はてなキーワード: でんでんタウンとは
性能が高いが発火する“炎のCPU”
形を自由に変えてどんなコネクターも受け入れられる“水の端子”
あらゆるものを凍りつかせるが発火するPCならちょうどよく冷やせる“氷の冷却装置”
異空間にデータをほぼ無限に保存しかつアクセス速度を高めることで主記憶装置と補助記憶装置に分ける必要がなくなった“時空のストレージ”
禁断のPCパーツの消費電力に耐えうる電源容量を持つ“雷の電源ユニット”
炎のCPUの内蔵GPUにより生み出された画像を描写できるが輝度が強すぎる“光のディスプレイ”
一見黒すぎるサングラスだが光のディスプレイの光を程よくカットする“闇のPCメガネ”
この回のMVPは船木さん,竹内さんの2人。ともに初披露曲も含めて高いレベルのパフォーマンスを披露していた。特に船木さんの『もらい泣き』には本当に驚いた。
次いで岸本さん,宮本さん。岸本さんは『大阪で生まれた女』の謎のイロモノ感がなければ船木さん竹内さんに匹敵。宮本さんはとにかく全ての楽曲を「宮本佳林色」に染める能力が半端なく高い。
いつまでもひっぱるなよ。
中学2年くらいのときに、なんかしらんけどやたらでかい態度とるようになったら自然にいじめはなくなった。
具体的にいうとエロゲやりだして、蛭田主人公+ランスを意識して行動するようになったら、みんな普通に接してくれるようになった。普通かどうかしらんけど。
小学校??中学校の俺は喘息で運動できないしガリだし(それは今でもだけど)服はダサいし(親のセンスが)音楽知らないしダサ度100%を地で行く存在だった。はっきりいってこれはひどいタグが太字でつきそうな子供だった。唯一の救いは、頭の回転が速くて成績がトップだったくらいだけど、ただそれだけ。いじめられっこで性格がひねくれてたので、ものすごい人の嫌がる人間だった。
高校に入ると人間関係はすべてリセットされた。俺はまた一人になったのだけど、今度は学校1の変人みたいに扱われた。それは偏に俺がみんなに打ち解けようとしなかったんじゃないかと思う。とにかく、孤独な高校生活だった。
社会人になってやっと俺ハジマタ状態になった。接客なんて絶対できないと思ってたけど、コンビニバイトしてみたら意外と俺接客得意じゃんというのに気づいた。俺のテリトリーは当然日本橋でんでんタウンだったけど、学校が心斎橋にあったので学校帰りに日本橋までいこうとすると否が応でもアメ村やら心斎橋の商店街を歩かざるを得なかった。
人ごみにまぎれて歩いていて、ある日気づいた。「俺ずーっと下向いて歩いてるなあ」前を向いて歩くようにしたら、視界ががらっと変わった。世界が色鮮やかすぐる。一応18で道程は捨てた。それから5年、セフレだったり一番の女友達だったり最近じゃ飲み友達だったりした俺の初体験相手の女の子が来年結婚することになった。心から祝福してやりたい。つーかそういうゆとりが心にできた。
ファッションに興味を持つようになった。高校、専門学校まで親の買ってきた服しか着たことがなかった。そしてうちの親は壊滅的にファッションセンスがない。団塊のちょっと下の世代のファッションセンスのなさは日本を滅ぼすと思う。
ユニクロに行くようになった。デート先で適当に女の子に服を見立ててもらったりするようになった。心斎橋なんかでもたまに服を買うようになった。はっきり行ってブランドなんてものはまだまだ縁が無いけど、こざっぱりした格好は難なくこなせるようになった。女の子からも服装についてちょっとは評価されるようになった。
中学から高校にかけて、特定のミュージシャンに基地外のように傾倒していた。他のミュージシャンはつまらなかった。流行の音楽に背を向けて、コブクロとかモンパチとかのモテミュージシャンを授業中に聞いてるモテクラスメイトを僻んでいた。最近じゃテクノからレゲエまでなんでも聴くようになった。ショーンポールと初音ミクをごっちゃにして聞いている。
mixiで出身小学校・中学校のコミュがなかったので作ってみた。OB・現役が数百人もはいってくれて、特に人数の多い20代前半の俺の学年は頻繁に飲み会をするようになった。高校のコミュはいまいちなにもない。mixiができた当時はいろいろとやってたようだけど、俺は特に仲のいいクラスメイトもいなかったのでスルーしていた。もったいなかったと思う。そろそろふっきれてきたので、今度なにかあるときには参加させてもらおうと思う。
- 元々は材木商である「佐久間屋」に由来して「佐久間町」と言う地名であった。材木商は大火のたびに莫大な利益を上げており、火除けの町秋葉原らしい縁起である。現在でも秋葉原駅東側に「神田佐久間町」、「神田佐久間河岸」という地名が残っている。
- 後にこの地に勧請される「鎮火社」を人々が秋葉社と呼んだことから秋葉原(あきばはら、あきばっぱら)と呼ばれるようになる(上記参照)。
- 1888年 - 秋葉社が松が谷に移転。
- 1890年 - 日本鉄道の鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長。当初は旅客の扱いは無く、秋葉原貨物取扱所として駅の南を東西に流れる神田川から駅東側に割り堀を引いて水上貨物輸送への窓口となっていた。駅名をつけたとき「あきはばら」と誤植されるが訂正されずに今に至る。
- 明治中期から大正時代にかけ、秋葉原周辺は鉄道・都電など交通の便が良く、そのため、特に卸売業が発達し、秋葉原駅近辺に青果市場も開かれた。
- 1925年 - 秋葉原駅~東京駅間の開業により東北本線が東京駅まで開通。
- 1932年 - 御茶ノ水駅~両国駅間が開業し、秋葉原は乗換駅になった。
- 1935年 - 神田青果市場が設置される。
- 1936年 - 鉄道博物館(のちの交通博物館)が東京駅から中央本線万世橋駅(のちに廃止)の駅構内に移転する。
- 戦前から戦後にかけて - 地下鉄(銀座線)・都電・国電と付近で多くの鉄道・軌道路線が立体交差をしていたことから、鉄道・交通に関する子供向け絵本に、未来都市の象徴として秋葉原が描かれることがあった。
- 1945年の第二次世界大戦後 - 神田地区の闇市で当初電機学校(現在の東京電機大学)の学生のために販売していた真空管やラジオ部品など電子部品の店舗が総武本線ガード下に集まって、今日の電気街の基になった。
- 1960年代 - 高度成長と連動する形で、テレビや洗濯機、冷蔵庫など家電製品の販売店が多くなり、大阪日本橋のでんでんタウンと並んで日本有数の電気街の地位を築く。
- 1980年代 - ファミコンの普及に伴って、各種コンピューターゲームソフトを扱う店が増え始め、ゲーム関連の専門店も登場する。
- 1989年 - 神田青果市場が大田区(大田市場)へ移転。跡地は駅前広場・駐車場を経て現在の秋葉原UDXビル・秋葉原クロスフィールドとなる。
- 1990年代 - 家電製品の郊外型量販チェーンストアの台頭で、家電売り上げが減少。その種の電化製品販売を縮小してパソコン及び関連商品を扱う店が増える。
- 1994年頃 - パソコンパーツ(いわゆる「自作PC」の部品)を扱う店舗が増え始める。
- 1990年代後半 - コンピューターゲームの中で、美少女やアニメを扱ったものに人気が特化していき、秋葉系・オタクといわれる存在が注目されはじめる。
- 1997年7月 - 秋葉原駅前広場を会場にコンピュータ関連展示会「インターネットショーin秋葉原」が開催される。以後2001年まで毎年開催され、1999年からは「AKIBAX」の愛称がつけられるなど、秋葉原の夏の一大イベントとなる。
- 2000年頃 - メーカー製コンピュータの販売が縮小し、代わってアニメ・同人誌系などの店舗、いわゆる「オタクショップ」が増える。
- 2002年頃 - 秋葉原駅電気街口周辺にアダルト関連グッズ(AV・おとなのおもちゃなど)を販売する、いわゆるアダルトショップが進出。
- 2002年6月 - 安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例(通称千代田区環境保護条例)が制定。秋葉原のほぼ全域が路上禁煙地区に指定された。
- 2005年8月24日 - つくばエクスプレス秋葉原駅が開業。同時に、同駅東側に車寄せや駅前広場も整備された。
- 2005年9月16日 - 秋葉原駅構内の、旧貨物駅跡地にヨドバシカメラマルチメディアAkiba・タワーレコード秋葉原店が開店。
- 2006年3月9日 - 神田市場の跡地に秋葉原UDXビルが開業。秋葉原クロスフィールドがグランドオープン。
- 2006年5月14日 - 交通博物館が閉館。博物館は2007年、さいたま市に鉄道博物館と改称して移転予定。跡地の今後は未定。
- 2006年6月2日 - 仮称TX秋葉原駅開発ビルが着工。阪急電鉄がつくばエクスプレスから同社の駅周辺の用地を借り受けて建設・運営するターミナルビルである。2008年4月に開業予定。阪急系列のホテルremmがテナントとして入店予定。
- 2006年10月16日 - 都内で初めての区営有料トイレがJR秋葉原駅にオープンした。
- 2006年12月22日 - 2002年以降休止していたAKIBAXが「AKIBAX2006」として復活開催。
- 2006年12月31日 - JR駅ビルにあったアキハバラデパートが閉店。