前提が正しくあることまで要求していたら、絶対的に正しい前提などないのだから、正しい論理というものが存在しなくなる。
そうですね。
昔は正しいと思われていたものが、後々覆されるなんてこと、普通にありますよね。
それは論理の前提が覆ったからに他ならないわけで。
前提が覆れば、構成も覆る。
そうした前提を「論理的に」解釈していく積み重ねが、論理的な話し合いだと思うのですが。
もちろん、ある程度積み重ねて実績のあるものは(共有されているものは)そこからスタートし、そこを問わない事もある。
それでも、新発見は得てして、その前提を疑う事から始めるものですれどね。
問題は、「その前提をアプリオリとしている事」なんですよ。
アプリオリとしてしまったら、そこから先には踏み込めない。
それには、論証も立証も不要なのだから。
通常、よほどの才能が無ければ、自分が特別な人間だ、なんてのは簡単に覆ってしまうから、前提にはしないけれど。
仮にしたとして、どうやってそれを論証・立証するのか。
信じているのは構いませんが、「自分は特別だ」と壊れたレコードのように繰り返すのが、はたして論理的でしょうか。 何度も言うけど、「理性的かどうか」を問うのならともかく、...