はてなキーワード: 洗礼とは
ある一家の話です。
大学卒業後、兄は「長男だから」という理由で地元に帰らされました。
弟は兄が帰って家がなくならないとの理由から、東京に残りました。
何年か経ち、双方に子供ができました。
同い年の従兄妹です。
兄の子は長野県で地元の幼稚園・小学校・中学校(全て公立)に通いました。
一方弟の子は東京で教育を受け、私立の幼稚園・小学校と通い、中学受験の際学習院中等科・慶応義塾中等部に合格しました。(進学先は当然慶応。)
田舎で中学校生活を送っている兄の子(女)はスイーツ(笑)街道一直線です。
幼稚園からの友達と手が切れず、DQNの影響をもろに受けています。髪を染めたり、学校に携帯を持って行って先生に見つかったり(それも2カ月で7回程)、受験を控えているのに殆ど勉強しなかったり…。DQNの鑑のようです。
一方、東京に残っている弟の子供は英検準一級を取得し、慶応義塾中等部の中でもかなり優秀な成績を修めています。慶応義塾大への進学はほぼ間違いありません。
田舎で教育を受けさせるのと都会で教育を受けさせるのでは、非常に大きな違いがあります。DQNの洗礼を受け易くなる分、田舎の教育はリスクが大きいと思います。
こちらこそ、ありがとう。
無神論だった人間が宗教に傾倒していく課程の生の声って、すごく興味深い。
(大概もう倒れ臥しちゃった後の、いい事尽くめマンセー!って声しか出ないから)
どこの世界に属していても「同じ程度の悪」からは逃れられないし、逃れられていると思っていてもそれは気のせいで目をつむっているだけだと思うようになった。テロ行為そのものは何を信じていようがあるだろうし多分、水で水死する人がいるから水が悪いんだと言うようなものなのかなあ、と思うようになってきた。
個人的には現在の日本が諸外国よりもそうした宗教がらみの悪業から逃れているのって
無神論者が多いからだと思っているので、
目をつぶっているだけで同じ程度の悪が存在している、という考えは面白かった。
具体的に何を持ってそう考えてるんだろう。
「一神教という思想があるから人が死ぬんだ、一神教が悪い」というのが
「水で水死する人がいるから水が悪いんだ」に変化したのって、
宗教が(扱いによっては凶器だが)必要不可欠だという認識が生まれたからだよな。
けどその場合の死というのは自らの行為で水死という結果がでただけなんだから
水死しても自業自得だよ、という事でもあるよな。
そこまでの覚悟が生まれたのはすごいと思う。
「だから同じ水でも、水死するような水には近づかない」にはならず
むしろその水に突っ込んでいこうとしてるんだもんな。
それって自殺願望…じゃないよな?
(水死することもあれば、させる事もあるんだから、自殺とは限らないけど)
悲劇をもたらす思想は追い詰められた人や自然現象が厳しい世界の人たちに根ざしている気がする。目の前のつらいことから救いを求める際には厳しい内容が含まれざるを得ないのではないかと。そういうものにすがりたい気持ちなんだ
「悲劇をもたらす思想」の構造については全く持って同感なんだけど、
そこから「そういうものにすがりたい」ってどう繋がってるのかな。
例えば、貧困や、弾圧。家族が殺される、ってのが「追い詰められた厳しい世界」で
「厳しい内容が含まれざるを得ない」ってのは、相手の思想の攻撃的な否定や報復の事だよな。
それらにすがりたいというのは…何を求めているんだろ?
仏教でも神教でもホメオパシーでもいいんだと思うよ。ただ、区切りとしてきっぱりとしたものを求めたいと思うと洗礼だとかの形がはっきりしているものがいいと思ってる
イニシエーションはいわば信者の釣りと確保だから、これは納得できる。
会員様だけ10%割引でお得ですよ!って会員証みたいなモンだからな。
なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?
しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督に尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督はリアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。
つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。
CASSHERNは、人間の感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)
CASSHERNのクリティカルさというのは、そう、ブライのセリフに集約されている。
「つまり、憎しみとは、人間也!」
さらに、キャシャーンはキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味のモノローグを語っている。
・人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)
これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説がベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。
しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間に
「憎しみとは、人間也!」
というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画のテーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。
このテーマを容認できない人にとっては、監督の独善、ということになるのだろう。
伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼の儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士や三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。
しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。
しかもキャシャーンは抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこの映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。
が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。
では、鉄也の懺悔は無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画のテーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズの「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。
さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエス・キリストの物語を髣髴とさせる。
だから、キリスト教圏では、この映画は日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。
過去に、日本のアニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジが救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジは人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造の映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。
もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオの誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械の触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。
ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画のひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画の黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。
80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹の逮捕とホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清や三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画のシステムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画をとりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。
無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というその姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズでカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的なプロレスファンは旧来のプロレスのシステムを破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。
従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターがカリスマ化していく作品としては、「最強伝説・黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。
すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。
僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督の製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERNが賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。
そしてこの映画のテーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。
このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的な能力が皆無なので……。
(04/5/1 本田)
ざっくりといえば文系、よりきっちりいうならまともに大学で研究したり論文発表したことない連中なんだろうな
(文系を批判する意図はないので。国際学会の割合がすくないという意味で)
国際学会に行くとか、海外論文誌に論文出すなら、英語以外には選択肢はまず無い。
グローバルがとか、英語化がどうのじゃなくて、共通の言語として英語以外の言語を選択する弊害が大きすぎるので。
社内英語化をすすめると、
とかっていうやつが居るけど、馬鹿じゃなかろうかと思う。
国際学会には、英語が出来るが研究が出来ないヤツばっかりで、国内の学会は英語は出来ないがレベルの高いヤツの集まりになってたのかと。
どう考えても逆。
他人とコミュニケーションを取るために、手段として英語を使えるヤツの方が、英語が使えないヤツより総じてレベルは高かった。
(英語が出来る出来ないとは別に、なんとかでっち上げたり発表して質疑応答しないと、何もやってないことになる世界なので)
博士号採るためには、海外論文誌に出してないとか、スタートラインにすら立ってない。
で、「英語で論文を書くのが前提になってるとか、英語屋(または論文屋)を量産するだけで百害あって一利無し」とか言うヤツが居たら、
鼻で笑う以前に、みんな関わり合いになりたくない。
少なくともサイエンス(数学、自然科学、人文科学、社会科学問わず)の世界では、英語が共通語だからだ。
その意味で、その洗礼を受けてる連中は「はいはい、仕事でこんどはしゃべる必要があるのね」となったら技術を身につけるために手を動かす。
死ぬほどユニークだったり、他の連中が喉から手が出るほど欲しい才能だったら、勝手に相手が英訳してくれる。
でも、こっちが売り込みに行く側だったら、相手の言葉で話しかけるのは技術以前の礼儀の問題。
礼儀もなって無くて、内側にこもりっぱなしで、「弊害がデメリットが」とか叫ぶだけのヤツには
いや、辛いな!
正直言って、毎朝泣きながら仕事行ったな!
「~の朝は早い」とかテレビで見ると、「金融マンの朝だってはええんだよ」とか悪態つくくらいには汚れたな。
そんな俺の独り語りがはーじまーるよー。死にたい。
26歳で修士を出る一年前、金が続かなくなる。そういうわけで必死に就職活動開始。
「英語喋れます。ドイツ語わりと喋れます。タイ語日常会話程度はいけます。ラテン語読めます」
を武器に商社とか受けまくるも華麗に全滅。しょうがないので金融を受け始めると、なんかわからんけど合格。
某社のIB部門に。新人研修を越えた(まさに地獄だった、同期が二人辞めた)後ギャグだと思ってた
「前髪チャラチャラ垂らすな!」の洗礼を受けオールバックに。前髪でチャラチャラて。
IBって聞いたから入社したのに「営業を舐める奴はウチにはいらん」ということで、しばらく営業をやらされる。
ぶっちゃけ何の役にもたたない経験だった。同時並行で「外務員とFPとアナリストやっとけ」という無茶振りを食らう。
アナリストっていうと、ケツにフリスクを突っ込むあれですか?レベルから必死で勉強開始。
仕事に行くと四季報が空を飛ぶ。年次上の先輩が詰められている。
「やるのかぁ!」
「やりますぅ!」
「ああ、この部署から逃げられなかったら転職しよう。予備校講師になるんだ・・・」と心に決める。
朝一の読み合わせが終わると先輩について営業へ。先輩の成績が悪いフラストレーションが全て俺へ向かう。
IBって聞いたのに・・・。ヘタに酒が強いことが災いし、家に帰れない。サウナとカプセルホテルはお友達。
しかし、地方支店配属になった同期の話を聞くと俺は「とても恵まれている」らしくてびびる。
豪勢な社宅が与えられるが、家に帰れない。ぶっちゃけ1Kどころか三畳間でいいから会社近くにいたかった。
入社して四ヶ月、恋人に別れを告げられる。「あなたがわからない」とか言われる。俺だってわかんねーよ。
死んだ魚の目をして毎日職場へ。哲学書の山は引っ越した日の梱包を現在でも解いてない。
文学部で磨いたお喋りクソ野郎スキルがフィーバーし、成績が同期の中ではトップクラスに。
太い客を二本掴み、とりあえず安泰の身分へ。この客を奪われない限りは暫く布団で寝れる…。
と思うも、直後にIB部門へ配置転換。「希望通りだな!」と言われるも、正直言って最悪だ。
「~が会社に来ないぞ!」
「もう辞めた!」
「~は?」
「こないだ入院した!」
凄まじい量の各国語文献を必死に翻訳する。向こうもテンパりまくってるようで間違いだらけ。
まずは「読めるナリ」に書類を清書することが仕事となる。金融理論で院を出た先輩とコンビを組むが、
ついに「この言語俺できませんて!」状態に。だがなんとか必死でこなすも、ある日先輩が
「行くぞーアンパンマンだぁ」とか言いながらキャスター椅子で滑って壁に直撃、即入院。
ドイツ人に英語で怒鳴りつけると中国語で返されたりとかそういう状態。
「拓銀ってさ…1000万のコールが引っ張れなくて潰れたんだよな」とか
部長がシャレにならんことを言い出す。上層部は「リスクを取る時期」とか変に張り切ってるが
現場は書類処理すらままならない。死ね。だから、これは私に裁ける仕事じゃありません!
やれっていわれりゃ勉強しますが、同時進行はムリです。自分の仕事だけで残業150逝ってるんです!
この時期、「うわぁ、東南アジアならしばらく暮らせるかなぁ」くらいの額へ貯金が溜まる。
オフィスは悪臭が漂う。靴下を三日以内に替えた人間は「おまえスゲーな」と評価された。
新人は救援物資の買出しが主な業務となる。「今Tを買い物に行かせた!服とメシが来るぞ!」
食いたいが食えない。粉末カフェインの飲みすぎで脈拍が常にうるさい。課長は一気にハゲが進行
「輝いてるだろ、俺!」と笑えないギャグを連発する。この時期、80キロあった俺の体重は62キロへ。
しかし、飲み会こそ我が社のエネルギー源と黄疸丸出しの目をして先輩方は飲みに行き、職場に戻る。
とか新人のパソコンから笑えない履歴を発見。人間は追い詰められると転職すら考えられなくなるらしい。
「おまえが死んだってどうにもならねえんだよォォォ!」
とかトレーディングルームから聞こえてくるが、誰も目線すら動かさず仕事へ向かう。いっそ殺せ。
その後、ヤバイ時期を逃げ切った後俺は立派な睡眠薬・アルコール中毒へ。
先日、肝臓の数字がエライことになり、どんな医者も俺に薬を出してくれなくなった。
最近知ったけど、カルテって横のつながりあるのな。現在、カティサークを飲みながらこれを書いている。
同期は半分近くいなくなった。俺も後を追うのは間違いない。
920 :カオス:2010/05/04(火) 21:03:19 ID:OhytQ2pQ0
飛翔でこれからヒットが来てもこのサイクルの速さじゃ庭球や吟や再生みたいな長期流行はもう無理な気がする
921 :カオス:2010/05/04(火) 21:11:20 ID:3wUGVc6GP
飛翔は連載が上手く行けば長く続いて毎週燃料投下され続けるから、そこまで
短命にならないんじゃないか?まあ連載続かない新連載ばかりなのが現状だが
922 :カオス:2010/05/04(火) 21:13:51 ID:FW2foNIF0
アニメも制作の影響か2クールでも厳しくて1クールものが増え出してる
続編は映画も多くなって全体的に美味しい感じではなくなったなぁ
923 :カオス:2010/05/04(火) 21:14:39 ID:CbTcLMfG0
唯一良さそうな保険質は吊り橋コースっぽいし
924 :カオス:2010/05/04(火) 21:22:43 ID:X2whDM6c0
飛翔は比較的支部が弱いけどね
飛翔でも支部がきっかけなんて出てくるかなあ
危険なのはアニメだから、今まで以上にアニメは短命になるだろうけど
925 :カオス:2010/05/04(火) 21:23:37 ID:bkq1tNSt0
飛翔のような長期連載や
雁のような人気アニメで人気ジャンルが生まれたらそれなりに続くと思うよ
DRRは原作に、同人受けする要素がもともとそこまで多くはないんじゃないのか
半分は支部で作られた流行って感じがするし
原作で同人受けするというよりも、アニメでブレイクしたって感じだから
もともと夏戦争みたいなものだっただけなんじゃないかと
926 :カオス:2010/05/04(火) 21:23:51 ID:SPNMUGn30
昔から続いてきたものだから斬新なネタ自体少なく、
元からの萌え狙いでそっぽを向かれたり、原作で十分な満足感を与えてしまっていたり?
オタク文化には自浄作用はないのか
927 :カオス:2010/05/04(火) 21:28:53 ID:czs2qQM30
でらは渋で作られた流行って感じだなあ
下手も渋で広がったし
渋で見知ったネタがまるで公式のように感じてしまう現象
飛翔が渋弱めなのは最後の砦といった感
928 :カオス:2010/05/04(火) 21:30:44 ID:g7LwPdlz0
とりあえず支部はジャンルを一気に爆発させることがあるが
同時にジャンルの消費をもの凄く早めてると思う
929 :カオス:2010/05/04(火) 21:33:40 ID:ZaDdoaWd0
絶望ってわけではないんでない?実際いつでも流行ってるものはあるんだし
ただ「大きな波」の状態が長続きはしにくいってだけだよね
別にそれはそれでいいんじゃないかと思うよ
同人で食ってたらマズイだろうけど
930 :カオス:2010/05/04(火) 21:37:30 ID:trUQ9lI80
飛翔って支部弱いのか。
みたいな流れ?
931 :カオス:2010/05/04(火) 21:37:57 ID:X2whDM6c0
でも新しいところに移動する時にはネックになるよ
支部先行
飛翔だっていつ支部の洗礼うけるかわからないしな
そのくらいのジャンルが出てこないと飛翔も下がる一方かもしれないけど
932 :カオス:2010/05/04(火) 21:42:26 ID:sn/CeCSIP
でも全国ほぼ同時期に見られるアニメと
933 :カオス:2010/05/04(火) 21:46:50 ID:SPNMUGn30
2,3週遅れとか未放映とか
飛翔は回線はともかく描き手は雑誌買いでネタ仕入れて即書かないと
934 :カオス:2010/05/04(火) 21:48:03 ID:+elydqgM0
全国同時に見られるアニメは今結構少ないぞ
違法視聴してるやつは多いだろうが
935 :カオス:2010/05/04(火) 21:49:36 ID:0WGwlJvs0
今全国同時に見られるアニメなんてプリキュアとネット配信くらいじゃないの
936 :カオス:2010/05/04(火) 21:50:12 ID:saEi8S+W0
アニメは無料ネット配信も増えてきたし地域格差は減ってる印象だけど
937 :カオス:2010/05/04(火) 21:50:37 ID:JSMV7BiC0
drrは一週遅れとはいえネットで無料視聴できるのが大きい気がする
有料でも1話あたりの単価も安いし
イケメンキャラに人気声優起用で流行やすい土壌が揃ってたんじゃないかな
938 :カオス:2010/05/04(火) 21:51:45 ID:fWFc6pzn0
同意。いい事もあると思うけど
上澄み部分だけすくって楽しんで飽きて他に移るのも早くなりそう
そういえば確かに飛翔系は支部あんまり目立たないね
支部ではジャンル自体も「無料」で見られる媒体のものが流行りやすい、とかあるのかな
ヘタとかアニメとか。
939 :カオス:2010/05/04(火) 21:53:26 ID:n4BPTxHV0
飛翔とアニメの違い、金がかかるところだろう
タダで見れるアニメをネタに、タダで絵を見てもらって評価を得られる渋は相性がいいんだろう
飛翔も違法DLで見てる人もいるだろうけどな
940 :カオス:2010/05/04(火) 21:55:04 ID:fWFc6pzn0
なんかやっぱり底の方に「不況の影響」、というか
基本的にまず「金のかからない」ものを選びがちな流れが
あるのかなーとか思ってしまった…
941 :カオス:2010/05/04(火) 21:57:05 ID:HV8gx0FA0
「話題になってるし、1度くらい見ておこうか…」が容易に出来る。
で気に入ったら「○○萌える!」ってファンアートをアップする。
これが連鎖するとすごく流行ってるように見えるよね
942 :カオス:2010/05/04(火) 22:09:25 ID:/p3Qi5ma0
好きなら買うけど興味では無料のものに勝てないし、
使えるお金は好きなものと面白いとわかっているものに優先的に使うんだと思う。
「買ってみるまでわからない」ものは弱いんじゃないかな。
だからランカーの本が売れるんだと思うよ。
A.誰も変態と呼ぶべきではないよ
良くわからないのが「世の中そうなってはいない」という事実が存在したとして、それが一体何を物語るというのだろう。
世間がそうだからといって「あなた」がそれに即した思想信条を持たなければならない理由は?
進め一億火の玉だ、お国の為に戦うぞ、というのが「世間」の風潮だったら竹槍でB29に立ち向かう訓練をするタイプだよね。
そして「それ」は現実にちょっと前の日本という国で起きた話なんだ。
戦争で日本が勝てるとか本気で思っていた国民が何割いたのか私は寡聞にして知らないのだけれども「お国」が怖くて多くの人達は従うしかなかった人もいるんじゃないのかな?赤紙、という召集令状が来るのを誰もが恐れていたのに送り出す時は涙を隠しながら万歳三唱をしていたという話はいろんな文献に載っている。
「世間」というのは、だから恐ろしい、というよりは「世間」を理由にしてはならない、と思う。ましてや「思想」を行政に委ねるなどという行為は余程慎重にしなければ危険極まりない行為だと思う。
とてもではないのだけれども「感情」によって思想を委ねるような大事なことを決定するような事は避けるべきだと思う。
勿論、「未成年者が性的な陵辱を受ける行為を肯定的に描く行為」を気持ち悪いとか怖いとか言う気持ちは十分に理解するし、そうした事を言いたかったり法の整備を願う気持ちを否定はしないよ。
個人的には他人に肉体的・精神的危害を与えない事なら何をやっても良いと思ってる。
SMだって怪我したり死んだりしなければ良いんじゃねえのと思う。八王子の監禁王子の裁判がこないだ開かれて話題になっていたけれど、ドアを部屋の中から出られないようにしてるとかは流石にどうなんだろうねえ、と思う。檻に閉じ込めるプレイはあるけど何日も監禁するのは流石にどうよ、と思うからね。余程当事者同士の了解がなければやったら裁判になる事だってあるでしょ。
小学生の女の子が30歳の年齢差がある男の人と恋愛沙汰になっていいかについては法律云々を除外して考えるなら精神的に未発達な部分があるからもう少し待ちましょう、としか言いようがない。日本国籍を所有しているなら16歳になれば婚姻出来る。
逆に言うなら16歳で婚姻出来るのに18歳未満の「未成年者」が性行為をする事は法律で認められているにも関わらず、その表現を抑止しようとする合理的理由が説明されていないのは謎といえば謎だよね。
で。同性愛。まー、釣りで書いてるのかなって思うけど、これは趣味とか嗜好とかじゃなくて生まれついてのものだから。中には思想的理由から同性愛に走る人もいるんだけれど、同性愛というのは左ききとかと一緒で「なおす」とか「かくす」ものではないし「いけない」ものでもない。個人的にはスカトロだろうがSMだろうが隠さなくたって良いと思ってるし、私も散々はてなダイアリで書いて来たように女装をして外出とかしてた人間なんだけど、恥というのは「世間」という構造が産み出したものであり、その世間というのは何処に存在するかというと「人からどう見られているのか」という眼差しそのものであり、結局は「私を眼差す私」なんだって事に気づいたりする。それを「世間」という存在するかしないマジョリティに肩代わりさせて言ってるに過ぎないって思ってる。世間という曖昧もこもこな、それこそ非実在世間とでも言えば良いんだろうか、「みんながそう言ってるから」っていう「みんな」って誰と誰と誰なんですかって話なわけで、そもそも数的に多かったら正解なのかとか従わなければならない具体的根拠は何よって話なわけですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20100324111235に「感情論で人を裁くのか」という話が書かれているのだけれども感情で人を裁く事があるという事実をもってして、気持ち悪い、怖いという「感情」で思想を法の下にひざまずかせて良い根拠にはならないと思うよ。
気持ち悪いとか怖いというのは個人の価値基準でしかなくて、それを言い出したら「怖いというあなたが怖いので、怖いというのをやめてください。そうしないと私の恐怖を取り除く事はできません。どうしてもやめないのなら法にするべきです」と言ってしまう事だって出来るでしょ。
先ず、いろんな「人」と逢い、話を聞くこと。趣味や嗜好以外の「人」の部分で話し合えない人というのは殆どいない。
少なくとも私は出逢った事はない。
大抵の意見の相違は「ぼたんの掛け違え」を超えるものではない。人はそれをエゴと呼ぶ。
例えば私はうんこは食わないし、食いたいとも思わない。目の前でうんこを食うプレイを見たいとも思わない。
同じように「未成年者が性的な陵辱を受ける行為を肯定的に描く行為」を見たいとも思わないし、極端な話そんな描写満載の漫画とはこの世の中から抹殺されてしまっても構わないとすら思っているよ。
だけれど東京都((ではなくてもどの行政でも良いけれど))が「法律で」表現に対して「あれは駄目、これはオッケー」と決めるのってどうなんだろうね、本当にそんな事をして良いの、という疑問がある。だからちゃんと話しあおうぜ、というのが私の考え。
個人的には子供にロリエロを見せる事はないでしょう、と思うんだけど、じゃあビニール袋に封入したらロリエロ野郎が減るわけじゃないよね、とも思う。ロリエロ読めないと犯罪しちゃうぞゲヘヘヘヘって言うわけじゃなくて、増える事はないかもしれないけれど減る事もないんじゃね、と思う。規制されたら減りましたとか増えましたって数字は知る限り存在しなくて、じゃあ規制しても良いだろって事を言い出す人もいそうなんだけど規制しても「隠される」だけで、まあそれで安心っていうのはなんか変な話っていうか、臭い物に蓋をしたらもう安心みたいな何も解決になってないじゃんっていう。まあ解決しようもないんだろうけれど解決しようもない事にわざわざ法律という網を被せなければならない理由が「怖いキモい」はどうなのかなあ、と思うし、エロロリにビニール袋被せても状況は変わらないと思うよ。ハレンチ学園は禁止にならないって話もあるように絶対「漏れ」る表現が出て来て、じゃあそうした「漏れたもの」を見て不快に思ったらどうするの?規制強化を訴えるの?その先にあるのは何?って思わないのかな、思わないか。
で。ちょっとだけ寄り道的に自分語り。
私はローマンカトリックをあつく信仰している両親の元に生まれた。
従って幼児洗礼を受け、物心ついた頃には「日曜には教会にいくもの」と決まっていた。
キリスト教の事について知らない人もいると思うけれど、当たり前のように東京都の青少年うんたらなんかよりずっと厳しい戒律がある。知ってる人もいると思うけど「汝、姦淫をするな」というアレね。
まー、アレはモーゼの十戒って奴でキリスト以前に存在した言葉なんだけど、って話をしはじめたら長いんで省略するんだけど、「汝、姦淫をするなかれ」の「姦淫」をどう定義付けるかというのかって言う話なんだけど「結婚したら貞操を守れ」とか「レイプすんじゃねーぞ」って思われてるかもしんないんだけどそうじゃなくて結婚する迄貞操を守りましょう、一度相手を決めたなら、他の異性を性的な眼差しで見たり、あるいは心の中で「良いな」と思ってはならない、というのが「姦淫するな」という事です。
結婚する迄貞操を守れとかって、某掲示板の人達が手を叩いて喜びそうだけど、じゃあ「あのコかわいいな」ってちょっとでも思ったら姦淫の罪っていうのも大変だよね。でもまあそれが当たり前だと思っていた私にとっては助平な話をするクラスメイトとかその手の本を持ってくるクラスメイドが大嫌いだったし憎んでもいたし反発もした結果、いじめを受けた。
で。18歳になるくらいまでこうした事の意味がわからなかったりしてロクに友達も出来ない儘、図書館にある本だけが自分にとっての情報源だったんだけど((私が子供の頃はインターネットなんて存在しなかったからね))、いろいろと読んでいるうちに「自分の考えは間違っているのではないか」と思うようになった。
その理由の一つに「自分は左ききである」というのが起因している。キリスト教は特段に左利きに対して定めているわけではないのだけれど「神の偉大な右の手」みたいなフレーズが出てきたり十字を切るとか聖体拝領とかを左手でやると物凄く怒られたのね。自分はだから、自然に左手を使ってしまう自分を「悪い子」だと思っていた。
そんな体験を持つ私が敢えていう。思想信条は国家が抑制してはならない。どんな神を信じるのかが自由であるのは、神を信じない自由が保障されてこそなのだ。あなたはキリスト教を信じる事が法律で決まったら、それに従うのだろうか。こういう書き方をするとキリスト教を馬鹿にしていると思う人がいると思うのだけれど、決してそうではない。私の父はキリスト教と共に生き、教会とともにあり、キリスト教に多くの貢献をし、多くの人に愛されながら逝った一人だからである。私の父は父なりの人生を歩み、幸福であったと確信している。
しかし、父は父、私は私なのである。
それぞれの人生が異なるように、何を信じ、何を信じないのかを決めるのは、その人に委ねられるべきであり、決して行政の手に委ねられてはならない。
さて。私は自称売れない絵描きとプロフィールに示している、利害関係者の一人だからポジショントークだと言いたい人もいるらしいんで、可能な限り利害関係にないと思われるところから発せられている反対表明のリンクを書いてこのエントリを締めたいと思います。勿論、下記のリンクを示す事が私の言説の正しさを示すものでも、未成年者児童に対しての表現抑制を主張する人の意見が間違っている事を証明するものでもありません。単純に「こういう人達が、このような立場から意見を表明している」という事実を示したうえで「どう考えるのか」を皆さんが考える一助となれば、と思い、示しています。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/data/100318_3.pdf
日本弁護士連合会による反対表明。
http://www.jla.or.jp/kenkai/20100317.html
http://miau.jp/1268478000.phtml
miauによる反対表明。
http://nbi.sfc.keio.ac.jp/files/statement_20100312.pdf
ネットビジネスコンソーシアムによる反対表明。
あなたがたが通うことになる早稲田大学は、1学年につき約1万人ほどもの人が通うマンモス校だ。当然いろんな人がいる。いろんな出会いがあり、いろんな出来事が待っている。
それは数ゆえの、そして早稲田という土壌を目指したある種の人々が織りなす一大青春劇! である。
その劇中でどのような役割を演じるのか、どう動いていくのか、というのは、個人の意識に依るところが大となるのはもちろんのことだ。
しかしもう一つ、大きな脅威が、早稲田で暮らす者たちを待ち受けている。
それは学友たちでも、教授がたでもない。左翼や宗教の勧誘でもない。
最大の敵にして、現在の学生が抗えず、また抗おうともしない相手…… 『早稲田大学職員』である。
四月一日の入学式に向けて、すでに東京入りしている新、一年生も多いことだろう。
大学側から公布された大学全体の入学式、そして学部入学式。科目登録の日付を手帳に記して、新しい日々に夢を膨らませているかもしれない。
マイルストーンを購入して、授業やサークルの情報を読み込んでいる人もいるだろう。
大学生活の日々を活力にあふれたものとするものの最有力候補、サークル活動。 私もこの大学の四年間は、イコールサークルでの四年間であった。
早稲田大学に存在する、公認、非公認問わず全体で数百にものぼる数のサークルたちは、春になると例年のごとく、戦争に突入する。
入学式に参加する新入生に甘言の羅列されたビラをバラまき、大学構内にブースを並べてカワイコちゃんをはべらせ、新入生はタダだと謳い飲み会に誘う。
あらゆる手練手管でほかより多くの新入生を取り込み、その戦力を強化せんとせしめる。
その争いは熾烈を極める。走り来る自動車を物ともせず、警備員は総シカトである。新入生が手を差し出そうものならば、いたいけな彼(彼女)が思った10倍のビラが返ってくるとみてよい。
すべてが去ったあとには、踏み散らされた哀れな紙吹雪しか残らない。
これが通過儀礼であり、また儀式を遂行する首長たちの姿なのである。
ところが近年、この自然な営みを圧迫する、大きな陰が早稲田大学を覆いはじめている。
この『新入生歓迎』行事という儀式の姿を、根本から変えようとする勢力が、早稲田大学には潜んでいる。
さながら中世における西洋からの侵略者。その圧政の影響は、私が入学した頃からこの儀式の様態をたどれば明らかだ。
私が入学した2006年、新勧活動における最初の洗礼は、(事前に大学に来たものでなければ)戸山キャンパスの正門である。
新入生は、全体入学式をうけるために正門から体育館まで歩くことになる。その道は数多の上級生によって作られ、
体育館に入るまで、両脇に並んだ上級生にビラを渡され続ける。一度手を出したが最期、その上に積み重なること山のごとし。
次の年、2007年以降、戸山キャンパスにおける以上のような新勧活動は禁止された。
基本的に、大学での新勧活動は、大隈講堂で行われる学部入学式か、大学構内に構えたブース、そして戸山キャンパス脇にある学生会館内に限定される。
早稲田に(ほぼ)初めて訪れた新入生を圧倒し、勢いでサークルに勧誘するという極め技を奪われたのである。
この時点で、上級生、そして新入生においても、話術があまり得意でない者が、新たな繋がりを得る可能性が一つ、失われたことになる。
翌2008年は、私も幹部学年として新入生勧誘にあたっていた。この年については、あまりに忙しすぎてよく覚えていない。
さらに翌年の2009年は、就職活動で忙しくあまり顔を出せず、覚えていない。
そして今年、2010年度の新勧活動は、著しい制限を受けることとなったようである。
それは、新勧活動を許可される時期の早期化だ。
例年の新勧活動は、4月1日から一週間弱ほど行われていた。
それが今年は、3月30日から4月3日までしか許可されないというのだ。
この、『許可』というのは、大学構内でビラをばらまいたり、ブースを設けることが出来る期間であって、各サークルが独自で行う飲み会や、部室においての新勧活動を含むものではない。
しかし、より多くのサークルに、よりオープンな感覚でもって接することができるのは、野外に設置された、「誰でもカモン」「誰でも見やすい聞きやすい」ブース、そして数多くの勧誘員とふれあう『新勧活動期間』である。
入学式が始まるのは、例年通りの4月1日。
この始まりの日よりも前に、誰が早稲田大学を訪れるだろうか。
もちろん、いち早く情報を得ていたり、気の早い者、モチベーションの高い者、行動力のある者は30日から大学へ向かうだろう。
しかし早稲田大学は、そのようなものばかりでもない。
多くの新入生にとって、学生生活を充実させるはずの素敵な出会いが失われること、必定。
このような 改 悪 を決定したのは一体どのような勢力なのか。血気盛ん、天下無双のアウトロー集団たる早稲田大学の学生たちに、このような理不尽を強いることが可能なのは誰か。
それが、 早稲田大学職員 なのである。
彼らは私たちの学生生活を陰から監視している。
私たちの親から余分なほどに吸い上げた養分で腹を膨らまし、私たちの自由を、青春を、なんの考えもない規制によって締め付ける。
これはなにも、新勧活動に限ったことではない。
学生会館は彼らによって完全に管理され、開館時間や部屋の利用、部室の使用権まで、私たちは「与えられている」状態だ。
夜22時まで残っていれば、わざとかと思うほどにいやらしい警備員の館内放送を聞くことになるだろう。
大学のネットやシステム関係はザルで、少しでも変な登録、操作をしようものなら部室のキー登録が消え、ネットの使用が不可になる。
迅速なアフターケアはない。
大学で授業があっている時間は、09:00から21:30である。
彼らは0900から1700までしかいない。
一般企業、大企業、公務員、など様々な職種への就職活動を支援する就職課の職員は、どう見てもエキスパートに見えない。
なにごとにも融通が効かない「お役所仕事」。これが、すべての職員に通じる言葉だ。
そして少し調べればわかることだが、彼らは、 なかなかに、 高給取り である。
彼らは私たちの大学生活に必要なものではあるが、不必要な部分もおおいにあるように、私はこの四年間で感じた。
このような、決して便利ではない、しかし不可欠な大学職員が早稲田大学には巣食っている。
彼らはこれからも、私たち学生たちの自由をせばめ、彼らの怠慢を増やしていくのであろう。
そのことに気付かずいや、気づかないフリをして、「円満」に学生生活を送ることは可能だ。
しかし、私たちは入学した時点で、すでに既得権益によって不自由を強いられている。その事実は、決してなくならない。
私たちは、戦うにしろ、無視するにしろ。 それを知った上で、自分なりの行動をとることを迫られているのである。
………………だから、 新入生のみんな、 3月30日から、新勧活動やってるので、早稲田大学にきてね! (私は卒業しているのでいませんケド
*大なり小なり、様々な誇張を伴なう表現を駆使しておりますが、言いたかったことは結論の一文くらいです。すべてが真実であるという保証はありません。
この言葉は、見事に言語学習者の自負や自信や、その人自身の人生を否定する。
言語を喋れるようになるってことは、人格を新しく作るって事だ。
新しく作って、同化する。文学的に言えば、すでに完成した粘土細工に、新しくパーツをくっつけてこねる感じ。
その、新しい自分を理解されないような気がするんだろう。
「日本語、外国人にしてはうまくこなせますね。まぁ勉強したんでしょうね」
という風に聞こえるんだと思う。
「上手」というのは、少し器用だ、とか、小手先で、とか言う印象を与えるから。
言ってる側からすれば、褒めたつもりなんだけど、世界中のほとんどの人は、言語を学習する苦労をあまりしらない。
だからその差がこの言葉に表れる。
言われた側も、どうしてそんなに嫌なのか、はっきり分からない。
「お前は俺の苦労を知らないだろう」といえる様な仲でもなくて、拒絶されたような気がする。
そして、「僕は日本人でもなく、アメリカ人でもなく、何なんだ」
という帰国子女が持つような悩みを持つ。
一体、なんなんだ。
言語学習は、思った以上に、今まで持ってた価値観や、生き方に影響を与える。
若いころアメリカに行っていた友人を何人か持っているけど、みんな明らかに違う。
(アメリカというのは、やはり沢山の人を惹きつける上手な国だ)
彼らは言語を僕よりももっと自由に操るけど、やはり日本人とは違うという意識を持っている。
魂に影響を与えるといえばいいのか。
グローバルなんとかとかいっても、言語的には、世界中のほとんどの人が単一言語で生きている。
グローバルなんとかは、ほとんどの人にとっては、iphone を世界中で使えたり、日本企業のトップに外人が座るとかいう、そういう意味しか持たない。
いまだにオリンピックで自国の選手を応援してるし、外人に会うと逃げる。
その中で、どうしてバイリンガルになるんだろう。
僕自身は、頭では日本でも、どこでも、人間というのは同じだと思っている。
どこにいっても、人間関係で悩むだろうし、くそみたいなやつらはいる。
結果はわかっている。
しかしそれでも、知らない言語を学ぶこと自体が、自由な気分を与えてくれる。
みな、そういう気持ちで勉強をしてるんじゃないだろうか。
「日本語上手ですね」は、本当にその文化に入り始めたという、ひとつの洗礼だ。
言語学習者なら誰でも、ここで笑って「ありがとう。うれしいです」
と素直に受け止めることが、本当に上手になる方法だと知っているはずだ。
がんばろう。
http://anond.hatelabo.jp/20100217113611
http://anond.hatelabo.jp/20100217224011
ただでさえ学生が少ないのに、男の上智生(しかも文系)っていたらレアモノなので勢いで書く。
上智の最も素晴らしい点は、大橋アナとか海老様の嫁とかを輩出した女子の戦闘力の高さ、という意見もあるけどそんなの一部しか享受できないので無視。
全学生が喜びに震えるのが四谷駅から徒歩90秒で門に辿り着ける立地!これに尽きる。
すごいよね。駅でたら見えるもんね。門が。
これにより、大学近くに住む必要性も減り上智生は住居選択の幅が大分広くなる。
*そもそもオフィス街の為、学生向けの住居は少ないので最初から切ったほうがベター
中央特快も停止する懐の深さ!飲み屋もスーパーもラーメン屋も豊富で、皆が大好きサンプラザ中野ブロードウェイのお膝元だ!
高円寺~荻窪に住むと「しんみち通り」で飲んだ後、特快と気付かず乗車。
うっかり吉祥寺あたりまで連れ去られる。
気付けばいいんだけど、そこで寝てたりすると高尾山でハイキングして帰ってくる羽目になるから本当に注意だ!
不動産屋選びは匿名ダイアリー読むくらいの余力があるなら、いくらでもコツまとめ記事が見つけられるだろうからそれに従いなさい。
早稲田の人も書いてるけど、乗り遅れたら5月まで待ちな、ほんとに。
俺、夏に死ぬほどバイトして、半年で引越しを強行する羽目になったよ。
1位:中野 2位:代々木or阿佐ヶ谷 3位:幡ヶ谷or笹塚あたりからチャリ通
したがって「一人暮らし大変で・・・」みたいなトークで共感を得ようと思っても、ほとんど理解されない!ドンマイ!
学科ごとの授業選びのコツだとか、留年しないコツだとか、シラバスだなんだってのはあの「オリキャン」っていう謎の一泊二日で先輩からシコタマ聞きだすんだ。
ただ、もしコレを読んでる中に女子がいたら注意して欲しい。
間違いなくその先輩と付き合う羽目になる。というか、二年生以上は毎年、下級生と付き合うためにそれに志願する。
ウキウキの4月で先輩にツバつけられたら、GWや夏休みに待ち構える楽しいサークル活動で素敵な殿方とのラブメイクも遠のくぞ!
身軽でいろ!最初は!騙されんな!
男子!ゲンナリしてる場合じゃない。
いいか、お前らが入ったのが例え年中ツナギの工学部でも、お嬢様だらけの仏文でも、等しくチャンスが与えられるのがこの二つだ。
チャンスとは何か?他の学部学科の可愛い女子(法学部が圧倒的破壊力)と知り合うチャンスだ。這ってでもイケ!
生徒人数が少なく、どうやったって友達が出来る仕組み(理由は英語の授業の特殊性にあるんだけど)の上智にあってもこれは必須要素。
他の大学と違い、体育会系がそこまでイケイケではなく、非常にバランスが良い。
特に文化系な君達、輝けると思う!
個人の興味で選んでいいと思うけど、理系ならテニサーはいるべき。
俺と同じ文系の君は溢れんばかりの女子にまみれて勉強しなきゃならんので、サークルくらいは男臭くてもいいと思うよ。
インカレ系はいるより、上智らしくインターナショナル系のサークルにはいっておくと英語がびっくりするほど喋れるようになります。
繰り返すけど、ぼっちにはなりにくい大学だけども、結局は個人次第。
もう大学生なんだから、まずは笑顔で元気よく挨拶。これ、忘れんな!
マジで超裏技で実行したことがある人は俺の知り合いにはいませんが、上智学生同士で結婚してしまうという技があります。
これをすると学費がタダ?だっけかな。まだあるといいね、この制度。
プール券ってのが毎年10枚もらえる。
ほとんどの人は使わないので、これをもらって夏は毎日タダで泳げるね!
女子と一緒にいくとキャッキャウフフできて楽しいですよ。マジで。
あとサークル棟にはタダで入れるシャワーがあるので、貧乏学生謳歌中の人はここでいつでもキレイになれます。春日もびっくり。
学食は「まずい・高い・少ない」の三拍子がそろっているので、近くのしんみち通りの居酒屋ランチか、お弁当を推奨します。
SJハイムとかクルトゥルとかイグナチオとかは、洗礼を受けていない人間はまず入る機会はないけども、イグナチオのクリスマスミサは一度くらいは行っておくと見識広まるかも。
最重要ワードを伝え忘れてたけども「8ピロ」とかっていうワードを聞いたら、それは8号館下のピロティのことだ。ピロティがわからないひとは「コルビジェ ピロティ」とかでググれ。
それぞれのピロティはサークルと学科が代々受け継ぐたまり場になっている。
メンストってのは大学のメインストリートのことで、北門から続く一本道ね。
スケボーに乗ると怒られるので注意。
入学したてのお前らに絶望的な宣告をする。
四年後、卒業して社会に出てみろ。世の中の女子のほとんどは上智の学生より可愛くない。
いいか、お前がこれから遭遇できるかわいい・キレイな女子のほとんどはそこにいる。
今おまえが手が届く範囲のそこにいるんだ。
だからこれからの四年間、どんなに授業がタルくても、寝坊しても学校にいけ。
そしたら、あっという間に就職も決まってるし、卒業も出来るし、何より素敵な生涯の伴侶を手に入れることが出来るよ。
合格おめでとう!
ライヴハウスでもみくちゃにされながら考えたこと
日々暮らしていると、みんな大人になりたくないんだなぁと感じることが多い。成熟の拒絶。やたらと年齢を気にする。30も過ぎりゃ男も女も口を開く度に「俺はおっさんだから」「私はおばさんだから」。神様がいないって言われてるこの国だけど、若さに対する信仰は驚くほど異常だ。八百万のロリコン神様が持て囃されている現状に、いい加減ウンザリ。例えネタでもいい歳した男が、つるぺた幼女だなんだと口に出しているのを聞くと吐き気がする。
大人いいじゃん、大人。だって自分の好きな所に住めるんだよ?好きな物を好きなだけ食べ続けても誰にも怒られないし。子供の頃の私は早く大人になりたくて仕方なかった。大人に低く見られることが悔しくて堪らなかった。早く力を持ってそいつらを片っ端からぶちのめしたかった。小さくて無力な自分が恨めしかった。
例えば、豊かな感受性を持った一人の子供がいるとする。そしてその子は成長していく中で様々な体験を経るうちに、現実的な夢のないつまらない大人になってしまう、というような見方があるとする。果たして本当にそうなんだろうか。溢れた川をワクワクしながら見に行っていた子供の私は現在、台風が家の軒下をガタガタと揺らす音を聞くと、ドキドキ胸踊ってしまうような大人だ。何も変わらない。
例えば、大人は分かってくれない、という考え方がある。大人は若者の瑞々しい気持ちを理解できないし、それどころか迫害しようとさえする、ということになっている。世間的には。本当にそうなんだろうか。幼い私は、深く共感できる大人がいることも知っていたし(主に書物の中だけでだが)、一方で、全く分かり合えない同級生と日々諍いを繰り返したりもしていた。
私は人の本質なんてそんなに簡単に変わらないものだと思っている。だから世の中がすぐに、素晴らしい子供と醜い大人という構図を持ち出したがる意図が分からないし、違和感を覚える。多少その姿は変われども、素晴らしいものは今までもずっと素晴らしかったのだろうし、そしてこれから先もずっと素晴らしいままだ。ただそれだけだ。
音楽の洗礼を静かに受けた少年少女たちは、きっと大人になろうとも音楽の場へ足を運ぶだろう。だからどうかみんな、素晴らしい人のままでいて下さい。どうか素晴らしい大人になって下さい。そして身に付けたその強大な力で、共に世界を変えましょう。世界には大勢の素敵な大人がいて、ちゃんと手を差し伸べています。見えていますか。待っています。
記念に書いておく。現在28歳。
喫煙は18歳のころから。大学生になって地方から出てきた俺はサークルの中心人物だった先輩と早く仲良くなりたくて、真似してタバコを吸うようになった。
最初のうちはうまさもなにもわからなかったけど、大学1年のある冬の日にちょうどタバコが切れてしまい、部屋中の服のポケットにタバコが残っていないか必死に調べたときにこれが中毒って奴かと実感した。会社に入っても上司がちょうど吸う人間で仕事の相談もタバコ部屋でしやすかったので特に禁煙を意識したことはなかった。
禁煙のきっかけはこの季節の変わり目におきた抜け毛。最近抜け毛多いなーぐらいの気持ちだったのが、ある日排水溝にガッツリたまっているのを見てハゲるという尋常じゃないぐらいの恐怖心に襲われた。
生え際よりも後頭部がやばいこともあり原因をいろいろ考えた。結論は出ていないけど、きっと今までのツケだろう、と。その中の原因の中にタバコも十分に考えられた。血管を収縮させる作用のあるものが頭皮にいいわけないし。
で、禁煙を始めた。
正直俺はプライドが高い人間なので、あえて禁煙宣言を会社でした。
これで失敗=かっこわるいという状況になった。ついでに言えば禁煙太りもかっこわるいことになった。
あと無駄にお金をかけたくないので、特に禁煙補助剤も使わなかった。
はじめのうちは悪友というものが異常に喫煙を勧めてくる。えらい迷惑な話でもあるが喫煙者ってのはそういうものだから仕方がない。俺も禁煙をする人間によくやっていた。ある意味洗礼だ。
しかし、それも会社で禁煙宣言をしたこともあり周りの茶々や、なにより髪の毛のためにという決意で揺らぐことはなかった。
プライベートでも彼女に禁煙宣言をしたら基本喜ばれることしかなかった。よい自己満足になる。
もともとお酒を飲まないタチではあっても飲み会は好きな方だったのでここが一番厳しかった。酒も飲まない、周りは吸う、太りたくもないときたら手持無沙汰になること間違いない。同様に待ち合わせのとき、仕事で休憩するときなどいつもタバコを片手に過ごしていたイベントのときがきつい。これはすべて、ハゲたくないという想いの強さが勝った。
どうしても食事量が増えるのは否めなかったのでジムに行くことにした。
すると華奢だった俺だからこそわかりやすく筋肉がつくのもわかり、またスタミナも増加するのが実感できた。運動したあとはタバコ吸いたくなる傾向にあったのだがそのままジムの風呂→サウナとやればそんな気持ちもすぐに消えた。
よく雑誌とかネットでは3週間と3カ月がポイントというけどあんまり納得度は高くない。
今も吸いたくなるし、それと同時にタバコの臭さは体調が悪くなるかと思うぐらいにニガテにもなる。
顕著なのは夢の中。夢の中で吸っていることがたまにある。そして目覚めるとものすごいやっちまった感があり、夢で安心する。
悔しい夢だし、禁煙には夢も希望もないけど、そんなもんだと思う。
まじで、髪の毛がフサフサになった!!
http://anond.hatelabo.jp/20090910183829
元増だけど、幼児洗礼というか、それこそ乳児の時からの洗礼だから、一神教的な考え方はやっぱり結構強かったんです。仏教や哲学を学んで、神はいろんな形を取るという理解に今はいます。神的なものの表れをある人から見ると一神教的神になったり、仏になったり、神社の神様になったりという感じ。都合良いというか、いい加減というか。でも、はじめに僕の肩を叩いてくれたのはキリストさん、という縁はあります。彼を知ったからこそ、マザーテレサだけでなく、八幡さんや空海さんや一休さんに出会うことができたと思ってます。
で多分増田もわかっていると思うけど、僕が前の日記で言及したのは、その「一神教的」な神のことです。
曰く言い難いけれど、ちょっと、抽象的な感じがするんですよこの一神教というのは。
>>しかし、なんにせよ、アニミズム的な神道と一般的神や信仰とは異色の仏教とを、さらに神仏習合を経た
信仰云々より親のほうが重大な問題な気がする。
子供に「よく」使用後ナプキン見せつけるなんて異常だよ。人間として、母親として、違うと思う。
血まみれうんこまみれで生まれてきたという、自分に嫌悪感を持つかもしれない言われようは、子供にはきつすぎる。増田、よく耐えた。
まあ、それが本当であれば、腸が破れて死ぬところだったんだろうから、語りたくなるのもわからなくもないが、やっぱりダメだと思うですよ。
幼児洗礼の人は信仰が生活の一部になってしまっていることが多いので、それから離れるということが非常に難しいと聞いたことがある。
しっかり見つめて、最終的には自分と対話していくしかないと思います。
がんばれ。
http://anond.hatelabo.jp/20090910042302
僕は幼児洗礼なので、いわば親から信仰を押しつけられた面があります。
だから、神の存在を「肯定」するか「否定」するかの二つしかない。だけど、もし、信者でなければ、特に日本にいれば、「神」を意識することすら無かったんじゃないかと思います。
こういうの見るとキリスト教の信仰がもうこびりついちゃってるんだなぁと思う。いかにも一神教だなぁと。
日本にいる一般の人は、初詣に神社に行ったり、受験でお守り持ったりします。
結婚式で神様に愛を誓ったり、亡くなったらお弔いをしたり、困ったときに「神様仏様助けてください!」って思うこともある。
それはあなたの信じるところのキリスト教の神様であったりなかったりするけれど、でも神様です。日本におわす八百万の神様です。
日本人は信仰を持たないと言われている。確かに、日々祈るという意味での信仰は持たない人が多い。
http://anond.hatelabo.jp/20090910014230
僕も、中・高校生のころ、キリスト教を信じてしかるべきか?と悩んだときがある
キリストは、踏み絵を踏んだ人の痛みに涙するだろう、ということを言っていた。人の弱さに寄り添う存在だと思う。それが、「心貧しき人は幸いである」ということだと思う。
カトリックの話が続くので恐縮だが(なんとなく、あなたはプロテスタント、のような気がする)、僕の行っている教会の、ヨーロッパ人の神父さんと、日本人たる僕の信じているものが、違うものじゃないかと感じた時もある。だけど、教会にはヨーロッパ人だけでなく、フィリピン人も沢山来たり、ベトナム人も沢山来ている。キリスト教はやっぱりヨーロッパが本場だけど、だけどフィリピン人のキリスト教も、ベトナム人のキリスト教も、もちろん、日本人のキリスト教も、それぞれ、別なんじゃないかな。それはそれで良いんじゃないかなあ、と思います。それは、遠藤周作の「深い河」を読んで感じました。
いろいろなキリスト教の姿がある、と分かると、まあ、カトリックでもいいんじゃないのかなあ、という余裕が生まれました。最近では、プロテスタントとカトリック間の対話(エキュメニズム)をやっている人達もいるので、そのあたりも調べてみるとおもしろいのかもしれません。
僕は幼児洗礼なので、いわば親から信仰を押しつけられた面があります。
だから、神の存在を「肯定」するか「否定」するかの二つしかない。だけど、もし、信者でなければ、特に日本にいれば、「神」を意識することすら無かったんじゃないかと思います。
運営側は何かしら対策をすべきである。
特にSA。
初心者ルームの半数近くがまったく初心者じゃない動きをし、本当の初心者は殺されては生き返り走り回ってる途中殺されてはryを繰り返す。
あれはくっそつまらない。本当につまらない。
で、なんとかならないかとぐぐっていると、たまーに初心者狩りをやってる人が、「これが洗礼だと思って上手くなれ」といっている人がいるのだが、大人が子供をぶん殴って強くなれといってるようなもので、気色が悪い。
で、SAは子供をいじめてストレス発散してる人があまりにも多く、本当につまらなすぎたので、ブラックショットにチェンジ。
ここはある程度うまくなると初心者サーバーにはは入れなくなる。
それでも毎ルーム1、2人KDが70%超えがいるのだが、まあ無視できるレベルなのでそこまで気にならず、何よりも楽しい。
はじめて5日間になり、初心者ルームの中で平均的に上位に組み込めるくらいまで上達した。
そこそこの武器とそこそこのPSがあれば、そこそこ死なずにすむ。
全てのFPSはこうせねばならない。
そりゃSAで初心者狩りに数百回瞬殺されてもめげずにしつこく練習してればそれなりに上達するかもしれないが、どこにあたtっても一撃で死んでしまう卑怯な武器とそれを使いこなせる人が初心者ルームにカサカサ集まると、本当につまらない。
というわけで、これからFPSをはじめる人は、まずはブラックショットの初心者ルームのハンドガン戦を選択し、「殺せないけど、すぐには殺されない」環境でやるべし。
そうすればダメージを食らえば、どの方向から食らったかわかるし、何を見落としていたかわかる。
それに運がよければ頭に当てて倒せる。
1,2人しか倒せず10何回死ぬときも最初はあるだろう。
それでも「参加してる」という感覚は見事に得られるので、ぼこぼこにされてもイライラしないのである。
まったくの初心者がちょっとは楽しめる土台を作っておかないとだめ。
SAは本当つまらない。
もう3度目だ。
足でも手でもSR熟練者から受ければ即死、復活したとおもったら待ち伏せしてる人に再度殺され、ただ走り回るだけで撃つ練習をしている暇がない。
「いろんな人がいて当たり前、強い人がいるなら練習になっていいじゃん」
ばかか?練習にならないのだよ。
SR使用禁止ならまだ撃たれても逃げるか隠れるかできるので、まだマシだけど、歩きながら狙ったりジャンプしてよけたりとかしてる暇がないのだよSAには。
自分がいい加減な人間だということを認識したのは、高校生の最初の定期試験だった。
いや、正確に言うと、そのときに認識したわけではなく、大学受験に失敗して自分の人生について(たった18年だが)反省をしていたときに、高校生の最初の定期試験に対して「ああ、良い具体例だな」と思ったわけ。
単純に考えれば、進学時によくある洗礼なんだよ。
進研ゼミのDMの漫画にあるような、「高校生の勉強は中学生とは違う!」という脅しのような、でも、実際の話。
それまで、つまり、中学までは、自分は勉強らしい勉強はしていなかった。あくまで、「勉強らしい」という部分が大事で、まったく勉強していなかったわけじゃない。教科書は配られた日にはあらかた読んでしまっていたし、暇なときも読んでいた。親は漫画やらゲームやらを買ってくれる人ではなかったから、それしかなかった。
そんなわけだから、授業のノートも適当にしかつけていなくても、試験期間前に努力せずとも、基本的に成績は超絶優秀だった。当たり前だろう、四六時中、それこそ暗記するまで教科書を読んでいるような人間だったんだから。
これについては、余談だが、言いたいことがある。
「子供のときは努力で差がつく。大人になったら努力では差がつかない。才能で差がつく。そして努力しない奴はひたすら落ちていく。」
一般化するつもりはないけど、ま、そんな気がする。
で、話を戻そう。想像するまでもなく自分は相当尊大な自意識を持って高校に入学した。もちろんトップクラスの進学校だ。
最初の定期テストまで、本当に中学校の延長で「勉強」していた。試験前も最初から試験を切っている奴や試験から逃げているような奴と一緒に部活に精を出していた。
いや、結果をみてビビったよ。人生で90点以下の試験なんて、小学校の時に無理やり受けさせられた日能研の全国実力試験の時以来だったから。無理やりというか、母がママ友から「一緒に受けよう」といわれて断りきれなくて、そのとばっちりを受けたのだけど。しかも、あのときは、何十人か一緒に受けた同級生たちの間で唯一全国ランキングに名前が載ったし、教科書にない問題は基本的には解けなくて当たり前と当時は思っていたわけだから自尊心に傷は付かなかった。
また、脱線した。要するに、高校の最初の定期試験の点数をみてビビった話だ。平均点以下だった。自分では正解を書いているつもりが、結構間違っていた。しかも平均点以下。おいこいつら、みんな俺より頭がいいのかと思ったら、冷や汗の出る思いがしたが、あとで、話を聞いて驚いた。過去問があったらしい。
さすがに将来シケプリを作成するような連中は違うなと今なら思うけど、まあ、最初は酷く彼らを嫌悪した。
それでも、90点以下の点数を取ったという事実に変わりはなく、そのことが自尊心を大きく傷つけた。それでも「教科書はトモダチ、恐くない」な自分からすれば、試験前の期間に試験対策をすれば、また再び成績優秀者に戻れたんだけど。とにかく、定期試験なんてそんなものだ。自分のターニングポイントは其処だったのだけど、まあ、当時は気が付かないよな。とにかく、いい加減な人間だ。<先頭集団にいられれば、それでいい>と思っているのだから。何か、野望とか目標とか夢とか、そういった焦がれるものがなかった。ただ、「下は嫌だな」と漠然とした感覚だけがあった。だから、ダメになってから気が付く。それは、攻めて行って失敗した<ダメ>じゃなくて、<なんか、これじゃダメ>の<ダメ>だ。
部活仲間に「お前みたいに『何でも常識の範囲だろ?』って顔をしている奴はいつか痛い目に合う」といわれたことがある。多分、本人も親や先輩や、塾の先生かしらないが、言われたことがあるのだろう。
一浪して、必死こいて勉強して、東大に入ったが、そこで再びビビッたのは、どんだけ努力しても勝てねぇっていう連中に何人も出会ったこと。何を血迷ったが、自分はそこで降りてしまった。競争することから。意識して努力することから。もとから、そういったものからは半分足を踏み外している状態だったから簡単だった。あとは、もう、流れるようなものだ。「下でもいいか」と。
といわれたときに耳が痛かった。
<先頭集団にいられれば、それでいい>といういい加減なモティベーションは、先頭集団に入れないとなったときに、いとも簡単に外される梯子だ。高校の部活仲間に言われたように、僕は痛い目に合った。僕のいい加減さが招いた結果だ。
いわずもがな、 某エントリーを読んでいて思ったことを書こうと思う。
できるだけ短く済ませたいけど、テーマの性質上むずかしいかもしれない。
件のエントリーは、結局FFとWoWの比較を行っただけで、結論する事を放棄してしまっているように思う。
なので、僕が変わって代弁しよう。自信がないので、この誰も見なさそうな、匿名ダイアリーの片隅で。
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20090625
ブログ持ってないし、ここの使い方がよくわからないのでリンクを張ります。
これでトラックバックできてるのかな。
とりあえずこちらを一読してください。
当方WoWを一時期どっぷりハマっていて、だいたいこちらのエントリーは概ね同意できた。
FFは件のエントリで言及されている「idleタイム」ってのが本当に長い。大いなる期待を胸に、ヴァナに飛び込んできた新人冒険者に対して、最初に与えられる洗礼は、これじゃないだろうか。
「え、戦闘って見てるだけなの・・・」「座ってるけど回復してるのかな・・・コレ・・・」
っていう。
気がつけば二時間ほど過ぎて、「なにやってんだオレ・・・・」と思って、ログアウトしたが最期。もう二度とログインしなかったユーザーも結構いるんじゃないかな。
WoWはその点、一回あたりの戦闘がスピーディで軽快だった。すぐ体力も回復するし、絶えず動き回れる。
これはあくまで一例で、WoWはFFと比較すると、そういう諸々の部分で、遥かに「ゲームを遊んでる」感じがするんだ。
でもね、ゲームを遊んでる感じ、を求めるなら、オフゲのほうが面白いよ。と、言いたい。
相手が人じゃなきゃだめだ、というなら、FPSのようなオンラインマッチをオススメする。
成長するゲームがやりたいんだよ。人が相手の世界だと尚いい。というなら、現実が最高にエキサイティングだ。
そして、その欲求はゲームでは永久に解消してくれるものではないという事も気付かなくてはならない。
FFXIVの登場のよって懸念されているFFXIの終了は、WoWにも遅かれ早かれ起きるんだ。
少なくとも、今現在、思っている以上に、オフゲ、半オフゲ(非MO)は面白くなっている。
くどいが、断言する。件のエントリーで言及している大部分の要素において、WoWよりも面白いゲームは無数にある。
僕はディアブロ(IとII)から始まってUOの黎明期を遊び、FFXIを解約してWoWを遊んだけど、今再び新規のキャラでFFXIを遊んでいる。
ゲームとして面白いかどうか、というのは結局人それぞれで、今の所、僕はFFXIに対して好印象だ。
ブリタニアンよ、エンターテイナーたれ、というのは、ある有名なMMOの好きなサイトの管理人さんが仰っていた言葉だ。
オンラインゲームの仮想世界で旅をして、見ず知らずの人と言葉をかわす。
僕は現在のFFXIがそのプレイスタイルに一番適していると思った。そして実際、非常に楽しんでいる。面白い所だよ、ヴァナディール。
FFは確かに、制限が多いゲームだ。そして、その制限が非常にプレイヤーに対して辛辣だ。だから目立つし、ストレスになる。
だけど、その制限はプレイヤーの手助けでなんとでもなるようにできている。当然その時いくつかのしがらみもあるが、少なくとも、気を許し合える仲間と出会う、という事がMMO本来のゲームの目的なのだから、それくらいじゃなきゃ、MMOは面白くないだろう、とも思う。多かれ少なかれ、その辛辣な制限によって、いい仲間と出会えたプレイヤーもいるはずだ。
そうして、脚本家が絶対描けないようなドラマが、MMOには極稀に起きる。そして、それは願えばきっと起きるようにできている。FFにおいては、特にそれを強く感じる。
本来MMOは、そういうゲームになるはずだった。誰もがそれを期待していた。
いつからか、そういうゲームではなくなってしまっていた。
FFXIというゲームが内包する唯一の問題は、そういうMMOにならなかった原因の一翼を担っているという事だ。
そしてこの流れを変える事ができる数少ない可能性も、FFXIVにはあるんだろう。
なるほど、そういえばそうか。
正確に言えば「キリスト教でいう『純潔』概念を、日本人は『清浄』観で理解した」ということになるんかな。それにしても増田の言う通り「色ごと=ケガレ」とは(その職業人も含めて)思われてなかったというのは事実だよなあ…。むしろ『聖俗一元』的な感覚の方が主流だったわけで。
今、急に思ったんだけど、「洗礼」って「(水による)キヨメ」なんだろうか。西欧的な文脈で、浄・不浄の概念が宗教と結びついて捉えられてきたことは本当に無いんだろうか?