価値観ずれで合わない作品というのはどこにでもあるよね、レ・ミゼラブルやフランダースの犬みたいな受難の末に死ぬ話ってキリスト教圏ではキリストの受難に根源がある素晴らしい物語として評価する人とハッピーエンドじゃないから受け付けない人がアメリカには普通に居る。
キリスト教の教義的にネロとパトラッシュは本当に天国に行けたのであろうかという疑問を提示して始まるのが指昭博『キリスト教と死: 最後の審判から無名戦士の墓まで』中央公論社2019年である。大変読み易い一冊でオススメである。
傍受だけなら合法
バグじゃないんだよなあ
やめろー!ごんを殺すなー!!
というかすでにある程度はそうなってる。
仕事を奪われたなら、その仕事が生産したものは誰が消費すると思う?
資産階級が生産インフラを独占したって売り先がなきゃ意味がない。
社会主義を自由と対立する窮屈な世界だという印象を持っている人は多いが、それは十分な生産能力がないからなんだ。
誰もが十分に豊かに生きられるだけの生産能力があるなら競争原理が介在する意味がなくなっていく。
資本主義が成熟した果ての社会主義はそんなに悪くないはずなんだ。
ま、そうなるまで豊かになり続けずに衰退するのが世の常なんだがね。
それでも一つ、分かっていることがある。
都知事選では誰に投票するのがいいやらどうこうと増田でも話題になっているが、彼らは自分たちが投票をする時点で満足してしまうってことにはまるで気付いていない。
誰誰に投票して、世が良くなれば「ほら、俺の言った通りだ!俺が正しかった!」と胸を張り、逆な結果になれば「あーあ、だまされた」とそれだけだ。
そこには真剣に、今の世の中をもっと良くしたいなんていう思いは微塵もなくて、ただ単に選挙をエンタメ化して楽しもうっていう魂胆しかない。
本当に今の世を少しでも良くしたいと考えるのなら、変えるべきは政治家や都知事ではなく自分であることに一体いつ気付くのだろうか