あんたは客観視できてるの?
わけがわからんつーのは、言葉の意味がわからないんじゃなくて、
自分自身が反原発でもないのに反反原発に殺意をむき出しにして低レベルな罵倒をしまくる
っつーお前の立ち位置のことだよ。
幼稚園の説明会に行ったらいかにもライフハック(笑)大好きそうなパパが、シーンとした中で資料が配られた途端に爆音シャッター音を響かせながら、資料の写真を撮っていた。
まあ恐らくevernoteにでも保存するんだろう。
数年余命を伸ばすために莫大な医療費を使うぐらいなら、
決して否定されるべきではないと思う
自分ももし癌になったらそうするつもりだ
もともと反原発の言説流しててネットで壮絶にバカにされたんだろ?
そうでもなきゃお前のその異様な憎しみはありえねーつってんの。
大切な人を亡くしたことで、「人はいつか必ず死ぬんだなぁ」と、3年かかったけどようやく何となく納得することができたような気がする。
子供の頃は「死」が怖かった。死ぬのが怖いということよりも、抽象的な「死」=「無」への恐怖。よくあるやつだ。
大人になって、人は簡単に死ぬなんてことはできないんだということを知って、大切な人を永遠に失って、色々なことにあきらめがついた。
後ろ向きな、鬱な意味でのあきらめじゃなく、だんだん自分の鎧が薄くなるというか、感覚が雑になってきたというか、
まぁ最終的には死ぬんだから、今目の前にあるどんなことでも大体はオッケーだ、という感じ。
一方で、無への恐怖は減ってきた。
今まで生きてきた分が何となく積み重なってきたからというのもある。
その積み重なってきたそれらは、どうやら死んだところで「無」ではないと、
大切な人を見送って、この人の人生が「無」なんかであるわけがないと強く思って、納得できたような気がする。
まぁ、全部「気がする」だけなんだけどね。実感は、これからゆっくり死に向かっていく道すがらで、まだまだこれから少しずつ湧いてくるんだろう
同じような状況を体験したことがある
やられたことは決して忘れない
入社直後、俺にひどい事をした人間は、徐々に最初のようなひどい事はしなくなった
そのうち、時々飲みに誘ってきたりするようになった
「すみません、行けないので。ごめんなさい」と同じように3回断った
そしたら誘われなくなった
「俺はお前のことが嫌いだ。一緒に飯を食いたいなんてまったく思わない」ということを伝えることができたんだと思う
増田は表面的には穏やかにやってるんだろ?
えらいと思うよ