この言葉は、見事に言語学習者の自負や自信や、その人自身の人生を否定する。
言語を喋れるようになるってことは、人格を新しく作るって事だ。
新しく作って、同化する。文学的に言えば、すでに完成した粘土細工に、新しくパーツをくっつけてこねる感じ。
その、新しい自分を理解されないような気がするんだろう。
「日本語、外国人にしてはうまくこなせますね。まぁ勉強したんでしょうね」
という風に聞こえるんだと思う。
「上手」というのは、少し器用だ、とか、小手先で、とか言う印象を与えるから。
言ってる側からすれば、褒めたつもりなんだけど、世界中のほとんどの人は、言語を学習する苦労をあまりしらない。
だからその差がこの言葉に表れる。
言われた側も、どうしてそんなに嫌なのか、はっきり分からない。
「お前は俺の苦労を知らないだろう」といえる様な仲でもなくて、拒絶されたような気がする。
そして、「僕は日本人でもなく、アメリカ人でもなく、何なんだ」
という帰国子女が持つような悩みを持つ。
一体、なんなんだ。
言語学習は、思った以上に、今まで持ってた価値観や、生き方に影響を与える。
若いころアメリカに行っていた友人を何人か持っているけど、みんな明らかに違う。
(アメリカというのは、やはり沢山の人を惹きつける上手な国だ)
彼らは言語を僕よりももっと自由に操るけど、やはり日本人とは違うという意識を持っている。
魂に影響を与えるといえばいいのか。
グローバルなんとかとかいっても、言語的には、世界中のほとんどの人が単一言語で生きている。
グローバルなんとかは、ほとんどの人にとっては、iphone を世界中で使えたり、日本企業のトップに外人が座るとかいう、そういう意味しか持たない。
いまだにオリンピックで自国の選手を応援してるし、外人に会うと逃げる。
その中で、どうしてバイリンガルになるんだろう。
僕自身は、頭では日本でも、どこでも、人間というのは同じだと思っている。
どこにいっても、人間関係で悩むだろうし、くそみたいなやつらはいる。
結果はわかっている。
しかしそれでも、知らない言語を学ぶこと自体が、自由な気分を与えてくれる。
みな、そういう気持ちで勉強をしてるんじゃないだろうか。
「日本語上手ですね」は、本当にその文化に入り始めたという、ひとつの洗礼だ。
言語学習者なら誰でも、ここで笑って「ありがとう。うれしいです」
と素直に受け止めることが、本当に上手になる方法だと知っているはずだ。
がんばろう。