はてなキーワード: 友好条約とは
「情報」と聞いて、あなたはどう思う? きっとこう言うだろうね。
「おいしいの?」って。
その情報とやらの正体はそもそも何だと思う?それは、この宇宙を成り立たせている法則よ。
例えば、量子を観測すれば状態が収束する。つまりエントロピーが下がったわけ。これが一つの情報と考えることができるわ。
はい/いいえで回答できる質問をXとし、はいになる確率をP(X)としましょう。そしてこのエントロピーをH(X):=-P(X)ln(P(X))と置くことができる。
エントロピーとは、つまり情報が確定していない度合いのことよ。エントロピーが下がるというのは、質問Xに対して何らかの確定度合いが上がったことを意味するわ。
そこで、全事象Uの部分集合Sを観測することによって、H(X)を下げられると考えてみましょう。
あなたがやりたいのは、1)H(X)を下げること。2)P(X)を上げる(または下げる)こと。この2つよ。
では、Sの選び方によってPの向かう方法を決定できるのかしら。あるいはSの選び方によって、Uの中のいずれかが選べなくったり、Uの中の何かを選んでもエントロピーの変化が生まれないようなことが?
これを使って「どんな質問がはいと判定されれば良いか」という問題を解くの。
わかるわ。確かに、物事を学ぶというのは「理解したい」からやっているのであって、「確定したい」からやっているわけではないと言いたいのでしょう?
しかし、あなたがその理解のための行為をすることによって、あなたの脳内信念はどう変わるのかしら?その行為によって、ある確率が上がるかもしれないし、逆に下がるかもしれない。
もしあなたが理解しようとすることをしなければ、今持っている信念を変えることなく、「Yesが選択される可能性」についてだけを知ることになるわ。
世界があなたにこう言うの。「我々がお前に代わって問いのエントロピーを操った」ってね。
ここであなたはこのゲームの戦略をいくつか考えることができるわ。一つは、あなたは「質問メイカー」になって、世界に質問を答えさせるの。もう一つは、あなたは「ソルバー」になって、あなたが質問のエントロピーを操るの。さて、どちらの方が面白いかしら? おそらくあなたは「そんなのゲームじゃない」と言うでしょうね。でもね、ゲームってそういうものなのよ。
じゃあ、もう少しだけ考えてみましょう。あなたは「理解すること」をするためにゲームをしているのよね。では、理解することとエントロピーを自ら下げることの違いは何?そう、その通りよ。エントロピーを下げることは、世界を自分の都合が良いように変えることなの。「熱力学第二法則」というのは、物事の欠片しか語っていないわ。だってそうでしょう?実際に量子状態が確定すれば、確かにエントロピーが下がるのだから。あなたが「理解」できたなら、それはあなたにとって都合の良い情報を生み出したようなものだわ。理解と確定の違いをどうやって説明できる?確かに、あなたが世界の側から提案された情報を理解しようとすることはできるでしょうけど、どの情報を理解しようとしたか選んだのはあなたでしょう?
こんなことは考えたことはあるかしら?つまり、世界は無数に分岐していて多数のあなたがいるの。もしあなたにとって最も都合の良い世界に今いるなら、他のみんなだってそうでしょう。
例えば、あなたは「ここにリンゴがあります」と言われたらどう思うかしら。
この認識は、私たちが知っているような意味での「理解」ではないわよね。もちろん、あなたもわかっていると思うけど。
私が言いたいのは、「そこにある」ということはどういう意味なのか、それがわかることを指しているわ。
「そこにりんごがある」ということが「わかる」なら、「そこにりんごがありますか?」という質問のエントロピーはすでに十分低いと考えていいわ。
では、何が問題かというと、その人が何を理解しているかによるのよ。
あなたがいる世界で、仮に宇宙人が地球人と友好条約を結んだという知識をあなたがテレビのニュースから得ていたら、そういう世界になってしまうでしょう?
不都合な情報を消すには質問に対するエントロピーが増える必要があるけど、複雑に絡み合った情報ネットワークの中から、特定の質問のエントロピーを増大させるなんてできるのかしら?
私はまだ納得していないわ。私の知る限り、この理論は間違っていると思うの。もしそうだとしても、なぜそんな間違いを犯す必要があったのか。私はそれを知りたいわ。
ええ、そうね。きっとこれはただの妄想よ。それでも私はこう信じることにしている。もしこれが真実だったとしたら、私は今とは違う人生を歩んでいたはずだってね。さあ、そろそろ時間よ。またいつか会いましょう。次はあなたの研究について聞かせてほしいわね。
性格が悪くなった。テレビを見れば文句しか出てこなくなった。流行りのものもくだらなく見えた。駅ですれ違う人の会話も、笑い声も、浅く馬鹿らしく耳障りで不愉快だと思った。
子供の頃は良かった。空の色とか道端の草花とか、そんなものしか見えていなかった。クラスのいざこざも、親の不仲も、60点のテストも気になんかならなかった。
前を見てきちんと席について、友達の話をよく聞いて、自分の意見を持って、隣の誰かと共感し合うことが、教室の窓の外で揺れる電線より、教科書の落書きより、遠くの星に住む宇宙人よりずっと大事なことだった。
休み時間は本を読む時間ではなくて、校庭でボールをぶつけ合う時間で、噂話をする時間で、友達でいるための時間だった。
同じ色の人同士がチームになって、狭い狭い教室での居場所を奪い合うのが、「クラス」というゲームのルールだった。同じチームでだって、水面下で奪い合いは続いていた。ずっと一緒にいなければ、いない間に標的になる事を知った。誰かの陰口を一緒になって言うことが友好条約だと知った。他のチームと対立すればするほど、自分が自分のチームの一員として大事にされる事を学んだ。
顔がでかい、毛深い、笑い方がキモい、柔軟剤臭い、ほうれい線やばい、サボってばっかり、てか走り方が変、そんな粗を探してはあげつらった。時々ヒソヒソと聞こえる自分の「粗」は聞こえないふりをした。
同じ人を悪く言えば仲間だと思った。
誰かを悪く言えば、自分は良くいられると思った。
陰口で繋がれば、みんなの言う普通からはみ出さないだろうと信じた。
大人になって、優しい人と仲良くなった。人の悪口を言わない、誰のことも褒める謙虚な人だった。そんな人だから、こんな自分の事も褒めてくれた。友好条約なんて無くとも、ずっと仲良くしてくれた。その人の周りの人も、やっぱり優しい人ばかりで、誰も戦争なんかしていなかった。余裕がある人はこうなのかと思った。
それでも卑屈な自分には、誰かの粗を探さなくては、一番下になってしまうように思えて怖い。
今日も馬鹿っぽいコメンテーターが誰でも言える事を保身に保身を重ねて喋るニュースを見た。似合わない金髪のタバコ臭いブスを見かけ、大声で武勇伝を語る酔っ払った学生とすれ違った。
弱い犬ほどよく吠えるのは、吠えていないと噛みつかれると信じているからだ。自分が弱くないと、噛みつかれないと信じ切れるようなカードが一つもない自分は、見えない敵と戦い続けるしかないのだろうか。
居場所なんか無くとも人に笑われようとも、空想の世界に居続けたかった。こんな愚劣な人間として、醜い争いに興じる人生なんか要らなかった。