普通の大人にならなくてすむ方法はそれほど多くあるわけではない。今私の知り合いの女性達は、
大きく二つに分かれているような気がする。とりあえず生活のベースになりうる仕事を持っている人と、
何も持っていなくてそれを探してもいない人のことだ。仕事を探すのは大変だ。比較的頭が良くて向上心がある女達は
つまり、ある決まった地域、区域に集中していろいろな種類の動物が住むとえさや水が不足し、弱い動物は強い動物に
常に攻撃を受けるようになる。それを防ぐ為に動物はさまざまな区域に分かれて住むようになるわけだ。
もちろん「棲み分け」はそれぞれのテリトリー完全に決まっていて、其の場所を確保すれば安全と言うわけではない。
この国は人口が、多いから、既にたくさんの成功者がいるような職種にもぐりこんでいくのはかなり難しい。
例えば編集者とかカメラマンなど、もう既に数は足りているどころか、あまっている。先輩達は道を譲ったりなんかしない。
つかんだポストは定年まで決して離そうとしない。そういうところで職を得ようとするのは至難の業だ。
たとえ人気のある出版社に入れても、面白い仕事を先輩達がやすやすと手放すわけがない。
人生に積極的な女達はこの数年、パソコンに進出してきた。パソコンのインストラクター、
さまざまなソフトを使った事務処理、ゲームやプログラムの制作、各種インターネットビジネス、
そういった女達の進出は目覚しいものがある。女はメカに弱いという常識を逆に利用した「棲み分け」への強い意志だ。
女はメカに弱い、だからパソコンを操りインターネットなどの特性を理解している女はまだ少ない。
それでもパソコンを教えたりプログラムソフトを売り込んだりするときに女のやわらかさは武器になるに決まっている。
有力なコネがない私はそういった分野に進むしかないのではないか。
そしてそれは大部分が正しい。
この「anan」の特集を読む人たちは、安易な期待をしていないだろうか。
何か、ちょっとした工夫や考え方などで、普通の大人にならずにすむ方法があるのではないかという甘い期待だ。
「毎朝、起きたときに好きな詩集の一節を必ず読み、さわやかなバロックの曲を聴きながら、ナチュラルなメイクで、
作りたてのクロワッサンを食べる」みたいなこと、つまり、「日常生活の中でのささやかなおしゃれな工夫」では残念ながら、
人生は何も変わらない。そういう世間的な豊かな生活を楽しんでいるのは、
「普通でない」大人たち、つまり具体的に「普通」の人よりも努力した大人達だけだ。普通の大人になりたくない、というのは
つまらない人生がいやだと言うことだと思う。日本は変わってしまった。
「普通の大人」が「つまらない人生」を意味するようになったわけだが、其の認識はもちろん正しい。
「普通の大人」というのは今までの「日本の典型的な大人」と言うことだろう。
それなりの会社でそれなりのポジションにいるお父さんを助け立派に家を守り子どもを育てる「おかあさん」というのが
「典型的な大人の女の人」だ。それなりの会社でそれなりに働きそれなりの恋人を持つと言うのが「普通の大人の女」だ
其の両方に魅力を感じなくなったというのだと思うのだが、その認識はまったく正しい。
この2、3年に起こったことだが、この国の「普通」の完全な崩壊を証明している。
オウム真理教には「普通」のエリートが多く入信していた。援助交際をする女子高生は「普通」の家庭の娘達で、
神戸の十四歳は「普通」の中流家庭で育っている。テレビやメディアはそういったネガティブな人たちを
「特別な環境」に育った「特別な人」だというふうに規定したがっているが、もうごまかすのは無理だ。
もちろん「普通」で幸福に生きている人もきっとまだ大勢いる。特に田舎に多いかもしれない。
「普通」はシャープな感覚を持つ若い女の子が忌み嫌うほどに、弱体化してしまった。
それでは普通に成らないためにはどうすれば言いか。コレはもうはっきりしていて訓練しかない。
訓練というと、暗く地味なイメージがある。何か嫌なことに耐えなければならないという先入観があるかもしれない。
それは、なんでも言う事を聞く「普通」の大人を大量に必要とされた貧しい日本の間違ったやり方だ。
この国はごまかしに満ちていて、成功した人に、インタビューで「どんな訓練をしましたか。」とはほとんど聞かない。
成功した人は、「苦労した人」ということにしたいわけだ。わたしは、24歳で作家としてデビューしたが、
まったく苦労はしていない。今でも苦労なんて全然していないし、苦労なんて一度もしていない。
確かに技術を得るための訓練をするのは単純に楽しいものではない。
語学の訓練を考えてみればわかるが、単調で、忍耐力がいる。ただし、そのことが好きだったら、
それがいくら単調でも「苦労」にはならない。
だから長い訓練のためには、その訓練の対象を好きになる必要がある。
どんな人間にも、そういう、長い訓練に耐えられる好きなものが一つぐらいあるはずだ。
それを、見つけることができたかあるいはできなかったか、人生はそこで二つに、分かれる。
見つけることはできた人間は訓練が苦にならないから特別な技術を身につけて「特別」になれる。
見つけられなかった人は、特別な技術が何もないから「普通」にならざるを得ない。
「わたしはね、才能はあったのでも努力や勉強が好きじゃなかったからこうやってつまらない平凡な人生を送るはめになった、
だからあなたにはそうなって欲しくないの、だから今はつらいかもしれないけど勉強しなさい。
今、耐えて、しっかり努力しなかったら私やお父さんみたいに平凡に生きるしかないんだから。」
そういうお母さんは「努力しなかった」のではない。訓練が苦にならないないかを見つけることができなかっただけだ。
努力を好きな人はいない。私も大嫌いだ。だが、好きなことだったら、努力は苦にならない。
訓練ということで言うとたとえば20歳という年齢は既にかなりハンディがある。バイオリニストやバレリーナにはもうなれない。
語学の学習を始めるのも遅ければ遅いほど苦労するし、働きながら何か訓練するのは大変だから、
25歳という年齢はかなり絶望的だ。30歳になると、せいぜいつまらない人生を趣味でごまかすぐらいのことしか残されていない。
趣味というのは魔物だ。「そんなに好きなら趣味でやればいいじゃない」と大人たちは言う。
それも嘘だ。素晴らしい趣味を持っている人はたいてい素晴らしい仕事を持っている。
つまらない仕事をしているが素晴らしい趣味を持っているという人に私はまだあったことがない。
つまらない人生を送っている「普通」の大人たちは実にさまざまなやり方で若い人に嘘をつく。
「苦労」「努力」「勉強」「趣味」その他にも色々な言葉があって、
学校や家庭やメディアやその他いろいろな場所で、その言葉は囁かれる。
営業のような仕事に女は向いているのか、女には競争心はあるのか、仕事を持つ女は
どこかさびしそうに見えるというのは本当か、女が普通でなくなると色々な問題が起きることは事実だが、
それはまた別の問題である。