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2023-11-15

ユダヤ人とかユダヤ系団体とか、そんなふうに呼ぶから自分はてっきりそういうなんかの人種的特徴もつ民族集団があると思ってた

そうじゃなくて、ユダヤ教信徒ユダヤ人とかユダヤ系とかみたいに呼んでいるのか……

スラブ系とかゲルマン系と並列で並ぶようなものだとてっきり……

ということはモンゴロイド日本人かつユダヤ系というパターンも当然ありうるわけか

ややこしい、なんでユダヤ教徒と呼ばないのだろう

不思議だなあ

日記

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ユダヤ人 - Wikipedia

原義は狭義のイスラエル民族のみを指した。

ハラーハーでは、ユダヤ人母親からまれた者、あるいは正式手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人である規定されている[10]。

ハラーハーって何

ハラーハー - Wikipedia

ハラーハー、ハラハー(halakhah, הֲלָכָה hălākhāh)は、ヘブライ語概念用語で、ユダヤ法(Jewish law)とも呼ばれる。次の意味使用される。

1.ラビ達の承認したユダヤ

2.ユダヤ教法規的な側面の総称

3.ラビ文献において、アッガーダー(聖書の注解や格言を通して教訓的なものを引き出したり、聖書に書かれていない物語、様々な逸話などの類)との対象として用いる用語


言語の面をみても、イディッシュ語話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍言語人種の枠を超えた、ひとつ尺度だけでは定義しえない文化的集団しか言いようのないものとなっている[12]。

内田樹は、英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語では単に「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」「〜民族」「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から民族人種概念混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種であるという誤った印象を受けてしまう人もいるが、実際にはユダヤ人とほかの民族集団とを区別しうる有意人種的特徴はないという[17]。


うーんなるほど、単にユダヤ教徒と呼んでしまうとニュアンスが少し違ってくる……と言われたらその通りなのかもしれないな

2022-12-11

anond:20221209230121

文系翻訳に対する感覚の話、ブコメちょっと反応してみる。

何が書いてあるか、誰が書いているか、の違いか文学作品ならそら後者やろうけど、技術書理論論文後者重視したら権威主義への傾倒でしかないな

いや、文学研究でも「何が書いてあるか」です(「何が書いてあるか」を解釈する上で「誰が書いたか」という情報必要場合があるだけ)。たとえば、ピケティ英語で書いた論文なら英語から訳すべきで、ピケティフランス人からといってフランス語から重訳するのはおかしい。逆に、仮に著者がイギリス人でも、フランス語で書かれた本ならフランス語から訳すべき、そういう話です。文系大事にしているのは「文章それ自体」であって、文章それ自体を忠実に原語から訳すことが重要である、というのが文系の考え方。

だって、「オリジナル文章」こそが我々にとっての生データですからね。もちろん完全にオリジナルなのは難しい場合が多いけど、なるべくオリジナルに近づける努力をすることは必要で、原文にあたるのはその基礎的な作業であって学部生とかの未熟な人でない限りは省くべきではないプロセスですよね、ってこと)

さえぼう氏側は「間違いが起こり得る」としかわず、具体的にどこが「間違いだった」という指摘がないから、屋上屋を架す空論でしかない。具体的に誤訳だったという指摘、出版から随分経つけど今までにあった?

これはもう「具体的に間違いがあるから問題だ」ではなくて「重訳なのがけしからん」という話なので……具体的な実害の問題じゃなくて規範の話をしてるんですよね。ただ、その規範が他の分野の人たちに受け入れられていない、という状況。

たとえば増田は、ちょっとマニアック事柄についての論文を有名な査読誌に投稿したことがあるんですけど、「よく調べてあるけど学術インパクトが足りない(要は面白くない)。却下」という趣旨のやり取りを何度かして、もういっか、めんどいから載るとこに載せよ、って思って当時所属してた機関紀要に無査読論文いたことがあるんですよ。業績欄には当然その論文を載っけてます(もちろん査読の有無は明記した上で)。で、この論文形式上査読なしであることに特段の問題はないですよね。だって研究結果が間違ってるわけじゃないもの。ただ有名な雑誌に載るほど面白くないだけ。それでも、論文には査読がついていて当然、という人たちは「いや、査読なしだと間違った論文が載るリスクがあって、だから査読がないもの論文と認めるべきではなく……」って言いたくなるんじゃないですか? 「重訳だと誤訳リスクが……」ってのもそういうことですよ。

物理学では基本的英語から翻訳だと思うけど文句言ってる人見たことないなぁ・・・価値観の違いを感じる

物理学のものではないですけど、いちおう、文系には科学史という分野もあり、そこでは物理学歴史について原語を使った研究がされてます。たとえば、 isbn:4486021746 なんかは、ソ連時代物理学をめぐる論争について研究した本で、がっつりロシア語の文献を読み込んでますネットで読める論文だと、DOI: 10.34336/jhsj.47.248_193とか)。外国学者が書いたこの本 isbn:4815808090 も、英語以外の文献も読んでたような(この本は面白いので超オススメです)。アインシュタインドイツ語相対性理論論文を書いたわけですからね(DOI: 10.1002/andp.19053221004)。もちろん、繰り返すようにこれらはあくまで「物理学対象とした文系学問」であって、物理学のものではないので、「物理学では基本的英語から翻訳」というのはそうなんだろうなぁ、と思いますが。

これ、医学系が人文系にIF要求するような無理筋を感じる 読者がやるのはピケティ研究じゃなくてピケティを踏まえた研究では

これメチャクチャ思いました。過去査読云々の論争を思い出しちゃいましたよ( anond:20181009070341 とか、 anond:20181011090428 とか、このへんの話ね)。「翻訳するとき原典から訳すのが当然だろ!」「いや、別に重訳でも意味が取れてればそれでいいじゃん……」「出版スピード感大事だし……」っていうやり取り、まんま過去の「論文は全部査読するのが当然だろ!」「ええ、別に査読で載せても、後続の論文でしっかり吟味されてればそれでいいじゃん……」「出版スピード感大事だし……」っていうやり取りとソックリというか。増田は「なんで原典にあたるという当然のことを重要視しないんだろう……」って思っちゃうんですけど、理系経済学の人たちも「なんで査読という当然のことを重要視しないんだろう……」って思ってたわけですよね。まあだからあんまり自分野の基準で他分野にケチつけるのはよろしくないなぁと、自戒を込めて。

追記

査読に落ちる場合は、その落ちる原因をちゃんと指摘されてるんじゃないの?そんなお祈り一行みたいな感じで落とされるっけ?

増田に書いたことは原文ママじゃなくて要約です。当たり前でしょ……(ほんとはきちんと細かく落とす理由を書いてあったけど自分の専門分野も出した雑誌名前も言いたくない)。まあ「大意」とか「趣旨」とか書いておくべきだったかもしれないけど流石にこの文面見たら要約だとわかるっしょ? って思ったんですけど伝わらない人もいるんだなぁと新鮮な驚きを感じたので「趣旨」って付け足しておきましたわ。要約を鉤括弧で括ったこちらにも非はあるし。

査読もされていないのに「だって研究結果が間違ってるわけじゃないもの」と自信満々に言えるのが分からない...文化が違う

から丁寧に「有名な査読誌に出して面白くないからと蹴られた」話をしたんですけど伝わりませんでした? 間違いがあるとかじゃなくて、マニアックすぎてうちの雑誌に載せるには面白くない、っていう理由却下されたんですよ。まさかそこに引っかかる人が出てくるとは。ちゃんと経緯は書いてあるでしょ。

でもまあ、反射で「査読ついてないなんてけしからん」って思っちゃうってことですよね。重訳もそういうことです。反射で「直訳しないなんてけしからん」って思っちゃう、っていう話。

インパクトが足りない。却下」が研究結果の正しさの保障になる???

わざと言ってます? それとも本当に読めてない? 「よく調べてあるけど」と前置きしたでしょ? 研究成果それ自体への疑義査読からは呈されていません。むしろ称賛されてます。その上で面白くないから書き直せってやり取りを何度もしたの(再投稿を可とするリジェクトだった)。何度か書き直して、ああこれは先方が求める「面白さ」と増田がこの研究に感じている「面白さ」が噛み合うことはないな、と思ったので再投稿せずに無査読紀要に載せることにしました。自分にとっては自明ことなので説明不足になっていたきらいはあり、そこは申し訳ないけど、もとの文章ちゃんと読んでくれませんか?

だいたい、研究成果の正しさはディジタルじゃなくて、「部分的には正しいが、しかし……」みたいにグラデーションがあるものでしょ。査読100%の正しさが保証されると考えているならそれは大間違いですよ。増田研究だって研究手法結論的に「正しいか、間違いか」なんてディジタルに言えるような研究じゃないっす。なので査読で「間違いだとわかる」なんてこともほぼあり得ない(資料の読解間違いとかはあるかもしれないけど、増田論文総体として「間違い」であることを示すには増田論文と同程度以上の調査をし論文を書く必要があるんで、普通査読じゃ「間違い」とか言えないはず。関連する資料を全部諳んじてる大家なら別だけど)。

そもそもピケティ先生は狭い学術ギルド論文として書いたんじゃなく経世済民の書として世に問うたわけだから増田の話(や一部ブコメ)は大分ズレてるのでは。例えば「翻訳とか無駄原本を参照汁」的な暴論との文字数

学術業界だけじゃなくて、一般書の方でも最近は「原語から訳すべき」という流れが定着しつつあったじゃないすか。スタニスワフ・レムも昔はロシア語からの重訳だったけどポーランド語からの新訳が出てるし、昔はフランス語経由で訳されてたイスマイル・カダレも今はアルバニアから訳されてるし、バスク語チベット語イディッシュ語文学翻訳されてきたでしょう? そういう流れが出てきてたのに有名なフランス語の本を英語から重訳するなんて、というショックは当然ありますよ(だから私は『三体』も相当ガッカリしましたよ。中国語版には検閲が入ってる、と聞いて納得したけど。エーレンデュル捜査シリーズの方は、重訳自体はもう仕方ないけど、頼む~~~せめて著者の名前おかしいのくらいはどうにかしてくれ~~~って感じ。重訳のせいで著者の名前すらおかし表記がされてるんですよね……)。時代を巻き戻す気か、と反射で思っちゃうのも無理はないです。

 
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