はてなキーワード: フルメタル・ジャケットとは
はてなブックマーク - 最終的に主人公側が勝つ展開もお腹いっぱい 「どうせ勝つんだろ」と思った..
別増田だけど,参考になりそうなのでブコメに挙がっている作品をメモ.未完は除いたつもり(“結末”か分からないもんね).多分ネタバレ.
『エンダーのゲーム』の新訳を読もうと思う。十数年ぶりの再読だ。映画は観ていない。
この昼、原作未読のまま映画を観た友人と話した。ご多聞に漏れず評価はいまひとつだった。そんな彼に向かい、奥深さが足りないのはきょうだいの活躍がないせいだろうと言ったら、妙な顔をされた。
——あのとき、あれは『エヴァ』じゃなくて『フルメタル・ジャケット』なんだよと付け加えていたら、同映画好きの彼からは理解の意志さえ望めなかったかもしれない。
ゲームというのは運命の比喩だ。ゲームには規則(ルール)があり、そこには目に見えない支配者(ルーラー)がいる。『エンダーのゲーム』とは、エンダー=終わらせるものを名乗る少年が、誰かのルールで動かされた人生の終わりを求めて闘うという意味だ。
では何と? 憎き兄か、いじめっ子か、昆虫のごとき侵略者か、それとも戦争を強要するおとなたちか。——どれでもない。そんな単純な図式はこの世界にない。
ルールだけが意味をもつ世界に、命を与えられた子どもたち。生きるために従い、人であるために抗う。本当の敵が誰なのか、だれも教えてはくれない。どこまでも歪な世界に、しかし私たちは強烈なリアルを見つけ出す。
しかしそれを描き切るには、どうしてもきょうだい二人の活躍が必要だ。
そもそもエンダーはその生まれから、天才でないかぎり存在を許されぬ命だった。
先に生まれた二人の天才児。それに続くことを期待され誕生を許された特別な三人目(サード)。それがエンダーこと、アンドルー・ウィッギン少年だ。社会の規範はそれを望んでいなかった。両親もまた同じ。だからエンダーは徴用に応じた。戦争を終わらせるもの=エンダーとしての宿命を受け入れた。ほかの選択肢がなかったからだ。
そのきょうだい、ピーターとヴァレンタインは、常にその先行する分身としてエンダーの将来を写し出す。
兄・ピーターはエンダーの鏡像であり、エンダーが認めたくない自己像の投影である(ただし事実においてピーターはエンダーが思う類いの〝人殺し〟ではない)。
その野心が選んだ道は言論による人類の思想的支配だった。そうして自らの生を規定(ルール)したピーターはヴァレンタインを同志に引きこみ、一直線に権力の頂点である『覇王(ヘゲモン)』への階段を昇りきる。
十二歳のピーターも、また十歳のヴァレンタインも、電脳世界ではおとなと同じ。彼らはそれを最大限に活用する。『ピーターのゲーム』では、勝利することとおとなになることがイコールだ。だから彼は生きることにぶれがない。
けれどエンダーはちがう。おとなたちの期待は彼の意に反する行動を強いる。しかし彼が守ろうとしているのは道徳という、人として正しいあり方だ。
だからエンダーは悩み、もがき、ときに逃げもする。だが皮肉なことに、才気あふれる兄と姉による状況認識と優性の証明が、エンダーを戦争の英雄に縛りつける。
その姉・ヴァレンタインは慈愛の両腕と明晰な頭脳を持つエンダーの庇護者であり、最愛のひとだ。その両義性はやはりエンダーと相似する。エンダーが知らないことに、ヴァレンタインのなかにもピーターはいる——彼女もまたペンによって自らの有能を試すゲームに挑んでいるのだ。〝愛情深い〟姉に向けたエンダーの過剰な崇敬は、つまるところ自己愛への飢えに過ぎない。ヴァレンタインがエンダーの善良さに寄せる信頼も同じ。四年を経て面会する日まで、ふたりは驚くほど互いを知らない。
エンダーとヴァレンタインを通じて描かれるのは「人はいかにして殺戮者となるのか」ということだ。エンダーが戦争の術を学ぶのは侵略者からヴァレンタインを守るため。しかしヴァレンタインからの手紙によって彼女がおとなたちの側にまわったと認めたエンダーは、彼らを打ち倒すゲームに没頭しはじめる。やがてエンダーは彼らのルール破りに失望し、彼らのもとを離れる。彼女にふたたび声がかかるのはそのときだ。
ピーターとの言論活動によって政治的な人格を獲得していたヴァレンタインは迷わず務めを果たす。彼女もまたウィッギンなのだ。だが戦場に戻るエンダーのうちに『カサブランカ』のような義心はない。あるのはただ、生かすために殺すという戦争の矛盾そのものだ。勝利の丘に荒ぶ風は、きっと冷たい。そう確信するから、その先の戦いはどこか空疎に映る。
この凄惨な物語の結末は、赦しだ。自らの手で滅亡させた異星人たちの遺産から、やっとはじまるアンドルー・ウィッギンの物語。それは茨と十字架の生だ。偉人のままいることもできた。けれど彼は今度こそ選んだのだ。
パソコンの性能が限定されすぎていたがゆえに、無限の可能性を持っているように喧伝されていた時代だから――まあ大昔と言ってかまわないだろう。
俺はまるでチョコレート・バーを待ちわびるガキんちょのようにワクワクしていた。つまり、チョコレート・バーを齧る以外の道楽を知らなかったんだな。
「本名だけは伏せておけ。頭にwwwのつくキチガイ世界では住所と名前と性別と所属とクレカ番号は命と同等の価値を持つ。というか、それらはほとんどイコールで結ばれているといってもいい。だから、ガキども、何があっても自分を殺せ。生き延びたくば、な。ガチョウども」
教官が教練所で俺らを横一列に並べて、まず浴びせたセリフがこれだった。
正直なところ、そん時はまだ匿名でいることの重要性を俺たちはこれっぽっちも了解していなかったのだと思う。むしろ、教練所が『フルメタル・ジャケット』よりよっぽどお上品な事実のほうが驚くに値したし、記憶に残った。
匿名であることの重要性を心から理解しようがしまいが、俺たちはとにかく教官の命令に従った。第一に死にたくなかったし、第二に多少の危険をおかしてでもも俺たちはウェブの世界に居座りたがったからだ。初めてネットにつないで三日後には、もうチョコ・バーは俺にとって必須栄養素ではなくなっていた
ミッチェルが死んだのは、訓練も半ばに差し掛かったころだった。死因は炎上死。イナゴ共に本名を暴かれ住所を暴かれ姉を犯され両親を殺され家を焼かれ、ミッチェルはその中で灰になった。彼は自分から本名をイナゴどもに教えたりなどはしなかった。ただ、うっかり漏らした周辺情報からあらゆるプライバシーを同定されてしまったのだ。
教官はミッチェルの通夜で追悼の辞を述べた。ただ一言、「彼は運が悪かったんだ」と。そのとおりだ、とその場にいた俺たち全員は思った。ミッチェルは彼の「運」を己の力量で上げ下げする術を知らなかっただけだ。
訓練の終盤になると、もう一人残らず真理に到達していた。
「匿名であることが大事なのじゃない。俺たちが本名で活動するにはあまりに未熟だから、バカやってしまうからその自衛策が必要なだけだ」と。日本は未成年のありがちな若気の至りを笑って許してくれるほど、器の大きい社会じゃない。
それはそれでいい。社会ごと変革しようとしなくてもいい。まあ、たしかにいつか頭のイカれた改革者が出てくるかもしれない。だからソレは俺たちの役目じゃない。俺たちにとって重要なのは、そんな美しくも狭量な世界でどのように生き延びていくか、ということだ。
本当は、実名で活動してもいいのだ。住所や銀行口座を晒してもいいのだ。自分が守れるならば。失敗しないなら。仮に何かをやらかして攻撃をうけても、誰の助けも借りずになんとかできるなら。あるいは頼れる誰かがいるならば。逃げ切れるならば。
だが実際問題、俺たちの誰しもがそんな逃げ足がはやいわけでもないし、そもそもミスをおかさないわけでもない。一片のミスをおかさなかったとして、それでも食ってかかってくるキチガイはやはり一定数存在する。
ガキの未熟さの本質はミスの犯しやすさにあるのではない。打たれ弱いところにある。精神的に、あるいは社会における地位的に。そして、イナゴ共が大好物なのはまさにそういう、「やわらかい部分」なのだ。
教官についてある噂を耳にしたことがある。彼の息子はある有名私立大学に通う前途有望な文学青年だったらしいのだが、ふとした気の緩みでテストでカンニングまがいの行為をしたことをウェブで漏らしてしまい、運の悪いことにそれが当人の教授に捕捉されてしまった。
教官の息子はそれでその学期の単位を全部取り消され、自身は恥ずかしさとショックのあまり、大学を中退してしまったらしい。ひきこもりとなった彼が自室で首をくくったのは、それから半年後のことだ。息子の死がきっかけで、教官は若者たちにネットサバイバル術を教え込もうと決意したという。
今でもtwitterのTLを眺めるたびに、教練所を卒業した日のことを思い出す。
「貴様らはこの肥溜めを今日で卒業する! これからも匿名でいくか、それとも本名で生きるか、それは貴様らの自由だ! だが忘れるな! どちらの道を歩むにせよ……不運にあったときのためのリスクヘッジだけはやっておけ。死ぬな。生き延びろ。どんなことがあっても、だ」
「… in 5 seconds」(…を5秒で)シリーズ。しばしば5秒以上だったり5秒未満だったりするのはご愛嬌。
注意:どう見てもネタバレです。本当に(ryある意味虚偽の記述なので取り消し線引いておきます(汗
新作公開:anond:20070215222633
↑のリンク先が全く評価されない(涙)のでこっちを更新する方向に変更。