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はてなキーワード: 精神分析とは

2009-10-18

http://anond.hatelabo.jp/20091018111330

マザコン育成中?息子ラブ母の傾向と対策」

ttp://allabout.co.jp/children/ikujinow/closeup/CU20060808A/

>かく言うガイドも、「女の子」育ての後に「男の子」育てを経験することになって、思いがけず息子溺愛にどっぷりハマった。

>息子溺愛ぶりを恥ずかしげもなくあちこちで垂れ流し、とうとう「息子に口(くち)チュー、いつまでOK?」なる記事まで書いてしまった。すると同じ息子ラブ母たちから「私も息子に口チューしまくってます!」旨の投書をどっさり頂き、「息子ラブ」に共感してくれる母の多さと、その情熱にびっくりしちゃったのである。

>『ヤバいよママ、目を覚まさなきゃ!』

だが、前述の「息子に口チュー、いつまでOK?」には、「おいおい」というツッコミの投書もまた、多かったのだ。

「そういう母がマザコン男を育てて、結局その妻が苦労することになる。目を覚まして!」

「そんな『口チュー』母にベタベタに甘やかされて育った息子には、自分の娘を嫁がせたくない。何をされるかと思うと、恐ろしい」

……などなど。なるほど、ごもっとも!

>『息子ラブ母たちの性格的共通点とは?』

子どもが生まれるまではむしろ夫(彼氏)に対して尽くしたり、アドバイスしたりするのが好きだった人が、子どもが生まれると、対象を変えてその保護的性質を思う存分に発揮することになります。子ども愛情を注ぎ、保護することは、社会的価値観の中でも良しとされることなので、この性格的傾向が加速されてしまうこともあるわけです。

自分を必要とし、愛してくれていて、甘えてくれる。子どもと言えども男性として見た場合、母性が強い女性が男性に望む全てがかなえられた、「理想の男性」となってしまうのです。

>しかしそうやって溺愛した結果、「マザコン男」が出来上がってしまうことは、私たちもなんとなく経験的に知っていることですよね……。

>特に男の子思春期以降、母子密着はどうしても弊害を招く恐れがあります。お母さんの理性的な対応と、心理的距離を離す努力が必要となってくる時期ですが、経験から言って、この時期になっても息子を手放せないお母さんには、家庭内にある特徴があります。

>残念なことですが、問題と思えるような母子密着を示すお母さんたちには、夫に家庭参加を期待していない、または実は夫とうまく行っていないという人が多いのです。うまく行っていないのにそれを直視していない、そういう場合もあります。

>身体的な変化から精神的に不安定になってしまった妻の悩みを、夫が受け止めず、より一層息子へと全てを注いでしまうわけですね。ちょっと話を聞いて欲しい、甘えたいという妻の気持ちの持って行き場が息子以外にないと。

>ですから、そこで息子が反抗期に入ってしまったりすると、たちまち不安定になってしまうお母さんが沢山います。反抗期のない息子というのは、実は『お母さんを不安定にしたくない』という気持ちが働いている場合もあるんですよ。

>そして、「息子に依存する母」と、「ママ第一のマザコン男」が出来上がってしまうんですね……。

>反抗というのは、自分は親と違うという自己主張。自己確立するのに必要なプロセスなのです。思春期の息子溺愛は、結果的に男の子の正常な発達を妨げてしまいます。屈折した問題行動を起こす場合に、その原因としてよく見られます。

エディプス・コンプレックスとは、お父さんからお母さんを奪いたいと思うのに奪えないという葛藤のこと。この葛藤を通して、男の子は一人前の男として力をつけ成長すると、精神分析学の一派では考えられています。ですから、そのような葛藤こそが男の子を育てるのであって、お母さんと息子が無条件に密着していたら、その葛藤がなくなってしまうのですよ。言い換えるなら、お母さんがその子の成長する機会を奪ってしまっているのです。

>一部には、女性との付き合いは全般的にOKでも、男社会に適合できず、自分よりも目上の男性、例えば先輩や上司との関係構築が苦手で不適応を起こす子もいます。また、ママの言うなりになって自分考える力や難所を乗り越える力が薄れる子もいます。

※「子どもと言えども男性として見た場合」

自分らの年代から見たら、「息子を男として見てる…オゲエェェ」という感覚だが、海千山千のオカンの側としては、それを指摘しても「息子を男として何が悪い!?息子は永遠恋人で、私の物だから!」と全く開き直ってしまってるんだろうなあ。それも、「私だって大変!その私の心を支えてくれる人間を作って何が悪い?」という理由づけによって強化されていると思われる。

“息子には夫役は荷が重い”という事実は受け入れないんだろうなあ。

※母と息子の依存関係にばかり目が行きがちだが、息子と差をつけられて育った娘の方もそれの被害者かも。

以前見たブログで、「息子LOVEのお母さんに差別されて育ったお姉ちゃん」の記事があり、そこについたコメント

『娘が可哀想』という意見と、

母親本能的に息子を可愛がるもんなんだよ(だからカーチャンが俺ばかり可愛がるのもおkwww)』

という意見まっぷたつに分かれていて興味深かった。

2009-07-29

http://anond.hatelabo.jp/20091103204316

gokiburi鏡鏡ー

http://anond.hatelabo.jp/20090729143233

http://anond.hatelabo.jp/20090729142843

http://anond.hatelabo.jp/20090801134957

http://anond.hatelabo.jp/20090802013700

http://anond.hatelabo.jp/20090804104842

<-- 同じ内容をコピペしては消すwwww

http://anond.hatelabo.jp/20090806205848

http://anond.hatelabo.jp/20090809103218 

←- コピペ

http://anond.hatelabo.jp/20090807223110

http://anond.hatelabo.jp/20090814174931 

こそこそ消さなくてもいいのにw

恥ずかしいんだwww

誰もトラバしてくれていないのにwwww




前の労働が「日夜・月夜(こっちが本来の仕事/水夜・木夜もだがこっちはラフ)」だったんだ。今、ニート

その影響もあって不安定なんだ。サザエさん症候群っていうかブルーマンデーだったんだ。

加えて働いていないって言う感じ。あと、周りが賑やかだからその落差。

今落ち着いてるのは、土曜夕方~月曜夕方の長い地獄が終わったからだ。

だそうだwwwww

http://anond.hatelabo.jp/20090821202202

http://anond.hatelabo.jp/20091001232615

http://anond.hatelabo.jp/20091103004909

http://anond.hatelabo.jp/20091103014829

http://anond.hatelabo.jp/20091104220420

哀れ…。

 マズいなぁ、って思うのは、ここ最近人に会いたくない気分が続いてるから。

 だったら誰にも会わずに一人で暮らしてりゃええやん、という話になるがそう単純な話ではない。

 なんとなれば僕は、僕自身人に会いたくない気分であることを望んでいないから。

 だってヤベェじゃんそれって。ひきこもりじゃん。いや、家から出たいとは思ってるよ。図書館にはよく行くし。

 でもニートじゃん、ワープアじゃん、って焦る自分がいる。

 僕は未だに幼児的な全能感を捨てきれていないのではないか。だから夜中にパソコンいじってネットアクセス、お手軽な全能感に浸ってるのではないか。

 なんてなことを思うのは、そういった類の本を最近読んだからなんだけど。

 僕に必要なのは社会に出ることではないか。人と交わって、精神分析的な意味での「去勢」が必要なのではないか。

 なんてなことを思うのは、斎藤環を愛読してるからなんだけど。

 ほんで、今しがた「ネットスター」を見たらもうこの日記の事なんてどうでもよくなってる。そういう意志の弱い自分に嫌気がさす。そういう自分もどこかにいたりいなかったり。

 本当は誰かに助けを求めたいんだけど、やっぱり誰とも関わりたくないからこんな日記書いてる。本当はmixiに書こうと思ってたんだけど。

 大学四年なんだから自分のことぐらい自分で決めなあかんやん。でも僕のメンタル高校生から変わってない。恐ろしい。

 みたいなことを考えながら町田康ばかり読んでる。辛くも苦しくもない。何もない。虚無。ほんまあかんなぁ。

だそうだ。

2009-06-30

http://anond.hatelabo.jp/20090629220755

増田だけど。

ただ、増田の例を解決しろと言われると、心の余裕を持たせるというのは、まさに

>ただ、親元を離れろだののアドバイスは的確だとは思いますが、どうせ責任ももてないでしょう。

なんですよね…なのでこの案は書けなかったですね、このへんまでは同意です。

そうでもないと思う。

それこそ、「ただの共感」こそが心の余裕につながることもある。同じ経験を持つ人、共感してくれる人が大勢いることを知って、ほっと一息つけて、それが克服へ向かう力(たとえば親元を離れることを検討してみるとか)になることもあるんだよね。だから http://anond.hatelabo.jp/20090629205133 の増田に同意。

元増田の主張を「わがまま」ととらえてるようだけど、私には

自分は他人の要求…他人が嫌だといった内容が、あなたの楽しみを奪う事…だったとしてもそれに従うのか?

元増田人生はまさにこれに従うことが日常化しているように思えた。自分の要求は通せず飲み込んでしまうけれど、他人の要求を拒否することなど許されないと思ってしまっている。普通の人はそんなことありえないと思うかもしれないけど、押さえられて生きてきた人にとっては、そういう状態こそが普通

少し前に増田にいた、「学習無気力」の人と似てるかもしれない。

というわけで、元増田には精神分析医だった故・木田恵子氏の本を薦めたい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url?_encoding=UTF8&amp;search-type=ss&amp;index=books-jp&amp;field-author=木田%20恵子

「添うこころ」「喝采症候群」「0歳人・1歳人・2歳人」あたりがとくにおすすめ

どちらかというと、増田の親のような人に向けて、そういう叱り方はよくないと説いた本だけど、そういうことを言ってくれる人もいるんだ、ってことで安心できるんじゃないかと思う。

2009-03-27

気象理論疑似科学である

http://anond.hatelabo.jp/20090326205141

20世紀科学哲学者、カール・ポパーに従えば。

彼は科学疑似科学の境界を「反証可能性」に求めた。ある理論科学であると認められるためには、それが「反証可能」でなければならない、すなわち、

1:その理論に基づいてある予測をたてることができ、

2:かつそれを現実世界経験と照らし合わせて検証することができなければならない。

ポパー疑似科学の例としてフロイト精神分析論を好んで取り上げた。例えば、ある男が子供を川に殺意を持って突き落とそうとしており、もう一人の男はその身に代えても子供を助けようとしているとする。フロイト論者は、この二人の行動を、同じくらい簡単に説明することができる。一人は抑圧されており、もう一人は昇華を遂げたのだ、と。フロイト論者は、どんな行動に対しても、それに対する説明を編み出すことができるわけだ。ポパーはこれはおかしいのではないかと考えた。何でも説明できてしまう理論は、むしろ理論と呼ぶに値しないのではないかと。

気象理論もこれに似たところがある。どんな天気でも、その原因は気圧変動で説明できるとされる。昨日雨が降ったのは、日射により大気が膨張し、上昇気流が起きたからだ、という。気象理論はどんな天気に対しても、理由を探し出して気象理論的な説明を編み出すことができる。

フロイト理論と気象理論が違うのは、気象理論は理由を気象理論の外に求める点だ。気象理論自己完結した理論ではない。「日射により大気が膨張し、上昇気流が起きるから」であるという主張は、気象理論それ自体からは導き出せない。その主張を入れ替えれば、気象理論はどんな天気にも適用することができる(もちろん主張それ自体がある程度の説得力を持っている必要はあるだろうけれど)。

気象理論反証可能性を持つのだろうか?そもそも自己完結していない気象理論科学理論と呼んでよいのだろうか?それとも単に僕の中での言葉定義がおかしいのだろうか?


メカニズムについての理論と、個々の事象への対応を混乱するとこうなるのかな。天気予報が外れたからといって、気象理論モデルが否定されるわけではないというところを、もうちょっと考えてみたらいいかもね。

http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/index.html

Q.進化論は反証不可能なので科学ではないのでは?

A.例えば先カンブリア紀の地層から大量の石器が発見されれば進化論に対する強力な反証になります。進化論科学ではないと思いたいために「進化論は反証不可能である」と主張する創造論者もいますが、原理的に反証不可能であることと、反証の証拠が見つからないことを混同すべきではありません。進化論原理的に反証可能ですが、現在のところ反証されていません。[2000.4.11]

2009-03-26

進化論疑似科学である

20世紀科学哲学者、カール・ポパーに従えば。

彼は科学疑似科学の境界を「反証可能性」に求めた。ある理論科学であると認められるためには、それが「反証可能」でなければならない、すなわち、

1:その理論に基づいてある予測をたてることができ、

2:かつそれを現実世界経験と照らし合わせて検証することができなければならない。

ポパー疑似科学の例としてフロイト精神分析論を好んで取り上げた。例えば、ある男が子供を川に殺意を持って突き落とそうとしており、もう一人の男はその身に代えても子供を助けようとしているとする。フロイト論者は、この二人の行動を、同じくらい簡単に説明することができる。一人は抑圧されており、もう一人は昇華を遂げたのだ、と。フロイト論者は、どんな行動に対しても、それに対する説明を編み出すことができるわけだ。ポパーはこれはおかしいのではないかと考えた。何でも説明できてしまう理論は、むしろ理論と呼ぶに値しないのではないかと。

進化論もこれに似たところがある。どんな生物でも、その形質は進化論で説明できるとされる。キリンの首が長いのは、高い位置にある木の葉を食べるのに、首が長い方が有利だからだ、という。進化論者はどんな生物に対しても、理由を探し出して進化論的な説明を編み出すことができる。

フロイト理論進化論が違うのは、進化論は理由を進化論の外に求める点だ。進化論自己完結した理論ではない。「高い位置にある木の葉を食べるのに、首が長い方が有利」であるという主張は、進化論それ自体からは導き出せない。その主張を入れ替えれば、進化論はどんな生物にも適用することができる(もちろん主張それ自体がある程度の説得力を持っている必要はあるだろうけれど)。

進化論反証可能性を持つのだろうか?そもそも自己完結していない進化論科学理論と呼んでよいのだろうか?それとも単に僕の中での言葉定義がおかしいのだろうか?

2009-02-25

勉強をサボって頭が悪い人は頭がよい人に玩ばれるだけなんだろうな

id:magician-of-posthumanが仕掛けた罠とは何だったのかについて一考した。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090224/1235439131

 id:gerlingは、何の技も会得せずに、「メディア論」という一つの学問分野に対して「道場破り」を挑んできた。しかし学術の道場では、何の技も会得していない雑魚と同じ「土俵」に立つような真似はしない。雑魚は「門前払い」だ。しかしながら、メディア論の道場では、「門前払い」になった雑魚を<踏み台>にすることによって、より高き土俵を造ることが可能なのである。

 どういうことか?今id:gerlingが陥っているパラドクスは、自らの反論が何ら相手にされずに、反論対象を好都合にしてしまっているというパラドクスなのである。id:gerlingがメディア論に反論しても、メディア論の必要性を助長させてしまうのだ。

増田的には注目度は低かった「科学的な議論」ではあったが、この議論は最初から茶番だった。

 

id:gerlingの反論が非科学的な反論(笑)であったために、

id:magician-of-posthumanはそれを都合よく「利用」したってことだ。

 

id:gerlingは、最初から手のひらの上だったのだろう。

  

 

議論の流れはこうなる。

 

1.id:gerlingは、id:magician-of-posthumanの「メディア論」を「ミクロ権力論」と混同して反論(笑)した。

 

2.だが、id:magician-of-posthumanは、「メディア論」がシステム理論の「コミュニケーションメディア論」と

  フランクフルト学派の「メディア論」的転回関係し、「ミクロ権力論」とは全く違うと言う事を説明した。

  http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798

  客観的に第三者視点からみても、この時点でid:gerlingの敗北は決定的。

 

3.id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が

  同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら

  証明する事にあったが、id:gerlingは「論旨のずらし」によって不当に応戦した。

 

4.id:gerlingは、システム理論の「コミュニケーションメディア論」を完全スルーしたまま、

  システム理論を「観念論・形而上学精神分析学」だと決め付けてかかった。

 

5.だがid:magician-of-posthumanは、形式とメディア理論オートポイエーシスシステム論を説明し、

  システム理論が「観念論・形而上学精神分析学」とは全く別物である事を完璧に論証した。

 

6.id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が

  同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら

  証明する事にあり、

  かつ、システム理論が「観念論・形而上学精神分析学」と同じだと言う事を

  形式とメディア理論オートポイエーシス論に触れながら証明する事にあったが、

  id:gerlingはまた「論旨のずらし」によって不当に応戦した。

 

7.http://anond.hatelabo.jp/20090222172805増田が言っていたが、

  id:gerlingは、「コミュニケーション人間的な単位還元する事は不可能」だという

  システム理論の主張を完全スルーしたまま、

  「メディア論はガキくさい」から「id:magician-of-posthumanはガキくさい」へと

  「論旨のずらし」を行った。

 

8.だがid:gerlingのこの「論旨のずらし」だと、

  http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798を全く言い負かす事も

  できないまま主張してしまうために、全く全然具の骨頂な「論旨のずらし」になってしまった。

 

9.id:magician-of-posthumanは、追い討ちをかけるかのごとく、

  id:gerlingの「孫引き」=他者が引用した文章をそのまま引用する不正行為を行っている事、

  id:gerlingがルーマンの文献を読まずにルーマン理論に反論している事の調査不足さ、

  id:gerlingがボルツの文献を読まずにボルツを馬鹿呼ばわりしている事を指摘した。

 

10.id:gerlingは、このid:magician-of-posthumanの追い討ちを受けて、

   やっとルーマンの文献を一冊だけ(←ここポイント)読んで、

   id:magician-of-posthumanのシステム理論が誤読だと反論した。

   実はこの誤読だという反論も、客観的に見れば「論旨のずらし」だとわかる。

   id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が

   同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら

   証明する事にあり、

   かつ、システム理論が「観念論・形而上学精神分析学」と同じだと言う事を

   形式とメディア理論オートポイエーシス論に触れながら証明する事にあったが、

   id:gerlingはこれらの説明責任の論旨を「id:magician-of-posthumanのシステム理論」へと

   ずらす事で、id:magician-of-posthumanの波状攻撃になんとか対応しようとしたって事だ。

 

11.しかしid:magician-of-posthumanは、id:gerlingが罠に落ちたと言う。

   id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの

  「id:magician-of-posthumanのシステム理論は誤読だ」という主張を、

   これまた正確に反証している。

   id:gerlingは、ルーマン理論が神経や意識を「一度も」説明していないというが、

   id:gerlingが読んだ事のあるルーマン本は、「一冊だけ」だった。

   id:magician-of-posthumanはこれに向かって、

   神経や意識を取り上げているルーマン本を数十冊取り上げ、その頁数まで正確に記載して、

   id:gerlingの「知ったかぶり」を説明した。

 

12.さらにid:magician-of-posthumanは、id:gerlingこそがシステム理論を誤読していると説明する。

   形式とメディア理論オートポイエーシス自己言及と外部言及、システム環境の差異、構成主義認識論、

   コミュニケーションメディア論間テクスト性パラドクス化と脱パラドクス化。

   数多くのシステム理論概念を取り上げ、

   id:gerlingが自分自身の「調査不足」の責任を相手の「説明不足」へと転嫁していると説明する。

 

13.1-12までのながれをみると、どうも客観的な立場の第三者からみると、

   id:magician-of-posthumanがid:gerlingの相手をする理由がないように思えてくるのは気のせいだろうか?

   id:magician-of-posthumanが言うように、id:gerlingは議論の入り口に立ててない。

 

14.しかしid:magician-of-posthumanは、「メディア論」に反論(笑)してくるid:gerlingを

   最初から相手にならない無害な素人と見做し、「メディア論」の必要性を高める為に、

   好都合に利用していたのである。

   詰まり、id:gerlingの「メディア論」批判が「メディア論」に栄養を与えていたってことになる。

 

15.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの「孫引き」が知のデザインだという。

。「孫引き」を行なったid:gerlingは、これらの引用記事を読んではいない。読んだ上で言及するならば、最初から正確に引用であることを記したはずだからだ。したがってid:gerlingは、引用記事を読まずに「孫引き」した上で、引用されている記事のバックグラウンドに無学なまま反論(笑)を成し遂げていたと言うことになる。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090224/1235439131

 

16.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの「論旨のずらし」も知のデザインだという。

   増田が批判していたが、magician-of-posthumanは肯定的に取り入れているっという事になる。

 「論旨のずらし」は、今現在顕在化している論旨では到底勝つことができないという惨めな気持ちを埋め合わせるために形式化されているのである。言うなれば、「論旨のずらし」とは、既存の論旨に反論したいけれども反論(笑)になってしまうというパラドクスを、別様の「形式」と「メディア」の区別を構成することによって、脱パラドクス化しているのである。つまり、「論旨のずらし」とは現状無害化による問題の隠蔽なのだ。しかし脱パラドクス化はそれ自体がパラドクシカルである。パラドクスの隠蔽はパラドクス発見を伴わせる。だからこそ今現在id:gerlingは、稚拙バックグラウンドのままメディア論に反論(笑)することが、逆にメディア論の必要性を助長するというパラドクスに向き合わざるを得ないのだ。

 

17.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingがルーマンの文献を読むように誘導していた。

   案の定id:gerlingは、ルーマンの本を「一冊だけ」(←ここポイント)読み、誤読し、自爆した。

   誘導していたid:magician-of-posthumanにとって、ここまで計算どおりだったってことなのである。

   id:magician-of-posthumanは、id:gerlingがルーマンを付け焼き刃で論じても、100%誤読すると

   確信していたんだろう。

   id:magician-of-posthumanは、システム理論完璧に説明し、id:gerlingのルーマン読解を完璧に反証して、

圧倒的な調査不足に基づいた反論(笑)は、まさしく<知のデザイン>である。

   と言っていた。確信犯以外の何者でもない。

 

 

 

こうしてid:gerlingは、id:magician-of-posthumanの手のひらの上で転がされていたんだ。

とくに、id:magician-of-posthumanがわざと「id:gerlingがルーマンの本を読むように誘導」し、「案の定誤読した」ところを

知のデザインの要素として好都合に動員したあたりは、実にしたたか。

今までトニオは周囲から煙たがれるだけの存在だったが、これほど真正面から「利用」されてしまったのは

おそらく初めてではないだろうか?

 

だが僕らには、id:magician-of-posthumanのしたたかさにネガコメを突きつける資格があるのだろうか?

実際問題、id:gerlingの「メディア論」批判が十分な調査不足と正確な反証だったなら、

こんな事は起こらなかっただろう。「メディア論」の必要性を助長させてしまう「メディア論」への反論(笑)

書いて、付け焼き刃の知識と「論旨のずらし」や「孫引き」を繰り返して非科学的な反論をしてしまった

id:gerlingにも、問題はあっただろう。

 

たぶん僕らが教訓として言えるのは、

普段から努力をサボってる奴には、努力した者だけが参加できるハイレベルな議論に

参加する事が許されないってことなんだろう。サボりは悪い。

2009-01-14

男女関係が恐ろしい

私は男女関係とは何か、などと考え始めると大変困惑し、パニックに近い状態に。

巡回先の日記に「恋人が云々」とかでてくるとアンテナからはずしてしまう始末。

そういったものは、自分意識からはずしていたい代物なのである。

自分恋人を欲しくてひがんでいるのか?と一時期は思っていたこともあるのだが、どうやらそうではないと気がついた、というのも自分にいわゆる「恋人」がいることを想定しただけで具合が悪くなったからである。

たいていそういう妄想にあがってくる人物は、ワイシャツネクタイ姿で頭をなでつけてぴかぴかしている感じの人であり、彼らとレストランで食事している風景などを想像して耐えられずに卒倒しそうになっていた。

というか想像をしなければいいのだが、なぜか強迫的にそういう関係を結ぶことを何かによって迫られているような気がしてやめられない。

最近は、職場人間がたてつづけに結婚しており、そういった話題にふれるたびにひどいパニックに。

彼らから新婚旅行結婚式写真などをみせられたり話に加わらなければならないとなると、まさにそれは命がけの苦しい行為であり、しかし聞こえないふりして澄まして仕事していると『結婚できない女』のひがみといってつっこまれたりするのでなんとか話を聞いているが、終わったあとで精神的疲労に耐え切れず、安定剤をかじってデスクでつっぷして一眠りするんであった。

わたしが苦手なのは男女関係についての話だけではない。そのほかにも他のひとからみると他愛のない、たとえば家族の話とか夫婦の話とか親子の話とか、そういう話につきあったり自分の話を聞かれたりするのがあまりに苦痛で、会社を辞めたいと思ったことが幾度もある。相当ばかばかしいと頭ではわかっているのであるが、私に与えるダメージはかなり強力。それらのパンチを受けている間は冷静ではなくなっている。

友人関係もしいていえば苦手。

また親子関係家族関係について再考せねばならない場面になるたびにおかしくなってしまう。何かと関係を結ぶことに脆弱性があり、たぶん今まで、他者とろくな関係を結んだことがないような気がする。

親友と呼べる人は、いないかもしれない。

私がそういう、自分と他者の関係性の認識を迫られる場面において具合の悪くなるという発作を繰り返すことというのは、本を読んで、「反復強迫」すなわち過去苦痛であった経験を反復して繰り返す状態であることに気がついたのである。

巻き込まれている関係性によって圧倒的に振り回され、力が足らず何もできないままに苦しまされる、というかつての家族においてのパターンを、想像して再度味わっているのである。

人間関係の起点は親子関係であり、親子関係で形成された人間関係の障害がのちになってもっとも典型的に露呈するのは、男女関係恋愛関係である。

恋愛関係はしばしば親子関係の反復である」

とその精神分析の人は書いていた。

これにはとても納得させられる。

というのも人間学習をつみかさねていくものだろうからだ。

他者との関係性の習得とは、後天的に学ばれるものにほかならないと思う。

2009-01-13

使えない奴

“使えない奴”を足切りする為の面接テクニックについて(d:id:p_shirokuma:20090111:p1)

まあそういうことなのだろうと思うので、採用担当はどんどん実践していただきたい。面接官のやってることがほとんど精神分析みたいなことなので興味を持った、という感じでしょうか。

かしここで語られるテクニックは、恐らく素人にも感覚的にわかるようなことであって、要するに、こいつなんかきめえ、一緒に仕事したくない、というのは世間話してればわかるじゃないですか。それを分析的に書くとこうなる、という点においては非常に参考になります。

回答から透けて見える、その人の価値観や生活状況。外部へのアウトプットや他人とのコミュニケーションよりも、自己満足を重視するような価値観の持ち主であれば、それが透けて見えやすい。

 こういうのは、面接直前に付け焼き刃的に勉強しただけでは身に付きにくく、日常生活の態度・経験多寡・素養しだいという部分が大きい。これから面接を受けるという人は、小手先の面接テクニック本を買い求めるよりも、その前に、自分自身の日頃の生活やコミュニケーションの態度を省みたり、自分の弱点に詳しくなっておいたほうが、得るところが大きいのではないかと思う。

という結論にも首肯せざるを得ないが、つまるところ過去二十年間とかそこらで形成されてきた志望者の思考パターンに依る、ということですから、さあ就活だという段になっても手遅れである、という意味だと思います。

それでこの話は「“使えない奴”を足切りする」話なのだが、足切りされる側としてはどうしようもないし、最低限の身だしなみを除けば、テクニックなんかないよね、ということになる。なので妙なテクニック本で儲けてる著者とかどうかと思う次第だが

まして疑問に思うのが、どうして「“使えない奴”を減らそう」という方向には向かわないのか、何故かお医者さんがいまさらこんな事書いてる、ってどうなんだろう、というあたりですが、私は医学も人事も専門外です。

ともあれ専門外なりに考えますと、この場合の必殺の面接テクはまさに幼少からの思考パターンの形成にかかっている、ということで、採用担当はお呼びじゃないとして、お医者さんができることはなんかあるんじゃなかろうか。ないのか。

というのも、ここで言われる「使えない奴」は、常に社会に一定数存在しているわけです。これを多少なりとも減らそう(というか使える奴にしよう)という方向性が見られないのは、これはもう社会に何らかのレイシズムがあるということですよね。そういう人らは浄化されるべきだみたいな。

で、この「使えない奴」には、ぶっちゃけ適応障害の人とか相当数含まれると思うのですが、こういう人の存在がさほど珍しくもないという場合に、こうした足切りテクニックが広まることでどこにも行き場がなく、一生使えない奴の烙印を押されるか、望まずして派遣の立場に甘んずるを得ず、現実もまたその通りである、という社会の歪について、君たち法律がこうだからこうなのだ以外の思考はないのかね?というのはもはや誰に向かって言ってることなのか全くわかりませんが、思うことですね。まあ浄化作用なわけですね。わかります

さて自分新卒就活した時を思い出してもそうだったが、どこも判で押したようにこういう意味深な、というかよくわからん質問をされたもんです。で、このよくわからん質問というのも、結構ダブルバインド的だなーと感じたので、これマジになったら自分がやばいなと。こうして妙に賢者モードになったせいで、その後えらい苦労しましたが(笑)やっと入れた最初の会社が、そんな採用活動をやっておきながら、蓋を開けたら営業戦略も何もないどえらい場所で、まさに精神的に死にかかったという、それはさておき

はっきり言うなら、この手の質問を繰り出す面接官は、“あなたが何を頑張ったのか”には殆ど興味を抱いていない。

というのは面接する技術としてはありだし、よく言われることでもありますが、面接される側がこれをコマンドとして受け取ってしまうと、多分ダブルバインドくさいと思います。まあダブルバインド言いたかっただけですが、この場合、要求されるのは過剰な空気読みであって、志望者の心理に重大な負荷を与えます。あるいは鉄面皮みたいなのだけが生き残ります。つか空気読みと鉄面皮の組み合わせって何だ。

ということで皆さん、空気読みとか鉄面皮が欲しいのでしょうが、それで現場がうまく回るかと言うと、そんなこともなくてですね。新卒が三年で辞めると言われた時代がありましたが、そんな折になぜ人事部門がクビにならず存在し得たのかも、今となっては大いなる謎です。使える奴採ってこい、って言ってるのにですよ。それこそ社長の心眼に一存、とかの方が遥かに真っ当だし、それは経営者の義務とも思いますよ。なんか採用活動に金かけすぎじゃないですかねー。いったい誰に踊らされてるんですかー。

あと心理検査ですよ。科学的にどれだけ有効性があるんだかわかりませんが、学校でも対策授業やってたり、今にして思うとアホかと。聞けば現在でもクレペリンやらその亜種が横行しているようで、これについてお医者さんとしてどう思われるのか、というのも大いに気になるところです。

あとネタモトであるところの「74冊読みました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された、というのは、面接官の微妙な反応(一種の圧迫だろう)に負けず、鉄面皮にも「何がすごいのか」を滔々と説明できればよかっただけだと思われます。すると、これのどこが意味深なんだろう。あれ??

敗因としてはただ一点、そこで自分を恥じたことだけだと思います。大丈夫大丈夫全然オッケー。

2009-01-03

http://anond.hatelabo.jp/20090103032255

増田の求めているコメントかどうかはわからんが、

「人は何故強くならないといけないのか?」という疑問に対し、基本的に外国宗教に理由を置いているような気がする。

日本じゃどうかというと、一部の宗教家だと「徳を積む」ってのだろうし、オカルト人達なら「カルマを減らす」ってのがあるだろうけど、圧倒的多数の日本人は「生きていく上で重荷は迷惑」なんじゃないかという気がしてきた。

アメリカだとさらに精神分析医があるか。

日本じゃだんだん小町とかgooとかこういう場所がそういう役割を担っていくのだろうか?

とりあえず増田はツテを作って町の宗教の人、お寺のお坊さんとか教会神父さんに行ってみるのはどう?

2009-01-02

[]はてな大学社会科学部学科)

まだ志望校が決まっていない受験生にすごい情報をやる。

妄言学部よそ行きキャンパス

はてなブックマーク - ブックマークで妄想をよそ行きに。

id:chnpk教授

偏差値 59

科目 社会学政治学経済学

資本主義について勉強できる。

政策関連も少々勉強する。

学生は、ファーストネームがチュンプク○○になる。 

非コミュ学部非モテキャンパス

E.L.H. Electric Lover Hinagiku

id:y_arim教授

偏差値 63

科目 コミュニケーションデザイン政治学

東大卒はてなを代表するカリスマ教授

人が傷つく事とはどういうことなのかを学ばされる。

毎週、非コミュ非モテを救う方法をレポート10枚分提出しなければならない。

猫にゃん学部地下室キャンパス

地下生活者の手遊び

id:tikani_nemuru_M教授

偏差値 75 

科目 政治学歴史学社会学

語尾が「にゃー」で統一された教科書を使って勉強する。

近代思想は必修科目で、これを受けていないと講義の内容がわからない。

犬派は基本的に入学できない。

入試面接試験一本勝負で、猫の魅力について40分間喋り続けなければならない。

歴史学部過ぎ去ったキャンパス

過ぎ去ろうとしない過去

id:hokusyu教授

偏差値 77

科目 歴史学政治学哲学

歴史修正主義賛否両論」という有名なゼミがある。

はてなを代表する歴史学偉人

歴史学卒論は必修。

歴史学の文献が難読で厳しいキャンパスライフになるが

人生を通じて役に立つ知識を持つことができる。

毒舌学部消毒キャンパス

消毒しましょ!

id:AntiSeptic教授

偏差値 44

科目 政治学経済学英文学

4年間を通じて毒舌に耐える忍耐力を鍛えることができる。

他人を罵るためのコミュ力も高まる。

そして、表面的な罵倒用語に惑わされずに本質を見抜く眼を養うことができる。

卒業すると、「消毒液処理」という免許がもらえる。

狐学部フォックスキャンパス

狐の王国

id:KoshianX教授

偏差値 54

科目 プログラミング犯罪学、教育学

犯罪に対して若干センセーショナルな面もあるが、

制度や技術について、人に流されない姿勢を持ち続けることの

重要さを勉強することができる。

メディア学部魔道図書キャンパス

はっはっは

id:magician-of-posthuman教授

偏差値 73

科目 社会学文化人類学メディア論

ポスト○○」や「魔術」等のキーフレーズ釣りを書くこともあるが

基本的にその学術レベルトップクラス

ただし、分厚い長文の教科書は持ち歩くことができないくらい重たいので、

教室用と自宅用とで二つ以上は購入しておく必要がある。

怠けたはてブコメントを書くと退学処分になる。眉毛が太いと合格率が上がる。

雑草学部草原キャンパス

雑種路線でいこう

id:mkusunok教授

偏差値 75

科目 政治学経済学、制度

政治財政について、

コンスタントに安定した思考能力を養える。

はてなー学部越後キャンパス

ekken?

id:ekken教授

偏差値 63

科目 コミュニケーションメディアウェブ社会学

1学年は「無断リンク未来」が必修科目となる。

2学年に進級すると、「oredoco」という科目が必修になる。

3学年になると、「はてブの魅力」という科目が必修になる。

そのほか、はてブブログの使い方を勉強できる。

誰も思いつかない奇をてらったマッチョ論や、

逆転の発想など、トリッキーな発案ができるようになる。

応用すれば、どんなところでも役立つtips

アルファ学部アーティファクトキャンパス

ARTIFACT@ハテナ系

id:kanose教授

偏差値 64

科目 コミュニケーション戦争論、オタク文化

1年まではオタク文化論の基礎を学ぶ。

2年になると、揉め事の分析が主流になる。

3年になると、「アルファブロガー品格」が必修科目になる。

どちらもウェブについての重要考察になるので

ぜひとも受講しておきたい。

メンタル学部ヘルスキャンパス

xevraの日記

id:xevra教授

偏差値 34

科目 精神分析学、心理学コミュニケーション

全ての問題をメンヘラの問題として対処する実技を学ぶ。

ただし、メンヘラの問題としてしか対処できなくなるので、

その手の分野に就職する予定の学生を受け入れている。

インスパイア元→2009年に起こりそうなスーパーはてな対戦

2008-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20081204232935

精神分析には「転移」や「投影」なる概念があってだな…

しかし実際この手の俗流心理学はひどいもんだよ。精神分析が人の心を語る上で特権的に振るう舞うためのツールになってるし。

それでいて肝心の内容は旧態依然バカの壁の爺さんとかクオリアのおっさんとかがもてはやされるのと一緒だな。

2008-09-21

やっとわかった。そんなものは技術者の驕りだと。

技術は人を幸せにするために使えるとなんとなく思っていた。

だから、哲学とか社会科学とかには人を幸せにする方法が長年考えられてきていて、それをうまく使えば面白いものができると思った。

そこに人を幸せにできる技術を使った何かがあると。

いろいろ漁ってみた。社会システムとか精神分析とか確かにいろいろ考えられていて面白いけど、いま一つ触れることのできない何かがあるような気がした。

たぶん、やっぱりそれは心なんだろう。

20世紀に爆発的に発展してきた科学によって、いろんな意味で豊かになったけど、幸せになった人が増えたかはどうだろう。科学が発展する前から幸せな人はいるし、幸せじゃない人もいた。そして、科学の発展とともにその割り合いが増えたか減ったかは正直わからないところだと思う。そして、日本金持ちアフリカ子供より幸せだなんていいきれない。

どんなに議論しても、人の心は十人十色。その人が幸せだと思わない限り幸せではなく、技術がとかサービスがどうこうというのは違う。生活を豊かにはできても幸せにする方法なんてない、技術力で世界中の人を人を幸せにするなんて幻想だと。

例えば、はてなで結果的に幸せにな人もいれば、そうでない人もいる。でも、これはサービスのやり方というよりは、使った人やネット上でかかわった人の考え方一つでしかないと思う。だから、サービス技術の作り手としては、一人でも楽しんでもらえるようにするようにすればいいと思った。

幸せにするなんてのは、目の届く範囲でがんばって、あとはネットをつかって広くアプローチできるのだから、楽しんでもらえるものを作って自分も楽しめばよいと。

とりあえず、そういう方向でがんばろうと思う。

#そんなにいろんな分野を網羅したわけではないけど、一番影響を受けたのはチクセントミハイです。

2008-08-28

http://anond.hatelabo.jp/20080828222651

教養課程のテキストになってるくらいの入門書でも、たいてい前書きなんかに「昨今の心理学ブームを反映して、心理学部志望者や一般教養心理学履修者は年々増加しているが、中には大変な思い違いをしている学生も多い」みたいに執筆動機を書いてるのが多いな。

ちなみに、いわゆる「こころの悩み」に対処するのが臨床心理学って分野なんだけど、一般によく知られてる精神分析なんかはもう廃れてる。

2008-08-05

http://anond.hatelabo.jp/20080805213005

いやいや無意識下に出てきたものはその作家が自分の中に取り込んだもの以外は出てきませんよ。意識抑制が外れてる突拍子もない形で出てきてるだけであって。

てかシュルレアリスム自体が

シュルレアリスムは、思想的にはジークムント・フロイト精神分析の強い影響下に、視覚的にはジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画作品の影響下にあり、

と他から材料を持ち込んで作った料理なわけで。

2008-07-08

猿ベージ

http://anond.hatelabo.jp/20080315152400]

これを全部読んでいない人間は「猿」です。

ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。

プラトン『饗宴』岩波文庫

アリストテレス『詩学』岩波文庫

アウグスティヌス『告白』岩波文庫

レオナルド・ダ・ヴィンチレオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫

マキァベッリ『君主論中公文庫BIBLO, 岩波文庫

モア『ユートピア岩波文庫

デカルト方法序説岩波文庫

ホッブズリヴァイアサン岩波文庫

パスカル『パンセ』中公文庫

スピノザエチカ岩波文庫

ルソー『社会契約論』岩波文庫

カント純粋理性批判岩波文庫

ヘーゲル精神現象学平凡社ライブラリー, 作品社

キルケゴール死に至る病岩波文庫

マルクス資本論岩波文庫

ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫

ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫

ソシュール『一般言語学講義』岩波書店

ヴァレリー精神の危機』

フロイト『快感原則の彼岸』ちくま文庫

シュミット政治神学』未来社

ブルトンシュルレアリスム宣言』岩波文庫

ハイデッガー存在と時間ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシック

ガンジーガンジー自伝中公文庫

ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシック

ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社

アドルノホルクハイマー啓蒙弁証法岩波書店

アレント全体主義起源みすず書房

ウィトゲンシュタイン哲学探求』大修館書店

レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房

マクルーハン『グーテンベルグの銀河系みすず書房

フーコー『言葉と物』新潮社

デリダ『グラマトロジーいについて』

ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス』河出書房新社

ラカン精神分析の四つの基本概念』岩波書店

ウォーラーステイン『近代世界システム岩波書店

ケージジョン・ケージ青土社

サイードオリエンタリズム平凡社

ベイトソン精神と自然』新思策社

アンダーソン『想像共同体NTT出版

本居宣長『玉勝間』岩波文庫

上田秋成『胆大小心録』岩波文庫

内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫

岡倉天心『東洋の理想』講談社学術文庫

西田幾多郎西田幾多郎哲学論集?・?・?』岩波文庫

九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫

和辻哲郎『風土』岩波文庫

柳田國男『木綿以前の事』岩波文庫

時枝誠記国語学原論』

宇野弘蔵経済学方法論』

海外文学

ホメロスオデュッセイア岩波文庫

旧約聖書創世記岩波文庫

ソポクレスオイディプス王新潮文庫岩波文庫

『唐詩選』岩波文庫

ハイヤーム『ルバイヤート』岩波文庫

ダンテ神曲岩波文庫

ラブレー『ガルガンテュアとパンタグリュエルの物語』岩波文庫

シェイクスピアハムレット角川文庫新潮文庫岩波文庫ちくま文庫

セルバンテスドン・キホーテ岩波文庫

スウィフトガリヴァー旅行記』岩波文庫

スターントリストラム・シャンディ』岩波文庫

サド『悪徳の栄え河出文庫

ゲーテファウスト新潮文庫岩波文庫

スタンダールパルムの僧院』

ゴーゴル『外套』

ポー『盗まれた手紙』

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』

メルヴィル『白鯨』

フローベール『ボヴァリー夫人』

キャロル不思議の国のアリス

ドストエフスキー『悪霊』

チェーホフ桜の園

チェスタトンブラウン神父の童心』

プルースト失われた時を求めて

カフカ『審判』

魯迅『阿Q正伝』

ジョイスユリシーズ

トーマス・マン『魔の山』

ザミャーミン『われら』

ムージル『特性のない男』

セリーヌ『夜の果ての旅』

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

サルトル嘔吐

ジュネ『泥棒日記

ベケットゴドーを待ちながら

ロブ=グリエ『嫉妬』

デュラス『モデラートカンタービレ

レム『ソラリスの陽のもとに』

ガルシアマルケス百年の孤独

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

ブレイクブレイク詩集

ベルダーリンヘルダーリン詩集

ボードレール悪の華

ランボーランボー詩集

エリオット『荒地』

マヤコフスキーマヤコフスキー詩集

ツェランツェラン詩集

バフチンドストエフスキーの詩学』

ブランショ『文学空間』

日本文学

二葉亭四迷浮雲

森鴎外舞姫

樋口一葉『にごりえ』

泉鏡花高野聖

国木田独歩武蔵野

夏目漱石我輩は猫である

島崎藤村破戒

田山花袋『蒲団』

徳田秋声あらくれ

有島武郎『或る女』

志賀直哉『小僧の神様』

内田百〓『冥途・旅順入城式』

宮澤賢治銀河鉄道の夜

江戸川乱歩『押絵と旅する男』

横山利一『機械』

谷崎潤一郎『春琴抄』

夢野久作ドグラ・マグラ

中野重治村の家

川端康成『雪国』

折口信夫死者の書

太宰治『斜陽』

大岡昇平『俘虜記』

埴谷雄高死霊

三島由紀夫仮面の告白

武田泰淳ひかりごけ

深沢七郎楢山節考

安部公房砂の女

野坂昭如『エロ事師たち』

島尾敏雄『死の棘』

大西巨人神聖喜劇

大江健三郎万延元年のフットボール

古井由吉『円陣を組む女たち』

後藤明生『挟み撃ち』

円地文子『食卓のない家』

中上健次『枯木灘』

斎藤茂吉『赤光』

萩原朔太郎『月に吠える』

田村隆一田村隆一詩集

吉岡実吉岡実詩集

坪内逍遥『小説神髄』

北村透谷人生に相渉るとは何の謂ぞ』

福沢諭吉『福翁自伝

正岡子規『歌よみに与ふる書』

石川啄木『時代閉塞の現状』

小林秀雄『様々なる意匠』

保田與重郎『日本の橋』

坂口安吾堕落論

花田清輝『復興期の精神

吉本隆明『転向論』

江藤淳『成熟と喪失』

by 柄谷行人、他

追記

必読書150』柄谷行人浅田彰、他(太田出版

http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%85%E8%AA%AD%E6%9B%B8150-%E6%9F%84%E8%B0%B7-%E8%A1%8C%E4%BA%BA/dp/4872336569

ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラリソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。

2008-07-06

別れ話がこじれた結果、「別に付き合う相手なんて誰でもいいんだからわざわざ君のような面倒な相手とつきあう必要はない」という趣旨捨て台詞を吐かれてふられたことがある。結婚の話も出た相手だった。その言葉に私は自分でもびっくりするくらい深く傷つき、立ち直るまでには1年半時間がかかった。一時は誰とでも寝るということをやってみようかと思ったくらいだった。どうしてそう思ったのかはよくわからないけど、そのときはそうすると納得できるんじゃないかと思えたのだ。余計な話になるが、私の両親はとんでもなく保守的な考え方をする人達で、私は「結婚するまで処女でいるように」と躾けられて育った。つまらない冗談のようだが本当のことだ。さすがに20歳を過ぎてそれを額面通り受け取ることはできなかったが、それでも全く無視はできないという程度の束縛感はあった。だから自分がそう考えたこと自体が結構な驚きだった。

面倒な相手という点については、まあそう言いたくなる気持ちもわからなくはなかった。取り立てて異論はない。「面倒だから別れたい」と言ってもらえれば私もすんなり納得していたと思う。問題は「誰でもいい」の一言だった。我ながらいくら何でもそこまでショックを受ける必要はないだろうと思ったが、駄目なものは何をどう頑張っても駄目だった。悲しくてまともにものを考えられなかった。

時間が経って落ち着いてから、私は相手に何を求めていたのだろうとよく考えた。そして相手は私に何を求めていたのだろうと。

小学生の頃よく読んだ「赤毛のアンシリーズに、何巻目だったかは忘れてしまったが、「人間は20歳くらいでその輪郭が決まってしまう」というような一文が出てくる。私はそれを真に受けて10代の数年間を過ごしたので、20歳くらいまでに何とか自分の方向性を確立しなければならないという強迫観念があった。そして20歳になる頃には本を読んでばかりいる生意気な理屈好きの小娘になった。ある時期からは手に取った本に書いてある映画を見て音楽を聴くようにもなった。村上春樹を読んでビーチ・ボーイズを聞きイオセリアーニアルトマンを見るようになった。アーヴィングからヴォネガットに手を出し古典を読むようになった。そのうちペーパーバックも読むようになった。新しいものを知るたび少しずつ世界が広がっていくように感じられ、すごく楽しかった。でもそういう楽しみを誰かと分かち合うことはなかった。私の属しているところではそういうのは何と言うか、知的な気取りの一種のように見なされていたからだ。私は1人で図書館にこもり1人でタワレコに通い1人で映画館に出かけた。両親は極端に人付き合いが悪い娘にひとしきり説教を垂れたが、私としてはそれに特段不自由を感じなかった。友達がいて知り合いがいて1人の時間がある、それのどこが問題なのかと思っていた。確かにそういうのは客観的に見てあまり魅力的な姿とは言いがたかっただろうが、私は毎日いろいろと必死で魅力などというものについてじっくりと思いを巡らす余裕はなかった。そんなことについて考える暇があるなら丸善まで出かけて本棚を物色する方が100倍楽しい。私は何かの答えをそれなりに必死になって探している最中で、魅力なんてものは後回しにしておけばいいと考えていた。

一方、というか当然というか、私は「若い女性」という自分の属性にどうしてもうまく馴染めなかった。若い女性であることをすごく窮屈に感じた。そしてその窮屈さをなかなか言葉に表すことができなかった。人並みにフェミニズム関連の本も読んだけど、それはどれも目の前のあまりにもベタ現実とはうまく切り結ばなかった。例えばがつがつと本を読む若い女性は私の周囲にはいなかった。有り金全部を使う勢いで映画を見る若い女性もいなかった。本当にものの見事に誰一人としていなかった(たぶん趣味に関して引きこもっていたせいだろう)。私の周囲では、一般的に若い女性はそういうことはあまり好まないものだという観念が割と根強くあった。そういうのは趣味として上品に嗜む程度に留めておくべきものであって、没頭するべきものではなかった。もちろん若い女性精神分析専門家だとか映画監督だとかいう人がいるのは知っている。統計の授業を担当なさった先生UCLA帰りで、とんでもなく優秀な上におよそ文化と名の付くものなら何にでも博識な女性だった。でも彼女たちは言ってみれば「私の履歴書」みたいなものだった。自分に特段優れた才能が備わっているわけではないことにはとっくに気づいていたので、それらはただ単に雲の上の出来事でしかなかった。たぶんそういうのは選ばれた若い女性だけに許された特権なのだ。それに特権を維持するのは見るからに大変そうだ。そう思っていた。私は自分の置かれた状況にはそれなりに満足していた。家族は私に呆れながらも基本的には好き勝手にさせてくれていたし、友達も私がよくわからない何かにかまけているからといって意地悪をするようなこともなく優しく放っておいてくれる。環境にはずいぶん恵まれたと思っていた。もし私が男の子だったらもっと堂々とできたのかもしれないが、男の子男の子でいろいろと大変そうだとも思った。ここから出て行きたいとは思わなかった。うまく言えないのだが、どこかにあるはずの理想の地を探すことではなく、今いる場で何とか居心地のいい状態を確保することの方が建設的な考えのように思えた。

そんな状態にもかかわらず、お付き合いする相手が現れることがあった。縁があったのは同級生や会社の先輩といった人達で、音楽映画の話がきっかけになることが多かった。好みが似ている人とは話がしやすい。自分が基本的に聞き手に回ることしかできないとしても、親しみのある世界の話ができることはとても嬉しかった。社会人になってからはなおさらそう感じるようになった。女の子同士がお茶だけで何時間でも話しまくるように、好きなことの話だけで1日中笑ったり驚いたり考え込んだりできるのは本当に楽しかった。でもそれと同時に、1人で楽しむことを選んだ領域に人を介在させるのは少し怖いことだと感じた。そこでは1人で過ごすことを選んだはずだ。そのルールを変えたりしてひどい目にあったりしないだろうか。でもひどい目ってどういうことを言うのだろうか。よくわからなかった。でも、はっきりと意識に上らないくらいぼんやりとした一瞬の感覚だったにもかかわらず、その嫌な感じはなかなか消えなかった。

相手との距離が近づいてしばらくすると、私はびくびくするようになった。付き合い始めて1年も経つと、仲良くなるきっかけだったはずの私の趣味嗜好のようなものが、次第に相手を苛立たせるようになってきたのがはっきりと感じられた。私が何の気なしに漏らす一言に相手がすごい剣幕で「普通女の子はそういうことは言わないものだ」と怒り始めることも珍しくなかった。その都度、私がどちらかというと普通じゃないことは私もあなたも承知しているはずだったと思いますが、あなたの言いたいことはたぶんそんなことじゃないんでしょうね、と思いながら黙って聞いた。自分でこんなことを言うのはばかみたいなのだが、私が縁あった男性は目立たないけれどしっかりしていて人の気持ちを察するのが上手な人達だった。どうしてそんなに人当たりがいいんだろうと思ってよく見てみると、誰と接するときでもフェアであることを優先させているのがわかった。女の人からの評判はよく(ただし決してモテるという訳ではない)、マッチョな男の人からは幾分軽んじられているふしがあった。そういう人をここまで怒らせるからにはたぶんこちらに非があるのだろう、と私は思った。だから相手を怒らせそうなことは片っ端から控えるようになった。でも、そうなるとそこにあるのはただの力関係だけだ。会話の内容が当たり障りのない世間話のようなものになり、映画館レコードショップを避けて出かけるようになり、そうして程なくして別れることになるのだった。

相手の年齢や社会的属性が違っても別れる理由は同じだった。ある時の別れ際に冒頭のことを言われた。私がショックだったのは、いつの間にか関係がすっかり塗り替わってしまっていたことだった。友達の延長みたいにして付き合い始めたつもりだったのに、それとはかけ離れた関係を作り上げていた。最終的に私は規格外の若い女性でしかなかった。更にショックだったのは、「誰でもいい」と言われて最大限に傷ついている自分だった。仲良しの友達に言われたとしても十分ショックなフレーズだとは思うが、私の受けたショックはそれだけでは説明がつかなかった。付き合っていた相手にだけはコンビニで飲み物を選ぶように私を選んだと言ってほしくはなかった。でもいつの間にかそうなっていた。相手が最終的に私に求めたのは女の子らしい女の子であることだった。それと呼応するようにいつからか私も、私が私であることの担保を相手に求めるようになっていた。いつの間にそれを求めるようになっていたのか、自分のことなのにまるで理解できなかった。付き合い始めた時の気持ちははっきりと思い出せるのに、その時は担保なんて関係なく楽しいことや嬉しいことはその意味意識する必要もなくシンプルにそれだけだったはずなのに、見た映画に興奮して渋谷から千駄ヶ谷まで意味なく歩いてしまった私は相手に会うとうまく口がきけなくなっていた私とまるで矛盾なく同じ私だったはずなのに、それらがきれいさっぱり失われてしまっていることがうまく飲み込めなかった。でも、お互いに求めるものがそれだけになった時点でそこにはもう役割だけしか残っていない。確かにそうなってしまえばいくらでも代わりはいるのだ。お互い相手にその望むものを差し出す余地がないのは嫌になるくらいよくわかっていた。何だか騙されてたちの悪い契約を結んでしまったような気分だった。でもそれに荷担したのは他ならぬ自分だったのだ。

2008-06-02

http://anond.hatelabo.jp/20080602213414

性犯罪者を使って、心理実験なり精神分析なりガンガンやってきゃいいと思うんだが、

刑務所じゃそういう犯罪者研究はしないのか?

2008-04-16

いまさらだが例のうんこの件

当事者の人たちとはあんまり面識ないので、ネットやじうましているだけであるが、

うんこを贈るという行為は、非常に興味深い。

精神分析の知見では、幼児は最高の好意をもって、自分のうんこ母親に贈る。

2008-03-15

anond:20080315145308

本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。

グーグルキャッシュ初版なので違うところがあるかも。

プラトン国家』 

アリストテレス形而上学』 

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』 

ヘーゲル精神現象学』 

デカルト省察』 

パスカル『パンセ』 

ライプニッツ『単子論』 

カント純粋理性批判』 

キルケゴール『不安の概念』 

スピノザエチカ』 

ルソー社会契約論』 

バークフランス革命省察』 

ジェイムズ『宗教経験の諸相』 

ニーチェ権力への意志』 

フッサール論理学研究』 

ハイデガー存在と時間』 

サルトル存在と無』 

ベルグソン時間と自由』

レヴィナス『全体性と無限』 

フロイト快感原則の彼岸』 

ラカン精神分析の四つの基本概念』 

レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』 

フーコー言葉と物』 

ソシュール『一般言語学講義』 

チョムスキー『文法理論の諸相』 

ヴェイユ重力と恩寵』 

アーレント精神の生活』 

ブーバー『我と汝・対話』 

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』 

ミンスキー『心の社会』 

ライル『心の概念』 

アドルノホルクハイマー啓蒙弁証法』 

ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス』 

ウェーバープロテスタンティズム倫理資本主義精神』 

デュルケム『自殺論』 

バタイユエロティシズム』 

モース『社会学人類学』 

キャンベル『千の顔をもつ英雄』 

マクルーハンメディア論』 

ブローデル地中海』 

ウォーラステイン『近代世界システム』 

アダム・スミス国富論』 

ゾンバルト恋愛と贅沢と資本主義』 

ベンタム『道徳立法の原理序説』

ミル『自由論』 マルクス資本論』 

アルチュセール資本論を読む』 

シュンペーター経済発展の理論』 

ケインズ雇用・利子および貨幣の一般理論』 

ヴェブレン『有閑階級理論』 

ポランニー『大転換』

ボードリャール消費社会神話と構造』 

オルテガ『大衆の反逆』 

ミルズ『パワーエリート

リースマン『孤独な群衆』  

イリイチシャドウ・ワーク』 

ベル資本主義の文化的矛盾』 

ネグリ『構成的権力』 

バーマス『晩期資本主義における正統化の諸問題』 

アンダーソン『想像共同体』 

バレーラマトゥラーナ知恵の樹』 

ルーマン社会システム理論』 

ロールズ正義論』 

ハイエク『法・立法・自由』 

ブルデュー資本主義ハビトゥス』 

オング『声の文化と文字の文化』  

M・ポランニー『暗黙知次元』 

クーン科学革命の構造』 

ポパー『推測と反駁』 

サイードオリエンタリズム』 

メルロ=ポンティ知覚現象学』 

フッサール論理学研究』 

ラッセル西洋哲学史』 

フロム『自由からの逃走』 

ベイトソン精神生態学』 

ベンヤミンパサージュ論』

デリダ『グラマトロジーについて』 

クール時間物語』 

ペンフィールド『脳と心の正体』 

スローターダイクシニカル理性批判』 

フレイザー金枝篇』 

シュミット政治神学』 

クラウゼヴィッツ戦争論』

ドラッカー『「経済人」の終わり』 

リップマン『世論』 

マンハイムイデオロギーユートピア』 

ブルームアメリカンマインドの終焉』 

ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトライス』 

パノフスキー『イコノロジー研究』 

クーン科学革命の構造』 

ホワイトヘッド科学と近代世界』 

ソンタグ『反解釈』 

ドーキンス 『利己的な遺伝子』 

ギブソン生態学的視覚論』 

フランシス・フクヤマ歴史の終わり』 

ケストラー『機械の中の幽霊』 

ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』 

ホーキング『ホーキング宇宙を語る』 

イーザー『行為としての読書』 

イーグルトン『文学とは何か』 

ホフスタッター『ゲーデルエッシャーバッハ』 

ド・マン『ロマン主義レトリック』 

シオラン歴史ユートピア』 

ブランショ文学空間』 

ガダマー『真理と方法』 

ローティ哲学自然の鏡』 

セラーズ『経験論と心の哲学』 

パーソンズ社会的行為の構造』 

ジジェクイデオロギーの崇高な対象』 

アガンベンホモ・サケル』 

ダマシオ『生存する脳』 

クワイン『ことばと対象』 

マッキンタイア『美徳なき時代』

こういう時、トラバツリーが各所に残る今の仕様は便利だ。

ツリー内主要エントリ

2008-03-13

http://anond.hatelabo.jp/20080313030006

これを全部読んでいない人間は「猿」です。

ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。

プラトン『饗宴』岩波文庫

アリストテレス『詩学』岩波文庫

アウグスティヌス『告白』岩波文庫

レオナルド・ダ・ヴィンチレオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫

マキァベッリ『君主論中公文庫BIBLO, 岩波文庫

モア『ユートピア岩波文庫

デカルト方法序説岩波文庫

ホッブズリヴァイアサン岩波文庫

パスカル『パンセ』中公文庫

スピノザエチカ岩波文庫

ルソー『社会契約論』岩波文庫

カント純粋理性批判岩波文庫

ヘーゲル『精神現象学平凡社ライブラリー, 作品社

キルケゴール死に至る病岩波文庫

マルクス資本論岩波文庫

ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫

ウェーバープロテスタンティズム倫理資本主義の精神』岩波文庫

ソシュール『一般言語学講義』岩波書店

ヴァレリー『精神の危機』

フロイト『快感原則の彼岸』ちくま文庫

シュミット『政治神学』未来社

ブルトンシュルレアリスム宣言』岩波文庫

ハイデッガー存在と時間ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシック

ガンジーガンジー自伝中公文庫

ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシック

ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社

アドルノホルクハイマー『啓蒙の弁証法岩波書店

アレント全体主義の起源』みすず書房

ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店

レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房

マクルーハン『グーテンベルグの銀河系みすず書房

フーコー『言葉と物』新潮社

デリダ『グラマトロジーいについて』

ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス』河出書房新社

ラカン精神分析の四つの基本概念』岩波書店

ウォーラーステイン『近代世界システム岩波書店

ケージジョン・ケージ青土社

サイードオリエンタリズム平凡社

ベイトソン『精神と自然』新思策社

アンダーソン『想像の共同体NTT出版

本居宣長『玉勝間』岩波文庫

上田秋成『胆大小心録』岩波文庫

内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫

岡倉天心東洋の理想』講談社学術文庫

西田幾多郎西田幾多郎哲学論集?・?・?』岩波文庫

九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫

和辻哲郎風土岩波文庫

柳田國男『木綿以前の事』岩波文庫

時枝誠記国語学原論』

宇野弘蔵経済学方法論』

海外文学

ホメロスオデュッセイア岩波文庫

旧約聖書創世記岩波文庫

ソポクレスオイディプス王新潮文庫岩波文庫

『唐詩選』岩波文庫

ハイヤーム『ルバイヤート』岩波文庫

ダンテ神曲岩波文庫

ラブレー『ガルガンテュアとパンタグリュエルの物語』岩波文庫

シェイクスピアハムレット角川文庫新潮文庫岩波文庫ちくま文庫

セルバンテスドン・キホーテ岩波文庫

スウィフトガリヴァー旅行記』岩波文庫

スターントリストラム・シャンディ』岩波文庫

サド『悪徳の栄え河出文庫

ゲーテファウスト新潮文庫岩波文庫

スタンダールパルムの僧院』

ゴーゴル『外套』

ポー『盗まれた手紙

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』

メルヴィル白鯨

フローベール『ボヴァリー夫人』

キャロル不思議の国のアリス

ドストエフスキー『悪霊』

チェーホフ桜の園

チェスタトンブラウン神父の童心

プルースト失われた時を求めて

カフカ『審判』

魯迅『阿Q正伝』

ジョイスユリシーズ

トーマス・マン『魔の山』

ザミャーミン『われら』

ムージル『特性のない男』

セリーヌ『夜の果ての旅』

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

サルトル『嘔吐』

ジュネ『泥棒日記』

ベケットゴドーを待ちながら

ロブ=グリエ『嫉妬』

デュラス『モデラートカンタービレ

レム『ソラリスの陽のもとに』

ガルシアマルケス百年の孤独

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

ブレイクブレイク詩集』

ベルダーリン『ヘルダーリン詩集』

ボードレール悪の華

ランボーランボー詩集』

エリオット『荒地』

マヤコフスキーマヤコフスキー詩集』

ツェランツェラン詩集』

バフチンドストエフスキーの詩学』

ブランショ文学空間』

日本文学

二葉亭四迷『浮雲』

森鴎外舞姫

樋口一葉『にごりえ』

泉鏡花高野聖

国木田独歩武蔵野

夏目漱石我輩は猫である

島崎藤村『破戒』

田山花袋『蒲団』

徳田秋声あらくれ

有島武郎『或る女』

志賀直哉『小僧の神様

内田百〓『冥途・旅順入城式』

宮澤賢治銀河鉄道の夜

江戸川乱歩『押絵と旅する男』

横山利一『機械

谷崎潤一郎『春琴抄』

夢野久作ドグラ・マグラ

中野重治村の家

川端康成雪国

折口信夫死者の書

太宰治斜陽

大岡昇平『俘虜記』

埴谷雄高『死霊』

三島由紀夫仮面の告白

武田泰淳ひかりごけ

深沢七郎楢山節考

安部公房『砂の女』

野坂昭如『エロ事師たち』

島尾敏雄『死の棘』

大西巨人神聖喜劇

大江健三郎万延元年のフットボール

古井由吉『円陣を組む女たち』

後藤明生『挟み撃ち』

円地文子『食卓のない家』

中上健次『枯木灘』

斎藤茂吉『赤光』

萩原朔太郎『月に吠える』

田村隆一田村隆一詩集』

吉岡実吉岡実詩集』

坪内逍遥小説神髄』

北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』

福沢諭吉『福翁自伝

正岡子規『歌よみに与ふる書』

石川啄木『時代閉塞の現状』

小林秀雄『様々なる意匠』

保田與重郎日本の橋』

坂口安吾堕落論

花田清輝『復興期の精神』

吉本隆明転向論』

江藤淳『成熟と喪失』

by 柄谷行人、他

追記

必読書150』柄谷行人浅田彰、他(太田出版

http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%85%E8%AA%AD%E6%9B%B8150-%E6%9F%84%E8%B0%B7-%E8%A1%8C%E4%BA%BA/dp/4872336569

ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラリソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。

http://anond.hatelabo.jp/20080313030006

気合の入った釣り(?)だなあ。

さて、俺が読んだことあるのは下記のやつだけ。中途半端なんだ。他のはもう今読んだら恥ずかしいようなので、ストーリーさわりと主な登場人物だけ教えて。あっ、犯人まで教えちゃやだよ。

で、全部の犯人が分かると、どんないいことがあるの?幸せになれる?

アリストテレス形而上学』 

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』 

ヘーゲル精神現象学』 

デカルト省察』 

パスカル『パンセ』 

カント純粋理性批判』 

スピノザエチカ

ニーチェ権力への意志』 

ハイデガー存在と時間

サルトル存在と無』

ベルグソン時間と自由』

ラカン精神分析の四つの基本概念

フーコー言葉と物』

ソシュール『一般言語学講義

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』 

ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス』

バタイユエロティシズム』 

フロム『自由からの逃走』 

シオラン歴史ユートピア

ブランショ文学空間』

2008-02-09

精神科医の精神分析

結論からかくと、精神科へは行くな!

病院に「患者」として行くわけだから、そりゃ何らかの(不定愁訴だか、自律神経失調症だか、病名ならぬ病名。絶対死ぬことはない、はしかみたいなもん)「病名」を告げられる。そうしなきゃ医者としてもメンツがたたんもんね。

さらにタチの悪いのは、半年とか1年とか通わせる。その間何をやるって、薬の処方を試してる。AとBの組み合わせを、AとCに変えてみましょう、とか。アホである。薬代全額患者持ちを棚に上げてなにを悠長なことをいっとんのか。ふつうの小売業でそんな商売成立するとおもっとんのか!まさか気が変になってないだろうね。

で、結局、薬なわけよ。良い精神安定剤90年代に多く開発されたからね。科学者薬剤師のおかげ。そう、薬剤師さえ居れば、精神科のお医者いらねんじゃねー。

2007-12-18

「クマのプーさん」にみる発達障害入門

100エーカーの森の病理:A.A.ミルン作品にみる発達障害

100エーカーの森のどこかで少年とクマが遊んでいる。表面的には純粋無垢な世界であるが、我々専門家グループが詳細に観察すると、この森には発達上の問題や心理社会的な問題が気づかれず未治療放置されている。表面的には純粋無垢な世界である:クリストファー・ロビンは忠実な動物の友達に囲まれて美しい森に住んでいる。何世代もの読者がA.A.ミルンの「クマのプーさん」の話を優しくあたたかい物語として楽しんできた。しかし、時とともにとらえ方は変わり、現代の発達障害専門家である我々のグループから見ると、これはDSM-IVの診断基準を満たす重大な問題を持つ動物たちの物語であることが明白である。我々はA.A.ミルンの作品を徹底的に読み、100エーカーの森の住人たちの診断を行ったのでそれを紹介する。医療関係者にこの物語には暗い裏側があることを理解してもらえたら幸いである。

まずプーから始めよう。このかわいそうなクマは2つの問題を合併している。もっとも目立つのは注意欠陥多動性障害ADHD)の不注意優勢型である。また、例えばプーが雨雲に変装してハチミツをとろうとするなど愚かな考えを起こしたりすることから、我々はプーに衝動性の問題もあるのではないかと議論した。しかしながら、我々は、この行為はむしろ彼に合併する認知障害によるものであり、ハチミツに対する強迫的執着がそれをますます悪化させていると判断した。ハチミツに対する執着は、当然ながら彼の肥満の原因にもなっている。プーの食べ物に対するこだわりと何度も数を数える行為は強迫性障害(OCD)を疑わせる。ADHDとOCDを合併していることから、プーは将来トゥレット症候群を発症するかもしれない。また、プーは脳味噌がからっぽだと描かれている。しかし、クマの頭の周囲の長さの標準値がわからないのでプーが小頭症なのかどうか診断することはできない。プーの脳の発育が悪いのは物語の中に書かれていることが原因かもしれない。物語の最初のほうで、プーは(クリストファー・ロビンに)階段をひきずられて後頭部を何度も階段にぶつけている。彼のその後の認知障害はクマにおける一種の揺さぶられっこ症候群 によるものなのだうか?

プーには治療が必要である。我々は薬物療法が有効だと考える。プーに少量の中枢刺激薬を飲ませてみたら彼の日常生活がどんなに改善するだろうと考えずにはいられない。メチルフェニデートリタリン)の服用を含む適切なサポートによって、プーは適応性が高くなり、多くの仕事がこなせるようにるであろう。そしてたぶん、もっと多くの詩を作って覚えていられるようになるかもしれない。

 僕は薬をちょっとだけ飲む

 薬は僕をちょっとだけ良くする

 薬は僕をちょっとだけ良くする

 悪くはないね         

ピグレットはどうだろうか? 不安で、顔を赤くし、狼狽する、かわいそうなピグレット。彼は明らかに全般性不安障害である。もし彼が子供の時にきちんと診察と診断をうけたなら、パロキセチンパキシル)のような抗パニック薬を処方され、"ゾゾ"(ゾウ)をつかまえようとした時のような心理的トラウマに悩まされることはなかったかもしれない。

プーとピグレットは、彼らの隣人イーヨーの慢性的な気分変調症により、二次的なセルフエスティームの低下を生じる危険性もある。このロバはなんとかわいそうな毎日を送っているのだろう。イーヨーの気分変調症が遺伝性・内因性のうつ病に由来しているのか、あるいは以前の心理的トラウマが彼の慢性的な否定的考え方、元気のなさ、失感情症の原因になっているのかの十分な情報は得られていない。イーヨーには抗うつ薬と個人精神療法が大いに効果があるであろう。少量のフルオキセチンプロザック)の使用でイーヨーはシッポを失った事件のトラウマから解放されるかもしれない。もし彼が食べるアザミに混じって、セント・ジョーンズ・ワートがちょっとだけ生えていたら、森にはイーヨーの元気な笑い声がひびきわたっていたかもしれない。

かわいそうなオウルについて我々発達障害グループ意見は一致した。彼は非常に頭がいいが、読字障害(ディスレキシア)を持っている。彼が言葉能力欠点を克服しようとする痛々しい努力は、我々が毎日目にする読字障害で悩んでいる人々のそれと同じである。彼の障害がもっと早く気づかれて、徹底的なサポートが受けられていればよかったのに!

我々はルーのことを特に心配している。我々が心配しているのは彼の衝動性や多動ではない。これらの症状は彼の年齢相応である。我々はルーが育っている環境を心配しているのだ。ルーは片親の家庭で育っており、これは彼の将来に問題が生じるリスクを高めている。我々はルーが将来不良少年になって夜中に森の中をうろつき、ウイスキーの割れたボトルアザミ煙草の吸い殻をあたりにまき散らすのではないかと予想している。我々はもう一つの問題からも、それがルーの将来の姿として十分にありうることだと考えている。ルーの親友ティガーだが、彼はルーにとって良いモデルではない。つきあう仲間は将来に大きく影響する。

ティガーは社交的で親密だが、危険な行動を何度も繰り返す。例えば、彼は初めて100エーカーの森に来た時、見たことのない食べ物衝動的に食べてしまっている。ちょっとした挑発にのり、ハチミツドングリ、はてはアザミまで食べてしまった。ティガーは自分の実験が後でどんな結果をもたらすのかをまったく考えていない。後に彼は高い木に登り、他の人の邪魔になるとしかいいようがない行動をとっている。ティガーはルーを危険な目にあわせる。我々のグループティガーにはどんな薬がもっとも効果があるかを議論した。何人かは彼の問題行動は明らかに多動と衝動性によりもたらされており、中枢刺激薬が必要であると主張する。また、何人かはクロニジン(カタプレス)単独、あるいはクロニジンと中枢刺激薬の併用が有効なのではないかという。残念ながら、これらの薬物の効果はヒトでしか試されたことがないので、トラにも有効であるかどうかを科学的に判断することはできない。

たとえ我々がティガーを治療できたとしても、片親のもとで育っているルーの将来には問題が残ると思う。カンガはちょっと過保護すぎる。カンガのルーに対する独占欲は以前に社会保障サービスに逃げ込んだことがあるのと関係しているのだろうか? カンガの将来 はどうなるのだろうか? 彼女は何人かの男性と一時的な関係を持ち、その結果妊娠して生まれた子供達の世話をするのに疲れ、財政的困難に直面して、年老いていく可能性が高いと考える。しかし、我々は悲観的すぎるかもしれない。カンガは立ち直る力のある数少ないシングルマザーの一人かもしれない。 ひょっとしたらカンガは高校の到達度テスト合格し、大学卒業し、さらにはMBA経営学修士)を取得するかもしれない。そして、カンガはいつの日か100エーカーの森を買い取り、1軒50万ドルもする高級住宅地に変えてしまうかもしれない。しかし、教育を評価せず、女性の強いリーダーシップを認めない(100エーカーの森の)社会の中ではそのようなことは実現しそうにない。

100エーカーの森では、小さな1人の少年クリストファー・ロビンが強いリーダーシップを持っている。我々は今のところクリストファー・ロビンには診断しうる問題を認めないが、いくつかの点について心配している。この子が動物と話をすることに時間を費やしていることは言うに及ばず、両親の監督の完全な欠如には明白な問題がある。我々は物語の中で学業困難の初期のサインを見いだしている。また、E.H.シェパードの挿絵を見ると、この少年は将来、性同一性障害に陥る可能性があると思う。我々のグループの中の精神分析に重点をおくメンバーの一人は、彼がクマのぬいぐるみにウイニー・ザ・プーという風変わりな名前をつけたのにはフロイト意味づけがあると言う。

最後にラビットうつろう。彼は非常に尊大にふるまう傾向があり、まわりの者(しかも多くの別の種類の動物たち)と非常に親密な関係で友達がたくさんいると妙に信じ込んでしまうところがある。ラビットはしばしば他の者の意志を無視して彼らを新しいグループ組織し、彼自身はその頂点に君臨しようとする。我々は彼には明らかに病院の上級管理職の適性があると思うのだが、彼はその天職につく機会をのがしている。

森のどこかで少年と熊が遊んでいる。残念ながらこの森は実際には魅力的な場所ではなく、発達上の問題や心理社会学的な問題が診断されず未治療のまま放置されている幻滅するような場所である。彼らが小児発達クリニックに”てぁんけん”(探検)に来なかったのは残念である。

2007-08-08

どもども。入り浸ってます。

ホントにねー、いくら夏休みシーズンでお仕事やや暇だからって、こんなトコに入り浸ってちゃ時間の無駄なのはわかってるんだけどねぇ。

http://anond.hatelabo.jp/20070808113526

種の存続という本能と文明人の行動の関連づけみたいな思考って思春期に通り過ぎたりしない?

増田1さんのおっしゃる意味が良くわからないけど、ヒトの社会行動生物としての本能から説明するという思考、というのは中2が考えるような低レベルアイディアだ!っていう指摘なのかな?

うーん。まだ思春期終ってないのかも(笑)


http://anond.hatelabo.jp/20070808115155

それに、これって、ただ単にフロイトの受け売りなのかも。

日本では、一般に、フロイトの言うことはすべて正しいみたいにみなされがちだし。

私は大いに疑ってるけど。

フロイトさんのお話は又又又聞き程度(すべてをエロ絡みの抑圧に結びつけるヒト?)しか知らないけど、増田2さんは「日本で一般にそうとみなされていること」を大いに疑うことができるほど知的レベルの高い方だったんですねー。脱帽。

でもね、「フロイトの言うことがすべて正しいみたいにみなされがち」っていうのは誤解だと思いますよ。アナタの周りの一般の方々ではそうなのかもしれないけど。


いえね、思想家としての功績は認めるとしても、フロイト流の精神分析を用いる精神科医は現代ではまずいないとか、そもそも科学ではないとかの批判が強いみたい。 いえ、これも又又又聞きですけどね。

フロイト精神分析に毒され過ぎな人が多い

http://anond.hatelabo.jp/20070808123334

萌え=性欲」説を唱えてる人って、きっとフロイト精神分析理論に毒され過ぎなんじゃないかな?

あれって、何でも「性欲」だの「リビドー」だのに結び付けたがるしね。

息子が父親よりも母親に甘えたがるのは「母親に性欲を抱いているから」みたいな説明がされるし。

私に言わせりゃ、馬ッ鹿じゃなかろか、ってところだけど。

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