タイツ広告企画が炎上・謝罪した件で未だにモヤモヤする点がある。
タイツを着用しているイラストとタイツを着用しめいる商品広告・パッケージ写真の比較について、たまたま見かけて、数日納得がいってない指摘があった。それは、「公式がこの謝罪文を出すということは美脚を強調するタイツの広告はモラルに反している」というもの。
それは飛躍しすぎてはないだろうか?
というか、今回の件の問題点が明確になっていない。
公式の謝罪文では「一部のイラストに性的な描写を連想させるような不適切な表現」を認め謝罪している。
先程の指摘内容をこう捉えた。
「イラストに不適切な表現があったと認めるなら、商品広告写真も美脚を強調しているので不適切という主張になる。」
これは成り立たない。何故か。
それは、非常に曖昧な線引きだけど、「視点」と「演出」の問題だと思う。
結論から言うと切り取り方、ピントの合い方に今回は問題があったのだと思う。
私は広告に使用されている写真には「性的な描写を連想させる表現」を感じなかった。少なくともこの会社のものに関しては。
タイツを履いて体育座りをする人がいる。この人をどう切り取りどう演出したか。どう演出するように会社がブランディングしたか。そこに問題があったのではないか。
例えばタイツを履いて体育座りをする人がいる。魅力的に魅せるためにかなり際どいポーズをして、太ももまで見えているかもしれない。そういう被写体をどう切り取るか。
「性的な描写を連想させる表現」に関しての線引き。それは色々な要素が絡み合っているだろう。
・どんなポーズか?
・どんな構図か?
・どんなコンセプトか?
・どんな感情か?
・どんな表情か?
・どんな人間か?
・どんな世界観か?
・どんな状況か?
・どんな色合いか?
・どんな目的か?
「性的である」というのは、女性がタイツを履いているだけで性的と感じる人もいれば、パンツが透けていても性的と感じない人もいるだろうから人によるが、要は加減の問題だと思う。
同じ体育座りでも、
「タイツを魅力的に魅せる為のポーズの一環としての体育座り。その他の情報は一切排除されており質感もフラット。特定の人間の視点を感じさせない」ならどちらかと言うと性的ではないと思うし、
「日常生活の中でのチラリズムを想像させる状況としての体育座り。タイツの質感が目立つ。そのタイツを履く脚に注目している人物(絵の視点となる人物)を感じさせる」ならどちらかと言うと性的だなと思う。
商品パッケージの写真が性的だと感じなかったのは、「エロティックに」「フェチズムを強め」「性的に切り取ろうとする」意図がない、感じないだけである。撮ろうと思えば幾らでもそのように切り取ることができる。極端に寄った構図や光をバチバチに当てる、透け感を過剰に出すなど。「性的である」を基準にするならアダルトグッズのタイツのパッケージなどが参考になるかもしれない。写真でも分かりやすく演出はできる。やっていないだけだ。
逆に絵でも性的を感じさせないことは如何様にもできる。特定の視線を感じさせない構図、肉感を感じさせないラインや均一な質感。
今回話題となっているイラストは、そういう意味では性的に受け止められてしまう情報が比較的にあった、または多かったのだ。描き手の意識的/無意識的は置いておいて。
(尚今回の件は会社が性的な意図を発する絵を深く意識しないでPRに使用していたのが今回問題となっていると思う)
実際に今回話題となっているイラストの演出しているような状況、タイツがある意味魅力的に(肉感、透け感、チラリズムなどを伴って)見える瞬間。体育座り、パンチラ…などなどそんな状況は日常にも存在はする。存在自体は、している。
しかしタイツを履く本人が意図しないものは事故だ。ハプニングだ。
それはあまり…見るものではない。少なくとも「他者が見ていいもの」にはなっていないのだ。それこそモラル的に。
その瞬間を切り取り絵にすること自体が性的な目線を感じさせ、「一般的に見てはいけないものを見てる人」を想像させてしまう。それが嫌悪感に繋がるのではないか?
逆にタイツを着ている本人が意図して見せている瞬間(スカートをたくし上げる)などは、そもそものメッセージ自体が性的だと判断されてしまうのは仕方ないだろう。
ただライティングだの小道具だのモデルだの色々な工程を複数人で作り上げ撮影される写真より、全て1人で描ける絵の方が匙加減で演出をしやすいので、こだわりや意図が作品に反映されやすい。良くも悪くも。画面を魅力的に魅せようと感覚で演出してしまう傾向はあるのかなと思う。
絵では「ハイライトを足して立体感、艶感、肉感をかなり強める」「実際には目を凝らして見ないと見えないタイツの網目まで再現する」「タイツの反射光を強く入れ、普段は影になって隠れている部分まで注目させる」といったように普段ピントの合わない部分に、ピントをギリギリまで合わせることができる。その一定のラインを超えた異常ともいえるピントは、ある人によっては魅力で、ある人にとっては恐怖なのだ。
「性的である」「性的でない」「自然だ」「過剰だ」といった線引きは難しい。
そして、全てのものは誰かの視点で切り取られたものである。どんなに公平に見える統計だって、ただ適当に自分で撮った写真だって、必ず誰かが意図を持ち切り取った情報に過ぎない。
なんとなく撮った写真にも意図はある。なんとなく描いた絵が発するメッセージがある。
必ず全てのものがある一定の視点により切り取られたものであり、また意識的/無意識的に演出されているものだという事は頭の隅に置いておきたいなと思った。