はてなキーワード: 相撲協会とは
口約束だけでやっていれば、証拠無しとして、知らぬ存ぜぬやってないと言い張れたであろうが、メールがでてきてしまっては、白を切る事はできない。
ただし、今回明らかになった関係者だけを除名して、過去には一切無かったと白を切るのも、それはそれで、厄介な事になるであろう。相撲協会の幹部となっている親方達の過去の八百長を知っている人々が、黙っていないとなる。処分された人が、マスコミ等を通じて証言する事になりかねない。小錦関が輪島関に星を売っていたとか、千代の富士関(現九重親方、巡業部長)が星を買い捲っていたとか、相撲賭博に関わっていて引退処分になった元小結板井関等、八百長の噂はどっさりとある。物証があるかどうかだけが基準となるのであれば、今後は、物証を残さないようにやるという事になるだけである。
東西の支度部屋の間を、付き人が往来する事を禁止したら、メールでやり取りをしていたわけで、メールを使えないように、電波を妨害する装置を支度部屋に設置しても、支度部屋に入る前に話をつけるようになるだけであろう。
携帯電話のメールを発信する時には、BCCで親方に同文を通知すべきとしても、今度は、携帯電話自体をもう一台持つというやり方がでてくる。警察に証拠として渡した携帯電話から、メールがサルベージされたわけで、携帯電話を二台以上もって、警察に渡さずに済ますことができれば、ばれなかったとなる。家族名義ならばまだ良いが、それを禁止する通達が出て確認をとるようになれば、表面的には無関係となった、芽が出ずに自主廃業した下位の元力士に携帯電話の提供を頼んだり、あるいは、暴力団員となった元力士から携帯電話の提供を受けるようになってしまうであろう。これでは、本末転倒である。
十両未満は力士養成員であり、本人は無給で、部屋に対して出る育成料だけという制度は、従業員の待遇としては問題がある。中卒で入門して未成年の間はそれでも良いだろうが、相応の年齢になったら、下位力士であっても賃金支給と正規の従業員としての待遇の明確化は必要となる。制度の狙いとして、成人するまでに十両に上がれという意味なのかもしれないが、十両以上のポストが空かない以上、実力のある人が幕下に溜まって、暇を持て余した挙句、ギャンブルに熱中したり、八百長の仲介に手を染めたり、新弟子をいびり倒したりというのは、制度の問題と考えるべきである。
養成員の身分では部屋住みになるから結婚できないし、彼女も居ないとなれば、風俗に行くしかないとなるが、小遣いが無い。星を売って金を作るのも、むべなるかなとなる。風俗店にはケツ持ちの暴力団員がいて、そこから、反社会的勢力との関係ができてしまうのである。
それなりの年齢に達したら、所帯を持てるような待遇にして、女房子供が居る状態で、星を売り買いして角界追放のリスクを背負うほど馬鹿だとしたらやむを得ないが、そこまでの馬鹿は居ないという可能性に賭けるというのが、穏便な抑止手段となるであろう。
将棋のプロの賃金体系は、現役生命の長さに差があるから直接流用できないが、参考にはなるであろう。プロになるのに年齢制限があり、プロになったら基本給が出て、負け越したら基本給の出ないクラスに落とされて引退を迫られるというのは、実力制と身分制と給与待遇とで、バランスを取る方法の一つとなりえる。プロとアマチュアの差を明確にして、プロになったならば、番付下位のままで引退になっても、引退後に小商売を始められる程度の蓄積ができるようにして、連盟や相撲に対して裏切らないように仕向ける必要がある。
山口登(やまぐち のぼる)。明治35年(1902年)、兵庫県神戸市兵庫区で生まれた。父は、初代山口組・山口春吉組長だった。山口組事務所は、神戸市兵庫区西出町にあった。大正14年(1925年)、山口春吉の引退により、山口組二代目を継承した。この時、山口組はまだ、大島組・大島秀吉組長の系列組織だった。同年、神戸市須磨の料亭で、山口組二代目相続披露宴が行われた。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。披露宴には、大島秀吉、大島組幹部・川端勝次、大島組幹部・本多仁介、その他の大島組幹部、大島秀吉の舎弟、大島秀吉の若衆、兵庫県県議会議員、神戸市市議会議員などが出席した。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。難波島之助は、山口登の舎弟となり、参謀格となった。その後、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発した。山口登は、大島組組員との喧嘩を諌めることはしなかった。昭和2年(1927年)1月、大島秀吉宅に年賀に行った。大島秀吉は、山口登に、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発していることを咎めた。山口登が詫びを入れると、川端勝次が山口登に本心で詫びを入れているのかを詰問した。山口登は激怒した。本多仁介が、川端勝次と山口登をなだめた。昭和3年(1928年)3月、金融恐慌が発生した。山口組は、神戸市兵庫区古湊通りの鮮魚・塩干物の朝市を縄張りとし、仲買人の魚を小売店に運搬する利権を独占していた。そのため、経済的な打撃が限定的だった。同年、山口登は大島組への上納金をやめた。昭和4年(1929年)1月、山口登は、大島組への上納金をやめたために、大島秀吉から破門された。昭和5年(1930年)3月、神戸市は、失業者対策として、兵庫区浜新町に神戸中央卸売市場の建設を計画した。新浜町は、大島組の縄張りだった。この利権を巡り、山口組は大島組と対立した。同年7月、神戸市新開地で、山口登の若衆・田尻春吉が川端勝次を射殺した。同年8月6日夜、山口登は、山口組組員に拳銃や日本刀を持たせて、5台の荷馬車に、神戸市兵庫区西出町の山口組事務所の家財道具全部を載せて、山口組事務所を出発し、同区切戸町に向かった。一部の山口組組員は、切戸町の新しい山口組事務所で待機していた。他の山口組組員は、大島組本家を監視していた。同年8月7日午前3時、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、神戸市中央卸売市場建設予定地の近所だった。同年8月7日、神戸中央卸売市場の杭打ちが始まった。山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。同年10月、、田岡一雄(通称はクマ。後の山口組三代目)が、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、料金を支払わずに入場したため、木戸番から咎められた。田岡一雄は木戸番を殴り倒し、湊座の舞台に上がって暴れた。山口組が湊座の用心棒を務めていた。その後のいきさつには2説ある。
溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4や正延哲士・天龍寺弦・池田鷹一『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6362-9では「田岡一雄は山口組舎弟・古川松太郎(山口登の娘婿)や山口組若衆・山田久一(通称はトラ。後の三代目山口組初代若頭)に捕まった。田岡一雄は神戸市切戸町の山口組事務所に連行され、暴行を受けたが、根をあげなかった。山口登は田岡を古川松太郎に行儀見習いとして預けた。田岡は古川の自宅に居候した」となっている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「数日後、田岡一雄は、山口組組員に捕まり、山口登の舎弟・灘波島之介の自宅に連行された。灘波島之介は、山口組組員が田岡を暴行しようとするのを止めて、田岡の身柄を預かった。田岡一雄は、灘波島之介の家に寄宿した。その後、灘波島之介は、田岡を古川松太郎に預けた。古川松太郎が田岡に行儀を仕込んだ」となっている。昭和6年(1931年)1月、須磨の料亭で、宴会を開き、馴染みの花隈の芸妓・ぽん太を呼んだ。その後、月に2、3度、ぽん太と逢引した。昭和7年(1932年)5月、山口登が後援会長を努める大関・玉錦(後に横綱)が、前頭の宝川と揉めた。田岡一雄は、日本刀を持ち、山田久一や玉錦、山口組舎弟・西田幸一らに連れられて、宝川の元に押しかけた。田岡は、日本刀で、宝川の指を切り落とした。同年7月7日、須磨の待合で、山口登はぽん太と会った。同日午後10時すぎ、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登は待合から逃げた。同年7月8日、守屋謙造は、山口登殺害に失敗したため、大島組を去った。その後、本多仁介は、「日本が軍国調になっていくときに、抗争事件を起こすのはまずい」と大島秀吉に進言した。大島秀吉は、本多仁介の進言を容れて、大島組から山口組への殴り込みを禁止した。それから、山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名は森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介された。同年7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。興行は赤字だった。庄村吉之助(通称はホラ吉)が、松風軒栄楽のマネージャーだった。山口登は、庄村吉之助を引き抜き、山口組興行部を作って、庄村を山口組興行部支配人に据えた。また、庄村吉之助の側に、山口登の若衆・笠種次を付けた。同年12月、神戸中央卸売市場が開業した。山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、市場に賭場を開いた。同年、もしくは昭和11年(1936年)1月20日[1]、山口登は田岡一雄を若衆とした。昭和8年(1933年)4月、山口組興行部は、神戸市湊川神社前の「八千代座」で、鼈甲斎虎丸、東家楽燕、初代天中軒雲月らによる浪曲大会を開いた。昭和9年(1934年)4月、山口組興行部は、八千代座で、ディック・ミネ、美ち奴、楠繁夫、東海林太郎らによる興行を行った。同年 8月、海員争議が起こり、会社側から山口登に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。西田と田尻は、組合と話し合いを持ったが、組合側の右翼や総会屋とこじれて、乱闘となった。西田幸一は殺害され、田尻春吉は意識不明の重体に陥った。田岡一雄と、田岡の親友・岡精義は、西田幸一死亡の知らせを受け、海員組合争議本部に乗り込んだ。田岡が、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄 は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。同年9月3日夜、山口登は、庄村吉之助と笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せいが東京・新橋演舞場で大阪漫才公演を開催すると、この東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、広沢虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。昭和10年(1935年)、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)を若衆とした。同年10月、田岡一雄は神戸刑務所から出所した。昭和11年(1936年)1月20日、もしくは昭和7年(1932年)[3]、山口登は田岡一雄を若衆とした。同年2月、不二拳倶楽部主催者・岡本不二夫から、国技館で、チャンピオン・ピストン堀口と挑戦者・ジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチ開催の依頼を受けた。岡本不二夫は、日本拳闘倶楽部の協力を得て、国技館に、東洋フェザー級タイトルマッチ開催を打診した。国技館は「西洋のスポーツであるボクシングの試合を開催させることはできない」として、岡本の要望をはねつけていた。山口登は、岡本の依頼を引き受けた。同日、嘉納健治(通称はピス健。嘉納治五郎の弟。大日拳創立者)に会い、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。その後、上京して、相撲協会と会談し、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。翌日、右翼団体40、50人が、山口登の宿に押しかけ、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催に抗議した。山口登は、頭山満と会い、右翼団体を抑えてくれるように依頼した。頭山満は、山口登の依頼を快諾した。同年7月、田岡は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県県会議事堂で行った。昼の興行の利益は全て、山口登に上納された。同月、田岡一雄が口答えをしたために、怒った。田岡は山口の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。昭和12年(1937年)1月27日、国技館で、ピストン堀口とジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチが行われ、山口組は国技館の警護に当たった。ジョー・イーグルの判定勝ちが決まると、田岡一雄がリングに上がり、審判に詰め寄った。田岡は警官に取り押さえられ、拘留された。同年2月、玉錦のとりなしで、田岡を許した。田岡は神戸市に戻った。同年2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元、山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同日、田岡は警察に自首した。同年2月27日、田岡は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。同年、神戸市の荷役業者の鶴井組・広田寿太郎組長、酒井組・酒井新太郎組長、藤原組・藤原光次郎組長が兄弟分の盃を交わし、「鶴酒藤」を結成した。昭和13年(1938年)、山口登の舎弟・新居利治は、徳島県小松島市で、小天竜組を結成した。まもなく、大長一雄は山口組を去った。昭和15年(1940年)、山口登は、広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎と兄弟分の盃を交わした。広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎が拠点を横浜港に移すと、山口登は鶴酒藤神戸支部長となった。同年7月、広沢虎造が吉本興業に無断で下関・籠寅組(組長は保良浅之助)の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、ボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。
文科相「処分軽すぎる」と相撲協会を批判 - 大相撲ニュース : nikkansports.com
補助金出してる(厳密には違うけど)ところの親玉がこう発言してて、処分を見直さないとなると
どうにかできない?
横綱「こんな感じですかね?」
理事長「ええ、素晴らしい」
横綱「あー。でも勝つとまずくないですか?そのまま、優勝しちゃいますよ。本来なら、相撲の品格を汚した僕が次の日に負けるっていうのが、パターンじゃないですか?」
理事長「今回は悪役ぶりをアピールするだけでオッケーです。次回までにマスコミを使って因縁の対決を盛り立てておきます」
横綱「しかし、今回の興行で私が負けておかないと、お客さんが欲求不満になりませんか?」
理事長「いえいえ。ここはあえて、不満をためておいて、次回の興行にメインをもっていくべきでしょう。ココ最近、収益が厳しいですし」
横綱「わかりました。あ、あと、ギャラは孤児院に振り込んで置いてください」
13日目、14日目のあまりにあからさまな八百長は、あの星勘定の下で朝青龍を止めうる唯一の策だった。
あれがなければ白鳳は12勝3敗、朝青龍は14勝1敗だった。朝青龍の優勝は千秋楽を待たずに決まっていただろう。
白鳳があからさまな八百長で星を維持したという事実は、相撲協会が朝青龍を敵とみなしていたことの現れであり、したがって朝青龍に有利な八百長が行われる余地はなく、結果、これまで八百長疑惑に晒されてきた朝青龍の優勝が実力であったことが証明された。
悪事をなす側を正義とみなし、己を攻撃する協会とマスコミとファン。
それらよりも敬意を持って扱ってくれる故郷をドルジが優先するのは無理からぬことだった。
「実家に帰れ」は単なる罵倒だが、「地元に帰らせない」は敵意の質が違う。
これで朝青龍は偉大なる平成の大横綱・貴乃花を上回った。次は北の湖だ。
次はどんな汚い手が使われるだろうか。
所持がバレて捕まったら大麻取締法によって有罪になるから?
てめーらは何でそう思う?
バカになるから。気持ちよくなるから。知覚が敏感になるから。時間感覚が狂うから。
働く気がなくなったり、資本主義社会や市場経済を相対化しちゃったりするから……
幻覚をみるから?
ん?幻覚って??
良くいえば想像力の爆発。
目を閉じれば、朝青龍の憎たらしい姿かたちを想像することができる。
露鵬、白露山、若ノ鵬の3人がコーカサス地方の岩だらけの高原で、
青すぎる空の下、広い大地で、仲良く大麻を吸っている場面を想像できる。
魁皇、琴光喜、貴ノ花、千代の富士、大好きな力士たちの名取組みを思い出すことができる。
大麻を吸っていようが吸っていまいが、想像力はどこまでも自由だ。
未成年が興味本位で吸ったりしたらダメだけど、分別ある大人が嗜好品として楽しむぐらい別にいいじゃないか!
「世間的に悪いと思われてることを敢えてやるのだから世間的に叩かれて当然」だって?
何だよ、世間って!?
法律の条文?
不良になるなって?
一服して考えてみてよ。
あらゆるものごとがそうであるように、大麻を使用することにも功罪がある
中期以降のビートルズの音楽、そして音楽市場という莫大な市場を生んだという点で、
自分は、功罪ある大麻の、良い影響を評価したい。
ビートルズ5枚目のアルバム、『ヘルプ』は大麻が及ぼした良い影響の一例だ。
この世界に大麻がなければ『ヘルプ』は生まれなかったし、その後の『ラバーソウル』、『レボルバー』
そしてもちろん『サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド』も生まれなかった。
サイケデリックという言葉は、良くも悪くも、「ドラッグと音楽文化との結びつき」からできた言葉だ。
今こそ大麻取締法について考えてみよう
モラルについて、文化について考えてみよう。
早速、マスゴミは感傷的な音楽をBGMにして被害者の生い立ちや縁故者のインタビューを垂れ流している。
それ自体はいつものことだし、まあ叩かれて当然の連中であるとは思う。
だが、ちょっと待って欲しい(笑)
この事件が起こったのは何ヶ月前だ?
この事件の概要はもうとっくに明らかになっていただろうが。
逮捕は批判の解禁日なのか?
今までマスゴミは何をやっていたんだろう。
要するにマスゴミというのは警察に容疑者を逮捕してもらわないと自信を持って批判することすらできない連中なのだ。
その反面、いったん逮捕されれば安心して、冤罪の可能性があろうと何だろうと大騒ぎして容疑者叩きのお祭りを開始する。
こんなのは報道機関でも何でもない。
相撲協会が色々と大変なことになっているようだ。スポーツ新聞系のニュースに至っては、<相撲協会「国技はく奪」突きつけられた> などと、相当に過激な見出しが躍っている。
不謹慎を承知で書いてしまえば、何をいまさらであり、このような些細なことで騒ぐのはマスゴミのいつもの「報道に罪はありません悪いのは社会です」的なセンセーショナリズムでしかないのであろう。
世界中どのような国であろうとも、多数派・強者側の都合により(都合を「論理」という言葉に置き換えるにはあまりにも脊髄反射的な状況である)、少数派・弱者側へ弾圧が行われていることは明白な事実である。非常に残念なことだが、そのような行動をとることで異端を排除することによってのみ、ヒトは精神状態の平安を維持できる。まさに人間という<ものを考える動物>の業であろう。
今回の事件では、そこから離脱したいと考える一個人の都合よりも、相撲部屋という集団の都合の方がはるかに優っていたという事実の結果だ。世が世なら、社会が社会であるのならば、何事もなく看過されていた出来事なのかもしれない。
もちろん、私刑による殺人という次元(法的解釈はともかく、人間としての常識から考えてこれが「過失致死」などで済まされるべきことではない)にまで至ってしまったのはあまりにも悲惨であり、私個人もそれを是とするつもりなど一切ない。
問題を提起するとすれば、この事件が起きた当初から、これは殺人事件なのではないかという疑問が世論で囁かれていたのにもかかわらず、メディアは芸能人の痴情話を追いかけるほどの執拗さではこの事件を追及しなかったことにあるのではないか。
結局は<相撲>という権威がアンタッチャブルであり、自由に報道できない存在であることが証明されたに過ぎない。いわんや、政治本体のことなど、まともに報道されることを日本のメディアに期待することは無理ということか。
権威の都合などという、まさに<空気>を読むことでしか生き残ることができないメディアは、少なくともジャーナリズムを語るべきではないであろう。
この辺参考に→http://anond.hatelabo.jp/20070805134239
要点は、仮病かどうかは関係なくて、静養中に取るべき行動だったのか、休場しても参加すべき事だったのか、という事。
相撲協会は無慈悲な所だなぁ…と結局評価を下げてしまうのだった。
母国の政府に依頼された母国の子供たちとの親善試合を断らなければならない理由って、無理解な日本人の機嫌を損ねないためなのか?
雇い主は相撲協会だし、顧客は日本人だ。だから、日本人の機嫌を損ねると今回のような処分を食らうことになる。
でも朝青龍が「自分はそれでも母国の子供たちのチャリティーを大事にしたかった。処分はしょうがない」というのであればそれはそれでひとつの生き方で、いいと思う。(「考えがいたらなかった」ということであれば、そうだね、としかいいようがない)
俺が言いたいのは「相撲協会がおかしい」というのはちょっとスジが違うだろうという話。