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2008-07-22

インスパイア物語 序章-(2)

「勇一!勇一じゃないか!」

慎はびっくりした。向こうからこちら側へ向かってきたのは黒服の男の姿は、ガキの頃よく遊んだ幼馴染の勇一の姿があったので驚いたのだ。

しかし、幼馴染の勇一の様子が一変し、慎は只ならぬ雰囲気の中、勇一のその気配を感じ取っていたが、慎がまた口を開いて慎から勇一に先に問いかけた。

「いったいどうしたんだ?勇一。」

幼馴染の勇一はまるで亡霊にでも取り付かれたかのような顔でこちらをじっと見つめているその様はまるで幽霊のようだった。

「慎。」

突然、勇一が声を開いた。その声は消え入るように小さく細く、聞き取るのが困難なほどにか細く恐ろしいほどの戦慄を慎は覚えざるを得なかった。そしてそのか細い声のまま幼馴染の勇一は先を続けた。

「慎、お前はインスパイアされたんだよ。」

「インス・・・?なんだって?」

慎は勇一に何を言われたのかまったくもって全然不明だった。その不明さはまるで奇妙な井戸の中に放り込まれた不気味な蛙のようにひどく臭う腐臭が漂っていた。

幼馴染の勇一は先に続けた。

「もうどうしてやることもできないんだ。そう、できないんだ・・・・」

そう言って口を閉ざした勇一は去っていこうとした勇一を慎は悲壮な表情で必死に引きとめようとしたが、勇一は慎が必死に引きとめようとしていたその腕を振り払い、勇一は口を固めて何も語らずにただひたすら来た道を引き返していく戻っていく様子が見てとれた。

勇一・・・。いったいどうしちまったんだ。慎は昔の思い出を心の奥の古い記憶の中から思い出していた。ガキの頃、幼馴染の勇一と遊んだ日々を思い出していた。

当時「佐藤ごっこ」っていう遊びで流行っていた。

佐藤ごっこって言うのは至極単純なルールで誰でもいつでも遊べるわかりやすいルールで有名であり、流行らないはずがなかった。実際慎達の中でも流行っていて、流行にのっとって佐藤ごっこをやっていた。

佐藤ごっこのルールを単純に説明するならば決められた制限時間内の中で佐藤という苗字を持つ家の表札を佐藤という家からパクってきて持ち寄った佐藤の表札の数を競う至極単純なルールだ。

この至極単純なルールが、当然ながら当時の子供達の間で流行り、慎達も佐藤ごっこで遊ぶことになったんだ。

佐藤ごっこのルールだが、やはりローカルルールというローカル環境の中で定められたルールがあり、そのルールを元に慎達は佐藤ごっこで遊んでいた。

そのローカルルールというのがまた至極単純なルールになっており、そのルールの中で佐藤ごっこを楽しむ分には全然問題なく遊ぶことができていた。

しかし思えばそのローカルルールこそが今回の事件の発端になっているということを慎が知りえるのはまだ先のことなのかもしれない。

2008-07-21

http://anond.hatelabo.jp/20080720184208

元増田は判っているかも知れないけど、誤解されていそうな所について。

メインフレーム馬鹿高いのですが、UNIXベースサーバもやたら高いのです。耐用年数が到来して、買いなおしとなるとハード代だけでなく、OS、ミドルウェア等々も全部買いなおしになってしまいます。

http://anond.hatelabo.jp/20080720205422より

それは、ベンダお任せで安定な(HAな)システム更新を行うときには、常識です。「何を言っているんだ、この化石反動め!」という声も聞こえてきそうですが、まあ落ち着いて読んでください。

そのように、上から下まで1社で揃えるのは、垂直統合と言われます。そのメリットは、あらゆるトラブルについて、そのベンダワンストップでクレームを入れて調査対応させる事が出来る事です。コンシューマでは考えられないかも知れませんが、何らかの原因でシステムが動かないときに、「ありゃ、ダメだ」では済まないシステムでは、トラブルを迅速に解決できることが極めて重要であり、重要性に応じて必要なコストは払わねばならないものなのです。安定性の重要性を無視して目先のコストに囚われても、利益機会損失などで安物買いの銭失いと言う事になります。

この垂直統合メリットですが、その中にサポート期間か切れてしまう物や組み合わせが((OSの対応ハードとか、ミドルウェアの対応OSバージョンとか))サポート外の物があると半減してしまいます。ベンダ側も、保守コスト抑制しなければ商売出来ませんから、サポート期間も組み合わせも有限に設定せざるを得ないのです。

ですから、そのような一斉リプレースは常識と言えます。

その一方で、そこまでの安定性(可用性)が求められない場合、安い物を組み合わせた方が、コストダウン出来るのは当然です。また、トラブルが起きても、ベンダ任せではなく、自力でトラブルシュート出来る場合も、勿体ない出費といえます。しかし、自前でそんな高スキルエンジニアを抱えていなければ、適切なトラブルシュートは出来ません。さらに、OSミドルウェアソースで確認しなければ((OSSを使っていてもちゃんと自前ビルドして自前でソース管理していなければなりません。単純にバージョンアップすると非互換によりシステムが動かなくなる場合があります))、そのトラブルシュートが正しい保証がありません。目の前の問題は回避出来ても、実は不十分だったり、下手したらもっと深刻な問題を発生させてるかも知れません。

垂直統合はやはり高コストになりやすいので随分割合が少なくなってはいるのは確かだと思いますが、それは、トラブルリスクを負う事でコストダウンを図っていると言う事なのです。

■内容不明なシステム保守

プログラム使用

http://anond.hatelabo.jp/20080721002901より

確かに、これらはメインフレームの特徴であり、オープン系からすると奇妙であり、そしてオープン系に比べてベンダ側の利益率が高い(それでも、世の中もっとボッタクリ商売はいくらでもあるけどね)もの。

この辺は、実際の所、明確な根拠は存在し得ないはず。というのは、「なんかあったら何でもやります」という料金だから。何でもやります、というのは大袈裟に聞こえるかも知れないけど、オープン系なら諦めるような事まで徹底してやるのは事実。そして、その作業の安定性への拘りも、オープンより明らかに饑えだし、安売り専PCサーバ屋とは桁が違う。そこまで出来るのは、やはり沢山お金を貰ってるから。コストストップ掛けずに徹底してやれる。とはいえ、今のITの世界の中では、ボッタクリと言われるような利益率なのはその通り(繰り返すけど、IT業界の中では)。

以上、元増田は判ってるかも知れないけど、万一のためと、読者の誤解を招かぬよう。戦った結果「こんなはずじゃ」というオチにならないように。

若い役人が、こう頑張るのは素晴らしい。ぜひ、その心を終生忘れずにいて頂きたい。

2008-07-18

「ええと……どこか世界の涯(はて)の海岸みたいなところをとぼとぼ歩いてたんだ。そしたら、手紙の入った空ビンが流れついて……」

――飛火野耀『もうひとつの夏へ』下巻(角川スニーカー文庫


灰色の砂が積った浜辺で、僕は独りで暮らしていた。


灰色なのは浜辺の砂だけではない。海も空も灰色に濁っていた。白と黒の濃淡以外の色彩を持つものはその光景においては皆無だった。もしかするとこの僕自身も例外ではなかったのかもしれない。その時はそんなことは考えなかったけど、もし自分を海の水を鏡に見立てて映し出すことが出来れば、そこに僕はひとりの老成した少年(そう、その頃僕は紛れもなく「少年」だった!)の姿を見出すことが出来ただろう。髪の毛は黒くぱさついて、肌はやたらと白くぶよぶよ膨らみ、白目の中に輝きを失った瞳が黒く点となって存在しているような、そんな少年の姿を。


海辺には常に何かが流れ着いていた。例えば古いレコード。水を吸って死体みたいに重くなった猫のぬいぐるみ。壁に掛けるような大きな時計。判読不可能なくらいに文字がぐじゃぐじゃに滲んでしまった日記(それが日記であるというのも結局は表紙にそう掘り込まれているというくらいの根拠で判断したから、もしかしたら違うかもしれない)。それは全て僕に宛てて流されたものであるようにさえ思われた。でもそんな酔狂なことをやる人間はいない。死んだ人間や、或いは生きている人間が戯れに流したものが自分のところにまで届いた。それくらいの意味しか持たないのだということを、色々考えても結論として自分に納得させざるを得なかった。


僕の方から浜辺の外へ向けて何かを送信することを試みたこともある。壜の中にたった一言、「お前なんか大嫌いだ」と書いて海へ流したことがある。もしかすると――あのポリスの曲みたいに――誰もが結局は「お前なんか嫌いだ」というメッセージを流していて、或る日海はそうした宛てもなく心情を吐き出したメッセージで溢れかえってしまう日が来るのかもしれない...あの海のことを考えると、そういうことを考えることもある。


僕も本当なら自分を理解する人間に向けてメッセージを送りたかった。だけど自分の周囲には僕のメッセージの伝わる人間はいなかった。それどころが、僕がメッセージなるものをもっているということ自体が奇異なことのように思われているようだった。僕以外の人間から僕に宛てられて届くメッセージは痛いほど僕に対して伝わってきた――「お前なんか大嫌いだ」と。だから僕はそうした場所から旅立ち、浜辺へと辿り着いた。郵便の届く保証のない家でじっとしているより、浜辺で永遠に打ち寄せる波とそれに合わせて崩れていく砂を見ている方が好きだったからだ。


そんなわけで、僕はその時期をラジオと猫だけを傍らに過ごしていた。チューナーの狂ったラジオからは色々な電波が流れてきた。帰る星を見失った、 1000光年離れた場所に存在する宇宙飛行士の嘆きと叫びや――そんなものがどうして「その時」届いたのか考えると奇妙な気持ちになる。1000年という時を越えてたったひとりの受信者である僕のところへ届いたということなのだろうか――或いは遠い国の様々なニュースだった。


ラジオが壊れてからは、海岸に時々落ちている貝殻をラジオ代わりに耳にあてて、耳をすましてそこで呟かれている言葉を聞き取ろうとした。遠い国で建設された塔が太陽よりも高みに達したというニュース人類が或る日滅亡したというニュース。失われた大統領心臓発見されたというニュース月齢が4.7に達した日に彼方へと旅立つ船が航行するというニュース。僕の前世は「アフリカ」という場所で茂っていた一本の葦だったというニュース。その更に前世ドイツの三文詩人が綴り、そして破棄してしまった言葉のひとかけらだったというニュース。そういったニュースを僕は楽しく聴いていた。流れている内容が本当なのか、それとも嘘とデタラメなのかはどうでもよかった。ただ誰かの言葉が聞こえるということ、それだけが僕にとって重要だった。


海辺で戯れに魚を吊り上げたことがある。釣れたのは全身を鱗に覆われた、さながらトカゲのような緑色で固い皮膚を持ち四本の足と二つの乳房と三つの翼を持つ魚だった。頚動脈を切断するべく包丁を突き立てようとしてその魚と目が合った。その目は悲しそうに潤んでいた。魚ではなく、人間の眼のように見えた。「わたしはせっかくあなたの孤独癒してあげられるのに」とその眼は語っているように見えた。結局その魚は足を切断して三枚に下ろして皮をむいて食べてしまったのだけど、えぐみの残る後味を噛み締めながらその瞳の持つ意味についてしばらく考えてみたことがあった――もっとも一晩眠った次の日になると忘れてしまったのだけど。


その頃の儀式めいた習慣のひとつとして、眠りにつく前に僕はピストルを右のこめかみに当てた。そして冷たい金属が肌に触れる感触を確かめながら、今度こそこめかみを打ち抜こうとした。サリンジャー短編に登場する青年が最後にやったように。しかし出来なかった。何故だったのかは分からない。死ぬに値するほどの何かを信じることが僕には出来ていなかったからなのかもしれない。それが僕にはひどく辛いことのように感じられた。


「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。」死んだ祖母はいつもそう言っていた。

――村上春樹『風の歌を聞け』(講談社文庫


それは1991年のことだった。

2008-07-15

わが子を自分探し病から守る 前編

あなたも私も自分探し

あなたに漠然とした質問をひとつします。

深く考えずにとりあえず答えてみてください。

「答えはどこにあると思いますか?」

本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。

でも、答えてください。

反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。

何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。

答えましたか?

これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。

「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。

このテストは、速水健朗自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。

自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。

でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。

娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。

「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。

しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。

では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。

そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。

現在子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。

あいのり」に漂う時代の空気

自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探し社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。

我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。

私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。

私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。

ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。

高身長高学歴高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。

就職恋愛自分探しの「あいのり」世代

私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せ社会人になれると刷り込まれ続けてきました。

というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。

自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。

常に本当の自分とやらを見つめ続け、

「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。

ファンタジーのつもりだった「個性重視教育

問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探しキーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。

罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。

その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。

(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育

をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、

「個性重視教育

になってしまったのです。

ファンタジー現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。

だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉キャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。

相当に丁寧な言葉キャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。

議論を台無しにする認識のずれ

このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。

50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、

へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。

問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。

だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。

自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。

たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。

しかし、まさに「ブーム」でした。

ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。

自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。

しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。

自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。

そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。

404 Blog Not Found

「探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない」

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html

Baldanders.info

「『自分探しが止まらない』を眺める」

http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml

どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。

適応しすぎた私と背中を向け続けた妻

自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。

妻のおかげです。

私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。

私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。

あくまで事実を書いただけですw

より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。

キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。

要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。

就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。

一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。

なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。

要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教憂鬱で仕方なかったとのこと。

相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。

まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。

私と妻の価値観のぶつかり合い

実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。

私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

「俺には輝かしい学歴があるからね。」

「あなたの大学卒業生はみんな幸せになれるの?」

「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。

だけど、俺は違うよ。就きたい職業イメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」

「あなたの希望通りの仕事に就けたら、私を幸せに出来るの?」

仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」

「本当に?」

「たぶん…。」

「私を幸せに出来るの?」

「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」

真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。

私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。

輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。

三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップステップジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。

走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。

更に言えば、ホップステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史教科書ではむしろ多数派です。

何はともあれ跳ばなきゃ話にならない

そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界内定をもらいました。

しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。

跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。

その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。

三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。

内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。

そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。

「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。

だって、就職留年して別の会社内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」

彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。

そして、私は無事に大学卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。

助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。

たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。

足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。

だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。

でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。

「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。

ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。

でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

「誰にも負けない何か」を求めたくなる理由

「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。

閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。

でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。

私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。

学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。

大規模リストラニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。

そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。

かといって官僚も、天下りありきの賃金構造モチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。

そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。

確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。

でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。

だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」

「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」

「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」

「ある!…はず。」

「食べていけるの?」

「…いけると思う。」

子どもの学費もあるんだよ。」

「いける…ん…じゃないかな…」

「厳しいんじゃない?」

「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」

それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。

そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。

というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通人生以上の修羅の道です。

要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。

でも、なにか確かなものが欲しい!

そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。

どうして妻は私にとってかけがえがないのか

私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。

私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。

そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。

「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」

妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。

一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。

今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。

「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。

一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw

もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。

自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。

そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。

結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。

不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。

答えはどこにあるのか?

私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。

そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。

かといって、「キミとボクの関係世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。

そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。

「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」

という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。

追記 わが子を自分探し病から守る 後編へ

後編へのリンクを忘れていました。

増田なもので、すみません。

わが子を自分探し病から守る 後編

http://anond.hatelabo.jp/20080715002502

2008-07-05

「男の人について疑問に思ってること」への回答/性欲=セックスしたい欲ではなくて

男の人について疑問に思ってること、への回答

http://anond.hatelabo.jp/20080703203447

23歳。

こういうのって、「男の人は」じゃなくて人によって人によって全然違うよね。

1. 男の人の性欲は女よりもずっと強いと言うけれど、

実際、ムラムラしてるときはどのくらい切実ですか。

半日、何も食べてなくてお腹がすいたときみたいな感じ?

それとも、二日ほど食べてなくてフラフラって感じ?

→ムラムラしていることがありません。よって切実さゼロ

2. なんで自分で処理できるのに、風俗に行くんですか。

→よく知らない人となんてやりたくもないので行かない。

3. ついムラムラして痴漢とか、果てはレイプ殺人したり、

犯罪になるとわかってても、自分の衝動が抑えきれないのって、

同性としてどう思うんですか。少しでも同情しますか。

レイプはついムラムラしてやるものじゃないっていうのが通説だと思うけど、

 同情以前にレイプしたい・してしまうということに共感できない。

 そんなことをする人と「同性」とか言われたくないくらい。

 

4. 性欲はスポーツ趣味仕事にうちこめば、昇華できるんですか。

昇華意味するところによるけど、スポーツ趣味仕事で性欲が解消されるとかはないと思う。

5. 女性を見てドキドキするとき、その人に愛情をもってるのか、

ただ性衝動につき動かされてるだけなのか、区別できますか?

区別してたら、その人に対する態度も変わりますか?

→性衝動につき動かされるとかはない。

 根源的な性的欲求と分離できないけど、セックスしたい欲とは別物ということはわかる。

6. 女からみればわからないけれど、普段澄ました顔をしてても、

実はエッチなこと考えてるんだろうなぁ、こいつ、って男同士では

わかるんですか?

→わかりません。

7. 男の友達同士で、彼女とか風俗嬢としたことって、どれくらい詳しく

話すんですか。それ、恥ずかしくないんですか。

→(私は)話しません。

8. エッチあまり好きじゃない彼女とか奥さんって嫌ですか。

あたしはスキンシップは好きだけど、あれは二週間に一回くらいで

いいんです。そんなのって愛がないって思いますか?

たんに欲求が少ないだけなんですけど……

→私自身「セックス」が好きなわけじゃないから問題ない。

 スキンシップがないのはちょっと寂しいけど、セックスはまた別。

性欲=セックスしたい欲ではなくて

一番元の、「性的欲求」とセックスしたい欲は別物ということには注意してほしい。

セックスしたい欲は性的欲求が転化したものだから、

私のようにそういう形に転化しなければセックスしたいと思わなかったりする。

性欲(性的欲求)=セックスしたい欲として語られるのは、

食欲=寿司食べたい欲みたいな奇妙さがある。

食事に関しては対象が多様なのに対して、性欲は大部分の人がセックスに向かうからではあるのだけど。

2008-06-30

関西人元増田です。

http://anond.hatelabo.jp/20080629214911

上の記事を書いた者です。

うわあ、こんなトラックバックの数にびっくり。頑張ってレスしてみます。

http://anond.hatelabo.jp/20080629223756

っていうより、東京関東弁をしゃべるのは当然じゃね?英語圏英語しゃべるのと同じだろ。

当然じゃないです。関西関西弁をしゃべらない人を私はおかしいと思いません。標準語でも構わないし、地元言葉地元言葉と思ってしゃべってる分にはOK。

関東弁が標準の世界で我が物顔で関西弁をしゃべろうとする輩が多数(少なくとも他の地方出身者に比べて)いるのだから、そりゃ非難されて当然だと思うが。

そういう人がいることは認めますが(といっても実際に見たことはないし、日本英語押し通そうとする一部のアメリカ人ほど目に余るとは思いませんけど)、関西弁自体が下品という理由にはならないですね。下品な関西人は下品な東京人と同様に下品、それだけのことです。

だいたいあんた、「じゃね?」は方言だと指摘しとるんやからわざと使うのやめてんか。

http://anond.hatelabo.jp/20080629225110

今でも言われるときがたびたびあるが、自分はそもそも名古屋弁をあまり使わない。らしい。別に意識しているわけじゃない。どうも方言が身につかなかったらしい。

両親とも名古屋人だから、触れなかったわけではないけど。

関西人でもそういう人は結構いますよ。

そういったのをマネすると、やっぱり関西弁っぽくやったほうがノリが良い。自然関西弁的なのが増えた。

そうそう、なんで関西弁をわざわざ使ってるんだろうなあ、って人がいますね。関西に移住してきた人は、岐阜より東の人は標準語に合わせるか関西弁を身につけようとするのに対し、岡山四国より西の人は自分もかまわず地元言葉でしゃべったりする人が結構多いです。なんでなんでしょうね。

http://anond.hatelabo.jp/20080629230753

にもかかわらず関西人東京における関西弁の扱いについて敏感になるのは、自分たちに自信がないからじゃね?

「気にするのはお前に原因があるからだ」論法ですか。やめていただきたいですね。

http://anond.hatelabo.jp/20080629231359

本当に都会人として生活しているなら、この世界は多様性に満ちていて、何が奇妙で何が奇妙ではないかなんてことを決めることができる者はこの世にはいないってことを当然心身に刻みつけているはずだからね。

うーん、「都会人」って言い方が気になりますね。都会の人って(私自身も含め)、都会の方が田舎より高等だと思いたがる気がするんですが、これも偏見ですよね。某社会学者が「田吾作」って言葉侮蔑語で使ってますが、下品ですよね。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080629214911

b:id:anigoka 笑いの聖地とか本気で信じてる奴らに言われたかねぇよ、てかつまらないのにお笑いルールを強要してくる関西人とかマジ迷惑|↑うん、ごめんやっぱ大阪

確かにそういう奴もいますね。代わりに謝っておきます。でも、関西お笑い関東人から見ておもしろくないのと同様、小島よしおとか関西の基準でいうと全然面白くないわけで、でもちょっと前までは「小島よしおつまらん」というと「KY」と言われかねなかったわけで、その辺はお互い様じゃないですかね。

http://anond.hatelabo.jp/20080629234140

何やら嫌みの一つも言いたげだけど、一般的に一橋早稲田は実際に格が違うんでね。

そこんとこよろしく。

ネタマジレスしてみますが、あなたの基準だと京大阪大一橋東工大はどういう序列になるんですかね?

2008-06-29

http://anond.hatelabo.jp/20080629214911

ひとつ考察から抜けている点があると思う。

東京に住んでいる人間の多くが「地方」出身だと言うことだ。

地方を笑っている東京人が、実は「東京」の基準で笑っているんじゃなくて、典型的田舎モノの振る舞いとして「余所者」を「余所者」であるというだけの理由で笑っている、という可能性は大いにある。

本当に都会人として生活しているなら、この世界は多様性に満ちていて、何が奇妙で何が奇妙ではないかなんてことを決めることができる者はこの世にはいないってことを当然心身に刻みつけているはずだからね。

2008-06-28

死刑制度について思うことを書くよ

制度そのものの是非については保留するよ。考えるの面倒だし。

Aさんを殺せー!

って発言は、普通ならば周囲から変な顔されるけど、例えばAさんが殺人を犯したときだと変な顔されないのは奇妙だよね。

その光景はまさに処刑されるマリーアントワネット彼女を取り巻く群衆みたいな感じ。魔女裁判みたいな狂気も見え隠れ。

この世界に死んでも良い人間なんていない!(ただし他人を殺した人間を除く)

かっこいい台詞だねー。でもこの辺はダブルスタンダードになる諸刃の刃が多く潜んでいるかな。取り扱いには要注意。

被告人極刑を望みます

って被害者家族とかが時々言うけどさ、自分にはその人が被害者家族だとは思えない。残念なことに加害者の目をしてるから。

被告死刑に処する。死刑執行人は被害者家族とする

みたいな判決が出たとするとき、被害者家族加害者を殺めないことを自分は望むよ。

制度そのものの是非はどうだっていいや。それより制度が存在するときの『世間の目』が死刑制度よりずっと恐ろしいものだと、自分は感じるよ。

2008-06-21

http://anond.hatelabo.jp/20080621150956

人間関係のために性欲を使う

のもまた、人間関係への欲望にドライブされてるんじゃね?

性欲だから主体性がなくなるという論理奇妙だ。

人間は欲望を持つものであって、それは否定されるべきではないと個人的には思うね。

性欲だろうが人間関係だろうが俺は肯定する。

ただ、際限のない欲望に対してはそれなりに対処しなければ不幸になる。

際限がなければ満たされることがないからね。

2008-06-19

2ちゃんまとめの噂

827 名前:Trackback(774)[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 21:27:11 ID:RcdjjoE+

2ちゃんまとめの噂☆

アルファルファ管理人は13人

VIPPERな俺とおはようお前らの管理人は同一人物

ブログ連合が3つ存在し、どこにも属していないブログは潰される

アルファルファ管理人の一人=無題のドキュメント管理人

キラ管理人コミケで右腕を骨折した

・5月の中旬、ニダ速管理人が挑戦人団体に消された

・去年の9月??12月にできたブログには奇妙な共通点があるらしい

・最年少管理人はPower2chの11歳。最年長は東京エスノが58歳(OL)

痛いニュースニュー速クオリティlivedoor社員

太田君が次期衆議院選挙民主党から立候補予定

管理人の一人にFOX★がいるらしい

ワラノートとアフォblogホモ

童貞率7割

・働くものニュースは実は働いていない

2008-06-18

宮崎勤死刑に思い出すこと。

幼少時、私は宮崎勤死刑囚に遭遇している。

これまでこのことについて他人に話したことはほとんどなかったけれど、死刑執行された今後、もう話題に上ることもないだろうと思うとふいに記憶が惜しくなった。

=====

21年前、小学2年生の時だ。幼なじみと近くの林で遊んでいた。道路のすぐ横が斜面になっていて、そこの土は他と違って粘土質で土遊びにもってこいだったため、私たちの格好の遊び場だった。

斜面は道路を隔てて中学校住宅に面していた。とはいえ繁華街からは遠く離れており、人通りは多くない。住民以外は滅多に見かけない土地柄だった。当然、知らない人にはついて行かないようにと教えられていた。

見知らぬお兄さんが、道に迷ったといって私たちに声をかけてきた。小さな白い車に乗ってきたらしく、地図を広げて「○○公園って知ってる?」と聞いてきたのだった。

お兄さんが探している公園は私たちの通う小学校に隣接していて、この住宅地の中では一番大きな公園だった。家からは子供の足で20分はかかる。よく知っている公園なので、私たちはすぐにお兄さんに道を教えることができた。

「やっぱりよくわからないから、車で一緒に乗って行ってくれない?」

「でも知らない人の車に乗っちゃ行けないって言われてるから」

私たちは断り、もう一度道を説明した。だがお兄さんはその場から離れようとはしなかった。

「まだ時間があるから、一緒に遊ぼうよ」

「何時まで?」

「4時に仕事があるから、それまで」

私も幼なじみ時計を持っておらず、5時に消防署サイレンが鳴ったら帰ってきなさいと言いつけられていた。知らないお兄さんと遊ぶのに警戒心がなかったわけではないはずだが、4時までと時間を区切られたことに安心したのだと思う。

「じゃあいいよ、一緒に遊ぼう」

私たちは彼を受け入れた。

しばらく3人でしゃがみ込んで土をいじっていたが、お兄さんが「この崖の奥はどうなってるの?」と立ち上がった。粘土質の斜面を上がると木が生い茂り、ちょっとした探検気分が味わえる林になっていた。

「ちょっと見てみたいから、一緒に行こうよ」

誘われて、林の中に入っていった。

大人の足は、子供の踏み入れたことのない場所まで分け入ってしまう。

「この先は行ったことがないから怖いよ」

「今何時? 公園に行かなくていいの?」

という私に、彼は

「大丈夫だよ」

と気にせずどんどん林の深くに進んでいく。私は不安だった。大人の目の届くところで遊ぶつもりが、知らないところで知らない人と遊んでは母の言いつけを破ることになる。知らない人と遊ぶことがどうしていけないのかきちんと考えもせず、ただ言いつけにそむく後ろめたさが不安の理由だった。

やがて少し開けたところに出、花か草かを摘むためだったか、私たちはまたしゃがんで遊び始めた。

3人で車座になり、そこで私たちはお兄さんに名前を聞いた。お兄さんと私と幼馴染の苗字には共通点があった。3人とも「宮」の字がつくのだ。

「一緒だね」

「おそろいだね」

そう言い合った。それで私は彼に親近感を覚え、不安は薄れた。

お兄さんは特に何をするでもなく私たちが遊ぶのを見ていた。そのうち私は、妙にお尻がくすぐったくなってきた。木の枝でも当たっているのかと見てみても、それらしきものはない。変だな、変だな、と何度か思ううち、それがお兄さんの手のせいだと気づいた。スカートの下に手をもぐらせて、ブルマーの上からおしりを撫でているのだった。

子どものおしりを触る大人というものが私には不可解だった。大人の男の人は大人の女の人のおしりを触るもので、それがエッチなことであると知ってはいた。そのはずが、なぜ子どもを触るのか、お兄さんの行為が不思議だった。

私は触られるのがいやだと思った。変な触り方をするからだ。くすぐるようにこそこそと撫でるのでむずがゆかった。だが抗議をするのに少しためらった。大人の女の人は大人の男の人におしりを触られたら怒るものだ。クラス男子スカートめくりをされたら、女子は怒るのが当然だ。だが、大人が子どもに触るのも同じように怒っていいのだろうか。

このあたりの葛藤は今でもよく覚えている。このころはまだ、ペドフィリアというものの存在が今ほど広く認知されていなかったせいだろう。子どもにいたずらする大人はいるにはいたし、母親たちもそれを警戒していただろうが、私たち子どもには「知らない大人についていかないのは誘拐されて身代金を要求する悪い人がいるから」だと教えていた。幼児に性欲を向ける大人の存在子どもたちには隠されていた。その存在が大きく世間を騒がせるのは宮崎勤事件以降のことだ。

ついに私は勇気を出して声を上げた。

「おしり触ったでしょー」

「触ってないよ」

「触った!」

「いいじゃない、ブルマはいてるんだから」

驚いたことに、幼なじみも彼のこの言葉に賛同した。

「そうだよ、ブルマはいてるんだから」

幼なじみは私よりもさらに世知に疎く、幼かった。彼女には年の離れたいとこがたくさんいたから、お兄さんに遊んでもらうのに警戒がなかったのだろう。

今ならそんな言葉に言いくるめられるわけがないが、幼なじみの援護もあって当時の私は納得した。これ以上抗議するのも大人ぶっているようで恥ずかしかった。

何度目かの私の「今何時?」攻撃にお兄さんは重い腰を上げ、3人は林を戻り始めた。私たちは元の斜面に出たところでさよならのつもりだったが、お兄さんは

「まだ遊べるよ」

と言う。

お仕事でしょ? いいの?」

「なくなったんだ」

携帯電話の普及していない時代だ。彼の言い分は不自然だった。父の姿から、大人にとって仕事は何より大事なものだと思っていた私に、また彼への不信感が芽生えた。

「ここじゃなくてもっと広いところに行こうよ」

「どうして?」

ボールがあるから、それで遊ぼう」

彼はゴムボールを持っていた。野球ボールくらいのサイズだったと思う。

「○○公園は?」

彼は最初に尋ねた公園を挙げた。

「そこは遠いよ」

「車に乗っていけばいい」

「知らない人の車に乗っちゃいけないって言われてるから」

「もう知らない人じゃないでしょ」

「でも……5時になったら帰ってきなさいって言われてるから」

私の抵抗に比して、幼なじみはあっさりしたものだった。

「××公園なら近いから、そこに行く?」

と彼に提案し、私もその案に妥協した。彼と遊ぶのが楽しいらしい幼なじみを見ていると自分の警戒が的外れなように思えて、ブルマ言い訳同様彼女に従ってしまった。

車には乗らないと私が強情を張ったので、公園まで3人で歩いた。

公園には時計があった。正確な時間は覚えていないが、4時は回っていた。

しばらくキャッチボールをして遊んでいると、大きなサイレンが鳴った。消防署サイレンだ。

「5時になったから帰らなきゃ。Mちゃんも帰ろうよ」

私は幼なじみに促した。

それなのにお兄さんは、

「まだ明るいから平気だよ。それよりもっと広いところに行こう。やっぱり○○公園に行かない?」

と誘ってくる。

私は刻々と時計の針が5時を過ぎることに落ち着かず、とにかく帰る、と繰り返した。

「Mちゃん、帰ろう」

Mちゃんが誘拐されたらどうしよう、となんとか一緒に帰るよう幼なじみを口説いた。幼なじみは迷っているようだった。同じく門限は5時だったが、お兄さんの誘いも魅力的だったのだろう。私はこれ以上、母の言いつけを破るのはいやだった。

「私、帰る!」

帰ろうとしない幼なじみを置いて、私は走って公園を出た。早く帰らなきゃ、と思う頭の片隅で、幼なじみを置いてきたことが気がかりだった。

家に帰ると、母が夕食を作っていた。

「おかえりー。だれと遊んできたの?」

「Mちゃんと」

知らないお兄さんのことは言わなかった。

何日か後、部屋で遊んでいる私のもとに深刻な顔をして母が入ってきた。

「あんた宮崎さんって知ってる? こんな手紙が入ってたんだけど……」

母の手には、折りたたんだルーズリーフが握られていた。

「あっ! この間、Mちゃんと一緒に遊んだ人だよ」

私はばつの悪い思いをしながら、母に説明した。母は眉を曇らせながら聞いていた。

最近見かけない車がこの辺をうろうろしてたけど、その人だったのかもね。あんた宛にこんな手紙ポストに入ってるから、何があったのかと思った。そういうことはちゃんと言いなさい」

「ごめんなさい、車に乗らなかったし、5時に帰ってきたから大丈夫だと思って」

「それはえらかったね。それにしてもMちゃんも無事でよかった」

そう言って、母は幼なじみの家に電話をかけた。あのあと幼なじみも私の直ぐ後に帰り、同じような手紙が入っていたらしい。

大人たちは真剣な面持ちで何度か話し合いをしていた。家を突き止められた以上また会いに来るかもしれないが、今度こそ大人を呼ぶようにと言い含められ、手紙は母の管理化に置かれた。

ことが大人の手に渡れば、子どもが心配するようなことはないと思った。私はそれきりそのことを忘れた。

2年後、私は4年生になっていた。テレビから連日、幼女誘拐殺人事件の報が流れていたある日のことだ。

風呂上りにテレビを見るともなしに眺めていた。相変わらず、宮崎勤容疑者が映っていた。画面の中から、彼の青白い顔がこちらを向いた。

その瞬間、経験したことのない感覚がぞーっと駆け巡った。冷や水を浴びせられたような、とはあのような感覚を言うのだろう。あのときはそんな言葉もしらず、混乱して呆然と突っ立っていた。

「あのときの人だ!」

宮崎勤の顔を見たのはこれが初めてではなく、何度もテレビで目にしていたのに、なぜ今まで気づかなかったのか。

受けた衝撃は言葉にならず、私は黙って自分の部屋へ引っ込んだ。

1人で2年前のお兄さんの顔を思い出そうとしてみるが、はっきりと思い描けない。色の白い、穏やかそうな印象しか覚えていない。

ただ似ているだけの人だろうか。だが私はさっきの戦慄で確信していた。あれは宮崎勤だったのだ。

それから、母に一度、幼なじみに一度、話したことがある。人に言っても信じてもらえないだろうと思っていたから、打ち明けるのに慎重を要した。

「2年生のときに会ったお兄さんを覚えてる?」

母は、

「あのときの手紙、どこかにまだあるはずだけど。あれが宮崎勤だとしたら、殺されてたのはあんただったかもしれない」

と言って恐怖を分かち合ってくれた。

幼なじみは、

「そうだった? あのお兄さん、山口さんって言ってなかった?」

と反論した。

いずれも、2度は話題にしなかった。

私の勘違いならそれでかまわないのだ。小さかった私に起こった奇妙な出来事と、例の凶悪犯と、接点がないならそれに越したことはない。

普段は忘れているが、ふとした折、4年生の私の体を襲った心底からのショックを思い出す。あれはなんだったんだろうかと。あのお兄さんが宮崎勤でないなら、私が受けた感覚はなんだったんだろうかと。

http://anond.hatelabo.jp/20080617032448

元増田です。

 

正直言ってあの駄文が何処の誰のどんな心の琴線に触れたかわからないので、

各々の求めている内容を追記することが出来ないとだけ断っておきたい。

で。

ブコメやら周囲の反応やらを見ているとどうやら俺のクズ発言に怒りを覚えている人が居るようだ。

あえて乱暴な言い方を使ったがそこをまず最初にフォローしておこうと思う。

俺は決して肉体労働者がクズだ底辺だとは一言も言っていない。

体が健康で運動が性に合っている人間が、体を動かすことで報酬を得るのに問題があるとは思っていない。

だから大工などの例を出した。アレ正社員かどうかの個々のケースは知らないが。

俺は日雇い派遣会社に毎日入り浸り、環境のせいにして向上心を持たず、事務所の床で寝るような輩をクズだと称したのだ。

 

 

正直誰に向けて書いたわけでもないし、まともな内容の文章だと自分でもあまり思わなかったので、

そういう所まで気にかけないと増田に文章も書けないのかと若干引いた。これは別の話か。

この際なるべく詳細に思い出して書いてみる。

 

 

俺が勤めていた派遣事務所は、池袋のK社、新宿のS社。

まだあるかどうかは知らない。興味もない。どちらも大手ではない。

色々覚えているのは片方だけなので、その片方の会社でのことを書く。

これは主にそこで親しくなった社員から聞いた話だ。

 

その会社は、オーナー社長が居るとだけ聞いていた。見たことはない。

ただ、「今日来るらしい」の一言が社員間で流れただけで全員が部屋の掃除を始めるほど恐れられていた。

思えば土地柄ヤクザがらみだったのかもしれない。

そして正社員は5人程度と聞いた。三ヶ月間フルでいた頃はローテーションは四人だった気がするが。

その正社員は、正社員と良いながら実質半分社員、半分派遣のようなものらしく、

たまに現場に出ないと収入が低いとぼやいていた。

つまり日勤(事務所電話受け、新規面接など)より現場の方が給与が高かったのだろう。

女性は一人いた。高校を退学したとか言う話だったが詳しくは知らない。

実質、事務所に寝泊まりする輩の母親みたいなものだった。奇妙共同体だと最初は思ったものだ。

 

その事務所には月当たりで50人から200人が登録(面接)に来ると言っていた。

大半は学生のため、月や季節でばらつきがあったようだ。

だが暇な主婦や、失業したサラリーマンなどもそれなりにいた気がする。

それらの内、最初の一週間で二度と来ないのが半分程度

半年までで辞めるのが3割程度、

半年以上続けるのが1割、

そして何があろうと居座るのが1割だと聞いた。

ちなみに会社に泊まるような奴は数ヶ月に一人くらい増える、とその社員は笑っていた。

俺が三ヶ月フルに居座っていた間、常に寝泊まりしていたのは数人だった。

週の半分くらい事務所の床で寝るのが10人はいた気がする。

その頃はネカフェ難民などという言葉はまだ発明されていなかったから

ネットカフェに常に泊まっている奴らがいたかどうかはわからない。

ただ、シャワー浴びに行くとか、今日ゲームがやりたいとか、

そういう理由でネットカフェに行く人間もいた気がする。

フラフラしているが故に

今日はあいつはどこ泊まってるのか分からない、明日の現場に必要なのに捕まらない」

なんて事もよく聞いた。

 

仕事内容は前回書いたものが主だった。

他にも、借金の催促電話掛けや、

真夏の道路の通行量計測、

イベント会場でのプラカード持ちなどもあった。

だが比較的そういったダルくない仕事は大手(グッドウィルなど)が取っていき、

俺の属していた事務所は汚れ仕事などが多く来ているような気がした。

また、現場では「今日は○○から来たと言うことにしてくれ」という通達が出ることがあった。

足りなかった数合わせで緊急の仕事だと、そんなことも多かった。いわゆる数あわせだ。

アレ二重派遣になるのか、と今なら思うが、

当時そこに疑問を持つ人間は誰もいなかった。恐ろしい話だ。

そういえば、その事務所には二勤・三勤という言葉があった。

勤務が終了して根城たる事務所に帰ってきた人間が、すぐに次の空いている仕事に入る言葉だ。

連続勤務、三連続勤務の略というわけだ。

もちろん、普通学生アルバイト主婦サラリーマンの小遣い稼ぎ目的などの人間は絶対にやらないキツい勤務だ。

彼らは金のためなら己を酷使することを厭わなかった。

彼らは金のためにキツい仕事をこなしていた。

彼らは金のために生きていた。そしてその金は浪費するためだけにあった。

 

 

 

色々書いてみたが、俺がクズだと言ったのは本当にごく限られた輩のことだ。

また、上の何割という数字が事実かどうかは知らないが体感では確かにそんな所だった。

そしてクズとまでは行かなくとも派遣から抜けられないで苦しんでいる輩も多かった。

 

目的があって短期派遣仕事をする奴は別にクズでも何でもない。

ほとんどが学生の安易なアルバイトだからだが。

ついでに言うと俺のことを気にする人が多少居たようだが、

俺は社会経験のためにやっていたのでたいした後日談はない。

貯めた金と若干の借金学校に入り、そのまま就職した。

 

 

彼らが俺の言うクズかどうか気になるのであれば、ともに一ヶ月でも働いてみればいい。

クズかクズでないかは結局主観の問題な気がするので、自分の目で確かめてくれ。

俺はこの目で見てクズだと思ったのだ。

 

環境が彼らを悪にしたのだ、と俺以上の上から目線で彼らを擁護するのもいいだろう。

彼らが無計画な理由を置かれた境遇とともに妄想してやるのも良いだろう。

確かに環境は悪かった。決して良いとは言えなかった。

仕事内容はキツいものが多かったし、給与も決して高くはなかった。

だが断わることも出来るし、都の最低賃金を割っているわけでもなかった。

そして日雇い派遣を経験した人間が皆クズで無計画かどうか想像してみればいい。

そうでない人間と、そういう人間と、それらの差はどこにあるのか。

 

そもそも仕事内容それ自体は日雇い派遣でなくとも見つかるものばかりだ。

土建屋内装屋、引っ越し屋、倉庫作業、イベント設営、etc.

現場で、その会社人間たちによく聞かれたものだった。

「君たちは何で派遣なの?ウチの会社に来れば、バイトでも給料倍なのに」と。

 

 

問題がどこにあるかなんて安易なことは言えないのは分かっているが、

だからといってクズを野放しにして良いとは思えない。

彼らに必要なのはステータスともう少しの収入だ。

仕事内容に文句を言う奴らはそもそも日雇い派遣など選択肢に入れない。

 

彼らは愚かだったし、悪しき環境にいるおかげで普通人間も次第に汚染されていくのは

変えようもない事実だった。

今でさえ、あの頃自分がどれだけDQN環境にいたのかと恐ろしくなる。

俺は幸い犯罪には手を染めなかったが、彼らが行う犯罪や非社会的行為を止めることをしなかった。

そこは等しく俺も悪い。

だからこそ、彼らがこれ以上クズにならないような社会を望んでいる。

自分がそこを経験したが故に。

誰かがやらなければならない仕事をやっているクズ人間にも

俺みたいな人間からクズ呼ばわりされないだけの社会が必要なんじゃないのか。

 

前回最後にかすかに書いた、

雇用の枠の流動化

日雇い派遣の公営化

現実的な手段として作用しないだろうか。

 

解雇しやすくなると言うことは、それだけ雇用されやすくなるし、

日雇い派遣の公営化がなされれば、労働者もそれだけ安心できる。

もちろん雇用側から斡旋する公営側に金が流れる事も考えられる。

俺は別に経済雇用専門家でも何でもないが、こんな案はどうだろうか。

 

正直言って前回のエントリの何がそれぞれの心に引っかかったのかは分からない。

日雇い派遣は身近な罠で、そしてその底辺には澱んだ泥沼に足を取られて死んだような輩がうようよいる。

彼らはどうしようもなくクズだし、そうさせてしまう泥沼も悪い。

だから、その沼を幸いスルーできた人間上から目線で救ってやる案を考えるのも悪くないんじゃないか。

俺は沼から出てきた側として、問題提議できればそれで良いかと思っている。

 

 

ちなみにクズクズって単語にここまで過敏に反応されるとは思っていなかった。

だが俺に対する個人攻撃はもっと多いと思っていた。意外とはてな民は民度高くて繊細だな。

2008-06-15

ジェンダーの非対称性ですね、わかります

以下は某全国紙の朝刊の人生相談コーナーに堂々と載っていた文章を一部機械的に改変(単語置換)したものです。

 40歳女性。夫と子ども2人の4人家族。夫はヒステリックになりやすく、怒ると手がつけられません。以前には殴られたり顔をひっかかれたりしたことも。

 浮気や浪費をしたわけではありません。理由は「子ども花粉症なのに窓を閉め忘れた」「子ども受験に興味を示さない」「通勤バス代を節約して歩いていた。そのことを夫に話していなかった」など。私の不注意や配慮のなさもありますが、つまらないことばかり。私は気が弱くトラブルが嫌い。面倒なので謝ってしまいます。すると「謝ればいいと思っている」とまた怒ります。

 まじめに仕事をし、給料を渡しているのに小遣いすらもらえません。「結婚15年間の反省文を書け。忘れないよう毎日写せ」というので、1時間かけしぶしぶ写しています。子どもには「何で離婚しないの」といわれる始末。最近離婚を考えることも。正常な関係になるにはどうしたらいいですか。(千葉・Y子)

 夫がこれほどまでにいらだっているのは、あなたの煮え切らない生活態度がとことん嫌になったのではないですか。ただ夫の性格が悪いというのではありません。

 殴られ、顔をひっかかれても、あなたは黙って耐えている。バス代を節約して歩いても、何をしても非難の対象になるのは、夫があなたの生き方について激しくいらだっているのです。トラブルを恐れ、怒り出した夫にとにかく謝ってしまうというのは、夫からすれば妻が自分の叫びをまったく理解していないということで、またいらだちは深くなります。

 結婚15年の反省文を書かせ、それを毎日書き写せとは、過去を取り戻したいと願っているからです。

 あなた自身が気の弱い性格を変える努力をしてみてはどうですか。夫を旅行に誘ったりして互いに理解し合う努力もしてみることです。

 小さなことを積み重ねるしかありません。離婚するのは、むしろ簡単な解決法。

 夫はあなたに変わってほしいと一生懸命訴えているのですから、その声をあなたが受け止めた時、二人は救われるのではないですか。

思わず「これはひどいミソジニー」「モラハラ」「DV」といった言葉が出てきたのではないでしょうか。私もその通りだと思います。こんな文章が全国紙に載るなんてこと自体信じられないんじゃないでしょうか。

しかし、これは現実全国紙に載った文章とほとんど同じものなのです。この解答を書いた人も、広く名前の知られている人です。

そんなことがあるものかと思わず眉に唾をお付けになったでしょう。論より証拠、はい、こちらが元記事


どうですか?「夫」と「妻」を入れ替えただけで、社会的にこの文章の妥当性が大きく変わってしまうということがおわかり頂けたんじゃないでしょうか。

というと、リベラルはてな民の方々は「いや、読売なんて保守反動新聞で世の良識を評価されても」とおっしゃるんじゃないでしょうか。しかし、産経が片隅にトンデモ記事を載せていると、たちまち「これはひどい」「あたまがわるいタグブクマに飛び交い、誰かが批判エントリを挙げたりというのがこのところの日常茶飯事だったはず。それが今日に限っては奇妙なほどの静けさです。私がこの記事を書いた時点で、ブクマ数は僅か3(うちプライベート1)。これはいったいどういうことなのでしょうねえ?

残念ながら世の良識ってこんなものなんですよ。虐待される女性には理解が集まるようになりましたが、虐待される男性にはまだまだです。加藤容疑者絶望も一部は理解できるのではないですか?絶望した帰結に自暴自棄になって起こした行動には全く賛成できなくとも、絶望すること自体に共感するのは自然なことだと思いますけどねえ。それも「身勝手」で「自己愛、自己中心的」な「ミソジニー」ということになってしまうのでしょうか。これはひどい保守リベラルの野合ですね。

2008-06-14

http://anond.hatelabo.jp/20080614121301

終身雇用制が悪い説

終身雇用は国としての制度ではないです。そもそも終身雇用企業使用者の都合で敷いている制度なので、やめようと思えば明日からでもやめられます。終身雇用のせいで企業業績がとほざく企業は明日から終身雇用をやめなさい。既にやめてる企業は一杯あります。「終身雇用制だから」は全く理由になりません。筋違いです。

解雇規制があるから雇用期間が長期化されやれすくなって結果として終身雇用と呼ばれるわけだから、制度のせいではないともいえない。明日から首切りしても問題視されないような労働法制や判例があるならあなたの言うことも正しいだろうけど。

年功序列が悪い説

上に同じ。いまどき年功序列なんてやっている企業はさっさと潰れた方が世のため人のためだとは思いますがね。

経験つめばスキル上がる可能性高いんだから、成果主義的にしても年功と同様に年齢に従って賃金や職位が上がりやすくなるんだから、年功序列成果主義って外から見て区別できるものでもないと思うが。成果主義にしたら年功的な賃金にならない会社というのは働き続けても能力が身につかない会社、無能な中年雇いつつ、有能な若者雇ってる奇妙会社ってことでそういう会社のほうが淘汰されやすいんじゃないかと思う。

新卒採用しかないじゃないか

全くスキル無しの中途採用は難しいでしょうね。そんな人は派遣制度があってもどうせ底辺だと思いますが。失業者に対してキャリアの整理やスキルの補完といった就業支援の制度は立ち後れていることも事実です。これはむしろ派遣の弊害ですね。スキル付けられないままずるずると派遣階級固定になりますので。

派遣でも失業続けるよりはスキルはつきやすいし、中途採用の場合も派遣すらしたことない失業者と派遣の就業経験のある人では後者のほうが有利。仕事につかせるのが最大の職業訓練派遣がもたらした弊害というのは責任転嫁

あとスキルがないと就職しにくいのに文句言いつつ新卒採用批判する人をネットでよく見かけるのが不思議。そういう立場から見れば、スキルがない新卒を雇うのはほめるべきことのはずなのに。

日本労働市場は何故おかしいか

企業文化的に終身雇用などが幅を利かせているのは問題ですが、これは制度ではなく文化の問題なので老害がいなくなるまで待つしかありません。現在の30代が50代くらいになれば自ずと消えていくでしょう。

長期雇用も年功賃金もほかの先進国でもよくあること。日本がほかの国より首は切りやすいといいつつ、終身雇用が幅を利かせてるのを問題視するのが不思議首切りにくい国のほうが雇用期間は長期化しやすいはずだし、失業期間も長期化しやすく失業率も高くなりやすい。

困ったことに、ここで完全な競争があれば救いもあるのですが、天下り目的の御用派遣子会社なんてのが幅を利かせまくっていたりして、派遣はほぼ寡占市場です。皆で示し合わせて「じゃあ明日からピンハネ7割な」と言い出したら明日からそうなるような市場です。

派遣は参入規制なんかないわけだし、数社の企業が圧倒的なシェア持ってるわけでもなかったはず。派遣会社利益率低いこと見ても競争の激しい市場だというのは明らか。ピンはね率というのは派遣社員人件費以外の費用無視したプロパガンダの数字だし。

2008-06-13

http://d.hatena.ne.jp/hashigotan/20080613/p1

なんか根本的に嘘くさい。特に心療内科とつながってる云々あたり。

こんなこと警察が言ったらそこで患者との信頼関係終了→症状悪化の可能性もあるんで、もし警察に絡んでる受け持ちの患者がいて対応したことがあったとしても警察の方でもそれは配慮するんじゃないの?

実際にこういうことがあったら大変な問題だし、嘘だとしたら患者さんと治療者の信頼関係を壊す悪質なデマだと思います。

前々からかなり奇妙なことを書いてる方なんで、自分はまたかとしか思えないんですが、具体的にここがおかしいと指摘できるだけの知識がないので、最近警察の動き方や警察医療関係に詳しい方、解説おねがいします。

2008-06-03

ブロガーは自由業?有名ブロガー達の更新時間の怪。

 最近は便利なツールもあってお気に入りのブログ更新をお知らせしてくれるのですが、奇妙時間帯に更新されるブログが多いことに気がつきました。平日の真昼間に更新されるのです。特に有名ブロガーアルファブロガー)と呼ばれる人ほど、平日の勤労時間帯の更新が多い傾向があるようにみえます。いつも平日の昼間に更新されるなら納得もいくのですが、不規則に夜中であっても更新が来るタイプの方もいらっしゃいます。

 先日、J-cast探偵ファイルなどでがとりあげられた「ぐっちー氏」ですが、彼のブログも面白い時間更新されてます。

(具体例としてだしても彼だけは、いまさら問題なさそう)(´∀`*)

 ブログをやる方は、わりと自由に時間を使うことが許される方が多いのでしょうか。

日本ブログには専業ブロガーはいないもののIT関係仕事をしてる方などはセミプロみたいなものですから、仕事の合間や移動の車中でブログ更新でも・・・などという感じでしょうか?

 自分の大好きなブログ「よくあるヒッキーしてます。つまり、社会逃避して引きこもって生きているわけです。」

などというものは想像したくないものです。

過去頭でっかちの男が、ブログでは憂国の士を気取り、現実の世界では犯罪者だった例があります。

ネットで口角泡を飛ばしながら正論を主張してるブロガーだからといって、実社会でも信用できるわけではないのが、この新聞記事からも伺えます。

ブログ上に展開される人格がどんなに素晴らしくても、「いったいどんなメチャクチャな生活してるんだろう」と言いたくなるような更新時間だと悲しいですよね。

 みなさんのお気に入りのブログはどんな時間更新されてますか?

蛇足ですがもう一個気になってるのが、はてなブックマークが平日の昼間にいっぱいつくことです。

ブックマークする人たちっていったい?

2008-06-02

http://anond.hatelabo.jp/20080602144453

他人に痛みを伴う理論的な正論を吐いておきながら、自分は感情論で防御するという奇妙な人がいるね。

http://anond.hatelabo.jp/20080601220031

一応擁護しとくと、「猟奇的な彼女」ってのはちょっとした誤訳みたいな感じで、

韓国語の「猟奇」は日本語で言うと「奇妙」「風変わり」ぐらいのニュアンス、らしい。

だからそのまま日本語に直訳しても、内容には沿わないよねーっということで。まあ、ご愁傷様。

2008-05-31

http://anond.hatelabo.jp/20080531142735

「窓際社員になる自分は許せなくて」でいいよね。

それは奇妙ではないよ。

窓際社員になる自分が許せなくて会社を辞める時点では、べつにホームレスになるために辞めたわけじゃない。

すぐ次の職が見つかるとか、辞めて正解とか、そういう自信や自己の決断の正しさを持っていて、それがプライドを維持してる。

でも、厳しい現実にうちのめされて、そのプライドは壊されるのだけれど、人の世話にはならないとか、悪いのは社会とか、別のプライドによる理由付けでホームレスになったりするわけ。

ただ、全員がそうじゃないから、自殺する人もいると思うけど。

http://anond.hatelabo.jp/20080531140320

窓際社員になる自分は許せてホームレスになるのは許せるというのがかなり奇妙な設定と思わないの?

2008-05-03

Matimulog: 学生さん向けtouch the mac

記事自体は学生向けのMacの宣伝なんだけど、コメント欄に大変頭の悪い粘着が付いてて可哀想だ。まつもとさんにバカなPHPerが粘着したのと同じ種類の社会的損失。

バカな粘着が付いた理由というのは、町村氏が某助教授社会的に抹殺することに反対したことで、飛び火っちゅうことなんだけども、それにしてもこの質問者」とやらは自分に正統性がないことについて確信犯だろうか?真性だったらますます痛々しいなぁ。

質問者」は「阿呆」氏から依頼を受けてコメントしているという。

質問者とやらの質問に答えるのであれば、そもそもブログに付けられたコメント生殺与奪権はブログ主にあるのであって、仮に投稿拒否を設定するとしてもそれについて説明する義務は全くないし、そもそも他人のブログコメントを投稿する権利なんてのは無い。これについては共産党サンケイ新聞に対し「反論権」を根拠に反論広告掲載を請求して棄却された最判昭62・4・24が参考になろう。要するに、自分のblogで書けばいいじゃん、ってこと。

結局「質問者」はネチケット論を持ち出すしかなくなってるんだけど、そのネチケットとやらもまったく証明がない。というか、「質問者」の言によれば「質問者」は「阿呆」氏の依頼のウラを取ってないらしい。ウラを取る前に攻撃する、というのはネチケットに適うんだろうか?いやまぁそれを言うならエントリー関係のない話題を持ちかけること自体がネチケット違反なわけだけど。

しかし町村氏は本案に入らず、あっさり質問者に「どこのどなたですか?」と返している。これは「質問者」に原告適格がなく、したがって本案について判断するまでもなく却下するという話で、いかにも法律家らしい態度で好感を抱いた。

で、ようするに原告適格を証明しろという主張に対し「質問者」は多言を尽くして「それは明かせません」と言う。しかし、そもそも依頼を受けたと言っておきながら依頼を受けたことを証明しないというのは全く持って奇妙な話だ。しかも「依頼を受けた」が「「阿呆さん」の味方でもありません」って、んなアホな。

というこのエントリーは、「阿呆」氏からの代理の依頼によって書きました。まぁ私が何者かは明かせませんが。

2008-04-04

http://anond.hatelabo.jp/20080403235630

1億が2億になったのを借りかえるとはいわんだろ・・・。

影響がでないようにするためには新規借り入れが必要になるよね。

いま40兆円の発行だけどこれが早晩80兆円、160兆、320兆とどんどんばいばいに増えていくよな。

いった誰が買い受けるの??

国内金融資産1500兆。

そこに海外からは評価が低い国債がだぶつけば国債の値崩れがおきちゃうぞ?

その利息分を同じ人(主に金融機関)が再度日本国に貸すんだよ。だから借り換えといってる。

80兆になればそれをまた貸して160兆になればそれをまた貸すというのを繰り返す。毎年それやってるのが現実。こういうふうに書くと奇妙に見えるかもしれないが、日本金融資産の大部分を占める預金だって預金者が毎年ついた利息分も含めて再度銀行に貸し続けてるんだよ。その銀行はそれを日本国とか企業に貸して利息をピンはねして儲けてるわけだ。

いくら海外の評価が低かろうと日本国債は円で償還する。円で高い利息払える貸出先が大量に出てこない限り日本国債は値崩れしようがない。だってほかに貸しだし先ないなら無利子よりましってことで低利でも日本国債買ったほうが得なんだから。円=日本銀行負債であり日銀資産は大部分日本国債だから、普通企業へ貸すのと違って貸し倒れリスクも皆無。実際ここ十年での日本国債は史上最低世界最低レベルの低金利で借りれてる。

つまり日本国債が値崩れするときってのは日本が高成長になってる状況って事だから税収も伸びやすい状況。

無駄遣いがまず悪であって、その上で借金してまで無駄遣いはもっと悪だってことが言いたい。

その悪さ具合が、ただつかっただけというだけじゃなくて、利息分被害が広がるといいたい。

まさに失敗のレバレッジ

国債の利息受け取るという受益があるのはほぼ日本人。利息を払うほうだけみて被害が広がるってのはやっぱりおかしい。

中国インド。合わせて20億以上の人間日本と同じステージにあがろうという時代。

資源高はとまらないでしょ。

資源高がとまらないというよりは、日本の調達力の相対的下落は避け得ない。

大量生産品の流通という点で工業製品価格人権費はあげどまるだろうけど、

食料、天然資源とかは逆に上がりつづけるとおもうよ。

(上がりつづけるちゅうか、日本とかアメリカからみた場合。)

じゃなかったらこの需要を上回る供給が必要だけど。

供給が増える要素ってなんかある?

上がれば上がるほど採掘時の採算ラインも変わって供給は増やしやすいし、代替エネルギーリサイクルコスト的に不利でなくなっていく。これから日本はどんどん人口減って国全体での必要な食料や資源だってどんどん減っていくはずだから今までと同じ規模の調達力はなくてもいいだろうし、省エネ技術が進んでる分資源高騰は相対的に有利な面もあるし。

2008-03-24

大切なものは自分で捨てたい気持ち

多分誰でもこういう気質はあるんだろうと思うけど。


僕はどうやら、自分が大事にしていると他人に見えるモノほど、ちょっとしたきっかけできれいサッパリと捨て去ってしまうようだ。

取るに足らない出来事ばかりなんだけど、覚えている出来事、最近の出来事をいくつか。


小学生のころ、おそらく5年か6年か。

習字時間には練習用だったり、筆をふく用だったりで新聞紙をもってくることになっていた。ある日、月曜が習字で前日に準備してて、新聞を眺めていたら、たまたま自分の小学校野球チームが大会に出場するという記事がでていた。小学生大会には珍しく、そのチームも含めた主要チームは、スタメン表までのっていて、「○○の強肩に期待がかかる」みたいな寸評まで書いてある扱いのよい記事だった。おそらくその新聞社主催だったのだろう。

記事には僕の仲の良いクラスメートの名前も数人あったので、大喜びして、僕はその新聞を持っていくことにした。

習字時間、僕は喜び勇んでその記事を持って、名前が出てたクラスメートのところに持っていった。彼にすげーよ、これ、○ちゃんでてるよなんて、言いながら、見せたのだが、彼の反応は予想以上に薄かった。ほんと「ふーん」くらい。

たぶん、彼はそのときしゃべっていたほかのヤツと会話がちょっと弾んでいたのだろう。話題に対して頭が切り替えられなくて、別の話題に頭をまわせなかったのだろう。

でも、僕はそれにものすごくショックを受けた。

えーっ、オレだったらもっと大興奮して、食らいつくように読むのに! と思った。

で、どうしたかというと、習字の練習の一番最初にその紙を使った。何のためらいも無く。むしろ、その紙の記事のところから書き始めたように思う。

そんで、使い終わって、さらに何枚か紙を使ったところで、前述の○が僕のところに同じ野球チームの友人△と来た。

×ちゃん、さっきの記事もう一度見せてくれない? △(一緒にいた友人)も載ってる?

それに対して僕は、「あー、それもう使っちゃったよー」

と笑って残念そうにしながら、でもちょっと冷たく言った。

そのときの○のちょっとショックを受けながらも、奇妙な表情が忘れられない。


次の話 これも小学生かな。

おそらく学芸会の準備だったか、空を飛ぶ無数の鳥の絵を大きなベニア板に書く作業を、クラス全員でやっていた。

僕もあるスペースに図鑑を見ながら描いてた。かなり気合を入れて、羽根の流れの一本一本まで描いてた。

で、ある程度描いたところで、ちょっと休憩して、トイレに行って戻ったら、担任が僕に「××、すまん、背景を塗ってたA子が間違って、お前の絵の羽根のところに色を塗っちゃったんだよ、直してくれないか」と言ってきた。

絵を見ると確かに羽根が3分の2くらいに背景の水色が入ってしまった。その周辺は鳥がいっぱいいて込み入ってたからだろう。A子もすまなさそうにしてる。

僕はそれを見て、色塗りも7割くらい終わってたのに急にやる気がうせて、じゃー、書き直すからいいですといって、無造作に水色で絵を塗りつぶしてしまった。A子も担任も面食らった顔をしていた。その水色の上に僕はやる気が10%くらいになった鳥の絵を改めて描いた。


つぎはぐっと年があがって、大学生の頃の話。僕はあるサークルの代表をやっていた。僕はできるだけ同期や後輩たちの意見を聞きながら、サークルを運営していた(ここではにごった言い方しかできん)

当時、割と新しいことをやろうとしていた後輩たちと、今までのやり方でベストをやろうとしていた同期との間で、ちょっと板ばさみでもあった。でも、僕はできるだけ最大人数が気持ちよくすごせるように努力し、できるだけ効率的な折衷案を考えながら運営していた。

それは同期の中で分かってくれるやつもいたが、副代表(じつは、こいつが代表になる本命で、僕がなると思ってたやつは同期にはいなかったが、後輩を苛烈に使いそうな彼に懸念した先輩が僕を代表に指名した)などは、不満をくすぶらせていた。

その不満があるとき小爆発して、僕は副代表と彼のバックにいるOBに詰め寄られた。いわく、どうまとめたいのか方向性をはっきりしろと。

僕は自分の指針を明確に示していたつもりだったし、いわば中間案としての方向性もはっきりしていた。彼らの言いたいのは、ようはオレの方向に軌道修正しろってことだと理解した。

その辺りから、僕はやる気が急速に薄れた。サークルの運営は場当たり的になっていった。もうどうでもよかった。同期や後輩、OBたちの意見も聞き流しながら運営していった。

そのサークルでの最後の大会は、むざんな終わり方をした。

正直言って、サークル解体の危機に瀕して、僕の代は終わった。

僕は後悔することもなければ、反省する気分でもなかった。

どうでもいいという気分だった。バイトを制限するほど打ち込んだサークルだったのに。


社会人になってからもそんな経験がいくつかあった。

2年ほど運営していたBBS(そこから知らない人どおしで、OFFなども行うくらいには、発展できていた)も、その数年後、作って3年弱続けたブログも、なんか、取るに足らない理由で、あっさりと閉鎖してしまった。でもって、閉鎖しても全然自分としては残念な気分がないのだから、これはどうしたものか、自嘲の笑いすら起きてくる。



この気分は、実は所有物に対してもおこるようで、本やCDレコード(僕はこれらのかなりのコレクターだ)を数年に一回処分する(させられる)のだが、そのときもどうやら他人からすればドライらしい。

だいたい処分をする契機は昔だったら、母親、今は妻が「ちょっとは整理しなさい」と言い続けて、臨界点に達したタイミングなのだが、そのときの処分の仕方が、彼女たちからしたらどん引きな捨て方らしい。

彼女たちが、まあ、これはとっておくのだろうと思ったものをまっさきに処分していくからだ。

例えば、マンガ小説なら一番長く多くコレクトしていたヤツから処分する。単行本なら、高額なものや、愛読したものから処分する。レコードなら、苦心して手に入れたものから処分する。CDも同様。愛聴したものから処分する。ただし、僕個人としては最後の最後の砦は実は崩していないのだが、それは母や妻にはわからないようだ。

彼女たちはいつも不安そうに「これまで捨てちゃうの?」とか、「これはまだいいんじゃないの?」とか言い出す。彼女たちが処分しろと言ったのに。

それに対して僕は「ん、だっていらないもん」と平気な顔をして答える。

パソコンの中のデータ整理なんかも同様で、90%くらい埋まってたハードディスクも、整理が終わると40%くらいにはなってる。



妻は最近、あまり整理しろといわない。

2008-03-13

なぜアルファブロガーは質が低いのか。finalvent全裸執着に学ぶ実態は

全裸ニュースを密に運営していて、もうひとつのプロフィールでは社会をドロップアウトしたヒッキーと自称するfinalvent氏。

http://anond.hatelabo.jp/20080312231337

アルファブロガーは多くの嘘をついて検証をするまとめサイトを立てられたり、出版社から無料で本をもらって、

無料で宣伝することがアルファだと思ってる人など、奇妙な面々がそろっています。

アルファブロガーの実態についてどれだけ知ってますか。工作と売名で水ぶくれした醜いアルファたちであるからこそ、質が低いのです。

誰にも宣伝してもらわずに有名になった海外の著名ブロガーとは全然違います。

アルファブロガー検証サイト

http://alphabloger.seesaa.net/

アルファブロガー仕組まれた錯覚

http://yoshikot64.bakufu.org/

アルファブロガーという内輪のイベント

http://d.hatena.ne.jp/Paul3/20071207/p1

2008-03-05

上から目線よりも、下から目線がキモチワルイ

はてな村のとある集落で話題になっている事がある。

・君の年収を賭けてもいい、君の言う事は違ってるよ

・いや違っていない、納税証明書送るから年収分よこせや

・なんだそのモノの言い方は

・君の年収を賭けてもいいなどとは失礼千万

ブクマ、ブクコメ、各種トラバで盛り上がっている。もちろんネタあり、マジレスあり、釣り煽りもありーので賑わっている。個人的には面白くないと思えるネタにも様々な人が乗っかっている。面白く無い人はコメントしないから同調圧力だけが高まっていて、こちらからすると奇妙な事で盛り上がっているなあと思う。ここらへんがハテナキモイというところなんだと思えた。そういうのを実感したのは初めてだ。

ひところ、「上から目線」というキーワードで某集落が盛り上がっていた時があった。その時はさほどキモさを感じなかったが、今見ている集落は、「下から目線」のコメントがずらりと並んでいる。下から目線の面白い所は、誰もが自分が下から目線なのに気が付かない所だ。上から目線の場合、指摘された方は自重したり、目線について再考したりするが、下から目線の場合は意味が解らないという態度になる。上から目線も下から目線も50歩100歩のように思えるが、下から目線の方が症状が重いようだ。

「君の年収を賭けてもいい」と言われると侮辱と捕らえる人が多いようだ。なぜだろう。年収が少ないからだろうか?年収が多かろうが少なかろうが、年収というものは大金だ。その大金を賭けるというのだから侮辱も何も無いはずだ。無職であれば年収ゼロだから嫌味なのかもしれないが。

「君の年収を賭けてもいい」と言われると侮辱と捕らえてしまうような考えの持ち主は、低収入だから侮辱されているのでは無い。そういう捕らえ方をし、表現する事がバカにされる事になる事に気が付かないのであろうか。それが下から目線という重い病気にかかっている事なんだろう。

別に年収が低いからって誰もバカにしていないのに。

*****

上から目線キーワードなのに、下から目線はキーワードじゃないんだ・・・

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