彼は、私の第一希望の会社のリクルーターだった。彼は、いかに仕事が楽しくて、悩みが多くて、でも幸せに感じる瞬間があるかを、懇切丁寧に語ってくれた。最初は、「やっぱり社会人はすごいな」と思うくらいで、ことさら彼に惹かれていたわけではない。しかし、会社で働き始め、自社他社問わずさまざまな社会人に接するようになって初めて、彼のすごさが分かるようになった。会社の一大プロジェクトチームに彼の名前が載っているのを見たのも、一度や二度ではない。彼がいない飲み会だって、彼のことは度々話題となる。上司からの信頼も、部下からの尊敬も集めていた。
そんな彼は、全く違う部署に配属された私のことを、よく気遣ってくれて、ランチに連れて行ってくれた。飲み会で一緒になったときには、こっそり二人だけの二次会を行ったりした。いつも時間が過ぎるのを忘れて、話し、笑った。彼は、私のどんな話に対しても、たとえそれが私のプライベートな悩みであっても、一生懸命に聞いて、励ましたり、厳しいことを言ったりしてくれた。彼の一生懸命さが、心から嬉しかった。私は次第に、彼の一番弟子を自称しはじめ、彼もそれを笑って聞いてくれた。
私には遠距離の彼がいることはいたが、惰性で付き合っている状態で未練もなく、いつ明示的に解消するかだけの状態であった。一方、彼には付き合っている人はいなかった。会社の派遣の子と二人で繁華街を歩いていたという噂が流れて、落ち着かない日々を送ったこともあったが、どうやら発信源はその派遣の子本人であり、あえなく撃沈したというオチが遅れてやってきた。そういえば後日、そのことを彼にそれとなく聞いたら、「誘われたので御飯にいっただけだよ。美味しいお店だったから、今度連れて行ってあげようか」と笑って答えてくれた。この人は鈍感なのか策士なのか。
「海外赴任が決まった」。ちょうど1年前の今ごろ、残暑厳しく光溢れるテラスで、それ以上に明るい顔と声で、彼が教えてくれた。「まだ、正式ではないから、皆には内緒ね。でも、お前にだけは先に伝えておこうと思って」。彼は昔から海外勤務を希望しており、会社も彼に期待していた。したがって、そうなることは自明であったが、私は根拠レスに、そんな日なんて来ないと盲目に信じていた。単に、私の希望だけだったのだが。出発すれば、少なくとも5年は帰ってこない。「私も連れていって」というドラマみたいな言葉が頭に浮かんだが、現実的なわけもなく、そのまま脳の奥底に吸収されていった。「一緒に行こう」と言ってくれないかと念じてもみたが、テレパシー能力なんて突然身につくわけもない。精一杯の力を振り絞ってできたことは、「出発までに、二人でお祝い会をさせてください」という約束を取り付けたことだけだった。
ミシュランレストランの食事は、美味しさよりも、寂しさに満ち溢れていて、正直あまり覚えていない。彼は楽しそうに、これからどんな仕事をするのか話してくれたが、いつもは楽しい彼の話ですら、私の頭には響かなかった。デザートが出たところで、迷った末に選んだ時計をプレゼントしたら「向こうではこれを使い続けるよ」と言ってくれた。思わずお手洗いに駆け込んで泣いてしまった。でもおかげで、吹っ切れた。
お店を出て人影が途絶えたところで、前を歩く彼の手を引っ張って私にたぐり寄せ、耳元で、「ずっと好きでした。これからもずっと好きです。」と囁いてみた。あー、すっきりした。満足して、笑いながら身を離そうとしたら、予想外にも抱きしめられてしまった。「ありがとう。ぼくも好きだったよ」。そのままキスされた。一連の流れがあまりに突然すぎて、キスされている自分が自分と認識できていなかった。抵抗も目をつむることもできず、間抜な顔をしていたに違いない。理解が追いついてくると、今度は、今日は朝まで一緒かな、おしゃれな下着着ておいてよかった、なんて急に大人のことを思った。が、そのまま彼が手を引いて連れて行ってくれたのは、ホテルではなく、地下鉄の駅だった。そして、そのまま、家に帰った。
その夜のメールは、いまでも保存している。「お前のことは大好きだが、5年も離れて恋愛するのは無理だと思う。かといって、お前が会社を辞めて僕と一緒に海外に行くというのは、君のキャリアを殺してしまうし、それは自分がお前に言ってきたこと対する自殺行為だ。お前は一生の相棒だ」。文書で書くと言い訳っぽいが、就職前から私のやりたいことを聞いて応援してくれた彼の言葉に、ウソはないと思った。こちらだって、現実的に付き合えるなんて思ってもいなかったし、それ以上に、私の気持ちをきちんと伝えることができた満足感と、彼も私を認めていてくれたことが分かったという幸福感のおかげで、思ったよりもショックは少なかった。泣きまくったけど。
その後、彼が出発するまでの間、壮行会と称した飲み会が、数え切れないくらい開かれたが、私は一つとて参加しなかった。彼と会ってしまうと、泣けてしまうから、思い出してしまうから。私と彼の仲の良さを知っている人からは「あれ、行かないの?」と聞かれたりしたが、ごまかして乗り切った。彼からの連絡も、なかった。
そして、彼の出発前夜の金曜日。家に着いた22時ごろに「やっぱり、最後にどうしても会いたい」とメッセージが届いた。嬉しくて涙が出そうだったけど、いま会ったら、これまでの努力が水の泡と帰してしまう。「今日はだめなんです、ごめんなさい」と返した。「明日には日本を出てしまうので、今日が最後なんだ」「そうかもしれませんが、いきなり言われても無理です、ごめんなさい」というやりとりを繰り返した。そして、自分の心を落ち着かせるために、彼宛の手紙を書き始めた。いま泣いていること、一緒の時間を過ごせて嬉しかったこと、いつまでも応援していること。1時間くらいかけて書き終えたら、また泣けてきた。
そして、私は負けた。日付が変わるころ「明日の朝、泊ってるホテルに行きます。空港までお見送りに行かせてください」と返事をした。すぐに返事がきた。「いつでも待ってます」。
あれから数ヶ月。私の中には、新しい命が宿っている。その最中に今日は危険日だと伝え、お互いに合意の上だったが、まさか本当にそうなるとは。彼とはすぐに婚約をし、会社には「結婚し、出産します。会社は辞めません。」と報告。出産後に渡航して、彼と子供と3人でつつましい生活を行うつもりだ。会社は育休中に新しいポストを探してくれると言ってくれた。皆からは驚かれたが、少なからず「やっぱりね」と言われた。
脚色がどの程度されているのかも、また、現実に何が起きているかも分からないけが、こんな長文を書く増田さんは幸せなんだろう。よかったね。