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はてなキーワード: 70年代とは

2008-12-15

http://anond.hatelabo.jp/20081215162912

お見合い結婚恋愛結婚の数が逆転したのが、確か60年代の半ば。

とはいっても恋愛結婚を前提とした、前段階という位置づけだったから、

人生で複数人と恋をして結婚に至るなんてのは稀だった。

70年代に入ると段々と恋愛結婚が別のものという考え方が浸透する。

なぜならば恋愛結婚から切り離した方が、新たなる市場が開拓できるから。

すべては商業主義による作為的な思想誘導とも考えられるが、この際どうでもいい。

(まあ恋愛は儲かる。今でも儲かる。恋愛禁止になったら失業者すごいぞ)

さて恋愛結婚意図的に分離するために商業主義者たちはあるハードルを撤廃した。

そう。婚前交渉というタブーを、逆に推奨しはじめた。

結婚恋愛の延長線上にあった時代には、男性ぶっちゃけHしたいからプロポーズをした。

同時に女性は切り札としての肉体的な証である処女膜を守った。これを失うと結婚しにくかった。

普通に考えるとこの考え方を撤廃するのは生易しいものではないんだが、

ちょうどフェミニストの台頭による女性社会進出(これも儲かるが別の話)に便乗して、

女性の性を開放(笑)させたわけ。70年代はアホだなー。

そして80年代となり日本バブル到来。もう大変。乱痴気騒ぎ。

んでOL市場が食い尽くされたあとは、女子大生市場を開拓した。

バブル弾けて女子大生市場も美味しくなくなって、90年代になると女子高生商品化した。

このころの女子高生たちが今の30代〜ね。生まれながらにして商品。もう泣くしか無い。

当然チヤホヤされて、食い荒らされていることにも気がつかず、性を大開放。

どれだけの経済効果(表も裏も)があったのか計り知れない。

そんな彼女達の陰で男たちは二極化

女性にありつける男とありつけない男。

当然いい男にはたくさんの女性があつまる。恋愛における選択権は性を開放した女性にあるのだから仕方ない。

ほとんどの処女膜は特定の一部に独占突破される。

しかし法律で男は一人の女としか結婚できないということを忘れていた女が多すぎた。

自分処女膜を捧げたいい男は早々に結婚をして幸せに暮らしているが、なぜか自分とは結婚していない。

同じレベルの男とはもう結婚できない。数の論理上あたりまえ。

結婚適齢期前に女性に見向きもされなかった男性と、すでに切り札を無駄遣いした女性が相容れる可能性は少ない (いまここ)

http://anond.hatelabo.jp/20081215161611

初期の井上陽水の歌でさ、男が女を誘おうとしたら女の父が出てきて「娘はまだまだ嫁入り前です」みたいな歌があったけど、あの時代で60年代後半から70年代前半くらいでしょ。その時代くらいまでは親的にはまだそういう意識があったのはありそうだよね。

2008-12-14

地方の雑誌メディアというより

地方の雑誌メディアの終焉が近い件について 追記9

タウン誌黎明期はもう40年前か。

じんぶんや「紀伊國屋書店と新宿」 : 本間健彦 「新宿プレイマップ」

熱意の伝わる文章だが、3年足らずで終焉を迎えたのだな。

そのタイミングを「70年代初頭頃から「新宿はもう面白くないよ」と新宿離れを始めた若者たちが吉祥寺下北沢に流れて行った頃」と記している。

果たして地方の街そのものに魅力があるのだろうか。広告主はともかく読者にとって。

2008-11-24

Re: 軽自動車に乗っててダメならタクシーはどうなんだろう。

今新車で買えるMiniスイーツ(笑)から見ても単なる外車じゃん?

俺から見ると余裕のある金持ちアピールにしか見えんけど。

君の言うMiniだって既にクラシックカー扱いだし。初代クーパーとか70年代じゃん。

最新のクーパーでも8年経ってて値段が240万ぐらいじゃないか。こっちはお金持ちの上にエンスーというか…

で、軽自動車に見えるかだが、実は軽自動車かどうかで判断されてるんじゃなくて「貧民の多くと同じ行動をとっているか」で判断されてるんだと思う。

それ以外の車は「金持ち」「暴走族」「オタク」「はたらくくるま」ぐらいにしか分かれてないと思うよ。

死人が沢山出るよりマシ

体罰は、体罰の名を借りて殺人を犯す奴が必ず出てくるから禁止しておいた方が「マシ」だよ。

当時は70年代の「スパルタ教育」に対する否定的な声がある程度一般化しており、そんな中であえてタブー視されている「愛の鞭」が、むしろ尊しという声も少なからずあったため、行政より咎められるほどの批判には至らなかった。

特に団塊の世代にとっては「古きよき時代」の言葉に代表される懐古趣味暴力行為の是認とオーバーラップさせる傾向が強く、これは現在も変わっていない。

その結果同スクールの行為は訓練生(1983年・事件当時13歳)を舵棒(角材は誤報。しなりのある角材よりもより硬い)などの凶器で殴打し殺害するにまでエスカレートした。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%CD%C4%CD%A5%E8%A5%C3%A5%C8%A5%B9%A5%AF%A1%BC%A5%EB?kid=71497

2008-11-23

http://anond.hatelabo.jp/20081123193519

「今の時代」って言うけど、「昔の教師」を神格化するのはジジィみたいで危険だよ。今も昔も教師のスタイルなんて変らないと思う。戦後にも70年代にも不良教師だって居たはずだ。

2008-11-21

戸塚ヨットスクール事件に見る暴力

当時は70年代の「スパルタ教育」に対する否定的な声がある程度一般化しており、そんな中であえてタブー視されている「愛の鞭」が、むしろ尊しという声も少なからずあったため、行政より咎められるほどの批判には至らなかった。

特に団塊の世代にとっては「古きよき時代」の言葉に代表される懐古趣味暴力行為の是認とオーバーラップさせる傾向が強く、これは現在も変わっていない。

その結果同スクールの行為は訓練生(1983年・事件当時13歳)を舵棒(角材は誤報。しなりのある角材よりもより硬い)などの凶器で殴打し殺害するにまでエスカレートした。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%CD%C4%CD%A5%E8%A5%C3%A5%C8%A5%B9%A5%AF%A1%BC%A5%EB?kid=71497

2008-11-03

システムエンジニア

日本においては文理問わず広く雇用を受け入れている業種であり、コンピュータサイエンスを初めとする情報工学の一切に精通しておらずとも就業が容易である。また、システムインテグレーターを筆頭として、そうした者でもSE(エス・イー)と呼ぶ習慣が浸透しており、エンジニアというサイバーな印象を想起させることで職業イメージアップを図ることに成功している。 そのため2008年現在情報工学の修得を避けつつも技術者という肩書きを手軽に獲得したい者、あるいは情報工学の修得に失敗した者が心のより所として、システムインテグレーターへの就職を妥協して受け入れる傾向が強い。 業界全体の傾向として、同業界においてはしばしば「コミュニケーション能力こそが重要」と啓蒙されている。システムインテグレーターで要求されるコミュニケーション能力の水準は、他業種と比較した場合でも特別、高いものが要求されているわけではないが、前述のような学生就職後に劣等意識を抱かぬよう、技術力の低さを補うための代替スキルとしてこうした言葉をあえて担ぐといった手法が取られている。 技術的な能力の有無は、ある対象の個々の要素を「知っている・知らない」の二分法から導き出せるケースも多く、そうした技術的な知識の修得には時間がかかるため、学生時代にこれを十分に満たせなかった者への救済手段として「コミュニケーション能力こそが重要」だと説き、これを能力開発の上位に置く企業も少なくない。

富士通NEC日立製作所東芝三菱電機などのコンピュータメーカー情報処理部門から独立した会社、またはそのメーカー傘下に入った会社メーカー製品と組み合わせたソリューションの提案に強みがある。主に親会社から、開発案件を元請額の八掛け程度の額で受注して開発を行う。70年代からバブル期にかけての過剰な雇用によって後年、技術者のだぶつきが発生し、こうした社員への業務をあてがう目的日経BPやアイティメディアなどの情報媒体を利用し「システムインテグレーターエンジニアの業務」、「情報産業花形」と業界ぐるみで盛り立て、モチベーションを維持する手法が取られている。

上述の企業システム構築のプロジェクトにおいて商流の上位に位置する傾向が高く、そうした経緯であてがわれてきた、本来行き場の無かった社員が進行の指揮を執るケースも少なくなく、しばしばプロジェクト破綻をきたしているのが実情である。

Wikipediaより

2008-10-31

http://anond.hatelabo.jp/20081027001507

どうしてそういう発想が出てくるかってのがまずわからん。

間違いの上に間違いを重ねてその上に間違いが前の間違いと癒着している状況でこういうのは指摘が非常に難しい。

1、まず元増田の俺の世代にとって宿題はspecialでも何でもないし俺はゆとり世代でもない。

2、別にゆとり世代だから宿題が無いなんてことはないよ。

3、「「宿題」だけを取り出して」「した記憶ある?」なんて聞いてないよ。これはどこから出てきたの?狭義の家庭学習って言い方が悪かったかな?「自主勉強」って意味で言ったんだけど。どうして「「宿題」だけを取り出して」となったんだ?ドラえもんを読むとわかると思うんだけどのび太が義務としての宿題以外に「勉強をしよう」って言ってるシーンがそれなりに多いんだよね。

4、

ドラえもんの時代('60から'70年代)には「勉強」つーのは宿題もひっくるめて全部だったんだ。たとえば宿題忘れたらリアルバケツ持ちたたされとか廊下正座とか往復ビンタとか、まあそういう時代なわけ。宿題つーのはspecialじゃなくて全部ひっくるめた「日常的な学校での学習」の一部なわけだよ。だから学校で何かを習ってる以上「宿題してない」なんてあり得ないし「宿題」だけを取り出して「した記憶ある?」なんて質問もあり得ないわけ。

「お前らって小学生の時に勉強とかしてた?」って言う俺の質問に対してお前が「どうやって○○したんだ?」って返す時点で、「元増田(俺)は学校の授業以外のことを言っている」って発想は生まれなかったのか?「学校の授業」を「勉強」に含んでいないで言ってるんだな、ってのはわかるだろ。お前の「どうやって○○したんだ?」って質問に答えるなら、大部分は「学校(や宿題)で習ったよ」となるんだけど、じゃあそれでも元の質問をした意味は?と言えばそれは「それ以外について聞きたいから」だってのは理屈で考えればわかるだろう。

2008-10-29

http://anond.hatelabo.jp/20081029023527

70年代80年代の文化に興味があるといったら驚かれたことはある。

たまたま似たような趣味を持っていた人には喜ばれたけど、必ずしもアピール材料にはならないなと思った。

なんせ、そういった年代に青春を過ごしたであろう人々からも「なんでそんな古い番組見てるの?」「なんでそんな昔の音楽聴いてるの?」と尋ねられるから。心底わからないといった顔で。

あなた20代でしょ?ヒットチャート上位曲とか聴かないの?みたいな調子で。これは腹が立った。

「ほどほどに変」を受け入れられない人も未だにいるってことですね。

2008-10-27

解説するよ

オレが謝ったのは、まさにその「元増田」の書き込みについて誤解してた点だよ?

http://anond.hatelabo.jp/20081026234723

ドラえもんの時代('60から'70年代)には「勉強」つーのは宿題もひっくるめて全部だったんだ。たとえば宿題忘れたらリアルバケツ持ちたたされとか廊下正座とか往復ビンタとか、まあそういう時代なわけ。宿題つーのはspecialじゃなくて全部ひっくるめた「日常的な学校での学習」の一部なわけだよ。だから学校で何かを習ってる以上「宿題してない」なんてあり得ないし「宿題」だけを取り出して「した記憶ある?」なんて質問もあり得ないわけ。

そういう時代感覚で見たからこそ「元増田」の「勉強」が「狭義の家庭学習のみ」を指すなんて想像もつかなかったんだ。

だから、ごめんよ、と謝ったのさ。それ以上でも以下でもない。

それにしてもゆとり教育はすげーよ。ハード宿題とかドリルとか、体罰とか無しによくガキどもに知識を身につけさせるよな。

教育進歩はすげーよ。

2008-10-04

http://anond.hatelabo.jp/20081003234531

全部が全部中曽根ってわけじゃないがゆとり教育スタート1985年の臨教審というのは教育問題語る上では一般的な認識と思われ。

うぃきぺでぃあによると、

1972年昭和47年) 日本教職員組合が、「ゆとり教育」とともに、「学校5日制」を提起した(2007年7月1日放送TBS報道特集」にて 槙枝元文元委員長発言)。

1977年昭和52年)??1978年昭和53年学習指導要領の全部改正 (1980年度〔昭和55年度〕から実施)

学習内容、授業時数の削減。

ゆとりと充実を」「ゆとりと潤いを」がスローガン

教科指導を行わない「ゆとり時間」を開始。

ってことだから1985がスタートとは言えなくてもっと前からあるものでは?一般的な認識だから正しいとか言ってたら嘘でもみんなが日教組のせいと思ったたらそれが正しいって事になっちゃう。

自社さ政権社民与党にいた間は日教組与党に影響を及ぼす余地がある程度あったのは否定できないが、非自民政権1993から1994年、自社さ政権1994から1998年週休2日制に移行し始めたのが臨教審を受けた1989年改正1992年開始、ゆとり要項が1999年改正2002年開始。

1996年でも中教審で「ゆとり」を重視の学習指導要領を導入されてるから社会党政権にいた96年でもとまることなく、着々とゆとり化は進んでたんじゃないの?

結果的にそれは未曾有の大失敗に終わったし、当時から非難は多かったのだけれど、当時の政府は本気で規制緩和だと思っていた。

未曾有の大失敗というのはどういう根拠なのか気になる。

小泉政権くらいの頃はまだ「ゆとり日教組のせい」というような論は見かけなかったように思う。自民いつ頃からこんな恥知らずなことをほざくようになったのだろうか。

それって本当に自民党の公式見解なの?

ただ70年代日教組が言い出してたらしいから、日教組のせいといえなくもないが、政権与党にいた期間が長い自民党責任が大きいのは否定しようもないけど。日教組が言ってる政策でも悪いと思うなら採用しなきゃいいだけなんだし。

2008-09-25

少年犯罪データベース

レイプは確かに60年代70年代からガクンと減ってるが、強制わいせつは逆に近年になって極端に増えている。

これってどういうふうに解釈できる?

2008-09-24

http://anond.hatelabo.jp/20080924231825

最初から仕事する気が無いDQN子供だけ増やしても仕方ないと言う事が分かってない。

という理屈で突き進んだのが、末期のソ連

60年代中頃ぐらいからエリート共産党員に多産を奨励し、労農階層には少子化押し付けた。

その結果、どうなったか・・・

全然関係ない話だけど、この60年代ソ連人口統計と、中央アジア展開部隊の隊員構成の統計ベースに、70年代後半ぐらい(進歩的文化人流行中のあの時代だぞ)から一貫してソ連崩壊を予見してた小室直樹てすごいと思う。

2008-09-02

公明党創価学会基礎知識2008

日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。

1ページ目 【創価学会の成立と発展】

創価学会の成立と迫害

創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。

しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在日蓮正宗創価学会関係はありません)。

そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。

戦時中宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神指導者として処刑されてしまうわけです。

いずれにせよ、政治実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。

このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。

創価学会の発展

戦後民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会ナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。

戸田は敗戦後学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。

折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世折伏」を実行するよう呼び掛けます。

とほうもないように見えた計画でしたが、戸田1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。

強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本人口構造の転換に求めることができます。

農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。

そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。

学会の国政進出はじまる

こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長戸田はまず1955年統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。

これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。

2ページ目 【公明党の結党と田中派への接近】

社会的地位向上を狙った国政進出?

1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。

折しも創価学会は特に左翼革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会学会員社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。

いろいろ言われているように、戸田国立戒壇、要するに僧侶日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。

公明党誕生池田会長の就任

しかし戸田学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。

この間、会長池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。

この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さ頭角を現わすことになったのです。池田会長就任は実に32歳の時です。

そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。

こうして創価学会公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。

言論弾圧事件」と自民への接近

公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。

しかし1969年公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。

このとき活躍したのが、当時自民党幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。

自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。

さて、田中角栄は地方への「利益誘導政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。

もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派公明党学会関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。

また1972年には、竹入義勝・公明党委員長首相となった田中の依頼を受けて訪中田中訪中日中国交正常化の地ならしを行っています。

学会公明党の「政教分離

さて、「事件」でバッシングされた公明党創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙議席を半数近くまで落とします。

もちろん公明党創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。

また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。

学会共産党支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中ファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家松本清張で、彼は池田宮本顕治共産党委員長を引き合わせ、この学会共産党の「同盟」を実現させたのでした。

もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党学会なしには存在し得なかったからかもしれません。

また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。

結局、これで公明党イメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。

結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党顧問弁護士宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。

3ページ目 【自公連立への道と創価学会

公明党与党

新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。

1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。

1992 年、公明党民社党社会党議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。

また1980年代から地方議会でも公明党都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。

公明党与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄逮捕される国会議員も出てしまったといえます。

もっともこの不祥事には創価学会学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党国会勢力は1989年参院選では前回比1議席減、1990年衆院選では11議席減となっています。

公明党の連立参加と「新進党参加」

1993 年、総選挙自民党過半数割れすると、公明党は非自民・非共産連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。

その後、公明党小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員参議院議員1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。

結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。

その後、旧公明党衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在公明党誕生することになります。

公明党誕生自公連立

新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。

こうして小渕内閣(小渕首相田中派を源流)のとき、公明党自民党と本格的に連携地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上自公連立政権スタートすることになります。

そんななかで小泉政権が発足。公明党小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。

しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。

また先のページで述べた「地方:自民都心公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。

これからの創価学会公明党

微妙になりはじめた自公連立公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。

この間、創価学会会長だった池田1979年日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在会長原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌新聞などをみても明らかです。

政教分離」をした今、創価学会公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員公明党公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。

ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会壮年部長読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。

公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会公明党なしでもやっていけるが、公明党創価学会なしにはやっていけないわけですから。

さて2008年池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。

いずれにせよ現在創価学会組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。

人名について一部敬称略とさせていただきました。

参考書籍サイト

SOKAnet:創価学会公式ホームページ http://www.sokanet.jp/sg/sn/index.html

2008-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20080901164633

ジャズ名盤が山ほどあるから好きなのどうぞw

まあそれ以外で一枚挙げるなら、Jackson BrowneのLate For The Skyかな。

70年代ウエストコーストサウンドの傑作。基本的に地味なアルバムだからノリの良いのが好きなら駄目だろうけど。

2008-08-30

ほうれんそうが統一起源だってことはまだ、示していないぞ

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080830/1220032774

最初に「80年代は気持ち悪がられていたのに、現代はビジネス必須だなんて」と書いているが、82年に企業起源とする資料が指摘されると、こんどは「70年代から統一教会がやっていたはず」と憶測に後退。最初の意気込みはどうした。

自分の嫌いな連中をけなすために書いてみたけど、ツッコミくらってひざが笑っているってとこか。みんな、組織的なことの批判になると狂喜乱舞だなぁ。

2008-08-17

五輪男子の完敗,女子の奮戦などで盛り上がるサッカー,ここらでちょっとオレオレフットボールコラムサッカーが下手で最近Jリーグもほとんど知らない私が,どんな風に,どうしてサッカーが好きかを自分で再確認するために書くメモ。あるいは,素人戦術好きのメモです。

 基本的に選手についても監督についても批判とかを書いたりするのは嫌いなので(やっぱ,がんばってる当事者達に文句を言うのって嫌ですから),今後の日本代表監督人事や戦術を中心に思うところを書いておきます。

 岡田さんの後の監督についても,いろいろとすでに話が出ているけど,やっぱり代表監督には目の前の結果と,将来への育成,この両方を期待してしまうし,でも日本根本的に欠けているも「マスコミの良識」や,日本存在する「広告代理店による商業サッカー」を思うと,人選はとても難しいと思います。サッカー伝統や文化がない(マスコミ広告代理店のせいで育たない)日本は,戦略(主にサッカー協会が考えること)と戦術(主に監督が考えること)の両方で頑張らないと,W杯のような真剣勝負舞台世界から相手にしてもらえることは無理っぽいことがドイツW杯北京五輪で改めて判明しました。サッカー協会はとてもがんばっていると思うけど,致命的に問題なのが日本マスコミ(とその背後の広告代理店)で,ほぼ全く現代サッカー,特にその本場である欧州サッカーの動向なんかほとんど知らない,興味ない人たちが,代表戦の前後や,人事のゴタゴタだけを「視聴率が取れれば良い」,「ビジネスになればよい」というだけで騒いで終わるだけなので,日本サッカーに対するまともな文化が育たない(と,偉そうに書いてみました)。W杯とか代表戦で盛り上がっていない普段は日本サッカー情報は本当にマニアックで詳しい人も多いのだけど,ことW杯絡み,日本絡みとなるととたんに地道な報道や記事は吹っ飛んでしまうのですよね,恐ろしいことに

 現代サッカーは長期戦略(才能ある若手の発掘,育成,優秀な指導者の育成,獲得,有力選手の強化支援)をベースに,極めてシステマティックに構築された戦術と,選手の個人能力を融合であり,その実戦は主に欧州6大リーグで顕著に見ることができます。70年代に名将リヌス・ミケルスに率いられ,空飛ぶオランダ人,ヨハン・クライフによってオランダ代表及びアヤックスで完成されたトータルフットボール,それを内包して80年から90年代にかけて研究され完成したラインディフェンスによる高度にマニュアル化された戦術,これがしばらく世界サッカーの基本戦術でした。すなわち,現代サッカー戦術において,重要な出来事は2回,ミケルスが率いクライフが体現し世界を驚愕させたオランダのトータルフットボール,そしてプロ経験のない靴のセールスマンだったサッキ監督80年代後半から90年代初頭に完成させた革命的4バックラインディフェンスです。

 この現代サッカーシステムはしばらく打ち破られないと考えられていましたが,2000年以降,皮肉にもこれらの現代サッカーの完成期に現役時代をおくった選手監督としてピッチに戻ってきて,大きな変化が起きつつあります。W杯ドイツ監督であるクリンスマンバルセロナ21世紀最初の黄金期へと導いたライカールトPSVで結果を出したクーマン,批判もあるけれどやはり優れた戦術家であるモウリーニョ(この人はちょっと特殊な例,いろいろ言われてるけど僕は好きです),そしておそらく現在最も優れた天才若手監督であるデシャンなど,僕の世代ならば,小学生中学生の時に選手としての全盛期のプレーを見ていた彼らは,リッピ,サッキ,クライフ,ベッケンヴァウワー達の下で自分たちがプレーしたラインディフェンスによるマニュアル化されたシステムの強さと限界を知り尽くしているので,その先のシステムが彼らから生まれてくるのも必然の帰結と言えるかもしれません。代表的なのはフランスリーグ・アンの中堅だったモナコを一気に強豪まで育て上げたデシャンでしょう。彼の指揮するモナコの特徴は「世界初システム化されたラインディフェンス破り」と言われています。詳細は多くのサイトが取り上げているので割愛しますが,欧州トップレベルクラブでの戦術は,数秒単位,1m単位で極めて細かくマニュアル化されたシステムの攻防であり,フラットなラインによるDFでは,相手攻撃陣のボール所持位置,向きに応じて一瞬でラインのON/OFFを切り替える必要があり,この判断は基本的にチーム事のマニュアルで細かく決められています。しかしデシャンはこのマニュアルの唯一の弱点と言うべき,ON/OFFの判断ができかねる一瞬(通常これはバイタルエリア,あるいは最終DFラインとボランチの間が約5mから10mの距離の位置で,攻撃側の司令塔,トップ下,あるいはポスト役がボールを持った瞬間)を意図的に数多く作りだし,そしてそれをシステムとして突破する戦術(というか,この状況が形成された無条件で味方アタッカーの位置を考慮せずDFの裏へスルーパスを放り込むという暗黙の了解)を導入しました。極めて強固で洗練されたラインディフェンスによる華麗な守備を誇るスペインの強豪デラポルトラ・コルーニャを完膚無きまでに撃破した試合では,解説の人が「これを戦術でやっているならデシャンは天才です」と言っていたそうですが,メンバーの代わった試合でも同じようなことを続けているモナコの姿を見て,デシャンが天才だったことが証明されました。書くと簡単ですが,実戦するのは簡単ではないはずだし,実際欧州でこの戦術が実行された場面を見ると,攻撃陣の絶妙なパスと動き,そして恐ろしいまでの破壊力に驚きます。

 このような戦術の話題は,欧州では瞬く間に話が広まり,各チームによって研究,実戦され,より洗練されていきます。日本でも普段からサッカーニュースではこのような議論が喧々諤々続けられ,小学生から老人までが戦術について熱く語り合わなかればならないのです,たぶん。でも果たして日本W杯五輪サッカー関連のマスコミで,「デシャンのラインディフェンス破り」についてきっちり情報を入手して理解しているような記者はどれくらいいるのでしょうか。あまりにも戦術が軽視されているように思います。芸能人に得点予想を聞いたり,一つ覚えのように「3-5-2は守備的,4-4-2は攻撃的」と繰り返すよりも重要なことがたくさんあるように思えてなりません。実際デシャンは攻撃に人数を割くのが攻撃的なのではないと考えているそうで,4-5-1あるいは3-6-1でも攻撃的なシステム研究し,実践しています。

 オシムに決まった監督ですが,候補にジャケ・エメの名前が挙がっていました。同じフランス人ならばデシャンの方が,日本の4年後,そしてその先を考えるとふさわしい気がします。でも,デシャンほどの才能を,サッカーに理解のないマスコミがくだらないことばかり書き立てるアジアサッカー後進国に迎えるのは世界サッカーに対する犯罪のような思いもあります。長々書きましたが,とにかく言いたいのは,次期監督日本に合った戦術をしっかり考えて,実戦できる人にしてくださいということです。

 そして,今回の五輪で明らかになった,男子サッカーの衰退と女子の奮闘。特に,澤。この不世出の才能日本サッカーが今後生かせるかが,日本サッカー世界について行くことができるかの重要なキーになるかもしれません。澤に率いられた日本女子代表のプレー,皆さん見ましたよね。男子との違い(決定力や個々の位置取りから,システムの機能・実践まで)がここまでわかると,さすがにみんないろいろ考えると思います。

 次期次期A代表監督に澤,あり得なくない選択となる可能性は十分ありそうです。

2008-06-25

怒りが諦めに駆逐されている現代社会に俺は怒りを覚えている

友人が「うつ病」になった。

俺は「うつ病」という表記が何だか嫌いだ。

鬱と書いた方が内実を表している気がする。「憂鬱が極端になった状態」だろ?

難しい漢字だから、平仮名なのか?難しい病気なのだから、仕方ないだろう。

親友と言うほどではないから、詳しい理由とか、あまり踏み込んで聞けない。

まあそれもあって、いろいろ考えた。

こういうことがあってからテレビとか見てると、本当にうつ病ってのが社会問題化してんだな、と思う。

あるいは、問題化されてるのか。

クローズアップ現代でも、NEWS ZEROでも、どこでも野村総一郎氏が出てくる。

こんだけうつ病患者が増えてる、とかそういう統計見たりして。

うつ病という病気が広く認知され始めたのは近年だし、そうなってくるとうつ病じゃなかった人もうつ病になる、ということも起きてくるだろう。

だから普通、増えてるなんてのはまやかしだ、レッテル貼りをしているだけだ、うつ病なんて昔からあるんだよ、という言説が聞かれる。

それはそうかもしれない。でも、そういう言説が起きてくるのは、「うつ病患者が増えると言う社会現象」の原因がわからないから、思い当たらないからじゃないだろうか。

ごめん、俺はやっぱうつ病患者は以前より増えてるってスタンスを取りたい。

件の野村総一郎氏は、原因をこう推測していた。

うつ病を患っている方は、おそらく社会全体の指導原理を求めているんです。どういう生き方をしたらいいか、ガイドが欲しいんですよ。だけど、そのガイドしてくれるものがない。(http://www.nikkeibp.co.jp/feature/080521_illness_01/index3.html)

まあ、俺はそんなの違うんじゃないか。って思うけどね。

ただ、社会現象として捉えたいってのは同じだ。

上前置き。

キラ☆キラとか、みんなやっただろ?やってない?じゃあやった方がいい。

パンクってのは怒りなんだよ、ってことがテーマになってる、手ごろな作品だ。

俺は、この怒りってのが今の世の中に必要だと思う。

いや、言い方が違うな。

今の世の中には、怒りってものがないんだ。だから、こんな「変な」ことになってる。

後期高齢者医療制度の件でも、年金の件でも、ガソリン価格高騰の件でも、怒っているのはマスコミだけだ。

社会に対して怒る」ってことが、今の世の中には、ない。沖縄教科書抗議デモだって、朝日が人数水増しするくらいだ。

ある意味で、「『大きな物語』の喪失」が原因であるのかもしれないが、社会へ怒ることよりも、社会絶望することが先に来ている。

糸色望が、絶望した絶望した言ってるけど、マジレスすれば、お前絶望してないだろ。ふざけんな。

安保闘争とか、学生運動とか、俺が生まれる前の出来事だ。だから、当時行動を起こした人々が何を考えてそれをしたのか、俺は知らない。

ただ、それってやっぱり、「怒り」だろ?

今は、消費税上げる、って言ったって、ああやだな、って諦めてるだろ?

俺は、何も考えずに増税反対、なんて言うつもりはない。必要だって思ったら賛成するさ。

ただ、理由とかよく知らないのが大多数の人間ってもんで、そいつらは知らないんだから、怒ったっていいんだ。

やっぱり、そこで、上が言ってるから従おう、って思ってんのか知らないが、諦めが生じてるはずなんだ。

怒りを持つ事ってのはエネルギーが要ることだと思う。だからかもしれないが、この日本社会は、明らかに「諦め」が支配してる。

それって、俺はやばいんじゃないか、と思う。

うつ病増加の原因。

俺はこれじゃないか、と思ってる。諦めの支配する現代社会だから、人はすぐ鬱になって死んじまう。

怒りを持ってたら、死ぬ気なんて絶対怒らないぜ。

で、ここまで書いたはいいが、俺は一番大事なこと、じゃあどうして現代社会が「諦め」に支配されてんのか、ってことをまだ書いてない。

そうじゃないと、このエントリ意味がなくなるな。

告白すると、確証をもてるアイデアは、俺はまだ持っていない。

怒りに満ちていたはずの社会を知らない俺には、それを得る権利はない。

いくつもの理由が考えられる中で、ひとつだけ言うとすれば、やっぱ大戦かなあ、と。

終戦で、日本の持っていた(明治以降作られた)伝統的な家父長的社会が崩れた、ってのはよく言われている。

抑圧は誉められたものではない。しかし、抑圧の中でこそ、光る物が出てくる。そういう言説も、中世芸術の支持者とかによくあって、俺はその考えもありかな、なんて思っている。

終戦以降生まれた日本人、それは「抑圧」を知らない。

「抑圧」世代が主流でいて、かつ自由主義的な政府だった60年代70年代というのが、一番「怒り」が現れやすかった、とも言えるだろう。

すごく解りづらい文章な気がするから、主張をまとめる。箇条書きだけども。

うつ病ってのは本当に増えてる

・指導原理云々ってのは関係ない

・怒りが諦めに駆逐されてるのが原因(表題)

・その一因には、終戦による家父長的社会の崩壊がある

俺は、この社会に怒っている。

だからといって何も出来ないが、少なくとも諦めはしない。

2008-06-14

http://anond.hatelabo.jp/20080614073131

60??70年代日本だって「それなりに都市消費文化を享受して」いたわけで、だから、学生運動の記録をあらためて見返してみると結構あぜんとするのも事実。だから「学生運動をググれ」という意見は正しい。

お茶の水駅前交番が焼き討ちされ、車を倒したバリケードが組まれ、歩道の敷石をはがして投石したカルチェラタン闘争は'69年、開港直前の国際空港に集団で侵入し、管制室占拠・破壊スクラムを組む反対派に機動隊がガス弾を水平発射(?)して死亡者を出したのは'79年。

今40代の人たちが子どもの頃の日本て、こういう時代だったんだよ、と思うとすごく違和感があるね。

2008-05-13

中国凄い

四川大地震被害者一万人!?ってびっくりしてたら、1976年にもっと凄い唐山地震てのがあって、30万人死んだって。

すげー!スケールが違うぜ!

70年代なんて最近じゃん。

やっぱり、死人の数でもはんぱねーな、中国

2008-04-08

イメージ

http://anond.hatelabo.jp/20080408170256

60年代風】

救いを 求めてる 私がいた
夜中そっと あなたの寝顔 見ていた
出会ってからは 必ず幸せになる
あなたの 声を 聞きたい

タクシーを拾い 行き先 告げて目を閉じ
少しづつ
揺れている
la la la la la

70年代風】

世界中 誰にも 知られずに
救いを 求めてる 私がいた
手のひらで
揺れている

私の 存在は この国で 誰も知らない

タクシーを拾い 行き先 告げて目を閉じ
進みたい
進みたい
la la la la la

80年代風】

出会ってからは 必ず幸せになる
Carry on Carry on! LOVE BRACE
抱きしめて 力を 強く強く つかまえていて
Carry on Carry on! LOVE BRACE
2度ともう これほどに 愛せなくて
Carry on Carry on! LOVE BRACE

思いを
少しでも
LOVE BRACE

la la la la la

90年代風】

初めて 私が 心に誓って みたこと
そのぐらい ときどき孤独を感じる時は
伝えたい 運んで LOVE BRACE 私の思いを…
Carry on Carry on! LOVE BRACE
Carry on Carry on! LOVE BRACE
Carry on Carry on! LOVE BRACE
Carry on Carry on! LOVE BRACE
Carry on Carry on! LOVE BRACE
Carry on Carry on! LOVE BRACE
Carry on Carry on!

2008-04-05

http://anond.hatelabo.jp/20080405201815

60年代70年代80年代も総中流とは言われてたが平均的にみれば、今より貧乏でしょ。

http://anond.hatelabo.jp/20080405144954

具体的にいつの話だ?

80年代ならまさにバブルが膨れ上がってく時代だから、そりゃ再現させようってのはムリだろう。

70年代だとオイルショックでけっこう大変だった時代。高度成長経済が終わって、いろいろ混乱してた。

2008-02-28

70年代生まれの男は責任感が美徳とされた最後の世代

責任感というものをたたき込まれて年寄りの相手をするよう仕込まれた最後の世代、それが70年代生まれだ。

なので彼らは驚くほど逆境に耐え、自ら病み、そして一人で死んでゆく。

それに引き替え70年代生まれの女は責任感を放棄したバブル時代に踊らされた挙げ句、男より一歩先に脱世代化した。

なので彼らを支える伴侶となるべき存在は、もはや仮想世界の中くらいにしか存在しえなかったのだ。

そりゃメイド流行るよね。

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