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はてなキーワード: 漢文の素養とは

2022-12-04

anond:20221203191834

私は米国のある分野で有名な企業に勤めている。誰もがどこかで聞いたことある所だが職階も低く裁量も持たされていない。1980年まれである

そこに出てくる日本語顧客向けの資料というのが、ひどい。

ある概念言葉カタカナに次ぐカタカナ言葉が繋がるのはまだ良い。何が酷いのか。すでに日本語概念に対する適切な単語があるのにも関わらずそれを用いず英語動詞自分発音カタカナ語に書き換えて提出してくる。かくして、ルー語の塊のような顧客向けの文書が出来上がり星条旗をつけて日本会議室文章から音声として展開される。

こんなもの理解を追いつくことが現代人の教養である昨今に些かの寂しさすら覚える。物珍しさで優位性を持たせようた暴力的カタカナ語に翻弄され、明らかに元の英単語と違う含みで復唱し頷く人々。契約は締結され、また新たな米国製の商品不思議日本語梱包されて世の中に出回る。

誰が翻訳しているのかというと、英語が分かって日本語がわかる日本人、ではなく、英語が分かる英語で育った日本語話者、が翻訳者にとても多い。父母が日本人であった、日本大学大学院に行った(中等教育までは全て別言語圏)日本語小説が読め、契約書が読める、等。

その程度の日本語話者である。正直、彼らの語彙は舌を巻くレベルではあり経歴も大変優秀だ。文法も正しく用い、文章構成理解やすい。だが、ほとんど全ての彼らは過去の偉大な知識人たちが用いた日本語の底にある様な漢文の素養はほぼ持たず、古文についてもラテン語を習う感覚でほぼ用いられないもの考える人々の方が遥かに多い。恐らく明治時代に書かれた文章そのままでは読めないものもいるだろう。違うんだ、その中にこそ、一般的日本人が分かりやすく捉えられる言葉が眠ってたりするんだ。だが、彼らの中にあるのは現代日本語で頻出する語彙でその様な言葉は出てこない。

持たされる英語文章の量は膨大であり締切は迫っている。そして新聞社出版社校正部の様に真っ当な日本語を司る期間も通らない。

しかし乍らある製品説明として、物珍しく新しくて生かしてるカタカナ語を代理店広報は選び、広告になり街に出てくる。

日本語育ちで日本でのみ教育しか受けてこなかった私でも、目を引き魅力的だと思う。

こうやって不思議カタカナ達はやがて普通日本語と変化する。

きっと私より20歳下の人々はまた違った世界が見えているのだろう。

更に20歳下の人々が言葉の潮流を作り出す頃には、案外中国語簡体字を使う事が人目を惹き洒落て洗練されたものと扱われる様になるかもしれない。

きっと、その頃には我々はカタカナにもアルファベットを混ぜて使う事に飽き飽きしてる。

そうして出てきた中国語単語の中にかつて我々が学んだ漢文と同じ単語が含まれていて、案外明治時代とそう変わらない意味で用いられたりしたら、なんとなく世界面白いのではないかと思った。

明治時代欧州圏の概念漢字化し東亜圏に広めたのは当時の学者達でその言葉を我々はつかっているのだから

アウフヘーベンについては小池百合子が言い出すよりも前に普通小説漫画普通に使われていたのでそこにだけ元増田違和感を覚えた。私は川原泉フロイト1/2が初見だったので。

2021-08-05

anond:20210805152558

漢文の素養がある人は、「ああこれは中国語ネイティブの人が歴史用語勘違いするやつだ」とわかるよね

台湾経由らしいね

2020-03-14

古典は本当に必要なのか

古典は本当に必要なのか」と今訊かれたら、どう答えるだろうか。(この問いを「高校で必修科目にするべきか」に矮小化して競うのはズルいなあ)

例えば、今『幸福監視国家中国』を読んでいるが、これを読むとどうも中国政府が作ろうとしているのは、ある意味儒教理想社会なのではないかと思う(明天子としての国家主席)。

社会信用システム個人の信用を数値化し、数値が低いと各種サービスが受けられなくなる。法と刑罰で縛るのではなく緩やかな制裁、不便さ生きづらさを与えることで自発的服従を引き出す(馴致)。「修身斉家治国平天下」をIT技術の力を駆使して実現しようとしている、ように俺には見える。

儒教とは民主主義とは異質な、いわば統治者統治者による統治者のための政治哲学。人には身分があるという前提の上で、礼儀正しく他人に優しくしましょうねという思想現在中国政府が目指す路線もそれで読み解ける部分が大きいのではないか(少なくとも内政に関しては)。

すなわち、支配する中国共産党と支配される中国国民という大前提の上で、高い教養と徳を兼ね備えた選ばれた君子ならぬ党執行部が、民草ならぬ国民善導仁政を施す、こういうイメージ。「天網恢恢疎にして漏らさず」というが、その天網を技術の力で人為的に構築しようとしている。その結果生まれた(生まれつつある)「監視国家」では、人々の暮らしは便利になりマナーも向上し犯罪も減ってきた。そもそも大前提に疑問を感じないのであれば、それなりに暮らしやす社会なのかもしれない。

自由平等個人からなる市民社会」を唯一絶対価値とする西洋近代から見れば、今の中国社会ディストピアしか見えないだろう。だから人権とか環境とか、相手にとって響かない言葉批判材料に持ち出してしまう。全く噛み合ってないのだ。

しかし、「君子が民草を善導する儒教社会」を念頭に置いて見るなら、(好悪は別として)それなりに理解できる。したがって噛み合った対話可能となるし、上手な付き合い方も見つけられるのではないか

以上のような推論が正しいのかは措くとしても、こういう考察ができるのは俺が漢文を読めるからだ。

勿論四書五経を精読した訳ではないが、要点はかいつまんで把握していて、必要があれば誰かに訳してもらわずとも自分で読めるからだ。

もしある人が中国中国経済に関心を持っていても(あるいはビジネス上持たざるを得なくなっても)、彼が漢文を全く読めなければどうか。影響力のある著名人が「修身斉家治国平天下を連想させる」と指摘するまでそれに気づくことはできないだろう。また、仮にそれを聞いても出典である大学』を読めなければ指摘の真意理解できず、したがってその当否も自分では判断できないことになる。

まり漢文の素養がある人は、ない人に比べてより早く、より多くの可能性を想定することができる。したがって対象への理解の程度もより深くなる可能性が高い。その知見をビジネスに生かすこともできるだろう。

要するに古典というのは、今起きていること、起こりつつあることを理解するうえで役立つ枠組みを我々に提供しているのではないか

というより話は逆で、理解の枠組みとして多く参照された作品が結果古典として残っているのではないか。たくさん引用された論文がそれだけ権威を持つように。

高校の授業が古文漢文の真価を学生に伝えられているか」は大いに疑問だし、厳しく問い直されるべきだと思う。が「古典は本当に必要なのか」と問われれば、俺は躊躇なく是と答える。

現在、そしてこの先しばらく国際社会に大きな影響を与える中国という巨大な異文化対峙した時、日本には他国にない大きなアドバンテージがある。漢字の読み書きができる、そして中国文化を受容し改変してきた伝統がある。このアドバンテージをむざむざ捨ててしまうのは愚かしいと言わざるを得ない。

この主張だと「では日本古典勉強しなくていいのか?」という反論が想定されるが、それについてはまた機会を改めて考えよう。

2018-06-21

anond:20180621045039

釈迦に興味があって知りたいと思ったら日本人漢文の素養があるので、経典読むところから始めればいいのにな。

 
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