すっかり忘れていた肌の感触、温もり、甘美な臭い、もう何年も遠ざかっていた。
夕暮れの寂れた飲食街、私は途方に暮れ俯きかげんに歩いていた。
仕事が上手くいかず、周囲からは冷たい目で見られ、罵りの言葉さえ投げつけられていた。
アパートに帰っても真っ暗な闇が待っているだけ、特に腹が空いたわけでもなくどうしようかと思案していた。
ため息をついてふと顔を上げると、寂れた飲食店と飲食店との間に、狭く薄暗い階段が有る事に気付いた。
階段の下にはぼんやりと灯りの点いた、看板というにはあまりにもみすぼらしい電飾看板が置かれていた。
この店がいつからここにあったのか、何の店なのか全く分からなかったがなぜか気になってしまった。
腹が空いているわけでもないけどちょっと覗いてみようかな、軽くなら食べられない状態では無いし、
一杯引っ掛けるのも悪くはない、高級な店などあり得ないだろうし...
右手にボロボロの扉が有ったが摺硝子の様なものも無く中の様子を伺う事も出来ない。
薄っすらと空いた扉の隙間から中を覗いてみようとすると、中から「どうぞ」と女の声がした。
恐る恐る扉を開けると、老婆が低い椅子に座っていた。
飲食店でも無ければ酒屋でもなかった。
その女はゆっくりと立ち上がると靴を脱いで上がるように下駄箱を指さし、奥の方へとゆっくりと歩きだした。
二、三歩先で立ち止まり、ついて来いとばかりに振り向き、私はついて行ってしまった。
ここが何の店なのかもわからずに入ってしまったが、所謂「置き屋」だったのか。
ここは埼玉、以前横浜に有った「ちょんの間」のようなものが有る地域ではない。
西川◯のソープランドには行ったことが有ったが、それ以外の風俗を知らなかったので、なかなか状況を飲み込めなかった。
老婆が奥の間の扉を開け中に入れと指さすその先には低いベッドが有った。
中に入ると古い蛍光灯は暗く、狭い部屋を一層狭く感じさせた。
気が付くとエアコンが低く唸っていて、暑くも寒くもない状態になっていた。
ベッドに腰をかけてボーっとしていた。
何分経ったのか、何十分経ったのか分からなかった。
音もなく扉が開く気配だけが有って、ビックとして顔を上げると、若い女が立っていた。
若い女は扉を閉め私の横に座った。
「時間は気にしなくていいの。ここでは時間が止まるのよ。」と小さいがはっきりとした口調で言った。
言葉は澱みのない日本語なのだが、この若い女が日本人なのか、中国人なのか、東南アジア人なのかよく分からない、
肌の色は白というよりは薄っすらと赤みを帯びた薄いピンクの、まるで生まれたばかりの赤ん坊のような肌の色だった。
それまで気が付いていなかったが、入り口を入ってすぐに狭い扉が有り、シャワーだけのユニットバスの様な物が有った。
もう分かっているのに何故か事情を呑み込めずに戸惑っていたが、自ら服を脱ぎシャワーに向かった。
シャワーから出ると若い女はバスタオルを差し出し、今度はその女がそこに入って行った。
若い女は服を脱いで体にバスタオルを巻いていたが、とても綺麗な躰のラインを感じた。
胸のかすかな膨らみはBカップ程度であっただろうか。
躰を拭いてベッドに横たわって暫く横になっていた。
裸でいても不思議なほど寒くも無ければ暑くもなく、いつの間にか眠ってしまった。
何分経ったのだろう、ふと気が付くと狭いベッドの私の横に若い女がぴったりとくっついて横になっている。
すっかり忘れていた肌の感触、温もり、甘美な臭い、この薄暗い部屋が急に明るく感じるように、頭の中が明るくなった。
私は左腕を若い女の首に回し、右手で女の腰を引き寄せて、自分の体に密着させた。
もう頭の中はこの若い女の事で一杯で、他の事等何も考えられないどころか、何も浮かんでこなかった。
若い女の首筋、背中、尻、乳房、脚、絹のように滑る肌の全てを撫でまわし愛撫した。
私のハードな部分が若い女の太腿と自分の下腹部に挟まれ汗ばんで お互いの躰に密着していていたので、
そこからゆっくりと剥がすよう、躰を動かした瞬間、果ててしまった。
遅漏で女性に嫌がられる事もあったのに、挿入どころか柔肌に触れただけで果ててしまったことが最大の驚きだった。
私はそれを拭い去る事もせずに、若い女を抱きしめた。
若い女は「フフ」とだけ小さな声を出すとティッシュの箱に手を伸ばし、拭い取ってくれた。
私はそれからも躰を離す事無く抱きしめ、指先で愛撫を続けていた。
時間の感覚が全く失せてしまい、何分経ったのか何時間経ったのか分からなかった。
若い女は私の上に乗り、私のハードな部分に避妊具を装着し、彼女の中心部分へと導いた。
人生でこれまでに経験した事の無いような快感が、彼女の良い臭いと共に波のように押し寄せて来る。
ゆっくりとしたリズムで体を動かし、体位を変え、またゆっくりと...何度も何度も繰り返し、また果ててしまった。
横になったまま若い女を抱きしめ、何もせずに、何も考えずに、いや、何も考えられずに茫然としていた。
若い女が「時間は気にしなくていいの。ここでは時間が止まるのよ。」と、さっきと同じ言葉を放った。
私の心の中になぜか帰らなければという焦燥感のようなものが湧きだしてきた。
「貴方が逢いたいと思えばいつでも逢えるわよ。」
「本当ですか?本当に逢って頂けるんですか?」
「ええ本当よ。」
「あの、聞いていませんでしたが、お金は...」
若い女は首を横に振り、「ここではお金と時間は存在しないの。」と言った。
若い女は私の頬に軽くキスをすると起き上がって体にタオルを巻き、シャワーへ向かった。
私には何がどうなっているのか全く理解できなかった。
その後で私もシャワーを浴び、身支度をしてその部屋を出ようとした時、
若い女は私にもう一度キスをしてくれた。私は離れたくなくて抱きしめた。
帰らなければいけないという焦燥感にかられ、ゆっくりと廊下を歩き、玄関で靴を履いてふり返ると、
玄関の扉を閉め階段を下りて飲食街の通りに出ると、階段を登る前と同じような薄暗さだった。
狭いアパートのベッドに横たわり、つい先ほど抱いた若い女の事を思い出していた。
何も聞いていなかったし、店の名前も何も覚えていなかった。
確かにあのスタンド式の電飾看板には、何の文字も書かれていなかったし、入り口の扉周辺にも何も書かれていなかった。
不思議だ、何故何も書かれていなかったのだろう。
安いウイスキーのハイボールを煽りながら、あの出来事を反芻してみるが、何もかもが不思議だった。
朝、いつものように目覚まし代わりのラジオで起きた。決して寝覚めの良いものではない。
いつものように出勤し、いつものように仕事し退社の時刻となった。
昨日は茫然としながら帰宅の道を逸れて飲食街へと向かった事を思い出し、昨日のあの店に行ってみようと思った。
いつでも会える、確かにそう言ってくれたが、きっと営業トークだったんだろうと考えた。
でも料金が発生していないのに営業トークって有り得るのか?と今ここで気が付いた。
寂れた飲食店と飲食店との間に、狭く薄暗い階段が有るはずだった。
無い。
200Mも無い寂れた飲食街の通りを二度も三度も行き来しても、何処にもあの階段は無かった。
私は心の中で狼狽していた。40を過ぎた男がいったい何をしているのだろう。
たまにしか入る事のない酒を提供する古くからある食堂に入り、しょうが焼き定食と瓶ビールを頼んだ。
この商店街で飲食店と飲食店との間に階段が有って、その二階で何かのお店をやっているところを知りませんか、と。
「この辺の商店街は、みんな内階段があるだけで、外に階段が有るところなんて無いよ。
私はここで40年もお店を開いてるけど、そんなとこ見たこともない。」
昨日は酔っぱらっていてわけでもないし、地元ではないよその街へ行ったわけでもない、何処だったんだろう。
まさか寝ぼけて夢でも見ていたのかと考えても、自分の脚であの店に行き、自分の脚でアパートに帰った事を覚えている。
味のしない晩飯をビールで流し込み、アパートに帰ることにした。
頭が混乱し、何処にも居場所が無いように思えてきた。
とぼとぼと俯き加減で歩き、アパートに辿り着いた。
その時死ぬほど驚いた。
今までこのアパートで見たことのない、狭く薄暗い階段がアパートの横に付いている。