はてなキーワード: 侮蔑とは
数年前いくつか読んだんだけど「良さ」が分からん。
正直言うと、読んだ直後はなんとなく「いいよね」なんていってた。分からないままに。なんかこのよく分からなさが文学ってやつなんだなとか背伸びして分かった気になってたんだけど、今改めて素直に考えると、分からん。でも当時はそんなことをいうと「バカ」と思われそうでいえなかった(今もリアルじゃ言えないが)。
ぶっちゃけ言うと、文体が「オサレ」なだけじゃないの?オチも意味が分からんし、ストーリー展開も意味が分からない。なにかというとコーラの匂いがしたりする「分かってる」「頭のいい」「超絶美人ってわけじゃないけど魅力のある」みたいな女の子と、恋人になるでもなくセックスをするってだけじゃね?それもなぜか女の子がよくわからないけど主人公に惹かれて、セックスしたがる。なんかかっこつけたポルノっつーか、文学ぶったラノベにしか見えない。特に何も無いけど女の子がセックスしようと寄ってくるってハーレムラノベとどう違うんだ?不自然でキモいっつーか、「こういうのが理想なのか?」って感じで引く。作者の顔をうっかり見てしまった日には、引くというより何か見てはいけないものを見てしまったような罪悪感にすらかられた。
でも多分それは俺がアホなんだろう、読書力?みたいなモンが足りないんだろう、とは思うけど。
なんか絶賛されてるし。海外でも。でもわからん。
つーかそもそも「文学」ってわからない。なんか読んでるうちに、「つーかうだうだいってっけど結局は男が子供こさえた女捨ててきたってことだろ?」とか思って終わるっつーか。漫画とかラノベの方がまだそういう意味でマシだと思う。世界観も、たいして味わいたいと思うような世界観でもないし。じめじめしてるだけの日本があるだけっつーか。小説にストーリーテリングの能力しか求めていないのかもしれない。そしてそれは多分本読みの間では侮蔑の対象にあたる……気がする。でも「話が面白い」「キャラがよい」「世界観がいい」くらいしかわからない。それ以外の「よさ」を感じ取れない。中学の国語の授業の深読みってほとんどこじつけにしか聞こえないし。
あんまりさ、本読んで「つまらん。ここがつまらん」とか言ってると単に何にでもケチつける人ってだけに終わっちゃいそうで、でも小説を読んでも「結局○○○ってだけのことか?」とか「つまんね」と思ってしまう自分がいる。そう思ってしまうことが嫌で、結局小説って読まなくなったんだよな……俺。誰か小説の面白さを教えて欲しい。
・マジレスしていいのかな?八神のダブルカフスシャツ&ボンデージパンツって格好は、当時(一瞬だけ)流行ったネオパンクと呼ばれるスタイルが元ネタです
・その気持ちわかる。でもまず「飢狼伝説」のダサさに中坊のおれは腰を抜かしたものだ。SNKの美意識は変だった
・ふれあいの心/駄菓子屋やドライブイン等のゲーム機はインカムの5~7割に相当するレンタル料で問屋が貸し出す仕組みなためインカムの低い田舎には高(くて新し)いゲームは回らない。買うとリスク高いし。いやー指貫グローブはKOF以前に特撮ヒーローが結構つけてたような記憶あるよ。/「記号的オタアイテム」でコーディネートしよう!という企画を考えたことあるんだけど、何らかのチートしないと綺麗に仕上がらない
・言ってることはよくわからんがオタクがバンダナするのはラルフの影響ですよね?/有名プレイヤーが都市名+キャラ名で呼ばれるのは、バーチャだけでなくその時代の格ゲー界全般の慣習だよ。サイキとかスパIIXとか。
・そいうや、格げー好きの友人も指抜きグローブだったな。影響はあったのだろうが、基本的なところは、オタクは他の物に金がかかるからとても1万円を超す衣料品に手を出せないという話で終了。
・kof94-96あたりは50円で3時間くらい連勝して遊べた。 というか、50円で1プレイ出来ること自体田舎だったのかな、最近そんなのみない
・'94まではまだオタファッションの流れ。庵にボンデージパンツを取り入れた時点でヲタが平伏したんだよな。でもその後のメンズナックルみたいなお兄系ってのはKOF的センスをヤンキー還元したものと思ってる
・確かに自分が学生の頃(15年くらい前)、牙狼伝説が流行っててテリーボガードのコスプレみたいなカッコした人がよくいたよ~。本人はカッコいいと思ってるんだろうけど、当時から疑問だった…。
KOFの一部のキャラが壊滅的にダサかった理由、先行者(カプコン、セガ)に追従できない内部事情、キャラゲーと侮蔑されてもキャラ作りの手を緩めない態度、全てが繋がった気がした。
確かにテリー・ボガードはダサかった。壊滅的にダサかった。名前からしてドキュンネームよりヤバイ。だが、どうしたわけか田舎のシンナー吸ってそうなヤンキーにだけは人気があった。都会の身には、土田舎の事情は想像でしかわからない。
だが、上のコメント群で地方のトンでもない事情が垣間見えた。毛沢東の共産化政策が如く、SNKは地方でまず人気を取ることしか突破口がなかったのだ!だから、ヤンキー受けするキャラを作ったわけだ。(後から考えれば、キャラゲーという概念もKOFによって一般化したものだ。)
当時のゲーセン事情は、まさに貧乏ゲーセンと大規模ゲーセンに分かれる時期だった。大規模ゲーセンでなければ、バーチャなんぞは入らなかった。バーチャは確か、めっさ高かった。後にマニアック過ぎて失速したスト3に関して、カプコンの人が”この基盤が・・、このモーションが・・・”と高性能さを誇らしげに語っていた記憶がある。高性能さでは、SNKはまともに追従できるはずもなかった、主力が12.5メガショック!ネオジオであったのだから。
だから、上のコメントにあるように、主戦場であるアミューズメントストアだけでなく、駄菓子屋などでも人気を取れるような仕掛けを作る必要があったわけだ。「SNKの美意識は変だった」と言うよりは、SNKが、土田舎の美意識に一部合わせたと考えるほうが、おそらく正しいだろう。確かに、リョウとか言うスト2のリュウのパチモン(昇龍拳のモーションまで!!)が作られるように、イカれたところはあった。
ファッションについては、さっぱり分からない。元の文章の「指切りグローブ」云々はネタなのだろうと思う。指切りグローブは仮面ライダーの世界にしかあり得ないでしょ。常識的に考えて。
八神庵は格好良かった。マジで。ただし、暴走庵になるまでの初期バージョンの話だ。そういえば、腐女子向けにキャラ作りをおっぱじめたのも、SNKではなかったのか?少なくとも、キャラ作りのベクトルが、セガやカプコンとは全く異なっていたように記憶している。
「kof94-96あたりは50円で3時間くらい連勝」→100連勝越えですか?狩り反対!
最盛期を迎えたのは、くだんのスト3がマニアック過ぎて客がKOFに逃げた時期、KOF96~98辺りにあったように思う。残念なことに、そのころから格ゲーブーム自体も退潮に向かっていた。スト2ダッシュのころは、新ゲーを投入しなくとも客が途絶えることはなかった。そこからだんだん、新ゲーを投入してから半年頃はというように新しいゲームを入れてからの客の入りが減らない期間が短くなっていった。
いつしか、対処法とコンボをある程度覚えていないとどうにもならないことから「覚えゲー」とも呼ばれることになり、「バッタゲー」とも蔑称され、”夏の祭典”であるはずのKOFの新作が出る時期が伸び伸びになっていった。
女性の脳梁が男性と違うっていう客観的なデータがあるの? それは知らなかった。つーか私はフェミでもないし女性でさえないのだが。
性差別的な発言が人によっては侮蔑的意味を持つって事実は私よりあなたのほうがよく知ってそうだけど、なぜ避けようとしないのか分からないw 言う側と言われる側がお互いに「侮蔑だ」と判断できるならそれは二人のコモンセンスとして避けるべきじゃないの? その場その場で発言を選別するだけの努力を払わないなら、差別だって言われても泰然としていればいいだろうに。過半数であるかどうかが、目の前の人間と話す上で相手の考えを考慮することに優先するって思考はよく分からない。
僕お得意の後だしジャンケン的話ですが。
自分には
「自分に時々湧き起こる『パートナーがほしい』という気持ちは、結局はほぼ『SEXがしたい』という劣情だろう」
という長年の疑念がありました。
「恋愛しない人間は変」という現代の風潮/イデオロギーも、「無思考すぎる」という意味で軽蔑していました。
つまるところ、「恋愛」など、性欲とイデオロギーの、醜悪極まりない結晶ではないだろうか。
では、
旺盛な性欲から解放され、恋愛に対する現代社会のイデオロギーの洗脳が解ければ、僕は「一人で生きていこう」と思うのだろ
うか?
この疑問に、そろそろ決着を着けなくてはなるまい。
僕は27歳にもなって、劣悪で程度の低いこの問題に、いまだにしばしば足をとられるのだ。
残ったのは旺盛な性欲でありました。
だから、僕はここ一年近く、「性欲を完全に満たすこと」に対する投資を惜しみませんでした。
僕の部屋は、この一年で大量のアイドルビデオとポルノビデオ(と大画面テレビ)、大量のエロ本にあふれ、
懐の余裕が許せばいつでも、風俗嬢にも僕の性欲を満たす手伝いを求めました。
それにあたって、インターネットという手段が非常に強力で有効だったこと、
(言うまでもなく、ブロードバンドは男性の下半身が普及の牽引力であった)
また、特にここ2,3年、射精産業に関わる女性の容姿とサービスの質は異常なまでに高いこと、
僕は、その恩恵を一身に受け、僕の性欲は完全に近く満たされて続けています。
しかし。
だからこそ。
ようやく今、100%の自信を持って結論を出せることがあります。
自分の心の隅で、小さく、しかし、ゆるぎない確かさを持って、この一年間結局消えることなく灯り続けてたこの気持ちを、
もう、
決して、
僕は否定することはありません。
俺は彼女がほしい! \(^▽^)/
よく女性が感情的・感覚的であるさまを「子宮で物を考える」と侮蔑的に言うことがある。
子宮と言えば性的なものなので、この言葉は女性が性欲に流されるさまを指しているように聞こえる。
それから、食欲とも関係している。性欲を司る脳部位と食欲のそれとは隣接しているから。
性欲や食欲に支配される自分に嫌気がさしたことは誰にでもあるはず。
だから、性欲や食欲に支配される馬鹿だと言われると頭に来る。
知らない人も多いようだが、本来は「子宮で考える」というのは女性の神秘的な第六感を褒めて言われていた言葉である。
子宮→性欲
という連想ではなくて
その結果、あたかも女性的思考が悪いことであるかのような認識が生じてしまう。
これに類似した例を考えてみよう。
痩せた男を「ヒョロ男」と言うことがある。
痩せてるのには良い面と悪い面があるが、ヒョロ男というのはむろん、悪い面を指している。
だから、この言葉を使うことで「痩せてる男は良くない」という認識が生じてしまう。
なるほど、明らかに痩せすぎな男をヒョロ男と呼ぶのは妥当なのかもしれない。
しかしながら、程よく痩せてる男にもヒョロ男と使われることがあるのが問題なのである。
例えば、フィットネストレーニングをしている友人達がいるが、彼らは「60kgの男なんてダサい」といった世間一般からはズレた価値観を持っている。
彼らの輪の中にいて60kg近くの男性がヒョロ男と呼ばれるのを繰り返し聞いているうちに、いつのまにかあたかも
このように悪い面だけを強調していると、いつのまにか対象を悪く判断するようになってしまうという現象がある。
こんな例もある。
悪いことではないのに、オナニーばっかりしてる男はダサいという認識が多くの人に共有されているという現実がある。
彼女いるいないに関わらずオナニーというのは多くの男性が多かれ少なかれするものである。
それにオナニーの悪い面がよく指摘されるが、それも医学的には不確かなものが多い。
逆に良い面もある。
オナニー中の脳の活動が非常に活発だったという研究結果があるし、性機能が高まったり、セックスの擬似訓練ができたりする。
それなのに悪い面だけが強調されて「オナニー」という言葉が使われることが多々ある。
こんな書き込みが2chにあった。
「>>26 俺が一番、他の人は糞メソッドですね分かります。オナニー乙」
良い面もあるものが、こんなふうに悪い意味で使われるのは残念なことである。
これと同じ現象が「子宮でものを考える」の件でも起きている。
学問のような理性的とも言える知能活動ですら、時には論理をすっ飛ばして物事を直観するからこそ偉大な業績につながる。
また、「机上の空論」という言葉があるように、優れて理性的で抽象的な思考であっても現実に即していなければ役に立たない。
現実に即した行動をとるためには、「具象的思考=感覚的思考」を合わせることが不可欠なのである。
なのに、「子宮で(ry」という言葉によって価値が貶められるのは暗澹たる思いがする。
ところで、「ダブルバインド」をご存じだろうか?
これは心理学用語であり、暴力を与える側と暴力を受ける側の相互の依存関係を指す。
例えば、暴力夫を妻が黙認するどころか、暴力をついふるってしまう夫に対する同情をしてしまうと、
互いに抜け出せないDVの泥沼にハマってしまう。
こういうのをダブルバインドと呼ぶ。和訳すれば「二重拘束」。
夫が暴力で妻を拘束するのと同時に、妻も「夫の暴力を黙認し止められなくしている」という意味で拘束しているというわけだ。
男性が「これだから女は」と言うのを女性が黙認してしまうと男性は言葉の暴力を止められなくなる。
それどころか、横柄な男を「男らしい」と思ってしまう女性さえいる。
そのような間違った男らしさがもてはやされることで、本当の男らしさが見えなくなってしまう危険性もある。
例えば、「ケンカの強い男がカッコいい」と思う女性が存在することで、需要と供給の関係じゃないが、
「ケンカが強い男」や「ケンカが強いのをカッコいいと思う男」が生産されてしまう。
言うまでもなく現在の少女漫画や女性向け小説の登場人物には、九州男児のような古き良き男らしい男性はあまり登場しない。
それどころか、今の少女漫画には「兄萌え」や「ご主人様萌え」もあるらしい。
そういうメディアの影響はきっと計り知れない。
総じて言えば、女性はM化の方向に動いているという面が間違いなくある。
SMを長くやっている友人も最近M女性が増えてきたのは嬉しいが今までとは毛色が異なる、と言っていた。
曰く、「昔のM女性は内気な人が多かった。今はほんとにMかと思うような闊達な女性までもがM。それに自己中心的で娯楽気分なMが増えた」。
そう、娯楽気分で男らしさを求めているという表現がしっくりくる感じがする。
メディアに踊らされているという意味では、今の「男らしさ」は歪んでいると言わざるをえない。
そして、男性どもはモテるためにその歪んだ男らしさに合わせて歪んだSになろうと努力するというわけだ。困ったことである。
この男女の構図は明らかにダブルバインドと類似している。
女性が男性の暴力を許すのみならず、一部の女性がカッコいいとさえ思うことで、男性は暴力を止められなくなる。
女性脳の良い面をきちんとアピールすれば、事態は少しは改善するはずである。
悪い側面だけ言われるのを許してはならないが、そのためには悪い面ばかり言ってるのを叩くだけでは、
図星を突かれて憤慨してるようにしか見えない。
なので、自らの良い面も主張する必要がある。
ところが、2chの男性論や女性論のスレをみる限りでは、女性は自らの良い面を主張するのにあまり成功していない。
女性脳の良い面を主張するよりは、男性の悪い面を叩くことで自己防衛してるふしがある。
そうすれば議論には打ち負けないで済むが、結局「女性脳に対する不当評価」を汚名返上出来ないままになる。
だから、議論が終わったあと、男性は「やっぱり女性は子宮で物を考える」と思うことになる。
もっと良い面を女性達が自覚するようにメディアが働きかければだいぶ違ってくるだろう。
さの対策。
平穏なブログ運営。だから増田で。気づかれても目をそらさず否定できる。
<中立ごっこ、未熟者と失笑されようが、物言えば唇寒しの状況は気持ちが悪い>意欲は買うが、長年の南京論争を眺めてきた増田には、新参者が手首足首を縛り氷河に飛び込む軽業師に見える。酷な言い方だが、あがいて浮上を繰り返しても、ガスが腹の中で膨らんでいるとしか思えない。如才ない奇術師はパンツに剃刀を縫いこんでいる。南京論争には初心者が陥りやすいトラップがあり、反論もルーチンワークの仕掛けになっている。情熱も知識もない増田だから助言。長文も対応策のひとつ。ひるまないでいただきたい。
三項目の問題点、最後に可能性を探る。
(1)数字
<それでおたくは何人と考えてる訳?>南京事件に触れ、まず数を考える者は多いらしく、頭に浮かんだ疑問をそのまま論争に持ち込む初学が後を絶たない。四万に留意する事。四万以下の数字を主張するのは、はてサに<虐殺三十万人説を証明しろ>と迫るのと変わらない。一蹴されるのが落ちだ。数字は慰安婦強制性では虚偽説の代表的論客である秦郁彦が、廃棄処分を免れた現存する日本側文書を軸にし、明らかに不当な、不法なケースを取り上げて最低限の数を順次加算したもの。覆すには秦の著書を購入し、関連書を参照しなければならない。本末転倒で、不本意な作業を強いられる。四万以上の数を扱う場合は当然資料も増え、最終的に中国側の農村部での人口推移の調査報告まで視野に入れなければならなくなる。
<証明できるのか? 二十、二百かも知れないではないか>見出しの百の文字に惑わされてはならない。元中尉の名誉回復裁判は人数が焦点ではない(数にこだわるなら政治屋弁護士と心中する覚悟がいる)。増田の知る中ではてサに「百人も殺したのだから処刑されて当然」と主張する論者はなかった。「国を挙げての士気高揚、その象徴的人物が戦後に個人の責任を問われた」事件と認識され、同情的な見方もある。産経の「捏造」、「真っ赤な嘘」が指すのは、言論統制、検閲を断行した政府、それに唯々諾々と従った当時の報道人と国民に対する侮蔑だと把握しておけば足元をすくわれない。
(2)検証
テンプレがネット上に大量に転がり、手軽さも手伝うのか、初心者がもっともはまりやすく、もっとも論立てが煩雑なのが細部の検証だ。手軽な詰問に対しては反論も数通りのテンプレが用意されている事に気づかないといけない。相手は気分に応じて資料を選ぶ。複数あるのは遺物の集積と相互依存で史実が成り立っているからだ。独自の疑問点を設定するには書籍の購入が必要であり、新書一冊ではまかなえない。たとえば(1)の不当、不法に言及する場合は法学に踏み込むことになる。質問者をよそおって相手の出方を研究する手口も使えない。また万一資料に不信を植えつける事に成功しても、一人の証言者、一枚の写真に疑問符を付けただけで終わってしまう。労多く功無し。
(ただし「功無し」は学術上に限って。目ざましい功労者にポストを提示する教育機関が現れても増田は驚かない)
(3)政治
<謝罪を繰り返させられ、外交で押し切られる隙を残すのは国益を損なう。否定派には存在意義があるのではないか>メタ視線は悪くないが、楽な筋道ではないのは胆に銘じる。最初に日中間に「南京問題」は存在しない事を確認してほしい。政府は「肯定派」であり、中国は賠償も新たな謝罪も要求していない(調査のために遺骨を発掘しろと主張する者がいたが、ビルや田畑を取り壊す政治力や膨大な費用を日本政府が負う事はない。有志による個人負担となる訳だ)。決議に反した閣僚の発言が、政治問題化しないための「強い遺憾」と「村山談話」の応酬が謝罪の内実。また外交問題ではなく国内問題とする誘導に抵抗するのは並大抵でない。はてサに<中国が怒ってる、問題だ>と、一時期の朝日の影を思い描くのは悪手だ。富田メモによって、靖国親拝中断が中国の干渉によるものとしてきた右派は、靖国を国内問題に渡らせないために「天皇」と靖国の距離を広げざるをえなくなった。辞任問題に踏み込めば、閣僚らの特権的地位について逆に問い返される覚悟が必要。初歩の問答を想定しよう。
「旧軍はバターン半島で捕虜らに最大限配慮した。非難は不当」が持論の司令が、「A区調整、全住民を安全に配慮しつつ速やかにB区へ避難させよ」と命じられたら?
「日本は資産を持ち出してまで朝鮮に富をもたらした。利他的で手本となる施策であった」と講演する政治家が、経済相か雇用対策の特命相に任命されたら?
不用意に無償の政治カードを世界に乱発する人物が、通商代表として使節団を率いるとしたら?
(バターンに関してはネット情報でカバーできる。植民地事情に関しては英国と植民地印度の貿易収支が英側の赤字であった事、双子の赤字を抱えた米国が二つの戦争を始めるほど好景気だった事、当時の日本政府と国民が、兵士の生命と財産を供出しても特アの隆盛を切望したと夢想するだけで間に合うだろう)
(4)トウハセイ
<嘲笑と罵倒では相手は聞く耳を持たない。壁に大声でがなりたて、言い返してこないとふんぞり返るようなものだ>読者を無視さえすれば、論争で宗旨替えした否定派が皆無という事実がこの主張の説得力を後押しする。ここで唯一のトラップは、はてサの多くが自身の党派性を否定していない現実だ。質問に質問を重ねるのを逃亡とみては失敗する。彼らは論争に通じ、経験から言質を取られ議論が拡散する事を嫌う(「黙らせるための問答で満足している」と左派から非難された左の論客もいたが)。<イデオロギーで記事を選る、コメ欄に同調者が群れる>といった非難は想定内なので、泥仕合に持ち込むつもりがなければ控える(泥試合が有効な左派も存在するが、医療、疑似科学がテーマ)。党派性で彼らの選択ではなく論理が歪んでいると考えるならば、事の検証が欠かせず、(2)へと戻る。膨大な過去ログを読む必要も。しかし、増田が提案できるのはこの(4)だけ。遠回りで時間は取られるが、非専門家でも順次対応可能で、一点突破も目指せる。
宮崎駿の本を読んだよ。
少し心が楽になった気がするね。
この人の考え方は多少強引な感じはするけど、見ていて悪い気がしない。
日本人ってやっぱり物事を遠まわしに表現するひとが多いと思うけど、
宮崎駿はなんでも正直に言ったほうがいいと言っている。
これってどうなんだろうな。
正直、自分は実践出来そうに無いけど、心の中ではそうしたいと思っているんだろうね。
でも、そう上手くはできないよ。
彼は才能がある。
だから、少し人を嫌な気分にさせても自分の主張を言うことが出来る。
才能に集る人は案外多いからね。
人に惹かれるなんてのもその一種じゃないかと思う。
だから人は離れない。
でもぼくは違う。
おかしなことを言えば人は離れていくしね。
高校のときに体験済みさ。痛いほど理解したよ。
O君という自衛隊を目指していた子がいたけど、
その子をぼくが所属していたグループは無視していた。
正直、彼には問題はなかったと思っている。
でも、彼はいじめられていた。
それはたぶん、彼が持つ空気なんだろう、そう思う。
自分にはないものは排除という意識が集団の中で発生したんだろう。
それは、嫉妬でもあり、嫌悪でもある。
彼の場合は嫌悪だろうね。
空気が読めない。
これは僕にも言えることなんだけどね。
外見、行動、言動、全体的に侮蔑。
卑しい部分が見えると人は離れていくって書いてたのは誰だったかな。
ちょっと調べてみたけど思い出せないや。
ブクマに
どんどん語って文字にせよ
とあったので、↓これの続き(補足)を。
http://anond.hatelabo.jp/20081223011009
1. <「ネクラ」「マニア」「おたく」「オタク」的な人>の定義とその変遷
こんな感じでどうでしょうか。
異論反論もあるでしょうが、まずはちょっとアイデンティティ(Identity)についてお話させてくださいな。
自分は、アイデンティティーには2つの種類があると考えています。
ひとつは「能動的アイデンティティー」。もうひとつは「受動的アイデンティティー」です。
「能動的アイデンティティー」は、自らが<何か>に属していると自発的に感じるアイデンティティーです。
アメリカに長期滞在し味噌汁が飲みたくなった時に「あ、俺も日本人なんだな」と感じる。
これが能動的アイデンティティー。
「受動的アイデンティティー」は、他人が自分に対しカテゴライズする/タグをつけることにより意識されるアイデンティティーです。
道を歩いていて「hey jap!」と侮蔑されたときに感じる「あ、自分は日本人なんだな」と感じたときのアイデンティティーです。
ここで注意しなければいけないのは、一般的には能動的アイデンティティーは<想像されたもの>でしかないということです。
ブイヨンスープを飲みたくなればフランス人なのかというわけではないし、「就職は結婚、同僚は家族みたいなもの」と口で言いつつも、
「会社人間」という自己言及がフィクショナルな物だというのを多くの人は理解できると思います。
ふぅ、ここでやっと「おたく」の話。
本来、「おたく」という言葉で表現されるような人々は「呼ばれる」ことで
受動的にアイデンティファイされてきたわけです。
こんな感じで
・「あー、君の事もっとネクラな人かと思っていたよ」(「暗い奴」という蔑視)
・「すごく詳しいね。○○マニアだね」(「詳しい人」という尊敬・排除)
・「それっておたくが読むものだよね?」(イミフなものは全部「おたく」と呼んで排除)
・外で遊ばないで家でなんかやってる人→ネクラ
・コンパとかマスが認めるカルチャーに興味がなくて、漫画とか変な本とか読んでる人→おたく
なので、「ネクラ」と言われると「そうかなぁ?」と疑問に思い、「マニア」と言われるとちょっと喜んで、
「おたく」と言われると意味がわからなくて「???」となるわけですよ。
(なぜこの「ネクラ」「マニア」「おたく」の中で「マニア」と呼ばれることだけが喜びにつながったのかと言うと、
「マニア」だけは特定ジャンルですごい人・コレクター・収集家の意味を持って使われていたからです)
んで、時は過ぎ去り例の事件後、岡田さんが「おたく」な人たちのことを「オタク」と言い換えて、流通に乗せたわけです。
(大塚英志氏などは、「おたく」から「オタク」に移行したときに宮崎勤的な「何か」が抜け落ちたと批判している)
(「おたく」から「オタク」と言い換えられたとき、マンガ・アニメ・ゲーム文化が「なぜか」中心となった)
それまでは「店頭に飾ってもらえるくらいにプラモデル作りがうまくなりたくて毎日プラ屋に通う少年」とか、
「マンガ絵が好きでファンロードに投稿する少女」とか「鉄道が大好きで教室でマイ路線の時刻表書いてる奴」とか、
「家にあるゲームをやりつくし、怪しげなソフト屋に通うマイコン少年」とかが一律「おたく」であったのに、
なぜかいつの間にか「美少女とかアニメ絵が多用されているマンガ・アニメ・ゲームを消費する人」が
「オタク」のメインであるかのような「幻想」が流通してしまったのが現在なのです。
我ながらなげぇと思うけど続き
自分史的には、ぬるとかガチとかって対立構造が存在した記憶がない。
そもそも「おたく」な人は
なわけだし、お金と環境(部屋の広さとか)と時間が許す限り(程度差はあれ)没頭するのが「普通」だったので。
マイノリティ同士だから基本互助的だし、濃い人つまり金持ちは単純にスゲェとしか思わなかった。
新参が来ても友達少ないから、むしろ逃げられないように大切に扱ったしw
(ヌル鉄とがガチ鉄なんていない。全員「アツイ」から、濃淡は金・環境・時間の差でしかなかった。
金もつとプラ好き少年はジオラマ、マンガ絵少女は同人、鉄は全国旅行、マイコン少年は新機種と「相場」が決まっていた)
だいたい、自分たちのことを「おたく/オタク」とは思ってなかったしね。
受動的にアイデンティファイされただけだから、自分たちのことは
マンガ好き、軍事マニア(ミリタリー好き)、鉄道ファン(鉄)とか思ってた。
仲間内で受動的アイデンティティーの確認なんてもちろんやらない。
日本人が日本人に「あなたは日本人ですね」と言っても意味がないように、
ネトウヨが朝鮮系日本人のことを「チョン」と言うように、「外部」の人が「おたく/オタク」って言及してた。
一昔前は呼ばれてはじめて「ああ、おれって『おたく』って呼ばれる存在なんだなぁ」って気が付くもんだった。
仲間内で(濃淡じゃない)興味の「深い浅い」がヒエラルキー化したのって、たぶんネットの影響で「連帯」できるようになってからじゃないかなと思う。
「ぬるヲタ」とか「ガチヲタ」とかって、昔は問題になんかならなかったしね。
(まぁ、今ほど情報・作品があふれてなかったってのもあるけど)
(淡から濃に行かない奴は、そもそも「おたく」と呼ばれていない)
(言及するために「発見」された?)
(周囲の雰囲気変わったなぁと思った時期は、「スレイヤーズ」「天地無用」「ときメモ」「サクラ大戦」
「エヴァ」「ブギーポップ」「ビバップ」「ハルヒ」らへん。倍倍ゲームで「オタク」が増えた印象)
自分としては、岡田さんが"Yes,we are niggers.What's wrong with that?","Black is beautiful "的な意味合いで
「オタクで何が悪いの?マンガ面白いでしょ?」って開き直ったという歴史を知らない若い子が増えたんだと理解してる。
それ自体はいい/悪いではないけど、意味もわからずファックミーTシャツを着ている人を見ちゃうような気まずさはあるよね。
を書こうと思ったけど、長すぎるから割愛。
リブロ-ABC-ビレバンに対する中野タコシェ-新宿模索舎的なカウンターを担っていたような気がする。
えー、昔はメンバー中一番メイク濃くて一番それっぽい服着てたじゃん。
どう見てもV系です本当にありがとうございました。
そもそも「V系」ってなによ?どっからどこまでよ?という定義が曖昧なことは確かですが、V系という言い方・くくり方が侮蔑だとは思わない。
他の系統の音楽が好きな人が「V系(笑)所詮見た目だけwwwww」って言うのは、そたちの中で『V系』が侮蔑のニュアンスを含んでいるのも、それゆえに彼らがそう言うのもわかるんだけど(実際に「見た目だけ」かどうかは別)、普段V系といわれる音楽を好む人が「V系なんかpgr」っていうのは何故だろう。
なんつうかさ、ショッキングな報道されるから、勘違いしがちだけど。
ロリオタや鬼畜米兵なんかよりも、よっぽど両親・親類の方が危険だよな。
自動車も危険だが、まぁあれは狙い撃ちはしないから、この際除外するとして。
あぁでも、とち狂うと一般人じゃなくなるから、一般人は危険じゃ無いメソッドになるのか。
中学生と援交してるオヤジをキモイと思っててもさ、それらはロリ趣味みたいに表に出ないから、
そいつらが社会的に蔑視されるのは事件が発覚したときだけだろうし。
会社や家じゃ、良い大人面してると思うんだ。
なんつうかロリオタって、その危険度の割りに酷い扱いうけてるよな。
普段はマイナス補正で扱われるのに、ロリに関してだけ過剰修正みたいな。
[-3 SHORT SWORD vs Loli +20]みたいな恐れられ方だよね。
や、TRPGやってないとわかんないだろうけど。
正直、社会的にこんだけ忌避されて、侮蔑されて、蛆虫みたいに扱われるなら、
それ相応の犯罪を毎年バンバンと、それこそニュース性が無くなる位起こしてても
良いんじゃねぇかと思うんだよ。
交番に掲示されてる交通事故死者数みたいにさ、[本日の誘拐数:3人]とか。
それくらいでやっと社会の扱いとバランス取れそうなもんだが、残念ながら
ロリは小心者が多くて、そんな大それたことできねぇんだよね。
社会から隔絶されていて、どこにも居場所のないキモいブサイクな若年男女(たまにおっさん、おばさんもいる)が自分自身のアイデンティティを必死に誇示しつつ、自分のことは棚に上げて社会的に見下せる相手(非正規雇用者とか派遣労働者とか低学歴とか)に対して侮蔑的な言葉や挑発的な言葉を投げつけることで自分たちの優位性を再確認しつつ、「非モテ」だの「非コミュ」だの「童貞」だの「(いい年こいた)処女」と言った自分たちのコンプレックスが刺激される言葉に対しては、顔を真っ赤にしながら暴力的な言葉を投げつけて反抗を試みるものの、最終的にはどうがんばってもリア充、コミュ強者には勝てないことを思い知らされ、自分の中にある悔しさと憎しみを増幅させていく混沌としたネットコミュニティ。
http://anond.hatelabo.jp/20081215224621
「処女厨」がどういうものかきちんと定義されているわけではないからねえ。
そもそも特定の人々を揶揄したい場合に使われる侮蔑用語の類だから明確な定義がなく、そのときそのときで相手を罵倒するのに都合がいいように定義が変わる。
ただ「処女にこだわる人」だとした場合、「処女にこだわること」と「マグロだなんだと相手を罵倒すること」と「野外/複数/人前でといったアブノーマルセックスを強要すること」は個別には関連しない。
処女にこだわらなくたって野外でしたがる人はいるだろうし、処女にこだわる人がみんな乱交マニアなわけもない。
あなたの元彼の場合は、童貞で処女好きで変態性欲の持ち主で相手のことを考えない人だった、というだけのこと。
そういう対人関係が未熟な相手は性向の如何に関わらず存在するし、そういう相手から受けた傷を内面化する必要は全くないと思う。
ブコメで「処女厨はこんな奴らばっかりだ!」「目をそらすなよお前らと同類だ!」と威勢良く言っている人たちは何なんだろうね。
拡大解釈しようと思えばそれは根っこには同じような心性があるのかも知れないけれども。
「処女厨」がどういうもので、そのどの部分が問題だから叩いている、というのが曖昧なので、どこまでも攻撃的になれるのだろうな。
それともあれかな、AV観るような男性をこの世から根絶したいということかな。そこまでの決意があってのバッシングならそれは一貫していると言えなくもない。
女は「好き」か「嫌い」か「どうでもいい」の3種類で、好きに入る人が男性よりも断然少ない。
どうでもいいっていうのはヒドイけど、友達として好きって言ったら相手に気を持たせてしまうことになるから気を遣っていい人ですね、という事も多いかもね。
つまるところ「いい人」=恋愛対象外であり、女性にとって「いい人」は侮蔑語ということでしょ?
(男性への評価としての「優しい」にも同様の否定的ニュアンスがある)
元エントリのブコメでも「いい人」に対する好意的な意見は全く書かれていない。
増田ではしばしば「いい人」を擁護する女性が現れるが、実際のところは「いい人」の成りすましであって、
「いい人」に対して好感を抱く女性はいないのが実情なのだろう。
それって低所得家庭出身だから成金と蔑視されるという話であって高所得と階層が別ということにするのは強引に感じる。先祖代々の金持ちだが低階層とか先祖代々貧乏だが高階層とかの具体例を出してほしく感じる。
学歴についても同じ。現実の「身分(クラス)」が存在しない日本では、何をするためにその学歴を求めるか、とか、あるいは学歴を生かすような仕事を選ぶという点において、また実際に生かせる人脈や環境、などもろもろの有形無形の資産の有無を含めて「階層格差」と言ってるんだと思う。それは、実際には貨幣に換算できるものであっても、単純に「所得」とは言えない部分。
どういう社会であれ各人で人脈や環境が違うのは当然なわけでそれを格差や階層だと問題視すると個性をなくせということにならないの?
「お金の使い方を知らない」という現象があるから「成金」という侮蔑語があるわけで、所得があれば階層が高いとは限らない。
先日ニュースにあったが、一般の人がイメージする「セレブ妻」な人たちは、現実には優雅な生活と言うより、仕事をして割と質素に生活してるという。彼らは「お金の使い方やその価値」をよく知っているということ。
学歴についても同じ。現実の「身分(クラス)」が存在しない日本では、何をするためにその学歴を求めるか、とか、あるいは学歴を生かすような仕事を選ぶという点において、また実際に生かせる人脈や環境、などもろもろの有形無形の資産の有無を含めて「階層格差」と言ってるんだと思う。それは、実際には貨幣に換算できるものであっても、単純に「所得」とは言えない部分。
たとえば家業のとうふ屋をつぐのに東大卒の学歴が必要かっつったらいらねーわけで、とうふ屋に生まれたら東大目指そうとは別に思わない、といった圧力は歴然とあるでしょうってことだね。とうふ屋の大将が、別に塾代や予備校代を惜しむほどお金の困ってないとしても、だ。
導入
日本語の場合はどうだろうか。
日本が沈没しても、生き残ることができるだろうか。
現状では不可能に近いほど困難なのではないだろうか。
結論
一読して頭に残るのはなんともいえない疑問符がひとつしかないのだが、あえてもう一度読んでみた感想をだらだらと書く。
とりあえず、そんなに日本語を愛しているなら自分が私的なエッセイを衆目に曝せるほどの書き手かどうかをまず気にした方がいい。このエントリの独白は、一読すると要するに自分で問題をつくっておいてそれに憤っているように思える。
まあ好意的に読み取ればそうでもないのかもしれない。
これも水村の論旨を下敷きにした文章だと思うが、日本国から「デカップル」された日本語を国語として保護することは難しいのではないかな、と思った。水村が言語ナショナリストであるという一部の見解に反駁していない(と思う)ところをみると、結局、これは水村と私は(国としての日本への関わりにおいて)違うのだ、という防御線を張っている文章なのかとも思える。だとすれば質の悪い言い逃れだし、書評家としての欺瞞と呼ばずしてなんと呼ぶ。
「日本語を擁護するために言語ナショナリスト水村を持ち上げはしたが、私自身にナショナルな主張はない」
こういうことを小出しに書いているのだとすれば、恥知らずとして罵倒する価値もない。これでは水村があまりに哀れに思えてくる。
「国としての日本が滅べば日本語は滅ぶ」という認識が、「だから日本語の擁護には国語としての梃入れが必要だ」という水村への賛意につながるという心情は分からなくもないが、「でも日本国と日本語は分けておきたい、私は日本と仲良くないし」というのはあまりに卑怯な態度じゃないか。言語植民地をどこかに求めるとでもいうのか。そんなことをしなくて日本語が生きられるということは、日本を離れてもなお日本語に生きる小飼自身が一番よく分かっているのだろうに。
むしろ「私の愛する日本語にネーションの息をかけるな」、あるいはそのように誤読される日本語論は批判せねばならない、というのが小飼の立場からのまともな書評であったはずだ。そして、それが水村の荒唐無稽な極論とともにいずれも批判し尽くされる、というのがおそらくまともな成り行きだったはずだ。
何よりも「日本が滅べば日本語は滅ぶ」という認識を素朴に表明している時点で、この男には日本語を擁護する気もそのために自分の何かを賭けるつもりもないのは明らかなように思える。
だから、極端だが少しばかり筆を折ってみることを考えた方がいいと言っているのだ。
無意味で不誠実な書評を垂れ流して心ある日本語読者を侮蔑するくらいなら、潔く身を退いた方がよほど将来の日本語のためになるということくらいは分かっているだろうに。
つまり自制ってことだよ。