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2010-10-11

目的論的生命

生命目的が子孫を残すことだ、っていうのは実はちょっとおかしな話なんだよね。

だって、じゃあ自己複製型の増殖をする生命は『子孫』を残すんだろうか。生物スタートラインはむしろこっちだったはずで、

自己コピーが際限なく継続することを「子孫を残す」とはちょっと言わないよね。

その過程の中で「無性生殖遺伝子のヴァリーエションに乏しいんだよな」っつーことで有性生殖が出て来た。

実はここで生命目的論的展開がすりかわってるんだよね。

自己の反復・継続が主目的だった生命がある程度自己を捨て去って多様性にシフトしてる。

この時点で「あれー、生命ってなにしたいねん?」って話に普通はなる。だって、幾ら遺伝子の一部が残るとしても

それは自己じゃない。単性生殖生命は明らかに自己の保存を重要視してる。

そこで、不意に母性の話なんだけれども。

最近研究で「母性本能」っていうのは神話に過ぎないことがわかっている。

ちょっと面倒な言葉を使うと「遺伝由来ではない」じぇねりっくえんどうめんとじゃないんだよね。

あれは、高等な生物サル以上くらい)に於いては社会生活によって形成されるもので、遺伝子上からはデリートされてる。

社会由来の生態なんだ。人間にしてももちろんそうで、実は人間アプリオリ母性本能なんてものはない。

教えてもらわなきゃわからないことなんだ。

そういうわけで、「子孫繁栄」ってのは人類にとって生物としての要請ではなく

社会的要請」なんだ。固体の要求ではなく、社会的存在としての人類が要求しているってこと。

だから、「子孫を残す」ことは生物としての勝ち負けではなくむしろ人類としての勝ち負けなんだ。

子孫を残したいという欲求は、本能ではなくむしろ制度に近い。ディシプリンという奴だ。

生物学という神話と結びついて強固化された制度に過ぎない。「直観的」とどっかの増田は言ってるけど、それは先験的なものでは全くなくモダン以前の人類史によって形作られた制度なんだ。どっかのハゲホモがそう言ってた通り。

しかし、最近になって人類は増え過ぎた。地球のキャパを越えて増え過ぎる我々は社会的要請より「多過ぎるわボケ」って

ことに問題を感じたりすることもある。まぁ、わが国は少子化なんだけれども。

要するに、人間の生存に「個体数」が大きな影響を及ぼさなくなってきてるんだ。少なくとも、先進国の中では。

では、元来が社会的要請であった「子孫を残す」もっといえば「殖える」っていうは、現在になってそれほど大きな要請じゃない。

子供作んなきゃ全滅しちゃうよ!誰が畑を耕して獲物を狩るんだよ!なんてコミュニティはあんまりない。

なにが言いたいって全ての生命を貫く大きな目的論なんてないんだよね。

もちろん、ガイア仮説からさらに引っ張った「人類地球精子だ、人類宇宙に出て行く生殖細胞だ、地球は大きな精子バンクだ」みたいなトンデモ仮説を出すことは出来るんだけど。生命目的論なんてのは結局確定できない。誰に聞いてもわからない。

そういうわけで、もっとずーっと階層を落として考えると、生命の「目的」というか明らかに共通する「目標」みたいなものはある。

それは欲求の充足ってこと。メシを食うとか性欲を満たすとか(≠生殖。同性もオナニーもアリ)そういうこと。こればっかりはどんな生物もあんまり関係なくある。もっと高い階層の欲求、社会的な欲求も含めて。

これをカッキリ満たした人が勝ち組なんじゃないかなぁ、生物学的に考えて、と俺は思う。だって、これくらいしか生命の共通する価値原則ってないんだから。だから、美味しいもの食べて楽しく生きて満足して死ね勝ち組だよ、生物学的に考えて。

・・・と哲学専攻出身の人間うろ覚えの知識で書いてみた。

ガチ生物学畑の人添削してくれ。

まとめ。

・「子孫を残す」っていうのは生物学的な要請ではなく人類史的な社会的要請だよ。

社会的要請っていうけど、それはちょっと古い時代のことで現在ではそんなに要請されてないよ。

・楽しく生きて満足して死ね生物学的には勝ち組だよ。

・子なしは負け組み、という観念生物学的というよりはむしろ宗教的だよ。

・子なしは近代以前の人類として負け組、なら割と合ってるかもしんないよ。

 
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