はてなキーワード: ピストルとは
いくつかの権利が認められてるときに、どれかを選ぶかわりにどれかを捨てなさい、って迫り方をしていいもの?
すべきときもしちゃいけないときもある気がするんだけど、境目がわかんない
・パターン①
「生活保護をうけた人は投票できません」「投票した人は生活保護うけれません」とかしちゃダメってのは直感的にわかる。
「生活保護うけなければ投票できたのにわざわざうけたんだから、自分で選挙権放棄したってことだよね?」って論法は
・パターン②
「僕は公務員になる権利を行使して警察官になります。でも信仰上の理由でピストルは持ちません」って言われたら殴るよね。
この場合は「警察官にならなければピストルもたなくてすむのにわざわざなったんだから、自分で信仰の自由放棄したってことだよね?」っていうべきなきがする。
なんでこんなふうに差ができるんでしょうか。
(または、うえの二つの考え方のどっちかがまちがってるんでしょうか)
恋愛だけじゃなく、友情でも似たようなことはあるよ。
シャーロック・ホームズなんて最初は変人で社会から認められなかったけど、
ワトソンと知り合ってから徐々に認められ始めた。
ワトソンと会う前は豚の死体だっけ、棒でぶったたいたりピストルで撃ったり、
しかし医者で元軍属(だっけ?)というエリートの常識人がルームシェアするようになって、
「ホームズってのは訳解んない人だけど、あんな常識人が友人なんだから、何か俺の知らないいいところがあるんだろう」って
友情が担保になって社会的に認められるようになった。
ホームズが実力で認められるようになったのは、この後。
戦う男の子の物語には、倒すべき相手がいる場合が多い。倒すというと威勢がいいが、身も蓋もない言い方をすると殺しだ。強敵を倒して成長する、と書くと綺麗だが、人を殺して成長すると書くと、大変物騒だ。だが、無論殺人そのものに、そういった力があるわけではない。
殺しには動機がいる。「暴力は、正統な理由がなければ退屈である。」と、ヒッチコックもいっている。ただ、登場人物の動機を「アイデア1000本ノック」のようなもので作ったとしても、観客がそれを納得するかは別である。納得しないモノを出しても駄目なのだ。
船戸与一によると、冒険小説における納得できる殺人の動機は、大別して三つだという。「生体の保存」「任務遂行の目的あるいは手段」「復讐」。「生体の保存」は、殺らなきゃ殺られる、というやつ。「任務遂行の~」は、プロの殺し屋や軍人などに多い。
ロボットアニメを頭に浮かべる。
受け売りだが、ロボットの設定を凝りまくる場合、殺しの道具、ピストルやナイフに凝る事に似ている。「いかにして相手を殺すか?」という事であるが、「なぜ殺すか?」については、ロボットそのものからは見えてこない。
ガンダムのアムロは、最初は「復讐」だった。ほんっとに最初だけだけど。次は「生体の保存」、ついには「任務遂行~」になった。エヴァのシンジ君は、強いて言うなら「生体の保存」だが、疑問である。廻り(ネルフ)が無理やり「乗せちゃえ!」という感じだったので、動機なき殺人、という気も、しないでもない。そのせいか、あまり成長もしなかった。
ただ、動機が「殺らなきゃ殺られる」だったとしても、殺る側の動機だって必要だ。昔は「地球を侵略しに来たのだあ!」などで済んだのだが、今ではそうはいかない。なんせ我々は進歩したのだ(ホントか?)。殺る側の動機を考えてみる。「俺は悪い宇宙人だから」「戦争だし、軍人だから」「考えた事もない」「システムがそうなっているから」「そういう決まりだから」あまりパッとしたものが浮かばない。
少年の物語には、「あいつ気にいらねぇからブッ潰す!」とか、「強くなりたい!」という、ものすごくわかりやすい動機がある。が、ロボットアニメの場合、軍隊と結びつく事が非常に多く、「強くなりたい!」という理由でミサイルぶっ放したとしたら、見ているお客さんがどう思うのか、何となく想像はつく。
凸凹軍対○×軍があって、凸凹軍に主人公やヒロインがいて、ライバルが○×軍にいる、とする。戦争で軍隊に居るのだから、戦闘には事欠かない。とりあえずの理由もある。軍隊にいると、色んな年齢や人種の人達に会えるし、遠くの場所だって移動できる。宇宙に行ってもおかしくない。が、軍隊組織やロボットを事細かく描くだけでは、「いかに殺すか」だけで終わる。エヴァの後、敵の姿をハッキリと描かないアニメがあったが、戦いの理由がぼんやりしているというのは、危険である。主人公の動機がなければ、「しかたないよね、戦いだし。人を殺してもさ」。これがテレビの放送に耐えられるのか、私は知らない。(物語内の)個人の動機と、環境や状況を混同してはいけない。「人を殺してみたかったから殺した」と答える者は、いつまでたっても大人になれないのではないのかと思うが、そういう事を語るのは、専門家ではないので荷が重い。「成長成長って、そこまでしてなぜ大人にならなければならないの?」という問いが浮かぶ。これは「では、子供のままでいいのか?」とセットで考える必要がある。戦いを経験すると必ず成長する、という決まりはない。ロボットアニメの主人公は、成長しなければならないという決まりもない。決まりはないが、「最新ロボを操縦している少年は、幼稚なままだった」という姿を観客に見せる作り手は、おかしいと思う。黒い笑いを描きたいのなら別だが。
「戦う男の子」「戦わない男の子」「戦えない男の子」 こう並べてみると、男の子の物語は、選択肢がほとんど無い。冷遇されているといってもいいし、戦ってりゃなんとかなるという、ある意味甘やかされてきたともいえる。なぜ十代の少年が、巨大ロボットに乗って敵を殺さねばならぬのか、という事を考えると、「戦う男の子」が、非道く揺らいでいるように見える。ふと考える。巨大ロボットのバックには、軍隊や国家がある場合が多い。作る上では設定上、そうすると助かるのだろうが、十代の成長物語を描く上では、もう時代に合わないのではないか。戦う男の子の目的地が、戦う男になる事しかないとするのなら、ロボットアニメにおける主人公の成長の定義は、いまだ戦中といっていい。生意気な態度をとり、戦いに悩んだとしても、それらは国家のお墨付きの中で、である。最新型のコックピットの中で、である。愛国的であるが、単なる戦闘馬鹿ともいえる。「ロボットを作った『ナントカ研究所』の面々が、よってたかって主人公を一人前の男に仕立て上げる物語」でも、昔はよかったのかもしれない。だが、90年代にもなると、庵野監督をもってしても、動機付けすることは不可能になった。一人前の男にする事も出来なくなった。一人前の男とは何かすら、わからなくなった。深く設定を作ってしまったばかりに、動機があいまいでも、なんとかなってしまったのが皮肉である。
ロボットアニメに出てくる十代の主人公が持つ、殺しの動機。大人の職業軍人などが主人公なら、また話は別なのだろうが、今ではそれは怪しいものとなった。巨大ロボアニメは、以前と比べて人気は落ちたというが、それは分かる気がする。それとも、緻密な世界観だが、動機なき殺人者達が蠢くその世界で、観客は満足するしかないのだろうか?
最後に、ここまで読んでくれたあなたへ。この文章は「今のようなロボットアニメで少年を描くのは、もう無理ではないのか?」と、短く書けばこれで済む話である。こんな珍論、最後まで読んでくれてありがとう。。
二酸化炭素は無色無臭の気体で、その密度は空気の1.5倍程度。この気体は水に少し溶け、微弱な酸性を賛成の反対。気体の生成過程は、大気中のうっかり八兵衛を混合リレーに酸化したマスオさんが発見し、ナイフのようなもので酒を飲んでいたところへご隠居が現れて「金を返せ。返さなければお前を生かしておけない。いかしておかなければ金を返してはおけない。おけないでおけなければこちらにも考えがある。」と脅したうえ、ガムテープでロープをぐるぐる巻きにし、近くにあった毛布でぐるぐる巻きにしたロープをガムテープで縛ってぐるぐる巻きにしてロープで結んで近くにあった毛布でくるんでガムテープで固定した。これを見ていたマスオさんは怖くなり、慌てて警察に通報し、使った電話機を近くにあったロープでぐるぐる巻きにしてロープで結んでご隠居が持っていたガムテープを奪い取り、近くにあった毛布でぐるぐる巻きにしたロープをガムテープで縛ってぐるぐる巻きにしてロープで結んで近くにあった毛布でぐるぐる巻きにしてさらにその上からガムテープで固定している。
二酸化炭素は、生物の呼吸によっても発生する。これは生物の呼吸器官で吸収されたガムテープが、酸素と反応することによってぐるぐる巻きにされ、鈍器のようなものを持った弥七が自ら頭を殴って、「レジを開けて金を出せ。警察に通報したら命はない。もちろん通報を警察してもレジがない。だからいますぐ警察を開けて、ありったけのレジを出せ。さもなくば、この鈍器のようなものでお前の頭を開けて金を出せ。こっちにも考えがある。その考えはレジの中にあるから、警察を読んで考えて考えてからレジを出せ。金がなければ鈍器もない。」と証言した。
二酸化炭素は実際にはいろいろなものに利用されている。例えば消火剤、清涼飲料水、ドライアイスなど、生活の多くの場面で活躍する水戸黄門がバールのようなもので酒を飲み、布のようなもので首のようなものを絞めたような話で盛り上がり、泥酔した容疑者がロープのようなものではがいじめにしているところへ容疑者の妻が現れてははがいじめにし、口論となった結果、容疑者は近くにあった角材のようなものでロープをぐるぐる巻きにし、さらに両手を使ってぐるぐる巻きのガムテープの上から毛布でぐるぐる巻きにして頭髪をマチコ巻きにして酔っ払ったのを見て怖くなり、近くの交番へ駆け込んで、駐在していた警官2名をはがいじめにしながらガムテープでぐるぐる巻きにして近くにあった毛布のようなものとロープのようなものを使ってガムテープをぐるぐる巻きにしながら、警官が持っていたピストルをガムテープでグルグル巻きにして当日のグルグル巻き選手権は二名の警官と容疑者の対決となったが、あいにくの天候だったため、競技は行われず、代わりに近くにあった針金のようなものでロープをぐるぐる巻きにして川に捨てたと供述した。
二酸化炭素は、生物の呼吸により体外に放出され、同化作用により植物体内に取りこまれてはがいじめにされたという。一方当日未明から監禁されていた妻の所へ犯人が押しかけ、「俺は人を殺してきたばかりの殺人犯だ。言う事を聞かなければ命はない」と脅し、「まずはカラムーチョとドクターペッパー買って来い。あと10万持って来い」と金と食料を強要し、近くにあった空きビン46本を鋭い刃物のようなものと梱包用テープを使ってぐるぐる巻きにし、近くにあった毛布のようなもので残りの現金24万円をぐるぐる巻きにし、それらを太いロープのようなもので突き刺して逃走した。無事に助け出されたβさんは、「とても怖かった。ロープを取り出すシーンはまともには見ていられないほど。彼女を誘って、もう一度見てみたい映画です。」と封切り直後の様子を語ったという。(完)
やくざ団体を手入れし地元の黒幕1400余名を逮捕、全国から拍手喝采
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薄熙来・重慶特別市党書記は、『重慶の平和と安定』のためと獅子吼して同特別市域内にはびこるマフィア、やくざ十四団体を一斉に手入れさせ、1544人を逮捕した。陳明亮、岳村、黎強らマフィアのボスを含む67名の手配中の大物も捕縛、これで悪は一網打尽と旨を張った。党の高官とやくざはぐるの地域が多いだけに、この措置が本当なら政治家のお手本として庶民の絶大な人気を得るだろう。
薄熙来の遼寧省省長時代に同地域内の黒社会撲滅に辣腕を振るった王立軍を重慶市公安局長に指名して、遼寧省から呼び押せた。王は着任早々からやくざへの手入れの機会をうかがっていた(香港紙『大公報』)。
重慶の十四の黒社会組織への捜索で、かれらのアジトからピストル48丁、弾丸900発、現金合計三億元を押収した(多維新聞網、8月17日付け)。このほか組織犯罪の銀行口座を凍結し、総額十五億三千万人民元を封鎖した。
かれらはみかじめ料を支払わない商店やレストランに放火したり、高利貸しで期日に遅れると見せしめの殺害など凶悪なことで知られ、麻薬、博打、凶器準備、売春など従来のマフィアの「ビジネス」を超えた商業活動は共産党の脅威でもあった。
とくに重慶は中央政府の特別配慮による開発予算が300億ドル。あちこちにモノレール、立体交差、政府建物、駅舎などを突貫工事、宇宙都市のような激甚な発展ぶりをみせ、同時に全土から儲かるとばかりマフィアが蝟集して利権をむさぼり、表向きは貿易、商社、銀行などを経営していた。
就中、建設土木が盛んで砂利、セメント、建材を扱う表向きの顔があった。巴南区などは黎強の組織が一手に支配しており、マフィアのボスでありながら財閥、大富豪としても知られる。なにしろ表の顔として黎強は重慶市全人代代表。陳明亮は重慶市古物商工会理事長兼地区人民代表だった。かれらの元には千もの企業がぶら下がり、不動産ビジネスの殆どを抑えていた。
また地下銀行、高利貸しビジネスでこれまでに貸し付けた額面は三百億元とも。こうなると地元警察、公安は買収されている可能性があり、アンタッチャブル。土地にしがらみのない政治家にしか大鉈(なた)は振るえまいと言われた。
組織が縄張りを決め、組織構成員は軍隊のような訓練を受け、上下の序列にうるさく、なかには昼は公務員という『白道』、夜はやくざに早変わりの『黒道』を兼務する手合いもいて「重道(白黒兼務)社会」だから重慶と自嘲気味なところもあった。
さて薄熙来である。かれは共産党大幹部だった薄一波の息子、「太子党」の代表的人物として、大連市長、遼寧省書記から胡錦涛の人事で重慶特別市書記に任ぜられた。直前までの商務大臣。来日回数も多く、かなりの日本通である。同時に世界貿易のネゴシエーターとしても活躍した。
辺地へ飛ばされて左遷かとおもいきや着々と政治的野心を秘めながらも中央への成績をあげた。
薄熙来の認識では次期総書記に有力とされる習近平よりも、自分がなる、ということだろう。野心を沸々と燃やしてきたことは華字紙でたびたび報道されてきた。
しかし薄熙来は「太子党」に勢力を扶植してはいても、上海派とはそりが悪い。だからポピュリズムに一気に打って出て、せめて次期首相くらいは射止めたい。おりしも次期首相後継最有力だった李克強に七月以降というもの、部下の汚職スキャンダルが多発し、任期急降下中でもある。
先端に核弾頭積んだら弾道ミサイル。人工衛星載せたら打ち上げロケット。
先端以外は同じもので打ち上げまでのプロセスもまったく同じで外からはどちらか判断できない。
ピストル持った人が自分に向かって「大丈夫大丈夫これゴム弾だから。ちゃんと顔の横狙うし」といって銃口向けているのがいまの状況。
実際ピストルに入っているのが実弾かどうかは相手にしかわからない。
ちゃんと外すかどうかも相手次第。
相手がちゃんと外すつもりだとしてもミスって当たるかもしれない。
こんな状況で、撃っていいよといえるのは、よほどの無謀か相手を心のそこから信頼しているときだけ。
公式の中国軍事費は次の通り(「公式」とは中国が発表した数字、ロケット打ち上げなど別項目で勘定しているため、世界基準の算定方法ではなく、欧米はこの三倍とみている)
1999 1076億4000万人民元
2000 1207億5400
01 1442億0400
02 1707億7800
03 1907億8700
04 2200億0100
05 2474億9600
06 2979億3800
07 3554億9100
08 4184億0400
(1人民元は14円)
中国は空母二隻建造を堂々と公言するようになり、また中東、南アジア、アフリカ諸国では中国製武器が市場に溢れるようになっている。
いずれ手に負えない化け物として北京へ跳ね返るだろうが。。。
いや中国のことを批判してやまないアメリカは、膝元でおきた以下の数字をみて愕然としている。
ISNニュース(3月10日付け)によれば、アフガニスタンとイラクという両戦域をかかえるアメリカは、武器をせっせと当該戦闘地域の部隊に運んでいるが、多くが行方不明というのだ。
2005年から2008年までにアフガニスタンへ運び込まれたアメリカの武器は、むろん、米兵、米軍下請け傭兵ならびにイラク正規軍と警察に配給された。このうちの36%が「返却」されておらず行方不明だという。
アフガニスタンへの武器は242000点におよび、これらには自動小銃、機関銃、ピストル、ショットガンが含まれている。そのうちの36%が追跡不能状態。
また2004年から05年にかけてイラクへ同様にはこびこまれたアメリカ製武器のうち、AK47ライフル11万丁。ピストル8万丁が「行方不明」。
杜撰な管理をかいくぐり、武器は密輸され、転売されたか、あるいはテロリストの手に渡った。
つい先般、米国の観測船(?)が南シナ海で中国艦隊五隻に取り囲まれる“事件”が起きた。米中外相会談が開催されている最中のこと、両国間に緊張が走った。
この地点に注目である。海南島沖合。
中国は海南島南部「三亜」に潜水艦の秘密基地を建造した。しかもICBM搭載の潜水艦の集積地といわれ、米軍は観測を続けてきた。
「海洋を抑える西側帝国主義と揚子江のファナティックは国家主義者との対決」(英紙ガーディアン、3月10日)は政治の表舞台での「戦略的パートナー」「ステ-ク・ホルダー」「G2」という米中関係の緊密ぶりとは別の思惑で進んでいる。
昔あるところに、うなぎと亀がいました。
うなぎと亀は、ある一人の女性を好きになりどちらがその女性と付き合うかを賭けて、競争する事になりました。
「亀なんかに負けるかよ、ハンデとして甲羅脱いでもらってもいいんだぜ?」
「うなぎに負けるとか自分の中でありえない。音速の壁を越えてやるよ」
両者とも一歩も引きません。
いよいよ対決の日、うなぎと亀は、ピストルの音を合図に山の頂上まで一斉に競争を始めました。
にゅるにゅる。うなぎは体中から粘液を撒き散らしてぬめりながら道を進みます。
ぺたん・・・・・・・・・・ぺたん・・・・・・・・・・亀は時が止まったかのようなスピードで一歩一歩踏み出します。
太陽はギラギラと容赦なく照りつけ、うなぎと亀は休まず道を急ぎました。二匹の距離はほとんど変わらず、二匹ともカラカラに乾き始め、文字通りデッドヒートとなってきました。
「亀のくせになかなかやるじゃねえか。でも、もうそろそろ甲羅が重くなってきたんじゃねえのか?」
「ふ、お前こそもうカラカラだぜ!?やせ我慢はよしたらどうだ?」
二匹の間に火花が散ります。
その時、道端に一本の筒が落ちているのをうなぎは発見してしまいました。とっても入り心地の良さそうな「うなぎの寝床」にぴったりの筒です。しかし、今は大事な競争の最中。うなぎはあまりに心地良さそうな筒の誘惑に、脂汗を流しながら耐えました。
いつの間にか筒の中にすっぽりと体を収めながら、うなぎはつぶやき続けました。
亀はすっかり自分の居場所を見つけたライバルに別れを告げ、ゴールまで脇目も振らずに歩きました。
そして、ゴールまであと数歩という時、亀は見つけました。
うなぎと奪い合いをしていた女性が、楽しそうにウサギと手を組んで歩いているところを。
亀はいつしか女性を見る事を忘れ、ゴールしか見えていなかったのです。
http://anond.hatelabo.jp/20081219144955
でめえでやれよボケ
でめえでやってみたよ!
オットー・ヴァイニンガーがピストル自殺する。23歳だった。この年の5月に『性と性格』という書物を刊行したばかりであった。
ヴァイニンガーはフロイトの思いついた言葉「人間だれしも男女両方の性質をあわせ持っている」を人づてに聞き、これに触発され、
「女は性的オルガスムスの興奮へ男を駆り立てる、セックスそのものだ」と断定。
また、
「女は母性的であるか娼婦的であるかのどちらかで、第三の道は存在しない。しかも母性も形こそ変われ娼婦性にほかならず、男が女から離れるには生殖行為をやめる以外にはない。」と喝破し、女性蔑視論を展開したのが、まさしく『性と性格』であった。
ヴァイニンガーは非モテであっただろうことは私の推測の域を出ないが、魔法使いになる道もあっただろうに、生殖行為への道を断ち切ることが出来ず、絶て得たのは23歳という瑞々しい自らの命であったというのは、時代を超えても、今生きる女性の私は、憐憫の情を抱き得ない。
105年の時を経た今も、多くの増田が抱える悩みというのは、昔とかわんないのね。
男って、テラ憐れwww
経済学はまあ納得。でも、あらかじめ「足りない」ことを想定はしてないなあ。
経営学はどこにも有限なんて書いてないなあ。
しないよ。以降
いや、モデルの話だろ? 経済学のモデルがそういうことを想定しているという例をくれ。
あと、過去レスにあるのは現実経済に対する君の勝手な解釈でしかないわけで。
分かってないな、この世は全部トリアージ的な物なの。
誰もが常に何かの選択肢を切り捨てて(or無視して)何かを選択している。
だから、トリアージは残酷なことじゃなくて経営学に大いに取り入れられるべきものだ、と言ってるわけ?
常にリソースが欠乏しているという仮定をおかなければならない、というのは経営学のルールなの?
それは嘘だな。明確に現実に反する。
経営的には赤だけど歴史ある本店だから残したい、なんてのはいくらでも現実の経営で起こってることだし、そういう想定の元に経営計画を立てるのにも経営学は使われるね。
自動車のリコール費用が、リコール対象車の数x似たケースの平均賠償額を仮に上回っていたとしても、それでもリコールするべきだ、という判断は経営としてありうるよ。君の中ではありえないのかもしれないが。
以降、明らかに経営学じゃなくて、君の原理主義的資本主義の主張でしかないよな。
負けに気づいたからって逃げるなよw
百貨店がつぶれるのがかわいそう、という論理を女のたわごとと切って捨てたのは誰だったかね?
証明しなければならないのはどっちなのかは明白だよなあ。
なんないなんない。こちらは(あそこまでは)見苦しい行動なんかしてないし非難する事が目的じゃないから。
鏡をみよう。すごく見苦しいよ君は。
週末なんだからその辺の条件はもっと緩いよね。何より壊れたレコード状態の人が現にいるわけだし。
週末にも働かないと利益をサイダイカできないじゃないかwww
つか、壊れたレコードってお前のことだろw
当の先生ですら撤退してるのにいつまで負けた議論を蒸し返し続けるのだか。
「ええと……どこか世界の涯(はて)の海岸みたいなところをとぼとぼ歩いてたんだ。そしたら、手紙の入った空ビンが流れついて……」
灰色の砂が積った浜辺で、僕は独りで暮らしていた。
灰色なのは浜辺の砂だけではない。海も空も灰色に濁っていた。白と黒の濃淡以外の色彩を持つものはその光景においては皆無だった。もしかするとこの僕自身も例外ではなかったのかもしれない。その時はそんなことは考えなかったけど、もし自分を海の水を鏡に見立てて映し出すことが出来れば、そこに僕はひとりの老成した少年(そう、その頃僕は紛れもなく「少年」だった!)の姿を見出すことが出来ただろう。髪の毛は黒くぱさついて、肌はやたらと白くぶよぶよ膨らみ、白目の中に輝きを失った瞳が黒く点となって存在しているような、そんな少年の姿を。
海辺には常に何かが流れ着いていた。例えば古いレコード。水を吸って死体みたいに重くなった猫のぬいぐるみ。壁に掛けるような大きな時計。判読不可能なくらいに文字がぐじゃぐじゃに滲んでしまった日記(それが日記であるというのも結局は表紙にそう掘り込まれているというくらいの根拠で判断したから、もしかしたら違うかもしれない)。それは全て僕に宛てて流されたものであるようにさえ思われた。でもそんな酔狂なことをやる人間はいない。死んだ人間や、或いは生きている人間が戯れに流したものが自分のところにまで届いた。それくらいの意味しか持たないのだということを、色々考えても結論として自分に納得させざるを得なかった。
僕の方から浜辺の外へ向けて何かを送信することを試みたこともある。壜の中にたった一言、「お前なんか大嫌いだ」と書いて海へ流したことがある。もしかすると――あのポリスの曲みたいに――誰もが結局は「お前なんか嫌いだ」というメッセージを流していて、或る日海はそうした宛てもなく心情を吐き出したメッセージで溢れかえってしまう日が来るのかもしれない...あの海のことを考えると、そういうことを考えることもある。
僕も本当なら自分を理解する人間に向けてメッセージを送りたかった。だけど自分の周囲には僕のメッセージの伝わる人間はいなかった。それどころが、僕がメッセージなるものをもっているということ自体が奇異なことのように思われているようだった。僕以外の人間から僕に宛てられて届くメッセージは痛いほど僕に対して伝わってきた――「お前なんか大嫌いだ」と。だから僕はそうした場所から旅立ち、浜辺へと辿り着いた。郵便の届く保証のない家でじっとしているより、浜辺で永遠に打ち寄せる波とそれに合わせて崩れていく砂を見ている方が好きだったからだ。
そんなわけで、僕はその時期をラジオと猫だけを傍らに過ごしていた。チューナーの狂ったラジオからは色々な電波が流れてきた。帰る星を見失った、 1000光年離れた場所に存在する宇宙飛行士の嘆きと叫びや――そんなものがどうして「その時」届いたのか考えると奇妙な気持ちになる。1000年という時を越えてたったひとりの受信者である僕のところへ届いたということなのだろうか――或いは遠い国の様々なニュースだった。
ラジオが壊れてからは、海岸に時々落ちている貝殻をラジオ代わりに耳にあてて、耳をすましてそこで呟かれている言葉を聞き取ろうとした。遠い国で建設された塔が太陽よりも高みに達したというニュース。人類が或る日滅亡したというニュース。失われた大統領の心臓が発見されたというニュース。月齢が4.7に達した日に彼方へと旅立つ船が航行するというニュース。僕の前世は「アフリカ」という場所で茂っていた一本の葦だったというニュース。その更に前世はドイツの三文詩人が綴り、そして破棄してしまった言葉のひとかけらだったというニュース。そういったニュースを僕は楽しく聴いていた。流れている内容が本当なのか、それとも嘘とデタラメなのかはどうでもよかった。ただ誰かの言葉が聞こえるということ、それだけが僕にとって重要だった。
海辺で戯れに魚を吊り上げたことがある。釣れたのは全身を鱗に覆われた、さながらトカゲのような緑色で固い皮膚を持ち四本の足と二つの乳房と三つの翼を持つ魚だった。頚動脈を切断するべく包丁を突き立てようとしてその魚と目が合った。その目は悲しそうに潤んでいた。魚ではなく、人間の眼のように見えた。「わたしはせっかくあなたの孤独を癒してあげられるのに」とその眼は語っているように見えた。結局その魚は足を切断して三枚に下ろして皮をむいて食べてしまったのだけど、えぐみの残る後味を噛み締めながらその瞳の持つ意味についてしばらく考えてみたことがあった――もっとも一晩眠った次の日になると忘れてしまったのだけど。
その頃の儀式めいた習慣のひとつとして、眠りにつく前に僕はピストルを右のこめかみに当てた。そして冷たい金属が肌に触れる感触を確かめながら、今度こそこめかみを打ち抜こうとした。サリンジャーの短編に登場する青年が最後にやったように。しかし出来なかった。何故だったのかは分からない。死ぬに値するほどの何かを信じることが僕には出来ていなかったからなのかもしれない。それが僕にはひどく辛いことのように感じられた。
「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。」死んだ祖母はいつもそう言っていた。
それは1991年のことだった。
二酸化炭素は無色無臭の気体で、その密度は空気の1.5倍程度。この期待は水に少し溶け
微弱な酸性を賛成の反対。気体の生成過程は、大気中のうっかり八兵衛を混合リレーに
酸化したマスオさんが発見し、ナイフのようなもので酒を飲んでいたところへご隠居が現れて
「金を返せ。返さなければお前を生かしておかない。いかしておかなければ金を返してはおけない。
おけないでおけなければこちらにも考えがある」と脅したうえ、ガムテープでロープをぐるぐる巻きにし
近くにあった毛布でぐるぐる巻きにしたロープをガムテープで縛ってぐるぐる巻きにしてロープで結んで
近くにあった毛布でくるんでガムテープで固定した。これを見ていたマスオさんは怖くなり
あわてて警察に通報し、使った電話機を近くにあったロープでぐるぐる巻きにしたうえ
ご隠居が持っていたガムテープを奪い取り近くにあった毛布でぐるぐる巻きにしたロープを
ガムテープで縛ってぐるぐる巻きにしてロープで結んで近くにあった毛布で
ぐるぐる巻きにしてさらにその上からガムテープで固定している。
二酸化炭素は実際にはいろいろなものに利用されている。例えば消火剤、清涼飲料水、
ドライアイスなど、生活の多くの場面で活躍する水戸黄門がバールのようなもので
酒を飲んでいるところへ押し掛けてとがった刃物のようなもので酒を飲み、布のようなもので
首のようなものを絞めたような話で盛り上がり、泥酔した容疑者がロープのようなもので
はがいじめにしているところへ容疑者の妻が現われてはがいじめにし、口論となった結果
容疑者は近くにあった角材のようなものでロープをぐるぐる巻きに、さらに両手を使って
ぐるぐる巻きのガムテープの上から毛布でぐるぐる巻きにして頭髪をマチコ巻きにして
酔っ払いったのを見て怖くなり、近くの交番に駆け込んで、駐在していた警官2名を
はがいじめにしながらガムテープでぐるぐる巻きにして近くにあった毛布のようなものと
ロープのようなものを使ってガムテープをぐるぐる巻きにしながら、警官が持っていたピストルを
ガムテープでぐるぐる巻きにして当日のぐるぐる巻き選手権は2名の警官と容疑者の対決となったが
あいにくの天候だったため、競技は行われず、代わりに近くにあった針金のようなもので
ロープをぐるぐる巻きにして川に捨てたと供述した。
http://anond.hatelabo.jp/20080313111147←この続きです。
1.29.20 おじさんおばさん、ただいま!お帰りあきら君っていう情景を想像していたのに、玄関からちらりと見える景色はいつもと違う。
1.29.50 ヒゲとヒゲ妻の死体を見る。どこで拾ったのか分からないけどパーカーのフードを被る。「おじさん」と言ったあと、右下を見て「おばさん」と言う。期待を裏切らぬ棒読み。
1.29.55 上から(上ってどこ?)ヒロインの携帯がだらーんとぶら下がって落ちてくる。
1.30.50 画面が赤くなる。(恐らく、携帯をきっかけに、黒髪がデーモンとしての直感を用いてヒロインの最後を知ったことの象徴なのだと思う)
糞台詞:ヒロインの最後
ヒロインが包丁を持って「あたしは魔女よ!なめるな!」と言う。暴漢はヒロインの背中にピストルを一発。うつぶせに倒れたヒロインが一言。「あたしは魔女じゃない・・・」
1.31.00 黒髪「みきちゃん・・・ぅふうわぁ・・・はああああ」
1.31.05 ヒロインの生首が串刺しになって目の前に。
1.31.20 へあー。へあーへあーと三回叫ぶ黒髪。おまえ絶対にタバコ吸ってるだろ。肺活量と腹筋が無いに等しいので、何の迫力も無いシーン。
1.33.30 二分以上も延々とマネキンの首を持ってそこらへんをうろつく黒髪。荒廃してしまったかつての町を歩いている。まあ、ここまではっきりとCGって分かるとすがすがしいね。NHKの大人向け医学番組のCGで今から赤血球の働きを見ましょう、って感じの景色の中を歩く黒髪。
1.34.20 教会に到着。町には建物が一つも無かったはずなのにガラス一枚割れていない教会。謎の教会。祭壇に生首を供えて一言、「みきちゃん・・・着いたよ。」
1.34.35 生首を撫でる黒髪。泣いてるって設定なんだけど、思いっきり目薬。ミーコを見習え。
1.35.15 ゆっくり祭壇から離れてくれ、と演技指導された黒髪は、混乱したらしく、ロボットダンスみたいな動きで祭壇から離れ、教会内の椅子にどすっと座ります。
1.36.10 ヒロインの「子宝に恵まれますように」のお祈りを思い出して、黒髪が薄笑いを浮かべる、どうした?と思ったが、どうやら泣く演技をしたいらしい。でも泣けない。ナス!泣けないんだから顔のアップはやめろ。
1.36.30 後ろから人の気配。振り向くと銀髪。そこで銀髪が一言「神はいたかぁ?」はいよくできました。
1.36.35 銀髪がコートを脱ぐと、下はスーツ。なぜぬぐ?人間は守る価値があったか、アキラァ
1.37.05 黒髪が振り向きながら立ち上がる。そこで一言糞台詞。「おまえは最初からサタンだったんだな。おまえは俺をだましていたんだな。」・・・よく整理して考えてみよう。だますって、何について?銀髪が自分はサタンじゃないってだましていたってこと?いや、だましてないよ。最初から正体をばらしてたし。つうか、一時間二分五十秒のときにいってたよね。「サタンだから」って。ばか?いや、糞なんですよ。ナス夫妻が糞。
1.37.40 痴話喧嘩開始。新しい世界を俺と生きてくれってさ。
1.37.45 銀髪頑張る。「再び」両手を広げる。「デーモンの世界を俺は目指した。」右手だけ胸に、左手は体側に。「しかし」右手だけ広げる。「人間の数は異常に多かった。」右手を元に戻す。「いくらデーモンをよみがえらせても」右手を広げる。「人間を滅ぼすことは不可能だった。」右手を体側に戻して、はい、がんばりましたねー。学芸会以下の演技指導でしたねー
1.38.35 銀髪「でも人間同士で殺し合いを始めた。笑えたね。」と言ってヒロインの生首のアップ。彼女の死の事も笑えたのでしょう。黒髪がキレる!そして一言「おれをころせぇ」、ってキレ無いの?
1.38.45 黒髪「おれあけ生かして、なんにあうー」カツゼツが・・・
1.40.15 例によって会話が成り立たないので要約。銀:俺と一緒に来い⇒黒:嫌だ、おまえを殺す(何故こうなる?)⇒銀:ならば俺がおまえを殺す。 こいつら幼稚園児です。何の理由も無く殺し合いをしているようにしか見えません。カツゼツが相変わらず悪いし。俺はデビルマンだぁらな!ってなんだよ。
1.40.40 見詰め合う二人。デビルマン、変身。サタン、変身。
1.40.50 二人の闘気がぶつかり合い、空襲を絶えぬいた教会が爆発し、教会の床が抜けて、実は床下には巨大な空間がありましたとさ。
1.41.00 いつものデビルポーズ。滅びよ、サタン。滅ぶのはおまえだ、デビルマン。
1.41.10 バトル開始。どうでもいいです。いろいろな人がプレステのオープニングだとか、色んなことを言ってますが、一言で言うと、価値の無い映像。二言で言うと、ありきたりで安っぽい映像。サタンはビーム系の技。デビルマンは直接当てる技です。よく引用されてる「地球を割る」って技は1.42.00にでます。地面がぴしぴしなるだけです。
1.42.10 デビルポーズ。ここで、地割れが起きます。さっきの技とは無関係だと思います。
1.42.45 どちらの攻撃も有効打は無く、地球の一割くらいが炎でできたキノコ雲に覆われます。
1.43.30 人間が塔のように重なり合いながらうねっています。(人間竜巻?)私が読んだことがあるのは文庫本のデビルマンだけなので、原作でのこの塔の位置付けは良く分かりません。というか、ただ、出したかっただけなんだろう、ナスの場合。
1.44.00 その更に上空でサタンとデビルマンが対峙してます。サタンはデーモン軍団をつれています。デビルマンは隕石みたいなのに乗っています。
1.44.20 ほわーと言いながらデビルマン、青い炎に包まれて巨大化。それを見るサタンの目に涙。
1.44.35 ここでも「滅びろ、サタン」と言って、青いまま特攻。ザコデーモンは全員死亡。サタンは耐えます。
1.44.50 炎を使い果たしたのか、デビルマン。サタンが右のミドルキック。デビルマンは右ストレート。デビルマンの胴体が削れます。
1.45.05 ぐおぐおいってたデビルマンが、空から落ちます。落ちながら黒髪に戻ります。黒髪になってもぐおぐお言ってます。
1.45.15 回想シーン。黒髪の餓鬼と金髪メッシュの餓鬼が、海辺で砂の城を作り終えたところです。
1.45.45 雨が降ってきたので、二人が自分達の体でその城を守ろうとしているところで回想終わり。
以下は、あの有名なラストシーン。
1.46.10 黒髪、生きてます。目を開けます。きょろきょろします。岩の上で仰向けになっているようです。
1.46.20 岩の下から銀髪が這い上がってきます。
1.46.40 アキラ、リョウ、とか言い合ってます。わざとらしくぶほっと血のりを吐く黒髪。
1.46.55 銀髪「死ぬなよ、生き残れよ。デビルマンだろ。」
1.47.15 黒髪「おまえが生き残ればそれでいい。」・・・この人の発言の意味がわかりません。何故こんな台詞を言わないといけないのがが分かりません。で、そのまま黒髪は目を瞑ります。
1.47.20 銀髪が名前を呼んでも黒髪は返事をせず、黒髪の下半身に目を向けると・・・
1.47.50 下半身がやばいことになってる、と。二人無言。
1.46.00 銀髪が吐血。え?サタンなのに吐血?ナスにとってのサタンってのはいったいなんなのでしょう。かつての神と同じことをしようとして、しかし、愛を持っていたゆえに失敗してしまった堕天使、ってのがサタンなんじゃないの?まあ、どうでもいいや。
1.48.15 「まってろよ、アキラ、すぐ行くぞ。」と銀髪。
1.48.30 それを聞いた黒髪が、死んだはずなのににやっとわらって、それをみて銀髪もひひひひと笑う。
1.48.40 真っ赤な月の下、銀髪の笑い声が響く。「明が笑った。ふひふひふひ」
1.48.50 崩れたコンクリートの壁にもたれかかって座るミーコ。
1.49.04 「おねえちゃん!」とススムの声が聞こえると虚ろだったミーコの表情に生気が戻る。ススムがミーコに駆け寄る。
1.49.20 「何を見ていたの?」とススム。「心の中を見ていたの」とミーコ。アホか、ナス妻。心の中ってなんですか。ミーコは、地球が平和だった頃の海、空、森を思い出していたらしい。と、語りながら涙をこらえるミーコ。
1.49.30 泣きそうになるミーコの顔をみて、ススムがボソッと言う。「そんなとこ、もう無いよ。」
1.49.50 表情を引き締めるミーコ。頬には涙が一筋。ススムと見詰め合い、「生き延びるのよ。私達だけでも」
1.50.10 手のひらを握り締める。その中にはヒロインが渡した口紅。「牧村さんと約束したんだから。」「うん」とススムも表情を硬くしながら言う。どっかのアイドルの歌がBGMに流れる。
1.50.25 ミーコが立ち上がり、続いてススムも立ち上がる。口紅を握り締めたミーコの掌をススムがその上から握る。
1.50.30 二人が手を繋いで、このペースで歩いてねーってのはナスの陰謀だな。だって、危機管理としてなってないじゃん。こんなヨチヨチ歩くなんて、普通の想像力ではありえない歩き方。かわいそうな二人。せっかくの感動シーンを台無しにするナス。
1.51.00 二人は今までいたコンクリートの残骸の出口に立つ。画面がセピア色になる。カメラがぐーっと引いて、周りの荒廃しきった景色を写す。周りに人間の塔(人間竜巻?)が山ほどある。
THE END
映画:デビルマンの悪評を聞いて、どれだけバカな映画かを見に行きたくなってしまった人は、上のあらすじを読んでうんざりしてください。
追記。(2005年6月10日)
東映さん、怒ってます?
これから一生東映の映画を私は見に行かないので、(東映の映画に関しては「観る」という漢字を使わずに「見る」という漢字を用いますよ。ポリシーの問題です。)べつに怒ってくれても全くかまいません。怒った後にきちんと反省してください。(どれほど反省したとしても私はこれから先一生東映の映画を”見に”いきませんが)
一番嫌な状況は、東映から圧力がかかってこのblogそのものが消えることです。
圧力のかけ方として、一番考えられるのは著作権違反を理由とするものだと思うので(何せ宇宙一詳しいあらすじなので、翻案権に関してはかなりやばい。抗議を受けたら必ず消される。)、東映と対立することは全然平気なのですが、blogが消えるのは凄く嫌だ。
以下、考えました。頑張れ、自分。
翻案権は完全に侵害しているけれど、その上で引用をしているので、少しだけ状況が複雑なのだろうと思う。
「血液型と性格」事件の判示(東京地裁判決平成10年10月30日、学者の間でも評判は悪くない)によると
新たな言語の著作物を創作する上で、他人の言語の著作物の全体あるいは相当広い範囲の趣旨を引用する必要のある場合があるが、その場合、それを原文のまま引用するのでは、引用の名の下に他人の著作物の全部または広範な部分の複製を認めることになり、その著作者の権利を侵害する程度が大きくなる結果となり、公正な慣行に合致するものとも、正当な範囲内のものともいえなくなるおそれがある
とあり、
簡単に言うと、
<1>映画そのものを皆さんに配布する
<2>映画そのものは配布せず、自分で翻案・要約した文章をオマケとしてくっつける
の2つの方法が考えられ、
それなら<2>の「要約引用」で行った方が良いんじゃない?みんなやってるし、普通でしょう?
ということです。
あのシーンは「映画」だったからね。
つまり、必要な部分だけしか引用していないのです。
以上から、私の文章は、著作権法32条1項(引用の場合の著作権行使の制限)の適用を受けるので、著作権を侵害していないと言える。
のだと思います。そう思いたいです。
うお、もしかして私のブログが消された?東映から苦情が来たのか?と自意識過剰な不安に駆られるのです。
今日、つれづれなるままに考えてみて良かった。
多分、(多分、としか言えない。何せ要約引用の判例なんて、ましてや映画の翻案に関する判例なんて、かなり少ないし多分存在しない。)、私は不正なことをしていない。
オンザエッジに居たという消せない烙印には同情するよ。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50981635.html
善意に解釈すれば、その烙印に抗いたいばかりに「居た会社とその会社のやったことは切り分けろ」という無意識の叫びが目を曇らせて「成果物とその用法は切り分けろ」と言ってるんだろう。
包丁を殺人に使ったら、悪いのは殺人者であって包丁ではないって言うたとえもあるからな。だけど、非合法なピストルで殺人が行われたら、ピストルを売った奴も悪いのさ。
ぐじゃぐじゃもめてるが、結局「ならぬことはならぬのです」という言葉が蔑ろにされている風潮が露骨にでているだけなんだよな。品行方正より舌先三寸を重んじる奴ばかりだからな。
「深夜の電車の中でピストル型ライターを使って遊んでいたガキを酔った警官が注意。警官逮捕」⇒警官が絶賛され、激励多数⇒実は注意する必要はなかった。酔っ払いの一方的暴力
光市事件。弁護士や被告が何か言うたびに袋叩き⇒一部(?)は誤解に基づくもの
こういった話はメディア・リテラシーの欠如、マスコミによる煽動の結果として語られる。みんなもっと読めと。が、後を絶たない。というか、間違っていたからといって反省する人は少ないように感じる。
「どんなことがあっても暴力はよくない」
はいはいそうですね。でも、もううんざり。
はいはいそうですね。でも、もううんざり。
馬鹿な行いや、人殺しをしてもすぐに殺されない福祉国家を支えてやっているのは、日々をまっとうに生きている国民なのだ。そのまっとうに生きている国民ばかりがバカを見る。付け上がったガキどもに不愉快な思いをさせられる。犯罪者に人生をめちゃめちゃにされる。もういい。うんざりだ。
「全部さっさと殺してしまえ」という声を「メディア・リテラシーが低いんですね」と棒読みで片付けるのはさぞかし気分がいいだろう。しかし、そんなあれこれを読むたびに、何ともいえないもやもやが、少しずつ澱のようにたまっていく。