おっさんでも下がるだろうがおばさんでも下がるだろうし
違うな。圧倒的に女性が多い。
そういうことか。
自治体の保護司とかも要するような団体が協賛する子育てセミナーに行ったら、講師の差別主義者感が半端なかった。
自治体の長とかも来て挨拶していっていたけれど、なんでこの人たちは平然と差別主義できるんだろうと思っていたがこの文書を読んで納得した。
もし世間様に意見を求められたら「遺族が望んでもないのに実名公表するなんて酷いと思う」ってもちろん言うし、そういった気持ちもある。自分が遺族だったら堪らんと思う。
でもついついツイッターで「不謹慎なツイート」や「被害に遭った方に対して酷いと思えるようなツイート」を探してしまう。喜んでしまう。
努力しなきゃ何も手に入らないなら何もいらないな~って思った。努力するのがだるい。でもどんなことにも努力は必須。俺は人間としたダメなんだと思った。努力をしない奴は迷惑だという意見を見て困ったなと思った。生きていていいんだよとか言う人いっぱいいるけど努力は求められるわけだから俺のようなくずはやっぱりさっさと死ねと言われていることに気づいた。困った。死ぬの嫌だけど社会は俺の生存を望んでいなかった。馬鹿は邪魔だという意見もあって俺は馬鹿なのでみんなの邪魔をしないようにひっそりと生きていこうと思っていたけどひっそりと生きていると青葉しんじみたいになりそうだし周りからは青葉しんじ予備軍だと思われるんじゃないかと思うと社会と関わらないといけないと思う。でも社会は俺のことを邪魔だと思っているしできれば消えてほしいと思っているわけだから俺は社会に出ていけない。馬鹿とくずはさっさと死ねばいいと言わずに生きてていいんだおと言うことにしている社会を見てると本音と建前を絶妙なバランスで使い分けてこの社会は維持されているんだということが分かった。生きてていいんだよと言っている人も馬鹿やくずとは関わりたくないだろう。無視は良くないとか居場所づくりとか孤独は問題とか言う人も馬鹿やくずとはかかわるなとか距離をとれとかいうから本音では馬鹿やくずはさっさと死ねばいいと思っている。でもそれは責められることではない。馬鹿やくずと関わりたくないと思うことは当たり前だから。ああ全員死なないかな。あ、いつかみんな死ぬのか。そうだ、死は平等だ。すごいな死。