名前を隠して楽しく日記。
日輪照り破る抱擁の鼓動を糊塗する、彼岸にて群青の虚構が幻想を携える。
ここに於いて那由他の影響下、日本のオタク達はサブカルチャー消費の禊ぎにおいて互いの環境を顧みず、巷に溢れるアニメや漫画、ゲームの塵芥としての扱いに即座に昂じる。
どのようにして彼らは習俗を超越した表象の再生を妄信するのか、この謎多き行為が過剰なメディアの波動を逸脱する過程であるかもしれない。
凡そ時に迷走を続ける文化的マンガロイド達の群れは、抗い難い現代の滑稽さを内包しつつ、何もかもが網羅されぬ間においてその間隙を狙う如くして、知覚的ジャンクフードを摂取し続ける。
ただの審美的排泄物とも言うべきアイデンティティの確立が、かくも脆弱な状況の中で、一体全体、何故に彼らは絶えず塵となり得るのか?
深層に潜むメタファーの濁流が、サブカルチャーの飢餓を如何にして養うか。その一切が徒花の如く儚く、しかも彼らは刹那の情熱を垂れ流すことでしか現実の階層を逸脱できずにいる。
審美的な糜爛が一種の精神食と化し、幽玄なる疑問を呼び覚ます。
それはオタクという存在が文化的な胎動を経て、如何に無為に溶け込み、そして消失していくかを模索する過程である。
ゆえに、この稚拙なる祭典は途方も無い速度で進行する一方で、理解しがたい輪廻の中で彼らの行動はただの誤解と笑いを誘うだけの形而上学的な茶番劇に過ぎない。
個々の消費行動が無意識のうちに文化的な遺伝子を侵食していくそのさまは、まるで幽体離脱を遂げた魂が浮遊するかのような、不可解な現象に他ならない。
「うる星」の主役はあたるでは。あとDr.スランプも千兵衛さんだろ。『Dr.スランプ』なんだし。俺はメガネロポットには 1ミリも関心なくて千兵衛さんしか見てなかったぞ。
悪役や問題のある奴として配置されているキャラクターに激しい嫌悪感を抱くことがあまりない。
どうせ最終回までには断罪されるし、どこか「話をまとめるために誰かがやらなければいけない憎まれ役をやっている者」と感じて叩く気にならないことが多い。
そのせいか、明らかに嫌われるべき悪役への野次にさえも苦手意識が出て、悪役のいない明るく楽しい話以外の応援上映には行かなくなった。
作中で他のキャラクターから憎まれるぶんには当たり前だとしか思わないのだけれど、他の読者・視聴者による野次はなんとなく聞いていて嫌である。
さらに、一般ファン(ここではキャラ萌え二次創作に積極的に触れない層とする)が悪役を嫌うことは作品の王道の楽しみ方だと一応は感じるが、
詐欺師だろうが殺人鬼だろうがどこかが刺されば推しにしているキャラ萌え要素の強いオタク同士で語らう場合は、「悪い奴だから不愉快で嫌い」という理由に納得がいかないことも多い。
殺され役がモブとしてしか描かれおらず悲壮感がないから悪事に見えにくいだけの話じゃないのか?とか、そういうことが言いたくなってしまう。
絶対に推しを悪く言われたくないとか、絶対に誰の悪口も聞きたくないとかいうよりは、
ある作品では大量殺人を犯すキャラを推しているオタクが、ある他作品でキャラを嫌う理由に「人の命を軽く見ているから」と述べることに納得がいかない気持ちのほうが大きい。
「フィクションなんだから現実的な倫理観とキャラクターとして好きか嫌いかは別物なんだよ」という理屈でキャラ萌えオタクやっているんだと思っていたのに、そこでは普通の正義漢みたいな話になるのか?わからんなぁ……となる。
ついでに、話し手がキャラより上かのような表現の「嫌いさ表明」が嫌いである。
いわゆるイキリっぽいのが嫌だという同族嫌悪もあると思う。
たとえば(のちに和解っぽくなってはいるが)範馬勇次郎を主人公の良き父親とは思えないから好きではないと言う人がいるのは納得できる。
なんだかんだで格のある強キャラだからとか面白いからとかで好きだと言う人がいるのも納得できる。
なので「俺は勇次郎好き」「俺は勇次郎嫌い。やってることムチャクチャだと思う」は両方嫌ではない。
ただし「ああいう親父キャラ見るとボコボコにぶん殴ってやりたくなるから嫌い」は嫌だ。
単純に「そうしてやりたい気持ちになるくらい嫌い」というだけの表現なので目くじら立てることではないのは承知で、それでも嫌いである。
一般人が対面で文句を言える立場にないような身分の美女という設定のキャラへの「思い切りブスって言ってやりたくなる」等も、似たような感想になる。