はてなキーワード: アプリオリとは
生命の目的が子孫を残すことだ、っていうのは実はちょっとおかしな話なんだよね。
だって、じゃあ自己複製型の増殖をする生命は『子孫』を残すんだろうか。生物のスタートラインはむしろこっちだったはずで、
自己のコピーが際限なく継続することを「子孫を残す」とはちょっと言わないよね。
その過程の中で「無性生殖は遺伝子のヴァリーエションに乏しいんだよな」っつーことで有性生殖が出て来た。
自己の反復・継続が主目的だった生命がある程度自己を捨て去って多様性にシフトしてる。
この時点で「あれー、生命ってなにしたいねん?」って話に普通はなる。だって、幾ら遺伝子の一部が残るとしても
それは自己じゃない。単性生殖生命は明らかに自己の保存を重要視してる。
そこで、不意に母性の話なんだけれども。
最近の研究で「母性本能」っていうのは神話に過ぎないことがわかっている。
ちょっと面倒な言葉を使うと「遺伝由来ではない」じぇねりっくえんどうめんとじゃないんだよね。
あれは、高等な生物(サル以上くらい)に於いては社会生活によって形成されるもので、遺伝子上からはデリートされてる。
社会由来の生態なんだ。人間にしてももちろんそうで、実は人間にアプリオリな母性本能なんてものはない。
教えてもらわなきゃわからないことなんだ。
そういうわけで、「子孫繁栄」ってのは人類にとって生物としての要請ではなく
「社会的要請」なんだ。固体の要求ではなく、社会的存在としての人類が要求しているってこと。
だから、「子孫を残す」ことは生物としての勝ち負けではなくむしろ人類としての勝ち負けなんだ。
子孫を残したいという欲求は、本能ではなくむしろ制度に近い。ディシプリンという奴だ。
生物学という神話と結びついて強固化された制度に過ぎない。「直観的」とどっかの増田は言ってるけど、それは先験的なものでは全くなくモダン以前の人類史によって形作られた制度なんだ。どっかのハゲたホモがそう言ってた通り。
しかし、最近になって人類は増え過ぎた。地球のキャパを越えて増え過ぎる我々は社会的要請より「多過ぎるわボケ」って
ことに問題を感じたりすることもある。まぁ、わが国は少子化なんだけれども。
要するに、人間の生存に「個体数」が大きな影響を及ぼさなくなってきてるんだ。少なくとも、先進国の中では。
では、元来が社会的要請であった「子孫を残す」もっといえば「殖える」っていうは、現在になってそれほど大きな要請じゃない。
子供作んなきゃ全滅しちゃうよ!誰が畑を耕して獲物を狩るんだよ!なんてコミュニティはあんまりない。
なにが言いたいって全ての生命を貫く大きな目的論なんてないんだよね。
もちろん、ガイア仮説からさらに引っ張った「人類は地球の精子だ、人類は宇宙に出て行く生殖細胞だ、地球は大きな精子バンクだ」みたいなトンデモ仮説を出すことは出来るんだけど。生命の目的論なんてのは結局確定できない。誰に聞いてもわからない。
そういうわけで、もっとずーっと階層を落として考えると、生命の「目的」というか明らかに共通する「目標」みたいなものはある。
それは欲求の充足ってこと。メシを食うとか性欲を満たすとか(≠生殖。同性もオナニーもアリ)そういうこと。こればっかりはどんな生物もあんまり関係なくある。もっと高い階層の欲求、社会的な欲求も含めて。
これをカッキリ満たした人が勝ち組なんじゃないかなぁ、生物学的に考えて、と俺は思う。だって、これくらいしか生命の共通する価値原則ってないんだから。だから、美味しいもの食べて楽しく生きて満足して死ねば勝ち組だよ、生物学的に考えて。
まとめ。
・「子孫を残す」っていうのは生物学的な要請ではなく人類史的な社会的要請だよ。
・社会的要請っていうけど、それはちょっと古い時代のことで現在ではそんなに要請されてないよ。
ホメオパシーだの代替医療だのといった、いわゆる疑似科学についてはあらかた意見が出されていて、もう議論の余地はないと思われるのだが、そうした問題について考えるとき、どうしてか疑似科学それ自体、もしくは推し進める当事者のことばかりクローズアップして、疑似科学を支持する利用者のことがあまり注目されないのはちょっと妙な話であり、この偏りはマズいのではないかと思う。
科学というのもつまるところ美術や文学と同じであり、考案者と追実験者のコラボ、それを追いかけて信憑性や科学性を視認する研究者、そうして知識として蓄積された学問を後追いで学ぶ学生といった階層性が歴然として存在する。確からしさや権威は独創的な「表現者」が単独であれこれと試行錯誤するだけでは付随してこず、「鑑賞者」が群がってあれこれと議論することで科学体系は形成されるのだ。
とすると疑似科学もそれと同じことで、それが科学の衣をまとっていられるのは、「表現者」の誤謬だけではなく「鑑賞者」の支持も多大な要因としてあることが推測されるだろう。ところが件のホメオパシー議論では、「表現者」にばかり気を取られて「鑑賞者」側の心理を分析していくアプローチがあまり見られない。それどころか、医学と一対一対応させて医学に軍配を上げ、だからホメオパシーは誤りである、といったお決まりじみたストーリーで反駁する主張ばかりで、ホメオパシーという体系がなぜ批判されねばならないのか、という根源的な問題への解答を避けているものが少なからず多い。そうした偏向はつまるところ科学の絶対的真理性や反証可能性、さらにはアプリオリな真理の存在といった諸々の難解なテーマになんら疑問をもつことなく、権威の安楽さにフリーライドしていることの裏返しであり、彼らもまた科学という教条に絡め取られているのではないのかと危惧するに到る。
もはや焦点は「なぜそれが正しいのか」ではない。「なぜそれを信じるのか」である。「科学は正しいから美術や文学とは違う」と言い張る人間がいる。そのくせ地球が丸いことを実地で確かめたこともないのだからおかしいものだ。正しさの担保が分からないなら、それは正しいのではなく信じているのである。ならば、「科学者ならそれ(=科学的知識)が正しいと言い張れるじゃないか」という反論は一見成立しそうだ。だが、それは同時に「疑似科学者ならそれ(疑似科学的知識)が正しいと言い張れるじゃないか」という主張となんら変わりないように思える。なぜなら、正しさの担保は今現在明確な形で示されていないからである。
ポパーにしろクワインにしろ、ある点で建設的な、もしくは過激な条件づけで科学の特徴を言語化しようとしたが、どれも一長一短で、条件づけした途端にそれまでれっきとした科学の一部であった知見が科学でなくなってしまう。幸い、ホメオパシーについては科学でないということはテストによって容易に示されるかもしれないが、知識の欠けた「鑑賞者」に関しては全く問題が別である。それがありがたい体系で身体の健康に役立つと感じられるなら、ホメオパシーもまた利用者にとって十分に医学でありうる。この認識論的な事情は科学全般に延長できてしまうものなのだ。
今一度、問題点を問おう。科学というものは、証明能力を有する人間と利用する人間とで「正当」の意味内容が著しく異なり、しかも当の科学者であれ「正当」の普遍的な根拠が未決定の状態である。こう表現するとホメオパシー擁護論にも思われるかもしれないが、それは誤解だ。ここで言いたいことは、たとえホメオパシー支持者が科学的思考の持ち主でないとしても、ホメオパシーという体系それ自体が非科学的であることを決して意味しはしないこと、そして現代医学の科学性がホメオパシーの非科学性を意味しもしないことだ。後者の指摘については、免疫学が謎めいた「自然治癒能力」を反駁することが(今現在)できていないという一例でも分かるだろう。必ずしも、ある体系の正当性が別個の体系の正当性を否定するというわけではないのである。また、これが最も核心的なことだが、科学的証明とは無縁のいずれの「鑑賞者」にとっても、信じることで一方を支持し、信じないことでもう一方を唾棄しているに過ぎないという深刻な背景を宿していること。
治療に関して、被治療者にはいかなる治療を受けるか選択できる権利がある。このことをしっかり認めた上で、ホメオパシーに傾倒する被治療者を理性的に説得することは、果たして可能なのだろうか。
なんかこういうスポーツとか芸能関係は政治能力を持たないことをアプリオリな前提として
知名度で受かろうとする・受かる新人議員は適性や素養すら期待できないから
パンダっていうんだよね
あほな有権者が一定数いれば選挙は知名度で勝っちゃえるだろうけど
ていうか「有名人だから」って有名になるまでの過程というか苦労は無視ですかみたいなさ
その人の分野で有名になるまでの苦労と
全く別の分野だもん
ファッションモデルできるかったらできないよ
「苦労して来た有名人なんだから綺麗って思え!」って言われても思えないよね
高校生以上でそのアホさなら知能的にかなり立ち遅れてる
最近、既婚者に「あなた、くらたまの『だめんず・うぉ〜か〜』読んだことある?」と同情的に尋ねられて自虐的に爆笑した。
私も私の妹も、だめんずを好きになる傾向が強い。
「デキる男は一概に偉そうだからイヤだ」というのが共通見解である。デキる男は女を見下す傾向が強いよね〜という偏見に満ちた見解があるのだ。
だめんずの反対に位置する男っていうのは(なんて呼ぶのかは知らないけど、)一流大学出てて、たとえばバリバリエリートで働いていて、たとえば女の言うこと聞いてくれて。みたいな。
いやいや、そんな男性存在しませんから。
少なくとも、私や妹の性格じゃあそんな男性はゲットできません。
私や妹は、自分がやりたい仕事を追求して行きたいタイプだから、
そのようにバリバリ働く男が、どう見ても男に尽くさなそうな私なんぞを好きになってくれるわけありません。
私は、「競争社会なんかいやだおむりだお…(´;ω;`)ウッ…、家のなかで皿洗ってるのが好き」みたいな人が好きなんだい。
仕事に生き甲斐を持ってる人は苦手。仕事は生きて行くためのお金を稼ぐ程度のもので十分です。定時で上がり、土日は趣味に費やしてください、どうぞ。と思う。(なにをえらそうに)
とか、そういうことを言うと、男の人はむっとするらしい。
どんなにやんわり言っても彼らには伝わる。男のプライドは面倒くさい。
昔大学のゼミかなんかで「痴情のもつれによる殺人は圧倒的に男が犯す方が多く、殺人の理由の一位は「自尊心を傷つけられたから」らしい」ということを誰かに聞いた記憶がある。
男女比のバイアスがどうであれ、もしそれが本当だとしたら、プライドなんて持たない方が美しいということになる。私は、プライド高い人が好きじゃない。(自分も含め。)
男は女よりも優位に立っていたいものなのです。とか言う恋愛指南本がある、だから、女性はそれを実行する。男性を立てようと思って「すごーい」とか言う。だけど、それは戦略のためであることをお忘れなく。自分がとても好きになった相手に、そんな戦略ごとを持ち込むことの引き裂かれは、付き合って半年ぐらいで私の心をぐらぐら揺すり出す。
女はここ数十年で、強くなりすぎたと思う。
精神的にも、恵まれ度も。少し前は、結婚しない女は差別され、疎まれていたらしい。だけど今は「女性の権利」で結婚しなくてもいいし、少しでも女性をバッシングするようならば、白い目で見られる。というか、感情的なルサンチマンや非モテっぷりを披露することなく、冷静に女性を批判する男性に、私は出会ったことがない。
本来、家の中で偉いのは女でした。でも「男女平等」をうたった教育は女性を男性化して権利を得させる代わりに、男性から「家のなかでは女が強い」という感覚を失わせてしまった。
私の考えはこうです。
圧倒的に女の方が男よりも偉い。
これは譲れません。もう、アプリオリ(無条件に)偉いのです。
それをみんなが忘れていると思います。
そのためには妊娠している間、働いて金を稼いできてもらわなければなりません。男は安定した資源を得てくる義務があるのです。
女に比べて、現象的に、定期的な身体の波(生理や神経症など)が少ない男だからこそできることです。
いいから稼いでこいとそう言いたいのです。
女の人は、もう少し謙虚にそして賢くなったほうがいいと思う。
女性が並みを外れて力を得たのは、社会的な恩恵であって、決してあなたの能力が高いからではありません。
鏡を見てみましょう。論理的な文章を書いてみましょう。感情的にならずに、相手に批判的な指摘をしてみましょう。意外とできないことにきづく。
結婚は経済的な安定がなければできません。私はベーシック・インカムの導入を希望します。
そうして生活していける基盤が固まったら、男は働いて女は子供を産めばよい。国家のためとかそういう目的で言うのではなく、結婚・出産を通じて人間は成長するし、他人と交わり合う関係は何にも代え難い経験である。ちまたにあふれている漫画やエロゲを見てみましょう。みんなそれを欲望している。
社会的な基盤ができあがっていないから、結婚ができない。それは間違いのない事実です。では、みんなで立ち上がりましょう。そしてベーシック・インカムを導入し、結婚しましょう。だがな、仮にベーシック・インカムを導入したって結婚する勇気なんかないんじゃないのか。情報過多の社会において、「結婚とは個人的な利益を失わせるものだ」という考えが男女ともに根強いから。
結婚しなくたっていいじゃんという人は、結婚ということの象徴的な意味を、少し誇大妄想気味に想像してみましょう。そして胸に手を当ててみる。なぜあなたは、実社会において、誰かとの関係を求めるんですか。
最後に付け加えておくが、結婚したくない人はしなくていいし子供産みたくない人は産まなくていいと思いますよ。(淋しい人間だなとは思うが。)
横レスしてみる。
元増田の「洗脳」の使い方がおかしい。イデオロギーを全て「洗脳」と呼ぶなら、
世の中に洗脳でないものは一つもなくなる。
「家族」が人間によって作られたイデオロギーに過ぎない、ということは合ってる。
それが社会や制度と不可分に結びついて、一種の権力構造を生み出しているということも合ってる。
家族をベースにして「当たり前の、アプリオリな」ものとして社会が構築されているということも合ってる。
家庭があるというマジョリティを前提に社会が構成されていることもまた一つの事実。
俺は家族を持たない人間なんで、この辺りに関してはよくわかる。
何故なら、「家族」のほかにもあらゆる社会的事柄はイデオロギーで構築されているし、
その中で「家族」だけを「洗脳」という語で呼ぶ必要性はほとんどない。
数多あるイデオロギーの中から特段に「家族」というイデオロギーを選び取ってそれを「洗脳」と呼ぶのは
中々に汚い論法ではなかろうか。社会を構成する例えば「男」や「女」だってイデオロギーに過ぎないわけで。
他にも「家族」のようなものは数多あり、それらが積み重なって社会が出来ている。
その中の一つを勝手に選び取って「洗脳」と呼び換えるのはこりゃ全く以って詭弁だ。
元増田の語に従えば「洗脳装置」ですよ。何度も言うけど、元増田は社会的イデオロギー(家族)を
「洗脳」と呼び換えてる。しかも相当恣意的に。それはダメだよね。
洗脳って語を使うことでさも「ダメなこと」みたいな印象つけてるけど、実際元増田の論理に立って
よく、「同性の友達となら話せるのに」って言う奴がいるけど、その前にまず「自分の趣味以外の話が出来るか」を考えた方が良い。同性の友達がそもそもいないってのは、非モテ云々以前の話。
異性と話せない理由が、大体「共通の話題がない」「異性を前にすると緊張して普段通り話せない」の二通りだから、その二つをクリアするようにする。
この手の話だと「同性間のコミュニケーションは異性間のそれより容易である」「同性どうしではアプリオリに共通の話題がある」
という前提が置かれているのが常だが、そもそもこの前提を疑ったほうがいい。
得てして非モテはホモソーシャル的な男社会から迫害される立場なわけだから、非モテにとって付き合いずらいのは
異性より同性(非モテ仲間は除く)のはずだ。
遅くなりました。
これなんですが、論理学ではそこそこメジャーな三段論法的はこんなかんじ
「全称肯定判断」で構成するとこうなります。
大前提:すべての人間は死すべきものである。(M-P:すべてのMはPである)
小前提:ソクラテスは人間である。(S-M:すべてのSはMである)
結論: ゆえにソクラテスは死すべきものである。(S-P:すべてのSはPである)
この例で言えば、全ての人間は死すべきものである、というのは、現状で例外なく観測される事実です。
(これにも、現状で観測されているだけの事実に過ぎないとの意見もありますが)
また、ターミネータの世界でもない限り、自分は人間である、はアプリオリとしてよいでしょう。
それにあわせると
大前提:すべての特別な人間には特別な寛容が与えられる(M-P:すべてのMはPである)
小前提:自分は特別な人間である(S-M:すべてのSはMである)
結論:ゆえに自分には、特別な寛容が与えられる(S-P:すべてのSはPである)
となると思います。
アプリオリについてなんだけど
一般的な用法の「演繹的証明の必要のない自明的な事柄」ではなく、「先天性」の方なのかな。
ある個人が「自分は特別な人間である」と言う知識(認識)を持っていて、それは経験では反証されない知識(認識)であると。
そっちの方の・・・
と書いていて思ったのだが、「前提がアプリオリだとする定義」そのものが論理構成上問題ない、とそういう話かな。
そんで、そこに問題があるとすれば、「前提がアプリオリだとする定義」に反証して、「偽」にしろと。
どうだろ。
うん、そういう話になりますよね。
そこはアプリオリだ、じゃなくて。
余談ですが。
「みんなは」と言うのは、「人は皆、寛容が与えられるべきである」となるかな。
これは、論理の話じゃないですよ。
彼らはこういう話し方を好む、と言う話です。
ですから、通常ヒダリ村の人は「私が」と言う主張はせずに、「みんなが」と言う主張をする。
と言う話なのですけどね。
「みんなが」と言う主張を覆すのは、結構しんどいです。(それは自分にも跳ね返るから)
最終的に行くところまで行けば、結局「基本的人権」がアプリオリになってしまって、議論は終了してしまうのですけど。
「譲れないものに理由があるべきではない」とか言っていたかな。
(理由が覆されたら、譲れないものが覆ってしまうから)
でも、その譲れないものに、「私が特別だから」はもって来ませんよ。彼らは。
【「基本的人権」はアプリオリ】も議論しようと思えば出来ますし、考えられない昔から、それこそ学者が本気でやってますよね。
1. その論証は妥当である。
2. その前提の全てが真である。
前提が正しくあることまで要求していたら、絶対的に正しい前提などないのだから、正しい論理というものが存在しなくなる。
そうですね。
昔は正しいと思われていたものが、後々覆されるなんてこと、普通にありますよね。
それは論理の前提が覆ったからに他ならないわけで。
前提が覆れば、構成も覆る。
そうした前提を「論理的に」解釈していく積み重ねが、論理的な話し合いだと思うのですが。
もちろん、ある程度積み重ねて実績のあるものは(共有されているものは)そこからスタートし、そこを問わない事もある。
それでも、新発見は得てして、その前提を疑う事から始めるものですれどね。
問題は、「その前提をアプリオリとしている事」なんですよ。
アプリオリとしてしまったら、そこから先には踏み込めない。
それには、論証も立証も不要なのだから。
通常、よほどの才能が無ければ、自分が特別な人間だ、なんてのは簡単に覆ってしまうから、前提にはしないけれど。
仮にしたとして、どうやってそれを論証・立証するのか。
問題なのは、アプリオリの方なんだけどね。
アプリオリの部分を、自分に都合のよいように設定して「正しいです」というのは、論理的ではないと思いませんか?
「言説を正しくするアプリオリ」を持ち出して、
「正しい」と語ることに
違和感を感じないのであれば
『「自分は特別な人間である」という前提をアプリオリなものとして語るならば』論理的に正しいと言っていたけれど、
そのためにはその前提の正しさが必要なのに、そこをアプリオリとしてしまったのでは、論理も何も無いと思うのだけれど。
なんか、アプリオリが新種の生き物のように思えてきた。w
まぁ・・・・
「論理的な正しさ」の話をするときに、
「言説を正しくするアプリオリ」を持ち出して、
「正しい」と語ることに
違和感を感じないのであれば、良いのではないでしょうか。
「正しいのは正しいからだ、それは俺が決めた」というのを
「論理的に正しい」とは一般的には言いませんがね。
「ねこは爬虫類だ」とか、「月にはウサギがいる」とかのとき、それらが正しくなるアプリオリがある前提なら、それらは正しいが・・・
そう言うこと?
(アプリオリ:論証や立証なくして明らかな事項)
「1+1=2」が正しいかどうかは、「1」や「+」や「=」の定義次第だぜ?
定義は、全員が共有する必要がある。
「ぼくだけとくべつにあまやかされてとうぜんだもん」「だってぼくはとくべつだから」が正しいためには、
全員が「ぼくはとくべつだから」を共有する必要がある。
論理の正しさに、そういった類の正当性は不要でしょ。
「自分が考えてる定義」を「他人に」共有してもらう必要があるのではないかね?
「僕を甘やかして欲しい」と言うときに、「ぼくだけとくべつにあまやかされてとうぜんだもん」と言う方を彼らは選ばないでしょ。
「人は皆生まれながらに」とか「基本的人権」だとかの言い方をする。
もちろん、そこの部分に関しては議論に乗ってこないがね。(アプリオリとしてしまっている)
この場合、選択されているのは「人は皆」であって、「特別な人だけ」ではない。
「だってぼくはとくべつだから」ではなく、「だってみんなとくべつだから」と言う。
その中には、自分も含まれるから。