はてなキーワード: スクェアとは
2012年12月、私は21歳だった。私は失恋して、一人でクリスマス休暇中にニューヨークに来た。ギザギザした気持ちで、寒い街をくまなく歩く。人はきっとこれを傷心旅行と呼ぶんだろうな、と思った。
バラク・オバマ大統領が再選が確定して、世の中はひと段落し、クリスマス休暇で街中がウキウキしていたのをよく覚えている。
ニューヨークはその年暖冬だった。街に雪は降っておらず、大学のトレーナーと、ZARAのダッフルコート、リーバイスのジーパンを履いて街をうろうろしていた。それで十分な寒さで、ニューヨーカーに良い時に来たね、と言われた。
ニューヨーカーはみんな洗練して見えた。少し、日本に似ている。少なくとも私が長くいたカルフォルニアよりずっと。太っている人が少ない気がする、とタクシーの運転手と話した。みんな歩くからね、と彼は話す。ニューヨークは交通の便が良いようで悪いから。
MoMAにムンクの絵が来ていた。それから、グッゲンハイム美術館にはビカソ。芸術の面では世界で一番恵まれた街の一つだろう。美術館には少しドレスアップして行かないといけないのに、私はトレーナーできて少しばつの悪い思いをした。ダッフルコートがあったら、少しましだっただろうに、クロークに預けてしまった。MoMAのゴッホの絵は、荒々しい筆致でところどころに筆の毛が油絵の波の中にまじっていた。本でしか見たことのない絵に私は興奮したけれど、元恋人と一緒に見た気のする絵だったので寂しくなる。横にいるはずの人の不在が私を虚しくした。
本当は、彼と一緒に来るはずだった。私はその気持ちを振りきってにピカソの白黒の絵の前を通り過ぎる。グッゲンハイム美術館は、らせん状の作りになっていて、ピカソのデッサンや下書きばかり仰々しく飾ってあって私は不満に思った。
夜は一人でホットドッグを食べた。一人旅なのだから、無理してお洒落な店に入る必要もないし、お腹を少し満たせるならそれで良かった。一緒にいる人がいないと、人は自分を粗末にする。夜のニューヨークは一際しんと、寒かった。眠らない街と言うけれど、意外と夜は静かだった。
翌日も、前日と同じくらいの気温だった。メトロポリタンミュージアムの前で、イタリア系の画家と少し話した。絵を書いてるんだ、僕のアトリエに来ないかい。私は頷いた。マンハッタンを出て、クイーンズに行く。私の英語が訛っているのをからかわれた。あまり綺麗な英語を使えている自信はない。アトリエは沢山の絵があった。マチスに影響を受けていると彼は話す。家と隣接していて、君の絵を書きたいなと言われたけど私はかぶりを振る。あまり長く、ニューヨークにはいない。彼はそれでも私を椅子に座らせて、素早くスケッチをした。彼のノートの上に寂しそうな顔をした私の顔がのっている。似てる、と笑ったら、君を描いたからね、と真剣に答えられて辟易した。
彼の家でお菓子をごちそうになる。甘いチョコレートケーキだった。赤いソファに腰かけた。ピカソの絵の赤いソファは、安らぎを意味する、という話をした。ふと、彼が急に怒りだした。君は今、君の元彼氏のことを考えているんだろう。私は、違うと言おうとしたけれど、止めた。
赤ワインを飲んで、私は彼と別れた。駅まで送ってもらった。また来てね、と言われて私は手を振る。携帯番号を教えたけれど、多分きっと、彼にもう会うことはない。
マンハッタンのホテルに戻って、倒れこむように寝た。思ったより疲れていた。
翌日はふらふらとミュージカルを見に行った。タイムズスクェアは騒々しく、買えたチケットはミュージカル版スパイダーマンだった。一人で見る、とチケットブースのおばさんに行ったら、一人なら良い席があると言われて、格安でその席のチケットを買うことができた。開幕まで時間があったので、トイザラスの2階のガラス窓に寄りかかってタイムズスクェアを眺めていた。クリスマスが近いからか、トイザラスは人でごった返していた。
手元の携帯のプリペイドが、もう少しできれてしまう。私は更新しようと思ったけれど、やっぱりやめた。どうせなら買い直して、新しい番号にしようと思った。ミュージカル版のスパイダーマンは思ったより良かった。
翌日、私はニューヨークを去った。ロサンゼルスで熱を出して、ボーっとした頭のまま、ニューヨークにいた時間のことを考えた。携帯は鳴らず、最後に母に電話して、ゴミ箱に捨てた。
http://anond.hatelabo.jp/20081221200806
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http://blog.oowarai.com/?p=549
ここら辺の勉強が出来ると頭が良いの関連について
まず第1に当たり前の話だけど、これがポジショントークになる事を断っておく。
凄く単純化して考えた時、学歴が高くてそれをアイデンティティに持ってる人はどれだけ自分の身を削って客観的になっても「勉強が出来る=頭が良いと言う」方向に議論を進めたくなってしまうし、自分の利益を最大限にする方向としては間違ってない。逆もまたしかり。
そもそも、勉強が出来るor出来ないと頭が良いor良くないと言う2つの事象が相関するのか逆相関するのかと言う議論は2×2のスクェアを作り、一つ一つのスクェアについて自らの主観を徹底的に削って考えないととも思う訳で。勉強が出来るけど頭が悪い人をいかにこき下ろしてもそれは4分の1以下の議論しか満たしていない。
まぁ、そんなメタっぽい「オレってちょっと頭良いでしょう?」的なのは明日読み直して恥ずかしくて悶々としてしまうから読み飛ばしてください。
後、勉強が出来るとか頭が良いとかコミュ力とかそこら辺きちんと定義してないので何が言いたいか意味が分からないと思います。要は流れに乗じて自分語りをしたかっただけ、そんな風に思ってください。
こっから自分語りです。
自分はまぁ小学校の頃はちょっといる勉強の出来る子だった。年齢は30弱位なんだが、自分らの小学校の頃は受験塾として四谷大塚と日能研が勢力2分していて、後は模試として四谷大塚を使い、普段は自前のテキストで教えるみたいな準拠塾と言われる予備校が多かった。で、中堅所の四谷大塚準拠塾みたいなのに行ってたのだけど、まぁまぁ出来た。勉強は全くしなかったけど、何故か算数は出来たし家ではほとんど勉強しなかったし、算数以外の授業の時はずっとドラクエ3のパーティーをどんな風に転職させて最強の編成を作るかをずっと考えてた覚えしかない。
で、幸か不幸か一応、都内で偏差値的にはトップクラスの中学に進学。東大進学率が5割以上とか言う嫌味な所だ。
中にいる人は変な人ばっかだった。もちろん自分の様に勉強が好きでも無いけど、何か良くわかんない受験的な方向性みたいのにたまたまマッチして受かっちゃったみたいな人もいた。ましてやコミュ力については自分も含め最底辺クラスの人は多かったけど、「全くのバカ」って言うのは1人も出会わなかった、自分がバカ過ぎたのかもしれなかったけど。
中学入って、親が自分の子供がそんなトップクラスの進学校に行った事に舞い上がったのと、親自身が受験の事を何も分かっていなかったので鉄緑会と言う、これもまた御三家とか新御三家とかそんな風に言われる進学校の生徒達が東大理科3類とか文化1類とかの学生に授業を受けると言う何とも悪趣味な塾に通わされた。自分は中学1年から週2回通ってた。科目が増えるにつれ、最終的には週4回くらいかな?になってたと思う。
自分はそんなところに通わされてどうだったかと言うと、やはり授業中は当時はまっていた三国史でだれを離間の計で引き抜くかとか、ぷよぷよの連鎖をいかに効率良く組むかとかそんな事をずっと授業中考えていたし、アソコに毛が生えてからは、自分の学校にはいない女性とに対してずっと卑猥な妄想をしているだけだった。
そもそも鉄緑会と言う所が、「みんな東大行く雰囲気」と「殺人的なまでの宿題量」を売りにしている所で、自分は全く宿題と言うものをこの方やったこと無い(これは高校3年までそうだった)ので、もう高校1年くらいの時は200人くらいいる同級生の塾生の内、下から一桁みたいな学力まで落ち込んだ。
親は子供への干渉の仕方が分からない感じだったから、理系だったら資格があると安心だから医学部に行って欲しいみたいな事言ってたけど、親自身も受験勉強の経験が無いし、塾には行けと言うけど悪い成績が帰ってきてもそれで叱咤したりするでも無いし、正直困ったし心配だけど、どうしてあげれば分からないしなーと言う感じの放任だったのでは無いかと思う。
当時の自分はと言うと酷い非コミュだったのと自分との趣味を分け合う人がいなくて、自分が読み終わったナポレオン文庫やエロ漫画を出席番号近い人に売ったり、録音したオールナイトニッポンを倍速で聞きながら、「自分はゆずがデビューする半年前からラジオで彼らの事を知ってた」とか「ブギーポップは1巻からジャケ買いしたね」とか心の中で思いながら、それを吐露する人もいなくて、ただただ毎日が辛い中、渋谷のゲーセンで格ゲーをやりながら暇を潰していた。
もちろん等しく決断の時と言うのはやってくる訳で、同級生の東大合格率が50%と言っても、自分が2回に1回東大に受かる訳もない。それに、自分の将来なんて全く考えたことも無かったから何となく医学部志望って事にして1浪はしたもののそこで心を入れ替えた訳でも無しに何となくまぁまぁな医学部に進学した。
その時点で19か。大学1年の時に自分の中高時代を振り返って、何にも思い出せなかったのを覚えている。要はそれだけ日々は塾からの逃避とゲームと性欲だけだったし、友達もいなかたし、嫌々塾に行きながら宿題を全くやってこなくて怒られるのをヘラヘラ笑って過ごし、対戦ゲームでちょっとした虚栄心を満たし、それでもゲームが決してそこまで上手いわけでは無い、ほんとつまらない人生だったのだと思う。そして、「このつまらなかった人生があったから今の自分がある」なんてメタな視点を持てる事も無い位、本当に無駄な時を過ごしただけだったのだと思う。
大学入って、非コミュであるにも関わらず「環境が変われば、自分に対して反転している社会も少しは自分の方向を向いてくれるんじゃないか」なんて思って色々イタイ事をしては撃沈の繰り返しだったが、何か具体的なエピソードがあった訳も無いけどコミュ力が向上した。おそらくはバイトとか、部活とか「あるテーマがあるコミュニティでの会話」については受験的な分析力を発揮してればまぁまぁ会話が進むため、ある程度そこでコミュ力が付いたのだろうと何となくは思う。後はバイトの接客が強制的に強コミュの鎧を演じる必要がある感じだったし、先輩にコミュ勝者が多かったのでそれを真似したりした。おそらく20の時はアスペであった自分も今いる職場で同僚や、上司、部下に対して評判が良いし、可愛い彼女も出来た事もあるし、ある程度コミュ強者な気がする(これを客観的に表現出来ないのが申し訳無い)
何というか、失われた青春時代を思い出しては主観的に凄く落ち込むし不幸だなーって思う事があるけど、今の自分は給与的にも地位的にも対人的にも客観的には凄く恵まれている。救いの無いバカだったしアスペだったけど、勉強を惰性でやっていたからある程度は幸せな所に落としどころを持ったんじゃないかなんてのも思う。少なくとも19で社会に出たらヤバい事になっていたのは確信を持って言える。
勉強を惰性でやっていたからある程度は幸せな所に落としどころを持てた、大事な事だから2度書いたけど、そういう人、hatena村の外には凄く多いんじゃないか。そんな事を思い、書き始めたら何か脱線してしまいました、すいません。
後、完全に蛇足だけど僕ら学術的な分野で言えばコミュ力があるだけの人がちょっとしたpaperをまとめると本当に勉強が出来ないんだなって言うのを感じる瞬間があります。そういう人は幾ら口が達者で一般事務的な事が出来ても自分の中では全く尊敬出来ないんです。
たとえて言うなら凄く物腰柔らかで、他の病院への紹介とか診断書作成とかを面倒臭がらずにやってくれる良い先生、サービスが凄くお上手な先生、そういう人達が医学的には凄くレベルの低い事しか考えられてない学術的にはダメダメ、そんな場面に良く出会うのです。
と、題名だけ非モテ論に首を突っ込んでみるよ。
さて今まで自分は「音楽はとりあえず何でも聴ける」人間だと思いこんでいたんだが、実は「音楽趣味がロートル」であったことが判明し始めた。だって今頃フュージョン(しかもT-スクェアとか)なんて聞いてたりするし、Napsterでエイジアやらヴァン・ヘイレンやらビーチボーイズを落としたりするしなぁ。チューリップなんてほぼ全曲落としたし(チューリップは全然聞いてないけど。いつかきちんと聴こう)。
そんなロートルなアーティストや曲やジャンルに惹かれ続けるせいで、恥ずかしいけど今のヒットチャートがどんなんなってるか全然わかんねぇ! 倖田來未を「でんだまお」って読んでたし(イヤ何年か前いたんだよ「でんだまお」って人が。漢字でどう書くのか失念したけど)。今でも倖田來未の曲はキューティーハニーのカバーしか知らない罠。
でもヒットチャートを知らないってのは自慢にはならないよなぁ。それでどうなるという訳ではないようなものなんだろうけど…