小学2年生のころに両親が離婚して、母と妹と3人で暮らすようになった。
とはいえ父親とは隔週くらいで会っていて、メダルゲームで遊んだりイトーヨーカドーでお洋服を買ってもらったりしていた。
わたしはパパっ子で「会ったら離れないといけないから会いたくない、でも会いたい」というメンヘラ女みたいに(実際そうだけど)会う前も会っている間も会った後も泣いて過ごしていた。特に帰り道の車の中では大号泣していた。
大人になった今でもわたしはわたしを傷つける男のことばかり好きになってしまう。
離婚する前、父親はかなり暴力的だったらしいけれど、わたしはなにも覚えていなくて、やさしい父親というイメージしかない。
職場で出会ったらしいけど無職になり、そのくせにえらそうなひとだった。わたしと妹に暴力をふるったりした。今思うと完全にダメ男なんだけど、母とそのひとが一度ケンカ別れのようなことをしたとき、わたしは「人と人との別れはとても辛く悲しく起こってはならないこと」だと思っていたので仲を取り持ってしまったことがある。その節は大変申し訳なかった。
母は毎日仕事帰りにパチンコにいっていて、わたしたち姉妹は、救急車の音が聞こえるたびに母を心配してそわそわし、夜の11時になるころふたりで母を迎えにいき、景品のブタメンを夜ごはんにして大人になった。
母が酔って帰ってきて、いきなり暴露話をはじめたことがある。父親とは16歳で上京したときに勤めたキャバクラで出会ったこと。父親は再婚だったこと。わたし達にはすこし年上の腹違いの兄がいること。そのひとの誕生日がわたしと同じだということ。わたしは予定よりかなり遅く、わざわざその日を選んで産まれてきたのだった。
これまで黙ってきて、どうしてそんな話をしたんですか。あなたが結婚したのはとても若いときで、わたしと近い精神構造なのであれば、それはそれは嫉妬で苦しんだことでしょうね。毎年、わたしが誕生日を迎えるたび、かなしい思いをさせていたのでしょうか。
母は10年前くらいに転職をすると言って仕事を辞めてからずっと働いていない。今は生活保護をうけて暮らしているはずだ。何年ものあいだ申請をしてくれず、わたしと妹で生活費をまかない、家賃が払えず都から訴えられていて、弁護士費用を負担したりした。
生活保護をうけるのが遅れたのは、働くつもりというか、働かなければならないという意識もあったのだろう。だけど一番はわたしも血を受け継いでいる「わたしにはできっこない」という気持ちが一番の要因だったのだろうと思う。わかるぜ
わたしたちだって、中卒でかろうじて就職したメンヘラ女と、的屋とキャバクラしか職歴のないあるあるシングルマザーだったのでとてもしんどかった。
ずっと、母を見捨てるわけにいかないと思って生きてきた。わたしはダメな人間であり続けなければならないと。母より幸せになってはいけないと。母を助けなければいけないと思って生きてきた。精神科に連れて行ったり、お散歩からはじめてはどうかしらときれいな写真を送ったり、週に一度実家に帰り妹と甥を呼んで料理を振る舞ったり、負担にならない程度に社会復帰に向かってもらえたらいいなと思っていた。
もう20年以上住んでいる団地はお風呂が壊れているらしく、母はほとんどお風呂に入らず、ときどき台所で髪を洗い、用事があるときは地元に残っている妹の家にシャワーを浴びに行っているとのことだった。なにかをしようとしたときに気軽に準備ができないことは、すべての可能性を奪うだろうと思ったので、お風呂の修理代をだすことに決めた。
いつもうまい話のサイトや動画をベッドの上でみているだけの母の社会へのアクセスになればと思い、「施工業者を選べるか」と尋ねるとできるということだったので、決まったら教えてと伝えて待っていた。連絡がこないので、「いいところあった?」と連絡してみたら、「ちょっと悩んでるんだよね」とのことだったので、「じゃあ一緒にみて決めようか」と伝え、今年の1月、ひかえめな花束を持って実家に帰った。
出してきたのは、ポストにたまたま入っていた一枚のチラシだけだった。
ああ、この人は、よくなる気がないんだと、そのとき初めて理解して、もう、そのあとの記憶はなく、なんとか家に帰り、縁を切ることを決めた。
妹に関しても、育児に向きあえているとは到底言えず、きっと精神が不安定な人間がまたひとり育っていくのだろうと思う。遊びたい時に母に甥を預けたりしているみたいなので、持ちつ持たれつやっていってくれと思っている。
家族を心配し続けて自分の人生がままならない苦しみと、ある日いきなり死んだ連絡を受ける苦しみ、まだ後者のほうが生産性があるのではないだろうかと思っている。
誕生日覚えてるだけ偉いじゃん 俺覚えてもない