2010-11-14

科学が信用されないのはなぜなのか?

科学信奉者への反感

http://news.livedoor.com/article/detail/5136929/

を読んで、雑感。

私自身は科学を盲信しているつもりもないし、信用していないつもりもない。

科学という方法で得られた結果に対して、ある程度の信頼をおけるという立場である。

盲信している科学者を見ると、科学者であっても科学のことは何も知らないんだなと感じる。

逆に反発している人もいる。

なぜ反発するかについて深く考えたことがなかったので、ちょっと考えてみることにする。

視野の狭さ

まず科学者視野の狭さが上げられる。

科学信奉者は「証明されたから正しい」「実証されたから正しい」と言う。しかしその実は学界の権威が言っていることを正しいとしているに過ぎない。

この意見は全く正しいが、その「科学信奉者」は科学をよく理解していないのであって、科学そのものに反発する理由にはまったくならない。

しかし残念ながらその「科学信奉者」はかなりの数、存在して、一流の科学者の中にも存在する。

「一流の科学者だからといって、科学について正しい知識があるわけではない。」

このことが良く理解されていないのは残念だと思う。

コンプレックス

次に相手への無理解などコンプレックスを刺激することもある。

科学信奉者は「月面は真空であり、無風である」と言う。しかし「月面に行ったとされるアメリカ宇宙飛行士写真では星条旗がはためいているのはなぜか」いう質問には答えようとしない。そこから生じる「あの写真は、本当は月面ではなく、地球上のどこかで撮影されたものではないか」という疑問に対しては、根拠のない妄想と頭から否定する。

一番のポイントは、「頭から否定する」というところだろう。

科学信奉者の視野の狭さを露呈する事実という見方もできるだろうが、ここではコンプレックスという切り口で理解を試みてみる。

何か理由があって科学的に完全に間違いと言うことができる場合もある。

その場合、「間違い」とだけ結論づけると、聞く人は自分の考えを否定されたように思う。

理解できない自分の無能さを暴露されたかのようにも思う。

本来ならば、相手にも分かるように説明してあげなければならないだろう。

相手に分からせるというのが難しい場合もあるが、その場合でも、頭ごなしに否定するのは良くない。

「一流の科学者だからといって、一流の教育者であるわけではない。」

このような頭ごなしの否定は、このようは科学への反発を生む。

これは科学者の説明が下手だったからであり、科学者責任なのではないだろうか。

例えば、

月面に行ったとされるアメリカ宇宙飛行士写真では星条旗がはためいている

と断言しているが、なぜ断言できるのか?

かりにはためいていたとして、「地球上のどこか」という説明以外の説明はないのか?

「こうであって欲しい。」という思いが科学によって否定されることを好まない人がいるのも事実だろう。

「それは科学的に不可能です。」という言明が受け入れられない人が一定数いるのも分かる気がする。

これは「子供意見」だ。

対象が科学でなくても、自分が納得できないことを受け入れられないのは子供だろう。

「妻が死んだ」という事実が受け入れられない夫に似ている。

そう言う意味では、これは科学の問題と言うよりは教育の問題の気もする。

ただ、「科学の説明」という側面もあるだろう。

未知のものや自然に対する謙虚さが欠落し

ういうところにも、「あこがれを否定された悔しさ」がにじみでいるような気がするのは僕だけだろうか。

負の側面

また事実、多くの事件などの負の側面もある。

そのような輩がすることといえば、ロケット打ち上げ連続して失敗したり、原発事故を起こしたり、とろくでもない。

技術力におぼれ、技術に凝るから、おかしな物を作ることになる。

まず、失敗というものは絶対に避けることができないものだ。

減らさなければならないのは当然だが、失敗なしに発展はありえない。

発展と失敗を天秤にかけて判断する必要があろう。

だから「失敗したから良くない」とは言えない。

もしそのように言いたいなら、一切の科学技術による恩恵を捨ててからでなければならない。

ただ、科学に対する慢心という側面があることは否定できない。

ちょうど子供が剃刀を持つと危険だから親が与えないように、

自分で安全に扱える範囲で取り扱う必要がある。

しかし、得てして自惚れというものは恐ろしく、私なら安全に扱えると思ってしまうことがある。

しかもこれは科学だけのことではない。

お金にしても、権力にしても、人は何かを手に入れるとそれにおぼれる。

そうならないように厳しい監視の目が必要である。

この部分について、我々は整備が進んでいないように思う。

現在研究で得られた成果は基本的に雑誌という形で一般に公開される。

この在り方は、もしかしたら見直す必要があるのかもしれない。

研究発明から重大な副作用が生じても「私の仕事発明とその実用化まで。発明品の使い方を誤る人がいても、それは私の責任じゃない」と責任転嫁する。

では、それを「買った人」に責任はないのか。

「欲しい」と言った人は、「本当に安全か」を確認したのか?

「必要は発明の母」と言われるように、要望がなければ科学は発達しない。

要望は、場合によっては単に「知りたい」という欲求であったりもする。

そして、その要望に対して、成果が常に求められ、競争している。

最終的な責任まで確認できるほどの余裕がない。

(もちろん、事柄によってはそのような重大な副作用が生じないかどうかきちんと確認しているものもある。)

そのような状況は一体誰が作っているのか?

問題は「科学」ではなく「科学者」にある

いずれも、「科学」ではなく「科学者」の問題である。

科学者」が信用できないから「科学」が信用されないのである。

科学に対して反発する人を見て、科学のことをよく分かっていないとバカにすることもできよう。

しかし一方でそのような態度がコンプレックスを刺激し、ますます反発を強めることになる。

そしてそのことは科学者待遇を悪くすることにもつながってしまう。

科学者はいかにあるべきか。

自らの待遇改善のためにも、真剣に取り組んで良い問題であると思う。

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