羽生善治氏が最年少四冠を達成した際「この記録は今後破られないだろう」と考えていた、私を含む多くの将棋ファンには時代の変遷を感じざるを得ない圧倒的な出来事である。
このあまりの出来事に、感動のような、動揺のような思いが溢れているため、ここに思いを記します。
私は30〜40年来の将棋ファンで、将棋好きが高じて一時期は詰将棋の本を出したり将棋に関する雑誌の編集を行ったりしていました。
私が将棋に魅力を感じ始めた古い時代、将棋は、武士道に似た雰囲気をまとっていました。将棋で生きていくことを決めた少年たちは先生に弟子入りし、そこで修行をします。修行は先生による直接の将棋指南や、高弟による指南や将棋研究会などです。しかし当時の「修行」にはこれ以上の意味があり、掃除炊事や規則正しい生活をして礼節を学び、人間としてより良い生活を送ることで次第に将棋も強くなっていく、という考えがありました。ある先生の元では将棋の戦略ではなく駒の持ち方や打ち方を教えていました。ここで言う打ち方とは「どこに銀を打つか」といった意味ではなく、「駒を自分の指でどのように持つか、どのような姿勢で盤面に置くのか、どのように盤に置くと美しい音が出るか」などです。
今となっては「そんな馬鹿な」と思われるかもしれません。確かにその通りだと思います。しかし事実として、当時は「それが将棋道である」と受け入れられていましたし、我々将棋ファンは将棋道には武士道のような美しさや儚さ重ねて見ていました。そういう時勢もありトッププロの対局には真剣勝負のような凄みを感じていました。対局でのタイトルを獲った獲られたというのは一つの側面でしかなく、「人生を将棋に賭けた人同士の決戦」という神聖さを重ねていました。
やがて将棋界にコンピュータの手が伸びてきました。生き方としての将棋ではなく、ゲームとしての将棋が世間にあふれるようになりました。この頃、私は「これで将棋ファンが増えるぞ」と思ったものです。そうして確かに将棋はより一般的になりました。しかしコンピュータの成長は早く、あっという間に「人間を超える」と危惧されるようになったのです。そうなるとコンピュータ将棋の歓迎ムードは薄れ、「人間より将棋が強いコンピュータなんてありえない、人間の尊厳を脅かすな」という反コンピュータ将棋ムードもにわかに盛り上がりました。コンピュータ将棋は、将棋道ではない。人間がその人生を賭して将棋一本で生きてこそ、強く儚く美しい盤上の物語が生まれるのではないか。そう思っていました。
古臭い将棋ファンが将棋道に夢見ていた頃、そして羽生善治氏が竜王位を獲得した頃。当時は日本国民全員が「最強は羽生善治」と意見が一致していました。そんな氏が「将棋は完全なボードゲームである」と発言したのです。これは衝撃でした!薄々感づいていたことをついに言ってのけたのです。図星を突かれたとはまさにこのことです。「何を当たり前のことを」と思う人がほとんどでしょう。しかしそれは、古い将棋道から脱却し純粋に将棋の強さのみを求める、新時代を作る言葉だったのです。当たり前だろうというファンが多数でしたが、中には「古き良き将棋の時代は終わった」と落胆する将棋ファンもいました。
そして時代が経って2012年、米長邦雄氏がコンピュータ将棋で破れました。とてもエポックメイキングな出来事でした。いつかこの日が来ることはわかりきっていたにも関わらず、やはり衝撃でした。2017年に AlphaGo が柯潔氏を破った時と同じような衝撃、と言えば最近の方にも伝わりやすいでしょうか。今となっては馬鹿げた考えですが、「人間が紡ぐ盤上の物語は、もう終わるのではないか」。そんな考えも頭を過りました
そこから更に時代が経ち、2021年。将棋盤の底まで読んだ加藤一二三先生もいなくなりました。今の時代に人間がAIに勝てると思っている将棋ファンなど一切いないでしょう。将棋中継ではAIによる優勢判定が表示されることも、プロが計算力の高いコンピュータを導入することも、それからプロが将棋研究のために Python コードを書くことも、当たり前の時代です。コンピュータに負けて激変するかと思われた将棋界は、以前の美しさをほぼ保ったまま、コンピュータを駆使してより進化していました。「ほぼ」と書いたのは、本当にごくわずかながら、古い時代の将棋を懐古するからです。将棋の強さの観点ではもちろん現代の方が良いに決まってますが、あの時代の、人生・生き方・名誉を賭けたような勝負をたまに懐かしく思ってしまうのです。
藤井聡太氏が十代でありながら竜王位を獲得しました。前人未到で誰にも破れないと思われた羽生善治氏の記録は、30年弱で破られました。藤井聡太氏の圧倒的な強さ、それはまさに新しい風のようで、将棋界が非常に盛り上がっていることをとても喜ばしく思います。
藤井聡太氏はとあるインタビューで、「AIが発達する今、人間の棋士の存在意義は?」と質問を受けました。正直に言えば、私はこの質問は「意地悪な質問だな」と思いました。10年前じゃあるまいし、今さらAIと対局したところで、どうにもならないじゃないか。将棋界はAIと共存してより良い形になっているではないか、と。前述の通り、コンピュータの猛烈な強さにはほんの一抹の寂しさを覚えていた私ですが、きっとそんな古臭い価値観を持っているはた迷惑はファンなどもう少ないでしょう。
これを聞いて、私はずっと追い求めていた答えをついに知ったような、そんな気持ちになりました。一瞬思考が停止しました。そして体の芯から熱のようなものがふつふつと湧き上がり、涙が溢れてきました。ああ、将棋ファンで良かった。何十年も将棋ファンで良かった。私の人生に将棋があって本当に良かった。腹の底からそう思いました。
「勝敗をつけるだけならジャンケンでいい」と言った羽生善治氏の言葉があります。これは勝敗だけでなく、人間が打った棋譜にも価値があると言っているのだと解釈しています。棋譜、それはつまり盤上の物語そのものです。私が夢中になった「将棋道」の頃の将棋、ゲームになった将棋、AIと共存した将棋。それらすべて、棋士の背景や時代も含めて、打たれた将棋の価値は変わらない。あの5二銀打が今後も語り継がれていくように、私が愛した対局はこれからもずっと愛していく。少々大げさな表現かも知れませんが、自分の人生を肯定されたような、納得がいったような、自分の心の暗い部分に温かな光が照らされたような、そんな言葉でした。
話が長くなってしまいました。古臭い将棋ファンの戯言として聞いて頂けたら幸いです。
【追記】
今もなお敗けたら人生が終わるギリギリの戦いをしているのが奨励会員だ。 ここには将棋≒人生という昭和の世界がまだ残っている。 奨励会の三段リーグを突破して四段になり、はじめ...
しかも自分より確実に弱いおっさんはプロとしてのうのうと過ごしてるんだぜ……
クソスレ!
内容に大きな問題がある訳では無いが、この作者は嘘をついている。 断言する。数十年来の将棋ファンが書いた記事ではないし、雑誌の編集や出版もしていない。 将棋を「打つ」「打...
将棋打ち警察です。 近年は「将棋指し」が正しく、書籍などでは「将棋指し」に校正されますが、 数十年前では「将棋打ち」も普通に使われていました。
将棋ファン以外が「打つ」を使うのは今も変わらんだろ。 ファンは使わないんだよ。昔から。
ABEMAトーナメントのインタビューで、谷川浩司が「美しい棋譜を追い求めるのも将棋だが、こういう形でみなさんに喜んでいただくのもいい」みたいなことを言ってたのが衝撃的でした。...
フェイクと見抜いた方が出てきたのでネタバラシします。 この記事の内容は全部嘘です。 https://anond.hatelabo.jp/20211114150350 将棋はやったこともないし、ルールもよくわかりません。 プロ...
本人なら元増田側に追記しなよ。
されてるぞ
すまん脊髄反射でトラバしちゃった
BigHopeClasic 「人間が打った棋譜」と書くあたりが、逆に「本物の古い将棋ファン」なのだなと思った。随所にん?と思うところがあるが、本物の古い将棋ファンとは「細かいことはええ...
でも「指す」と「打つ」はわかってて書いてそう id:BigHopeClasic 「人間が打った棋譜」と書くあたりが、逆に「本物の古い将棋ファン」なのだなと思った。随所にん?と思うところがあ...
あんたサイコーだぜ!
増田も年末に向けて過疎化してきてるな あんまり場図ってネーナ
死ねよ