2020-03-14

古典は本当に必要なのか

古典は本当に必要なのか」と今訊かれたら、どう答えるだろうか。(この問いを「高校で必修科目にするべきか」に矮小化して競うのはズルいなあ)

例えば、今『幸福監視国家中国』を読んでいるが、これを読むとどうも中国政府が作ろうとしているのは、ある意味儒教理想社会なのではないかと思う(明天子としての国家主席)。

社会信用システム個人の信用を数値化し、数値が低いと各種サービスが受けられなくなる。法と刑罰で縛るのではなく緩やかな制裁、不便さ生きづらさを与えることで自発的服従を引き出す(馴致)。「修身斉家治国平天下」をIT技術の力を駆使して実現しようとしている、ように俺には見える。

儒教とは民主主義とは異質な、いわば統治者統治者による統治者のための政治哲学。人には身分があるという前提の上で、礼儀正しく他人に優しくしましょうねという思想現在中国政府が目指す路線もそれで読み解ける部分が大きいのではないか(少なくとも内政に関しては)。

すなわち、支配する中国共産党と支配される中国国民という大前提の上で、高い教養と徳を兼ね備えた選ばれた君子ならぬ党執行部が、民草ならぬ国民善導仁政を施す、こういうイメージ。「天網恢恢疎にして漏らさず」というが、その天網を技術の力で人為的に構築しようとしている。その結果生まれた(生まれつつある)「監視国家」では、人々の暮らしは便利になりマナーも向上し犯罪も減ってきた。そもそも大前提に疑問を感じないのであれば、それなりに暮らしやす社会なのかもしれない。

自由平等個人からなる市民社会」を唯一絶対価値とする西洋近代から見れば、今の中国社会ディストピアしか見えないだろう。だから人権とか環境とか、相手にとって響かない言葉批判材料に持ち出してしまう。全く噛み合ってないのだ。

しかし、「君子が民草を善導する儒教社会」を念頭に置いて見るなら、(好悪は別として)それなりに理解できる。したがって噛み合った対話可能となるし、上手な付き合い方も見つけられるのではないか

以上のような推論が正しいのかは措くとしても、こういう考察ができるのは俺が漢文を読めるからだ。

勿論四書五経を精読した訳ではないが、要点はかいつまんで把握していて、必要があれば誰かに訳してもらわずとも自分で読めるからだ。

もしある人が中国中国経済に関心を持っていても(あるいはビジネス上持たざるを得なくなっても)、彼が漢文を全く読めなければどうか。影響力のある著名人が「修身斉家治国平天下を連想させる」と指摘するまでそれに気づくことはできないだろう。また、仮にそれを聞いても出典である大学』を読めなければ指摘の真意理解できず、したがってその当否も自分では判断できないことになる。

まり漢文の素養がある人は、ない人に比べてより早く、より多くの可能性を想定することができる。したがって対象への理解の程度もより深くなる可能性が高い。その知見をビジネスに生かすこともできるだろう。

要するに古典というのは、今起きていること、起こりつつあることを理解するうえで役立つ枠組みを我々に提供しているのではないか

というより話は逆で、理解の枠組みとして多く参照された作品が結果古典として残っているのではないか。たくさん引用された論文がそれだけ権威を持つように。

高校の授業が古文漢文の真価を学生に伝えられているか」は大いに疑問だし、厳しく問い直されるべきだと思う。が「古典は本当に必要なのか」と問われれば、俺は躊躇なく是と答える。

現在、そしてこの先しばらく国際社会に大きな影響を与える中国という巨大な異文化対峙した時、日本には他国にない大きなアドバンテージがある。漢字の読み書きができる、そして中国文化を受容し改変してきた伝統がある。このアドバンテージをむざむざ捨ててしまうのは愚かしいと言わざるを得ない。

この主張だと「では日本古典勉強しなくていいのか?」という反論が想定されるが、それについてはまた機会を改めて考えよう。

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