名前を隠して楽しく日記。
まさかとは思いますが、この「弱者男性」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。 もしそうだとすれば、あなた自身が統合失調症であることにほぼ間違いないと思います。
https://anond.hatelabo.jp/20240429220702
↑を書いた増田です。
愚痴だけ書いても何なので、もう少し有益なことを書こうと思う。
あとブコメで「読みにくい」と書いてる人、こちらは無料で情報を提供してるのだから文句言わないでほしい…。
あなたはボランティアに「こうしろ、ああしろ」と上から目線で要求する人なのか……(すまんな)。
将来一緒に住んで、ご飯を食べて、休日は一緒に遊びに行く相手を見つけるのだから、仲良くなれることが一番大事。
大学で友達ができた時とか、会社で同期と仲良くなった時、相手を「品定め」しない…よね、普通。
素で接して「合うな」とか「何だかな」は考えても、それは品定めと違う。
で、「品定め」の視線で相手を選んでしまうと(例えば「年収が600万以上の男性がいい」とか容姿とか「仕事が公務員で安定してる」とか)、
相手と自分が釣り合っているとか、相手が自分を気に入ってくれたら御の字だけど、
価値観や相性は生活環境、育成環境、学歴も影響する気がしてるから、差がある相手と関係を築くのは結構大変と思うよ。
お見合い相手は自分と同じ人間だから、当然、自分がされて嫌なことは相手も嫌だと感じるのだが、それができない女性はそれなりにいた。
あれ、やめたほうがいいよ。
もう会わない人だからとお見合いの結果を好き放題言ってくるあたり当人の本性が出てるし、
「この人は性格が良くない」とか「品定めする人」と思われるだけで、
仮にいざいい人を見つけてお見合い申し込んでも先方のカウンセラーさんが、その人は微妙だとやんわり助言を入れられてしまう。
でも、それは打算的な行動というより人間関係を大事にしないからそうなると思ってる。
ただ、そういう意識って付け焼き刃では身につかず、もともとの性格に起因すると思う。
会わないと何も分からない。
お見合い写真は(僕もだが)盛られてるので、直接会わないと印象は分からない。
プロフの自己紹介文は自分で考える人もいれば、相談所のカウンセラーが全部代筆するところもある(ある女性から聞いたから間違いない)。
あと、目線が品定め。
自分は稼ぐ力はないのに男には稼ぐ力を求める、そんなマインドが婚活女性の普通にいる(男は知らんです)。
↓が、その考え方が伝わる良い例だと思うよ。
視界に入ることすらない男たち
https://anond.hatelabo.jp/20240505185638
あなた何様ですか…という感じ。
あーそれで俺短歌は好きだけど俳句にはあんまり興味わかないのかな。風景とかどーでもいい。人間の情念を味わいたい。マンガ読んでも「そんな背景とかに力入れるくらいならもっと恋愛とか人間のドロドロに力注いでよ」って思うもの(まあ背景はアシスタントが描いてるかもしれんが)。
新宿でなにすんの?
まさかとは思いますが、この「弱男」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。 もしそうだとすれば、あなた自身が統合失調症であることにほぼ間違いないと思います。
GWが終わったよ。
心配していた体調は崩したりしなかったよ。
部屋の大掃除は部分的にできたといったところ。一角はなんとかできたが、残りがまだまだ。
英語の勉強も部分的にはできた。金のフレーズを3/4周程度行った。正直、量としては想定よりかなり少ない。
体を鍛えるトレーニングも結局、腹筋のような無酸素運動は全く行わなかった。ウォーキングはそれなりにできた。以前より遠出もできたし。
総合してみると程々には充実できたとは思う、外形的には。
内面の話をする。
連休中に昔の3DSソフト(バッジとれ~るセンター)の動画がYouTubeのお勧めに上がって来たので見た。
当時たくさんやったが、今はもうサービス終了してデータも残っていない。
あんなにたくさんやったのに、全く形に残っていないことに無常感が込み上げてきた。
むなしい。
弱男、弱女は認知が歪みすぎててもうどうしょうもない奴らばかりだな。自分がおかしいわけではないとするためには周りがおかしいと思わないとやっていけないからなんだろうけど
初めてAV見たとき、女優が割と肉付きのいい人で感心した記憶がある
服着てるときは標準よりやや細いぐらいの見た目なんだけどね
なぜなら、両者は表現のアプローチが正反対だからだ。短歌は風景と言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである。
アプローチが反対であるということは、目的地は同じということだ。
「短歌は風景を使って己の情念を表し、俳句は己を使って風景を表す文学」としたのでは経路も目的地も違うことになり、何が何だかわからない。
「自分はこんなふうに世界を眺め体験している」と語ることは、そのように生きてある自分自身を噛み締め味わうことである。
本質は同じなのだから違いは技術的部分にしかない。俳句と短歌が相容れないなどというのは半端にかじったゆえの思い込み以上のものではないだろう。