はてなキーワード: ジンメルとは
俺「俺は実家暮らし大卒ニート!!!AI転職エージェントよ!!!!俺に仕事を探してくれぇー!!!!!」
AI「大学入試で使用した科目、大学で学んだこと、仕事に求めることを入力してくだちい」
俺「国語!!英語!!世界史ぃ!!!!社会学!コント!デュルケム!ジンメル!マックス・ウェーバー!!!やりがいがあって!!尊敬されて!!!お金も貰える仕事ぉ!!!!」
俺「⁈ならば!!俺にもできる仕事をとりあえず教えてくれぇ!!!」
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俺「ほげええwwwww俺wwww大卒なのにwwww尊厳ある生き方できなくて草wwww高校時代に数学サボっただけでwwww見下される人生wwwwまともな女性と結婚してまともな家庭を築くことも不可wwww…」
俺「……椅子を用意して…太い紐用意して…屋根の梁にかけてっと。輪っか作って頸部にかけて…できた!!あとは躊躇せず椅子をキック!!!……!!!!」
俺(ピクピク…ビク…!ビク…!うんちブリブリ!おしっこジョバァ〜…ポタ…ポタ…ビク…!ピク…ピク…ぶらぁ〜んぶらぁ〜ん)
人生、完。
ジョーカーのコスプレをした切りつけ魔が出たという。以下では、昨年書いてお蔵入りになったジョーカーについての文章を掲載する。
2019年に公開された映画「ジョーカー」についての話をしたい。この映画は、一人の男がジョーカーという、バットマンに対するヴィラン(敵役)へと「堕ちる」様子を描いたものである。その男・アーサーは、治安が最悪なゴッサムシティ(1980年頃のニューヨークを元にしている)に住む白人の中年であり、不適切な状況でも突然笑いだしてしまうという障害を抱えており、コメディアンを目指しているものの現在はピエロの仕事で食いつなぐ貧困状態にあり、同居している母親の介護で疲れ果てており、その母親は大富豪がいつか自分たちを助けてくれるという話を繰り返すばかりであり……。さらにはあるとき市の緊縮により福祉サービスが打ち切られ、仕事もクビになる。しかし、だから彼は社会への反発として犯罪者になる――といった話ではない。こればかりは2時間の映画本編を見てもらうしかないのだが、アーサーは映画の中で徹頭徹尾、孤独――きわめて社会学的な意味において――であった、ということは指摘しておいてよい。映画の中盤および終盤において、殺人ピエロ=ジョーカーの信奉者たちによる熱狂の暴動のさなかにあっても、アーサーは孤独であった。群衆は彼の孤独を理解せず、単に自らの社会への怒りを投影した。
その結果として起こる暴動の映像を2020年現在において観賞することは、今年5月にミネアポリスで一人の黒人男性(ジョージ・フロイド)が白人警官によって殺された事件に端を発した一連のデモあるいは暴動を否が応にも想起させる。街のあらゆるところで火の手が上がり、ショーウィンドウは粉々に割られ、警察車両すらも攻撃の対象となる――。両者の映像を並べて類似性を端的に示した映像がSNS上で拡散するばかりでなく、映画の中で使われたピエロのマスクを被って警察車両に放火した男が逮捕されるにいたっては、陳腐な言い方ではあるが、どちらが現実であるかわからない有様であろう。黒人男性の弟やガールフレンドが暴動を止めているにも関わらず、状況が悪化の一途を辿っていることもまた、映画中においてアーサーの意志とは無関係に暴動が拡大していったことと相似形である。
この映画に対してあり得る最も愚かな感想の一つは「こうした犯罪者を生まないために、福祉を充実させよう」というものである。かりに、国が無限の利用可能な財源を持ち、そのことによって経済が破綻したりしないという条件下であってさえも、その愚かさは変わらない。そうした主張は第3アプリオリの骨子である「社会は不平等な諸要素からなる構成体である」(ゲオルグ・ジンメル,1994『社会学(上巻)』居安正訳 白水社 :52)という事実を見逃しているからである。社会がどうであれ、政策がどうであれ、社会は常に不平等でありつづける。福祉を充実させればさせたなりの形で、社会は〈下〉の人間を生み出し続ける。そのことはOrdnungとかOrderといった語が、秩序と順序を同時に意味することからも理解可能であろう。たとえ社会がいかに変わろうとも、誰かがババ(ジョーカー)を引かざるを得ない。
アーサーからジョーカーへの変化を、映画では長い階段を用いて効果的に描いている。その階段はアーサーのアパートへと向かう途中にあり、序中盤ではその階段を彼がしんどそうに登る様子が繰り返し映される。しかし終盤、アーサーがジョーカーになることを決意した後のシーンで彼は、煙草を吸い踊りながら軽やかに階段を下りていく。このシーンは映画中唯一といってもよいほど明るく祝祭的な雰囲気に満ちている。しかし、である。画面に騙されて、アーサーは社会的な重荷を脱ぎ捨てて、彼という人間本来の姿であるジョーカーについになりえたのである、などと考えてはならない。彼は今まさに幼少期からずっと目指していた存在、コメディアンになるために、わざわざピエロのメイクを施し、一張羅を着込んでいるのである。ここで描かれている祝福は、「これこそが自分の天職である」という勘違いに、残酷にも気がついていない男の主観によるものである。我々はそれが勘違いであることを、映画の全体を観ることによって知ることができる。では、もし我々自身が勘違いの中で軽やかに階段を下りていくとき、それを止める論理は存在しうるものだろうか?
ここに至って私には召命や天職という概念が、社会のなかに自分の居場所があるはずであるという観念が、いや、あるいは社会という存在そのものが、ひとつの呪いであると思える。それらに一度囚われれば、抜け出すことはほとんど不可能である。その中で少しでも幸福に生きていこうとすれば、「置かれた場所で咲きなさい」式の諦念に達するか、時として「祝福の有無は稼ぎ出す貨幣の多寡によって判別可能である」というような突飛な結論に着地しさえする。
同感ですが
もと社会学徒としていちおう擁護しておくと、昔の日本の社会学(1970年代くらいまで)はそこまで無内容
ではなかった、と、元増田が批判の念頭に置かれているであろう宮台氏自身がどこかで言ってました。
まあ、エンゲルス、ウェーバー、デュルケーム、パレート、高田保馬、ブルデュー、ミルズ、あたりを読んで
おけばそれ以上フォローする必要もない、底の浅い学問だとは思っています。
そもそも社会学というのは(コントとか)理系のオチこぼれが「おれたちは理想社会を設計するぞ」と間違った
自信のもとにはじめた学問なので、しったかぶり病にかかっているのがデフォルトだし、学者の世界というのは
「やる意味ねー」と思っても「先人とは違うこと」をしないと生きていけないので、結果的にどうでもいいことを
Gestalt Prayer
(Frederick.S.Perlsの著書より)
私は私のことをします。
ですから、
私は、あなたの期待に添うために
生きているのではありません。
そして、あなたもまた、
私の期待に添うために生きているのではありません。
でも、私たちの心が、
たまたま触れ合うことがあったのなら、
どんなに素敵なことでしょう。
でも、もしも心が通わなかったとしても、
それはそれで仕方のないことではないですか。
人が自分の期待したようにしてくれない時、
それは、「この人は、私の期待に答えるべきだ」
という思いこみが心のどこかにあるということなのです。
逆に、相手の期待に答えようとして答えられなかった時は、
これは、「私は、この人の期待に答えるべきだ」
という思いこみの結果なのです。
「支配」です。
「隷属」です。
一方は自分を神とし、
他方は人を神とするのです。
私たちは、誰も神としないで、
どこまでも人間として、
そして自分として生きるべきなのです。
支配したり、服従したりしないで、それでいて、何者かで在り得る人間
支配したり、服従したりしないで、
それでいて、何者かで在り得る人間こそ、
あなたを大切にしない人のことを、あなたが大切にする必要はない
[語録][エピクテトス][エピクテートス][Enchiridion][Epictetus]
ラインホールド・ニーバーの祈り The Serenity Prayer
【人間関係】他人を許すのは、他人の意のままにならないための手段なのである。
至上の処世術は、妥協することなく、適応することである。ジンメル
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
自分自身に正直である事は何と困難な事だろう。他人に正直である方が
私は私のことをします。ですから、あなたはあなたのことをして下さい。
[アドラー][心理学][マズロー][欲求5段階説][反証可能性]
「嫌われる勇気」ありますか? 承認欲求を否定するアドラー心理学とは | ダ・ヴィンチニュース
嫌われる勇気を読んで承認欲求を満たしてはいけない理由が分かった | jMatsuzaki
Gestalt Prayer
(Frederick.S.Perlsの著書より)
私は私のことをします。
ですから、
私は、あなたの期待に添うために
生きているのではありません。
そして、あなたもまた、
私の期待に添うために生きているのではありません。
でも、私たちの心が、
たまたま触れ合うことがあったのなら、
どんなに素敵なことでしょう。
でも、もしも心が通わなかったとしても、
それはそれで仕方のないことではないですか。
人が自分の期待したようにしてくれない時、
それは、「この人は、私の期待に答えるべきだ」
という思いこみが心のどこかにあるということなのです。
逆に、相手の期待に答えようとして答えられなかった時は、
これは、「私は、この人の期待に答えるべきだ」
という思いこみの結果なのです。
「支配」です。
「隷属」です。
一方は自分を神とし、
他方は人を神とするのです。
私たちは、誰も神としないで、
どこまでも人間として、
そして自分として生きるべきなのです。
支配したり、服従したりしないで、それでいて、何者かで在り得る人間
支配したり、服従したりしないで、
それでいて、何者かで在り得る人間こそ、
至上の処世術は、妥協することなく、適応することである。ジンメル
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
自分自身に正直である事は何と困難な事だろう。他人に正直である方が