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はてなキーワード: 大谷吉継とは

2021-10-04

anond:20211004114532

大谷吉継お茶椀がスルーされたので石田三成が飲んで、

「オータニさん」は「関が原でこの人につこう」と思ったきっかけだろ

知ってるぞ

2020-03-03

本拠地大坂城で迎えた徳川戦。

先鋒・後藤又兵衛大敗、援軍も勢いを見せず惨敗だった。

城内に響く浪人のため息、どこからか聞こえる「今日落城だな」の声。

無言で逃げ始める兵士達の中、日本一の兵・真田信繁は独り曲輪で泣いていた。

上田合戦で手にした栄冠、喜び、感動、そして何より信頼できる仲間たち・・・

それを今の大坂城で得ることは殆ど不可能と言ってよかった。

「どうすりゃいいんだ・・・」信繁は悔し涙を流し続けた。

どれくらい経ったろうか、信繁ははっと目覚めた。

どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ、冷たい甲冑感覚現実に引き戻した。

やれやれ、帰って調練をしなくちゃな」信繁は苦笑しながら呟いた。

立ち上がって伸びをした時、信繁はふと気付いた

「あれ・・・兵士がいる・・・?」

曲輪から飛び出した信繁が目にしたのは、大坂平野まで埋めつくさんばかりの大軍だった。

千切れそうなほどに旗が振られ、地鳴りのように鬨の声が響いていた。

どういうことか分からずに呆然とする信繁の背中に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「源二郎、出陣だ、早く行くぞ」声の方に振り返った信繁は目を疑った。

「ち・・・父上?」「真田の小倅、居眠りでもしてたのか?」

「た・・・太閤殿下?」「なんだ信繁、かってに関白殿下隠居させやがって」

「三成殿・・・」 信繁は半狂乱になりながら陣立てを見渡した。

一番備:福島正則

二番備:加藤清正

三番備:堀秀政

四番備:前田利家

五番備:小早川隆景

六番備:真田昌幸

七番備:大谷吉継

八番備:石田三成

九番備:豊臣秀吉

暫時唖然としていた信繁だったが、全てを理解した時、もはや彼の心には雲ひとつ無かった。

「勝てる・・・勝てるんだ!」

猿飛佐助から兜を受け取り、戦場へ全力疾走する信繁、その目に光る涙は悔しさとは無縁のものだった・・・

翌日、真田丸で冷たくなっている信繁が発見され、吉村村田は陣中で静かに息を引き取った。

2019-07-25

anond:20190725210907

最新の学説では関ヶ原以前から秀秋は裏切っていて

彼が勝手に動いて松尾山を占拠たか

三成が不安に思って大谷吉継派遣したらしいぞ。

から順番が逆なんだ。

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

2017-04-30

[]

岡崎城に行ってまいりましたわ。

城内は公園化しつつも売店や神社が散在しておりカオスな状況でした。

わたしくの行ったことのあるお城では博多城に似ていますわね。

展示施設は「三河武士のやかた家康館」と「復興天守」がメインになります

三河武士のやかた家康館は、増田先駆者である家康公と

彼を支えた三河武士を展示の中心に据えている建前になっています

ところが目玉的な展示は、ジオラマ映像関ヶ原の戦いを描くものですの。

東軍の主力は外様で、三河武士の精鋭は秀忠と一緒で間に合っていませんわ・・・・・・

井伊直政の抜け駆けと本田忠勝の働きはありましたけど、正直物足りなかったですわ。

長篠なら大久保兄弟酒井が、姉川なら榊原康政活躍しますのに--

三河武士全員が活躍する合戦を探すのは難しいですわね。

あえて言えば三河一向一揆でしょうか。

家康が陣を前に押し出して全軍の士気を高めたことが

強調されていたのは展示側にもその自覚があるからでしょうか。

あと大谷吉継隊の模型が回転しきらずに止まってしまっていて非常に気になりましたわ。

本来は壊滅して盤面上から消えるはずのシーンで、

やっと回転しきって残っていましたわ。

復興天守の方では刀剣甲冑の展示が目立ちました。

甲冑レプリカも含めて三河武士のやかたにも多数あり、

甲冑好きには良いところだと思います

フレームストラクチャーを思わせる刃紋が浮かんだ刀剣武蔵藤原永道が気に入りました。

鞘に緑のラメが入っていましたの。

加茂一揆ジオラマ展示があり、農具に毛の生えた武器をもった一揆勢を

岡崎藩兵が弓矢鉄砲を使って容赦なく鎮圧する様子が描かれていました。

おそろしいおそろしいですわ。

城下町の一日というジオラマシアターもあって、

江戸時代宿場町で横行した強引きわまる客引きを見ることができますの。

女性がやっていても強盗誘拐との区別がつきませんわ。

家康生誕の岡崎城最後に治めたのは本多忠勝系の本多家ですけど、

幕末には最終的に徳川家を裏切っています

ただし、それを決断した藩主養子だったとか。

三河武士のやかたと謳いながら、ちょっと後味の悪い話ですわ。

陽気と有名な藤の花のおかげもあって結構な人出でしたわ。

追記

id:hilda_i様 マリー・アントワネット様にあやかるのは、すでにやったのですわ

http://anond.hatelabo.jp/20161217235117

2015-07-24

セカイ系

たとえば関ヶ原の戦いを描くとして、

A.石田三成フォーカスして西軍を主導する立場を描く

B.大谷吉継フォーカスしてその戦略を描く

C.島津義弘フォーカスして敵中突破の場面を描く

D.武将の一人にフォーカスして凄惨戦場を描く

E.農民の一人にフォーカスして合戦を外から描く

といったような視点の高低があるとするならば、

DやEにおいては、関ヶ原の背景なんかぜんぜん説明しないまま、

個人の内面に重点を置いて描写するというのは十分に考えられることだ。

そこで「関ヶ原の戦い」を「人類の天敵である謎の怪物との大戦争」などに置き換えたときに、

その戦いをDやEくらいの視点で描こうとするのが、

新世紀エヴァンゲリオン」や「ほしのこえ」や「イリヤの空、UFOの夏」などの、

いわゆるセカイ系作品なのではないだろうか。

もちろんここでセカイ系定義をしようとは思わない。

関ヶ原の戦いについてならば、大半の日本人がその背景を知っているから、

あえてそこを説明しなくとも違和感を覚えないのだが、

人類の天敵である謎の怪物との大戦争」のことは作中で説明されないかぎり誰も知らないので、

それが意図的か偶然かはともかく、その謎のまま残される部分が、独特の雰囲気形成しているのだろう。

まりセカイ系は、物語類型的には決して特殊ものではなく、

何か奇妙に感じられるのは、あくまで部分の話でしかない、ということではないか。

2015-03-15

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