヤバいと(どっちもどうかとおもうけど)
そういう認識をちゃんと大人の間で共有してほしい
痴漢にまつわる議論を追っていて、どうも一口に痴漢といっても加害者像にかなりの幅があるんではないだろうか、と感じた。
ちょっとした思いつき程度ではあるけれども、痴漢のパターンから加害者像を想像/分類してみた。
1.「出来心」
「服の上から撫でる、さする」「傘でつつく」「満員電車で密着」「覗く」
「むしゃくしゃしてやった。今は反省している。」
一般的に痴漢と聞いて想像されるパターン。痴漢被害の実態を啓蒙することで相当防げる範囲じゃないかと。
2.「酔っ払い」
「からむ」「抱きつく」「卑猥な言動(売春を持ちかける等)」
酔っていることがほとんど顔に表れない人も結構いる。個人的には酒は免許制にすべきだと思う。
3.「知的障害者」
「比較的空いている車内にもかかわらず体を密着させる」「周囲の視線を全く気にしない」
知的障害を持つ人の性欲は社会的な認知が進んでいないと聞く。難しいね。。。
4.「常習者」
「通りすがりに胸を叩く」「下着にまで手を伸ばす」
場数を踏んでいる為、行動に躊躇が無い。痴漢被害の大部分を占めているんではないだろうか。警察に捕まるまで止めることはたぶん無い。
5.「倒錯」
「使用済みコンドームを投げつける」「同じ被害者、似通った服装や体形の人物ばかり狙う」
どちらかというとストーカーに近い?被害者へのダメージ大。他の痴漢とは違って自己完結せず被害者の反応を窺っている場合もあるか。
6.「ヘイトクライム」
「民族的な特徴のある服をナイフで切る」「同じグループ、階層(と加害者が考えるもの)の人間を狙う」
「痴漢」と分類されている中にも、こういった動機のものも含まれているんではないだろうか。
「男性性」ってカテゴライズが大きすぎることが議論が錯綜する原因のような気がしたので、対象を切り分けることでなんか見えてこんかな、と期待したのでありました。考慮の一助になれば幸いです。
http://anond.hatelabo.jp/20090418042423
うちの子はこのまま生きていくと、社会に対しての"収支決算"はまず間違いなく赤字でしょう。税金やら労働力やらで社会に貢献できるモノよりも、福祉やら何やらで享受するモノ方が大きくなるのは間違いありません。障害を持つ子の親になって初めてわかったのですが、障害者に対するコストは半端ないです。普通に生きていくだけで健常者の何倍ものヒト・モノ・カネが使われます。うちの子が生きていくことは、それだけ社会の力を削ぐことになるんです。
そんな事は無いでしょ。そういう福祉やバックアップがあるからこそ、人は子供を産める。普通に暮らせる。そんなんで世間様に後ろめたさを持っていかなきゃならんのなら、誰も子供なんて産めないし、子供じゃなくても怪我とか病気になったらつらすぎるじゃん。誰もが明日から障害者にならない保証なんて無いんだから。さしあたって、そういうシステムを作ってくれた社会に感謝して生活していきゃいいでしょ。
自分の親友の中で、最初に結婚して、最初に生まれた子供が先天性の重い障害を持っていた。友人全員、どう声をかけていいのか解らなかった。その後、自分の結婚、出産にあたってその友人の事があり、出産に関して非常に不安になっていた。カミさんが38歳で初産だったから尚更だった。世間ではどっかのアホウが30過ぎたら羊水腐る発言が話題で、それに関連して高齢出産の様々なリスクについて説明されていたから、不安は膨らんだ。
あまりカミさんを不安にさせても良くないと思い、それらの話題はしなかった。出産までの検診により、胎盤の位置があまりよろしくない事、頭が通常より大きいという事を聞かされていた。万が一、出産時に何かあったらどうするか、なんらかの障害をかかえているとしたらどうやっていくか等等について話し合った。友人の話もカミさんは知っていたのでそれなりに不安はあったようだが、考えたところで仕方が無い、いろんな検査やったところで産まれれば解る事を現時点でリスクのある検査をしてもしょうがない、まずはしっかり産む事を考えようとなった。
半年ほど前に、幸運にも無事に健康に生まれてきてくれた。
カミさんと友人の子供について話をした。どんな人間でも様々なリスクをしょっている。たまたま自分らはたまたまそれなりに幸せで健康である。でもそれはあくまでも偶然であって、いつそれがズレて来るかは解らない。友人の前では言えないが、産まれた子がある一定の確率でそうなってしまう障害を持っているからこそ、自分達、そして、自分らの子供は健康でいられる。障害者の人達がいるからこそ、逆に自分達は健康でいられる。宝くじに当たる人は、当たらない人が大多数であるからこそ大金を得られる。自分達の幸せは障害者及びその家族の不幸の上になりたっているとの結論に至りました。
こういう考えはズレているのかもしれませんが、障害者の存在は絶対に必要だと思います。社会に守られるべきものだと思います。私は子供が産まれてから時間がある限り、地元の養護施設のボランティアを手伝っています。社会はもっと障害者だけでなく、弱者に目を向けるべきだと思います。障害者の存在は、社会に貢献できるはずです。存在だけでもです。私はそう信じています。