はてなキーワード: 伝統とは
知っている。酒もいい加減条約でも作って規制するべきだという議論が出てきてるよ。消費量が際限なく増えていってるし。大規模な健康被害が生じて当たり前だってくらいにね。「伝統的な嗜好品を規制するな」というけど、程度というものがあるんですよ。現代人の飲酒量・喫煙量はちょっとおかしくて、ちっとも伝統的じゃないんだ。まずここを基礎事実としてきっちり押さえてほしいんだけど。
(この2つのグラフは人口で補正すべきことに留意。1人あたりなら増加量は半分くらい)
車の排ガスがどれだけ地球汚して気管支悪い人苦しめてるか知らないの?
どんどん規制が強化されて改善されてることは知ってますよ。最近の車、昔みたいに黒煙モクモク吐いたりしないでしょうが。先進各国の大気や水質は実際どんどん改善されてるし、それで寿命が延びてるって報告もたくさん出てきてる。その間タバコはいったい何をしてたのかってことだよ。NHKスペシャルが大々的に電気自動車を取り上げてる真っ最中に、認識が古すぎないかい。タバコの議論で車の排ガスが持ち出されるたびにうんざりするわ。
無論、年6000人弱の交通事故死をもたらす車社会に問題がないなどとは考えていない。親切にアドバイスしてあげるけど、引き合いに出すなら交通事故のほうがずっと筋がいいですよ。
あとこれ読んで↓
世界規模での調査の結果、間違った思いこみを修正するためのがん予防キャンペーンが必要であること示した(http://d.hatena.ne.jp/uneyama/20080828#p2)
・ 高所得諸国の人々が最も飲酒によるがんリスクを信じない。この集団では42%がアルコールはがんのリスクを増加させないと答えた。中程度の所得の国では26%、低所得国では15%である。実際には飲酒はがんリスクを増加させる。
・ 高所得国では飲酒(51%)より野菜や果物を十分食べないこと(59%)のほうがより多くリスクとみなされている。科学的根拠は逆で、野菜や果物の影響は飲酒の有害影響より弱い。
・ 豊かな国では、飲酒よりストレス(57%)や大気汚染(78%)のほうが大きなリスクと見なされている。しかしながらストレスががんの原因になるとは認識されていないし大気汚染は飲酒に比べれば僅かな寄与しかない。
これなど耳が痛くないかな。
・ 一般論として、全ての国の人々は、過体重などのようなよく知られたがんのリスク要因でも自分でコントロールできるものより、大気汚染のような自分がコントロールできないものをがんの原因と認めたがる。
そんなものありませんって。煙なんか吸ってる以上さ。タバコ業界だって、大規模健康被害の発覚当初は無害なタバコを必死で開発してたけど、挫折して、害を隠蔽したり法廷戦術でしのぐ方向にスイッチしてるんだよね。
「みなさん! もし我が社が、世界初の発癌性のないタバコを販売することができたら素晴らしいと思いませんか? 競争に勝つために我々にできるのは、発癌性のないタバコを開発することです」(ヒル・アンド・ノールトンの弁護士/1950年代)
「タバコは肺癌の原因になると立証された。ここで思い切って"タバコは危険だ"という、今までと逆の立場を取る勇気を持とう。安全なタバコを開発・販売できれば、ライバルに打ち勝つことができるはずだ」(フィリップモリス/1958年)
「悪魔のマーケティング タバコ産業が語った真実」(http://www.amazon.co.jp/dp/4822243427)より
まあ確かに「マナー悪いから」規制というのはどうかと思う。無論マナーの問題はあるが、少なくとも今の世界的なタバコ規制はマナーのためにやってるんじゃない。タバコをいまだに嗜好品扱いしている人たちも理解が足りない。喫煙者・非喫煙者問わず。公衆衛生における位置づけはもとより、そもそも当のタバコ産業の中の人たちがそう考えていなかったのは明らかなのにね。
それにしてもはてな記法は本当に使いづらい。ぜんぜん思った通りの出力にならない。
いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。
それは果たしてどうでしょ?「人道的な屠殺」などが偽善と反発される文脈は、肉食や捕鯨についての現行のあり方が批判された場合の反発などが主だと思うよ。逆に現行のやり方と比べて残虐と見なされる振る舞いであった場合には、容易に激しいバッシングが起こるよ、日本でもね。
つまり、日本で「気休め」以上に受け止められると単純に言うことはできない。整合的な理論として「気休め」に過ぎないって信念を持っているわけではない。
意味がわからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。
動物の苦痛の低減が倫理的意味を持つことは、認められているものとしてこの議論は進んでいると認識している。
もちろん、この前提を疑うことは可能だし、疑う議論も実は多いし、そういった議論にも、個人的には面白いと思ってますが
今、私たちがやっているやりとりの範囲内では、この前提自体はどちらも否定していない、と理解していますし、それが一般的価値観であることも合意されている。
一方、「業の自覚」の倫理的価値についてはあなたの側しか認めていない。
つまり、「動物の苦痛の低減」には、一歩のアドヴァンテージがあるわけよね。
だから、あなたが行うべきは、以下の二つになる。
2.「業の自覚」の価値が主張。この罪悪感は、実際の動物への配慮につながるから価値があるのではなく(むしろそれは偽善として非難される)、頭の中と口先だけで完結するだけであっても、現実の動物の苦痛を低減することに匹敵するだけの価値があることの擁護。
ちなみにあなたが1を選択した場合、こっちはアニマル・ライツの人たちの代弁で議論するか、もうちょっと別の方向でゲームを続けるかちょっと悩んでいる。アニマル・ライツの議論の流用の方が頭使わなくてすむから楽だし、文脈にも合ってるけどね。
こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。
あなたが、”動物への配慮”を重視するものと考える西洋的発想のアンチテーゼ的世界として持ち出してきた東洋像への反論。アンチテーゼとして成り立たないことさえ、示せればそれで議論としては十分。
「何の倫理的問題もない」とはこの議論の中では誰も言ってないと思うのだが、この議論の外にはそういう考え方をする人もいるので、
彼らには彼らのロジックがあるのですよ、とだけ言っておきます。知ってた上で言ってるのかもしれませんが。
私がイラつくのは罪悪感を感じることや「感謝の気持ちは大切だよね」的感性それ自体じゃなくて、それで「菜食主義者」や「アニマル・ライツ」みたいな非論理的な連中を論破できると自信満々な連中なので、論理的整合性の外側での実践やおしゃべりはどうでもいいです。
ついでにいうと、「アニマル・ライツ」が肉食主義を論理的に完全に論破できるとも思ってないです。
だから、「業」論者がアニマル・ライツを超えるもっともらしい論理大系を示してくれれば、それで十分。
要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?
したがって、これにはその通り。
一般的な原理主義研究では、原理主義の特徴はその選択性にあるといわれていると思いますが(たとえば、近代的なものに対する反対物として、伝統の中から選択的にその”本質”を選び出す、とか)。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。
そのあとに「それを指摘することに特段の意味はない」と書いたのを繰り返します。そこに意味はない。グリーンピースでも何でも日本にもいるんだから、日本の文化の一部でもある。
なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。
え、私が広げたの?元増田の時点で、論理的に論破してやったぜ!な人なんだからそこが起点なんだけど。
それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。
「普遍でないものを拒否する権利」がタリバンにあり、タリバンの存在がタリバンを批判する価値観の普遍性を否定している。よってタリバンはタリバン批判を拒否する権利がある。って話?
当人ってのは私のこと?
それが何?俺は現代の日本が属しているようなものを「東洋」と言ったわけで、当然何の断りもなければ「現代」になる。西洋の影響を一切排除したものでなければ「東洋」でないというのなら当然15世紀以前でなければならんわな。そんなアホなという話になるが。
だいたいそもそも「東洋」「西洋」という切り分け自体が「西洋」由来のものだわな。もし日本人が切り分けるなら、境界線はウラル山脈やボスポラス海峡なんかじゃなくてインドあたりになるだろうよ。
はあ?誰も「肉食禁止令」の反証なんかしてないだろう。ものを食うということは殺生という業を背負っているという感覚が日本人には伝統的にあって、それが日本の文化的背景だといってるの。くだらん藁人形論法はよしてくれ。
誰がそんな主張した?
大事なのは何を殺して食べるか、とかではなく
自分の命を大事に生きることでしょうよ
この人。そこからの流れなんだが。いまさら誰が、と言われても困る。
それは俺じゃないし俺はその考えに同意しないので俺に絡まれても困る。
俺はあくまであんたが俺の考えを「妄想」認定した部分に反駁しただけで、他人が何を言おうが知ったこっちゃない。
「妄想」だのなんだのとずいぶんな言われようで、それに対して一々事細かに反論していたらまた感情逆撫でされるだけだと思うので、論点と関係ある部分のみ。
東洋ってどこの東洋?まず前近代の日本は違う。伝統仏教的にも動物と植物は区別されてて、そのために(動物を殺さない植物だけ使った)精進料理なんてものができたわけだし、前近代の日本では仏教的な発想のせいで肉食は抑制されていたよ。
元々「現代の日本」がどうであるかだけが重要なのであって他の点は本筋と関係ないのでスルーしても良いのだが一応一言。
植物と動物は区別されていたが、植物が生物扱いされていなかったというのは誤り。これは過激な菜食主義者でも普通は人間と動物を区別するというのと同じこと。「山川草木悉有仏性」という言葉を見ればわかるとおり、むしろ「山」とか「川」のような、現代的視点では無生物であるものまで生物扱いされていたと考える方が正しい。それからジャイナ教では根菜や球根を食べない。
あと、この文脈でイスラム圏を「東洋」に入れて考えるのはどう考えても言いがかり。確かにそういう言葉の使い方も歴史的にはあったけれど、宗教的も文化的にもアラブなんかは「西洋」とはるかに同質であるのは明らかなわけで。インドネシアやウイグルになると事情は若干異なるけれども。
そもそも「前近代」と一括りに言っても、たとえば戦国時代と生類憐れみの令以降では全然違う。肉食禁忌の江戸時代でさえ、「肉食は抑制」といいながら魚や鳥は食べられていたし、なんだかんだと理由を付けて兎は鳥扱いしたりして、抜け道はたくさんあった。それに、馬肉や猪肉はなし崩し的に食べられるようになっていったわけでね。
「厭う」ってあのな。漁師だってサディストじゃないんだよ。「もっとマシな方法があるからそれを使えば」という建設的な提案なら聞く耳も持つだろうよ。単に「人道的な屠殺」というのが見え見えの口実だから依怙地になってるだけだろうに。屠殺方法が「人道的」だったら批判がやむかと言ったら絶対別の口実がでっち上げられるだけなんだから。
そもそも、日本人が奴らに反発するのは「お前が言うな」という心理が一番強いだろう。人間に対して「人道的な屠殺」という言葉を使った奴らにまさにナチスというのがいるんだが(ガス室は人道的な処刑法だと強弁していた)、「牧場での牛や豚の屠殺は人道的だからいいんだ、それに対しておまえらの屠殺方法はなんだ、野蛮人!」というのは、まるでヒットラーがスターリンや毛沢東やポルポトをえらそうに罵倒してるようなもんではないかね。
他人を見下すための「罪の意識」って何の役に立つの?
「他人を見下すため」という理由付け自体が言いがかりなので反論の必要なし。
遅くなってごめん。
http://anond.hatelabo.jp/20091011030744=http://anond.hatelabo.jp/20091011033130です
http://anond.hatelabo.jp/20091011140528
気持ち悪い偽善、というのはわかるけれど、この考え方はそもそも他の生命の犠牲なしには生きていけないという事実に対して感じてしまった罪悪感を軽減させるためのものでしょう。
もとの罪悪感がないところで服用されると副作用がでちゃう薬のようなものだと思う。
菜食主義者とかに対して、侮蔑を振りまくような人達を想定していた。
個人的に罪悪感を感じてそれを低減させるためにそういう考え方をとっていて、他人を攻撃しない人のことは考えてなかった。
言われてみるとそういう人にはいちいち嫌悪感を感じないかも。
http://anond.hatelabo.jp/20091011203011
横から悪いけど、そんなこと言い出したら、犬や猿を食べる民族だっているわけだからね。特に犬を食べる民族はすぐお隣にいるわけだが、君はそれを否定するわけか?
だいたい、知能が本当に重要なら、知能が相対的に高いとされる豚や牛よりも、相対的に低いとされる猫を食った方がいいということになる。でも、向こうの連中は「猫を食うのは野蛮人」だと思ってるわけで、そこでもまた破綻してるんだよ。
向こうの連中って誰?色々な意見を一まとめにして矛盾とか言ってもしょうがないよ。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。お互いを尊重して口を挟まないことが重要。でないと、ヒンドゥー教徒が「牛を食うな」とか、ムスリムが「豚を食うな」と言って介入してきてますます収拾がつかなくなるよ。
こっちはちゃんと私の意見への批判だね。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。
いや自分は西洋人ではないんだけど、西洋風の発想と言われてもな。
東洋ってどこの東洋?まず前近代の日本は違う。伝統仏教的にも動物と植物は区別されてて、そのために(動物を殺さない植物だけ使った)精進料理なんてものができたわけだし、前近代の日本では仏教的な発想のせいで肉食は抑制されていたよ。
中国についてはちょっと調べてみないとわからない。インドについては伝統仏教的な考え方のルーツで、基本的に慈悲の対象として想定されるのは動物で、植物は例外的。イスラームも動物愛護的な発想がある(審判の日に、人間に殺された動物が自分の殺害の不当性等を、神の前で訴えると言うハディース)が、植物の権利って話は聞かない。
何がおぞましいのかよくわからない。西洋的だから?
罪を自覚すると言いながら、動物の苦痛を低減させることさえ厭う、自称「罪の意識」の方がおぞましい。一種の自慰行為だよね。
他人を見下すための「罪の意識」って何の役に立つの?
だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。お互いを尊重して口を挟まないことが重要。
でないと、ヒンドゥー教徒が「牛を食うな」とか、ムスリムが「豚を食うな」と言って介入してきてますます収拾がつかなくなるよ。
西洋と東洋の対立って話自体があなたの妄想だし、現実的にお互いに口を挟まないなんて事は不可能。
ヒンドゥーが聖なる動物について「牛を食うな」はともかく、ムスリムがただの宗教的禁忌に過ぎない「豚を食うな」を押し付けてくるなんてわけがないじゃん。
http://anond.hatelabo.jp/20091011163548
ベジタリアンがアウトともセーフとも言ってないよ。ベジタリアンにはその反論は無効だと言ってるだけで。
http://anond.hatelabo.jp/20091011203305
個人的にはベジタリアン叩きの方ばっかりよく見るんだが。
http://anond.hatelabo.jp/20091011204130
自分を含むたいていの人にとって、DNAかどうかってあまり関係ないと思う。
人間と区別できない社会や精神を持った宇宙人と遭遇したとして、その宇宙人が遺伝を担う物質にDNAが使われてなかったとしても、その宇宙人を犬やネコより人間扱いするだろうさ。
http://anond.hatelabo.jp/20091011205224
体力があればついていけるし、基本的なことは半年も習えば身につくと思う
難しいのは間伐する木の選び方と倒す方向の選び方、あと枝打ちの深さ(*)の調節くらいかな
昇って枝打ちも器具の使い方さえ覚えれば誰にでもできる
ただし、どの仕事もミスると間違いなく怪我する、危険なのは間違いない
その道に進みたいなら行ってもいいが、先の保証がまるでないことも書いておく
さらに、伝統的な製材の方も人がいなくなっていて、生産できても使えないとか、せっかくいい木が作れてもがりがりと削ってチップ材になったり合板の材料になるとかいう落ちが待っている
高いんだからしょうがないけどね、家具に使えるレベルの木だと齢80年以上で年輪が均一でないと駄目だし、そうすると値もかなりのものになってしまう
建築にしても、家の骨を組む場合この部分はこのくらい目の詰まった木で、ここはこのくらいの木でとか有るそうなのだけど
現代建築に流されて知ってる人はもういないんじゃないだろうか?
3万人とかいってるけど、それを支えるだけの需要なんて今はない
これから作って行くなんて言うのだろうけど、どうやって木材の流通をあげるつもりなんだろう?
(*)幹すれすれで枝を落とさないといけないとか、数cm残して落としておく場合とか、木や植わってる場所などで変わる、ミスって切らずに折ってしまうとそこから木が腐るので、間伐する予定の木で練習する、マジ難しい
少なくとも条文上は「未満」じゃなくて「以下」が用いられてるね。「1年未満の懲役」とか言うと364日の懲役が最長になるけど、なら1年「以下」で365日もOKの方が分かり易いじゃん。
判決で「被告人を懲役364日の刑に処する」って言われるよりは「被告人を懲役1年の刑に処する」の方が格好いい。
「3年以下の懲役」がもし「3年未満の懲役」だとすると、上限の刑を課す時に「懲役2年11ヶ月30日に処する」とか言うハメになって、ますます格好悪い。
逆に下限が設定されているときは、「3年以上の有期懲役」(上限も設定されている例)とか規定されてる。「以上」「以下」で対応。「未満」に対応させて「3年より長期の有期懲役」とか言うことも不可能ではないだろうけど。
なんで「最長」って言わないかってのは、伝統的にそうなってるからってのが一番正確な答えだろうと思う。
「最長」って言われると、併合加重でそれより長い刑を課す場合とかに、なんか違和感が無くもない……と思ったけど、そりゃ「以下」でも一緒か。
懲役・禁錮のような自由を奪う刑罰で「最長」を使うなら、財産を奪う刑罰では「最高30万円の罰金」とか言うんだろうか。「以下」なら、長さと金額とで言い分ける必要は無さそうだ。
映画館なんかで、「盗撮動画をアップロードすると◯◯年以下の懲役刑が課されます」とかいう宣伝を見ると、確かに違和感を感じる。「最高◯◯年」の方が日常会話に近い気はする。でも、条文で読むと「◯◯年以下の懲役に処する」という書きぶりに違和感は感じない。
http://3500131221.blog120.fc2.com/blog-entry-96.html
を見て思ったこと。
鯨の肉は美味いし捕鯨賛成派なんだが、捕鯨を正当化出来るかというと難しい。そもそも正当化という行為が、倫理問題の俎上に乗っかることだから、その俎上での敗北は死刑賛成論と同じで目に見えている。
従って、ダブスタになるのは仕方が無いのだ。「Aがやってるんだから、俺だってやっていい」「俺らが批判されるなら、Aも批判されるべき。Aは批判されていないので、俺らは批判される謂れはない。」というのは、屁理屈としては成り立ってるんだけれども、「従って~してよい」といった、行動を正当化する為の規範としてはアウト。これは、「エチオピアがスーダンに侵攻しているんだから、中国は韓国に攻め入ってよい。エチオピアが国際的に非難されているとは言い難いので、中国の侵攻も非難される謂れはない。」という例で考えてみれば、如何にぶっ飛んでるかが良く分かる。
ただ、重要なのは、ダブスタを批判することではなくて、そもそもなぜダブスタにならざるを得ないか、ということを考えてみることだろう。翻って我々の日常を省みてみれば、我々の意識しない常々の営みというものが、如何に危うい非倫理の上に成り立っているかが良く分かる。
近代は、そういう非倫理的な部分、意識されてこなかった「伝統」や「慣習」を日の元に暴き出してきた。
そうして近代において、倫理は引きずり出してきた相手に向かって問う。「自分が正しいと思うならば、それは客観的な倫理に適っている筈だ」と。これは、言い換えれば「自分が正しいと思うならば、拷問にも耐えれるはずだ」という名の下に異端審判をやってきた中世末期と、形式的には変わるところがない。
つまり、倫理の元にさらけ出されたが最期、前倫理的な慣習や伝統というのは、屈するか、諦めてダブスタを取るか、感情に訴えかける位しかないのであって、こんなものはハナから無理な戦いなのだ。
したがって、重要なのは、反対派も賛成派も、この構図、「倫理様には適わない」という厳然たる事実を論を立てるときに意識し、踏まえた上で話をすることであって、特にそうでもしなきゃ、賛成派は、反対派と屁理屈で戯れ、水掛け論をやっているつもりで、いつの間にか駆逐されていくことだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20091006210805
ツッコミをモヒモヒして待ってたのに、はてブばかりが伸びてる割にトラバツリーがイマイチ伸びてないように見えるので、増田からも。
基本的に「コンデジ」と「デジイチ」を「使い方」という面から差別化するなら、前者はレンズがカメラに据え付きであり、後者はレンズを替えられる、というのが最大の違いとなる。因みにこの分け方の場合、「一眼レフ」ではないオリのE-P1だのパナのGH1だのは、後者。こいつらは「レフ」と表現されるミラーを持たないからデジイチにしては薄くて軽いが(ミラーってカメラの中で斜めに寝た状態にあるから、場所喰うんよ)、ファインダが光学じゃないから、気をつけろ。ファインダが光学である利点は、↓とかを参照。無論、ファインダがデジタルであることのメリットもまたある。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/480
は置いといて、コンデジの場合、レンズが据え付きだから、後で替えが利かない。「画質がいいですよ~」とか店で言われたのをそのまま受け取ってGR3とか買っちゃうと、運動会でガキが豆粒にしか写らなくなるので注意だ。一方、やたらズーム率の高いデジカメ買っても、所詮今の高画素なカメラであればトリミングさえしてしまえば十分だったりするので、用途によってはオーバースペックになることもある。ただ、コンデジの場合多数派は後者で、要するに「誰でも何でも撮る」ことを優先していて、ズーム率も高いしシーンモードも色々ある、ことが多い。
自分も、コンデジを買うなら「汎用性」を重視すべきだと思う。ほぼフルオートで、ズームで構図とる以外はほぼカメラ任せでも、とにかく常時携帯して何か見つけたら撮るくらいの気持ちで付き合えば、かなりお気に入りの存在となるはずだ。その場合、広角端を意識して買うべし。さっきも書いたが、ズームはある程度まではトリミングで誤魔化せるからな。
逆にデジイチはレンズが交換できるのが、逆に、あれ撮りたいこれ撮りたいとかなってレンズを無限に買い出すと、レンズ1本でコンデジ2~3台レベルなんてのは普通にいくらでもあるので、財布に気をつけろ。概ね、こうしたレンズ選びは「何を撮るか」の目的に合わせたものになると思う。被写体がはっきりしている場合には、向いているだろう。最初にキットレンズからはじめて、撮る目的が色々見えてきたら、というのはレンズを選ぶ感じか。
室内とか曇天とか、ちょっとした悪条件でカメラのシャッタースピードはすぐ落ちるので、特にコンデジや携帯だと家で子供とかぬこを撮る場合に大いに苦労する経験をされた方は多いだろう。
シャッタースピードは、当然のことながらカメラが受け取る光の量に比例する。逆に言えば、同じ明るさでもカメラで受け取れる光の量を増やせばシャッタースピード稼げるわけで、受け取る量は「レンズの口径を広げる」か「素子を大きくする」ことで実現し、このいずれについてもデジイチはコンデジを大きく凌駕する。ただ、素子の大きさに制約のあるコンデジにおいても、素子の形状や光の受け取り方を工夫することでこの制約を突破する試みは存在し、全社の代表格として富士のEXRシリーズ、後者の代表としてソニーのExmor-R採用コンデジがある。
無論、それでもデジイチとの性能差は大きいのだが、どうせ室内で子供とかバシャバシャ撮っても、A4にすら引き伸ばさず、せいぜいL版でアルバムに収めるくらいなんだったら、コンデジのこの辺りの性能が高いヤツでシャッタースピード稼げば、十分歩留まりのよい撮影になるだろう。それでも「画質がいい方がいい!」だったら、基本デジイチのレンズキットでそんな明るいのは無いので(例外:パナソニックのGF1→キットレンズが20mm/F1.7)、レンズを別途見積もるのを忘れるべからず。
少なくとも今現在の話として、コンデジは、現下の不況と画素数競争の終焉、携帯撮影文化の定着という逆風の中で絶賛苦戦中である。そうした中で、(特にソフトウェア的な)技術だけは着実に進化を遂げる中で、進化の袋小路的な変態機能が各社から繰り出されている。カシオの超高速連写、ニコンのプロジェクタ内蔵、富士の3Dコンデジなど、言わば「ガジェット的」方向性が見出されるコンデジは多い。こうした機能に「釣られてみる」のも悪くは無いだろう。
一方、デジイチというか伝統的なカメラにおいては、伝統的な遊びとして、テレコンやワイコン、マクロレンズ、フィルタ(クロススクリーンでキラキラな夜景とか、NDフィルタで滝の流れを撮るとか)などによる様々な表現手法が存在する。こうした機材による撮影表現遊びは、ハマると愉しいだろうと思われ。
色々と違いを述べたが、最大の違いはここかも知れない。
コンデジはともかく、結構オート化している。高級なものはある程度マニュアル機能も充実しているが、そういうのはむしろ、デジイチを持ってる人が軽さや機動性を求めて購入するものだろう。
確かに、シーンの操作やズームなど、撮影者の意図は入力されるものだが、大きな方向性としてはプログラムシフトだの絞り優先だのシャッター優先だのよりは、カメラが「勝手に決めた」設定で撮影が行われ、カメラが「勝手に」補正し、時にはカメラが勝手に顔色まで認識してくれた上で、絵として記録される。AFやファインダの敏捷性も高くないので、タイミング的な意味でもある程度カメラに「引っ張られる」部分はあるだろう。というと何かコンデジ駄目じゃん的な印象はあるが、実際「カメラが決めてくれる」気持ちよさ、みたいなのは、確実にある。暗所などの弱点はあるが、記録としての歩留まりは確実に今のコンデジは確保してくれるだろう。
で、デジイチの方はというと、これも一部にはオート機能がオプション的に充実してたりはするものの、総じてはある程度以上「撮影者の意図」を反映する機材である。観光地とかで「シャッター押してください~」と声を掛けてデジイチを渡す人は、普通はいない。
絞りをコントロールしてボケを付けたり付けなかったりとか、わざとシャッター速度を最適からはずして流し撮りとかをしてみたりとか、ピントを被写体の目に合わせてみたりとか、色のバランスを変えてみるとか。こういう機能は、ある程度コンデジにもあることはあるが、制約が付いてるケースが大半である。言わば、コンデジが「メニューから選ぶ」もので、デジイチが「自分で組み合げる」もの。ただ、センスがなければ、機材がいくら良くてもヘボいものしか出来ないという意味で、間違いなく敷居は高く、挫折したら投資が無駄になるリスクもあろう。
そうは言っても、素子とレンズの質の高さでしか実現できない絵はあるので、金と目的があるなら、デジイチに挑んでみるのも良いかな、とは思われ。
むしろここまで言われても清潔にしない人の気持ちが知りたい。
もう不潔であることがアイデンティティーになっちゃってるんじゃないか、とか。
どうやったらそこまで不潔好きの人を清潔好きにできるのか。
不潔が好きなんだからしかたないじゃないか。きっといろいろ事情があるんだよ。
・不潔であることに安心感を感じる。
・清潔さになにか悪を感じる。
・清潔な人間はなにかを偽っている。
・不潔であるほうが自然である。
・清潔な人間はかっこつけだ。
・過去に清潔な人間にいじめられていたことがあり、清潔な人間を嫌っている。
・常に不潔な環境にいたので、それ以外の状況を思い浮かべることができない。
・親の代から不潔だ。オレは伝統を守るぜ。
・外見にこだわるなど男のすることか。オレは日本男児だ。
・清潔にする金がない。
・服を買うにもセンスがない。
・清潔にしてももてなかったら、もう後がないじゃないか。いいわけがなくなってしまう。
あまりに酷いはてサのやり方に疑問を呈した久間氏に、はてサが総括を迫り、はてなから追いだした。
あーあ。まるっきり日本のサヨの伝統、総括での殺し合いだよ全くw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
なんなんだ、はてサって糞どもは。
http://b.hatena.ne.jp/entry/h.hatena.ne.jp/hisamatomoki/9234072491643734439
id:hit-and-run 「バカは相手にするな」という理屈。それが有効な場合もあるが、在特会はそうではない。「永遠に罵倒できる存在を求めてる」云々は単なる憶測で、久間のサヨク嫌いが投影されているだけ。 2009/09/30
id:nekora もしや釈服で総括を迫ってブログを潰した実績はネット右翼よりもはてな左翼の方が多くね?そうでもない? 2009/09/30 18
id:opemu 社会 在特会と直接相手せざるを得ない人間がいるんだよ。彼らの遠征先の在日の人達であったり、行政の職員であったり。その人達に在特会の「存在を忘れさせる抗議」というのがあるのなら、是非それを教えて欲しい。 2009/09/30
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id:y_arim hatena haiku id:hisamatomoki 「俺は傍観するぞ!! ジョジョォーッ!!」と叫ぼう。力強く自分のものとして宣言しよう。 2009/09/30
id:type-100 はてな なんだろう、パターナリズム? 雨の中で傘をささずに踊る人間に、体を大事にしろよと言ってる感じ? 2009/09/29
id:buyobuyo http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20090502/p1 の※欄のやり取りとか思い出すと非常にむなしい。/ id:Midas 彼を持ち上げて英雄化する意味がわからん。 2009/09/29
id:kokogiko 2009/09/29
id:inumash はてな あー結局こうなっちゃったのか・・・。俺とかはノイズ扱いしてもいいがsk-44さんの真摯な批判は正面から受け止めるべきだと思うんだよなぁ・・・。 2009/09/29
id:Attention 今回は方法論としてもまあまあだったので、そこまで言うほどじゃない。と、上から目線で語る俺。 2009/09/29
id:namakeru 2009/09/29
id:toroop 被害者側の非が気になってしかたないという人が多数を占めたときこそ、加害者側を容認する社会になるのだろうに。これ『「反在特会」勢力が叫ぶいかがわしさ』に改変できそうだなあ……。 2009/09/29
id:Cinderellove はてなハイク (訂正前の)一連のコメントは久間さんのかねてからの主張と照らしても一貫性あるように思えたので「言い過ぎでした」「そんなつもりじゃ」というレベルでの応答なのが逆にふしぎです。 2009/09/29
id:mujin 話法 話の内容はともかく、馬鹿な奴らが理解してくれないから俺帰る的な被害者ぶりっこで同情引こうとするのは止めた方がいい。どうせ出戻る癖に。てかtoledタンのそういう姿勢を批判してたんじゃないの?買い被りかなぁ。 2009/09/29
id:nopiko 2009/09/29
id:apesnotmonkeys 「傍観」のアウトソーシング 2009/09/29
id:Doen 『特に数名……わかってくれる気がしない。』本当に理解してほしいのであれば、その数名の名前くらいは書いたほうがいいと思う 2009/09/29
id:K416 何だかな。「回り」じゃなくてあなたの話だと思うんだけど。 2009/09/29
id:Dynkur 2009/09/29
id:yachimon 2009/09/29
id:kyo_ju 2009/09/29
id:zaikabou 『感情ある、それぞれの人間』ってのは“無闇に反応して煽ってるだけの連中”にも言えることで、そういうの前提で、自分に出来る事って何、を考えないといけないと思うんだよね…変に諦観するよりゃいいと思うけどね 2009/09/29
男(略)
だから選択的夫婦別姓は早く導入されるべき。
とか言ってる進歩的な左翼人たちも、結婚そのものは否定しないんですよね。
伝統的権威(幻想ですよね!)と戦い続ける左翼ファイターも、結婚生活には憧れるんだなー。いい話ダナー
という煽りを思いついたんだけど、はてサ(自称する人もいる位で、尊称ですよね!)のトラックバック、俺、待ってる。
名前という発想自体に問題があるのではないか。とか。だめかな。
あとちょっと調べたら、「明治より前は夫婦別姓だった」ってどうやら間違いっぽいんですけど。調べましたか?どうでしたか?
あと別姓になると、お墓とか遠い親戚の冠婚葬祭とか、超めんどくさいことになりそうじゃね?冠婚葬祭って発想自体、はてなっぽくない?
あと一家で事件に巻き込まれたニュースとか、名前のテロップが出てきても何が何だか分からなくね?気にする方がていどひくい?
メリット盛りだくさん。デメリットは、大したことないよね。幻想です。ネトウヨの妄想。マジ笑える。って雰囲気が優勢ですが、どうかな。
わたし、みんなの話が聞きたいだけなの。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090927-OYT1T00001.htm
政府与党による民法改正により、ようやく夫婦別姓が実現しそうである。
結婚をとどまっていたカップルも、これでやっと結婚できるようになるかも知れない。本当に喜ばしいことだ。
夫婦同姓など、そもそも発想がおかしい。「個」を否定し「家」に権威を求める、頑迷な発想だ。
そして、夫婦別姓に賛成する貴方は、ここで更に考えなければならない。
別姓ではなく、無姓とすべきではないか。
氏。あるいは姓。あるいは苗字。氏と姓は歴史のなかで形骸化したが、その機能は苗字へと統合され、
いまだにゾンビのように生き続けている。「個」であるべき我々を、連綿と縛りつけている。
同姓だろうと別姓だろうと、姓は姓だ。
「個」を否定し「家」に権威を求める愚か者の発想を、貴方はどうして肯定するのか。
「伝統」という名の無意味な幻想が罷り通っていることに、なぜ疑問を持たずにいられるのか。
貴方が夫婦同姓を否定し、別姓を肯定するとき、そのダブルスタンダードに気づくべきである。
否定すべきものを肯定していることに気づいていないぶん、愚か者より更に愚かであることを、自覚すべきである。
一部識者によると日本の国債のデフォルトは単なる可能性ではなく、だんだん現実味をおびている。日本を救うことはできるのか?
多くの投資家にとってそのような悲観的なシナリオはばかげていると感じられるかもしれない。しかし日本の経済は1990年以降、ずっと低迷している。(中略)それ以降、日本政府は巨額の景気刺激策を実施した。そしてそれが巨大な構造的財政赤字をつくり上げた。日本の国家負債はGDPの217%であり(上の表参照)、アメリカの81.2%、G20の72.5%より大きい。今後40年の間に日本の人口は20%減少し、就業年齢の人口は41%も減少すると予想されている。
もちろん、日本が深刻な問題に直面するだろうという議論には反論もたくさんある。日本の負債比率は高いが、その95%は円建てであり、国内での借金である。日本の貯蓄水準は高いので、アメリカのように中国や日本人のお世話になることはない。また日本の債券の多くは日本政府の機関や政府関連の投資主体によって保有されているので債務は二重に勘定(double count)されている。
日本の10年債の金利は1.3%に過ぎない(アメリカは3.4%)ので利払い負担は比較的小さい。リチャード・カッツによれば日本の利払い負担額は現在過去20年で最低となっている。
カッツによると「弱気筋はアルマゲドンのシナリオを唱えているが、日本が急激に危機に陥る可能性は低い。日本は1兆ドルの外貨準備があるし、貿易収支も黒字を保っている。」
しかし日本が改革できる可能性に関しては疑問の声を挟む向きもある。ハーバード大学ケネディー・スクールのウイリアム・オーバーホルトは日本のデフォルトは単なる可能性ではなく、だんだん現実味をおびつつあるとしている。彼によると「日本の負債は今後も増加することが運命づけられている。なぜなら年金の積み立て不足や市町村の財政破綻の面倒を国がみなくてはならないことは確実だからだ。」
「日本は投資家のセンチメントがこれまでの落ち着いたものから急激に悲観へと転ずる転換点にどんどん接近している。日本国債は世界経済の歴史で最大級のバブルだったということが判明する羽目になりかねない。」
ゴールドマン・サックスの山川氏は最近のレポートの中で日本の国債の金利が名目GDP成長率に比べて恒常的に高くなるリスクに警鐘を鳴らしている。これは雪だるま式に政府の利払い負担が増える結果になりかねない。民主党の景気刺激策の影響もあって日本の財政赤字はGDPの10%を超える状態が向こう3年くらい続く可能性もある。「これが財政破綻につながるリスクもある」とゴールドマンのレポートは書いている。
20年近い景気の低迷とデフレの中で日本の人口は今後かなり激しい減少を見ると予想される。(上のグラフで赤を参照)
また、就業年齢の人口の減少は全体の人口の減少より早いペースになる。
日本は伝統的に移民政策に対して抵抗感をもっているので、人口減と相まってGDP成長をねん出するのはどんどん難しくなる。
「日本政府は競争力のある産業のプロモーターという役割から負け組産業の保護者という立場にかわりつつある。」
http://gaikokukabuhiroba.blogspot.com/2009/09/blog-post_27.html
民主党のマニフェストに無駄な公共事業は廃止するとあり、その目玉としてこれらのダムが取り上げられていた。しかし、無駄なダムは岩手県や北海道にもある。それらには触れず、こっちだけを建設中止するとしているのは、群馬県と熊本県が自民党の地盤であり、岩手県と北海道は民主党の地盤だからである。
底の浅い話に道化が踊っている状態で、真面目に取り上げるのがばかばかしい話なのだが、このネタがさも重要なネタであるかのように考えている人が意外と多く、もっと重要な話が取り上げられないという結果になっている。
マニフェストで中止を主張しているというのであれば、国費の出費を止め、その分を地方交付金として出して地方の事業として完成させるというやり方を取るしかないであろう。無駄な公共事業は中止するのではなく、スタートさせないという事で対策するべきである。調査の開始=建設の開始という自民党政権の悪しき伝統こそ、変えるべき点である。
政権交代の度に、出来そこないの公共事業が増えていくというのは、政権交代はさせるべきではないという結果に繋がる。
公共事業を中止するというのであれば、岩手県には、未着工や建築中のダムが4つある(簗川ダム、津付ダム、遠野第二ダム、胆沢ダム)、北海道にも4つある(西岡ダム、徳富ダム、当別ダム、圧幌ダム)、他にも民主党前党首が迂回献金を受け取っていた西松建設がらみで青森の津軽ダム、山形の長井ダム、宮城の二ツ石ダムというネタもある。
これらのダムは必要なダムで、八ッ場や川辺川が不要なダムだという基準は、明らかにされていない。
[2009.9.27] http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/diary.html
原油価格を吊り上げる事は、原油の輸出によって国家財政を賄っている産油国にとって、手っ取り早く利益を上げる手段であった。生産調整を行って価格を維持するという伝統的な手段では、抜け駆けをする所が出る。さらに価格が上昇すれば、その価格で採算が取れる地域が産油国となる。価格を吊り上げて利益を増やそうとしたのに、利益を独り占めできない。
生産調整による価格のコントロールは、非効率的であるが、少なくとも、産油国にはそれ以外の手段が与えられていなかった。
しかし、イラクの問題で、アメリカに産油国の安全保障の義務を背負わせるのに成功したことから、原油価格をWTIの相場によって吊り上げるという手段が利用可能になった。
WTIの市場はアメリカの市場であり、それをコントロールする権利は、アメリカにある。コントロールを緩めて、原油価格を吊り上げ、産油国に米ドルをつかませ、その米ドルの運用先として、CDSを準備した。
腐敗したCDSを虚構の高値で売った原油の利益で買わせ、辻褄をあわせるというプランであった。無論、予定外のグローバリゼーションで成長してしまった後進国・中進国の利益も、CDSで吸い取る予定であった。問題は、産油国や成長した国家がそろいも揃って反米で、ユーロにお金を動かし、ユーロがCDSを買ったという事であろう。おかげで、EUは空前の好景気を得たが、虚構が崩れ落ちるのに巻き込まれた。
EUの赤字をコントロールしなければならないという事で、規制でがちがちに固められているWTIであるが、EU側の業者が価格操作をやれるという話に、産油国のSWFを乗っけるという罠が発動していたのである。
産油国にとって、WTIの価格を吊り上げるのは、相互不信の原因でしかない生産量調整よりも、はるかに効率の良い利益の確保であった事から、食いついた。1バーレル=$75という目標も出ていた。
そういうわけで、70ドル前後にまで吊り上げてもう一息、もう一息と、お金を引っ張っていたのだが、そろそろ、ばれたようである。確かに原油価格は上昇しているが、原油の需要自体が減退してきており、油価の上昇によって産油国となった地域の売りを、産油国が買い支えるという、馬鹿げた相場が続いていた事に、気づかれてしまったようである。
やめるには、契約を打ち切るという正当な手段もあるが、それには、産油国のSWF同士で足並みをそろえなければならない。しかし、SWFが資金ショートを起こして破綻したという理屈であれば、足並みをそろえる必要は無いし、高値で掴んだ先物の赤字を補填する義務も無くなる。
WTIの価格がドスンと落ちたが、産油国がSWFを切り離して逃げるのであれば、買支えの実務を請け負っていた所は、損失を減らす為に売りに出る。どこも買わなくなるので、下落が止まらなくなる可能性があるのであった。
[2009.9.25] http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/diary.html
これらをどう転換するか
後の平成オイルショックである。成功すれば世界でも有数の環境大国になることは間違いない。失敗すれば目も当てられないことになるのは必至。
【政策目的】
○課税の根拠を失った暫定税率を廃止して、税制に対する国民の信頼を回復する。
○2.5兆円の減税を実施し、国民生活を守る。特に、移動を車に依存することの多い地方の国民負担を軽減する。
【具体策】
○ガソリン税、軽油引取税、自動車重量税、自動車取得税の暫定税率は廃止して、2.5兆円の減税を実施する。
○将来的には、ガソリン税、軽油引取税は「地球温暖化対策税(仮称)」として一本化、自動車重量税は自動車税と一本化、自動車取得税は消費税との二重課税回避の観点から廃止する。
【所要額】
2.5兆円程度
42.地球温暖化対策を強力に推進する
【政策目的】
○国際社会と協調して地球温暖化に歯止めをかけ、次世代に良好な環境を引き継ぐ。
○CO2等排出量について、2020年までに25%減(1990年比)、2050年までに60%超減(同前)を目標とする。
【具体策】
○「ポスト京都」の温暖化ガス抑制の国際的枠組みに米国・中国・インドなど主要排出国の参加を促し、主導的な環境外交を展開する。
○キャップ&トレード方式による実効ある国内排出量取引市場を創設する。
○地球温暖化対策税の導入を検討する。その際、地方財政に配慮しつつ、特定の産業に過度の負担とならないように留意した制度設計を行う。
○家電製品等の供給・販売に際して、CO2排出に関する情報を通知するなど「CO2の見える化」を推進する。
【政策目的】
○国民生活に根ざした温暖化対策を推進することにより、国民の温暖化に対する意識を高める。
○エネルギー分野での新たな技術開発・産業育成をすすめ、安定した雇用を創出する。
【具体策】
○全量買い取り方式の再生可能エネルギーに対する固定価格買取制度を早期に導入するとともに、効率的な電力網(スマートグリッド)の技術開発・普及を促進する。
○住宅用などの太陽光パネル、環境対応車、省エネ家電などの購入を助成する。
【政策目的】
○住宅政策を転換して、多様化する国民の価値観にあった住宅の普及を促進する。
【具体策】
○リフォームを最重点に位置づけ、バリアフリー改修、耐震補強改修、太陽光パネルや断熱材設置などの省エネルギー改修工事を支援する。
○建築基準法などの関係法令の抜本的見直し、住宅建設に係る資格・許認可の整理・簡素化等、必要な予算を地方自治体に一括交付する。
○正しく鑑定できる人(ホームインスペクター)の育成、施工現場記録の取引時の添付を推進する。
○多様な賃貸住宅を整備するため、家賃補助や所得控除などの支援制度を創設する。
○定期借家制度の普及を推進する。ノンリコース(不遡及)型ローンの普及を促進する。土地の価値のみでなされているリバースモーゲージ(住宅担保貸付)を利用しやすくする。
○木材住宅産業を「地域資源活用型産業」の柱とし、推進する。伝統工法を継承する技術者、健全な地場の建設・建築産業を育成する。
【政策目的】
○1次エネルギーの総供給量に占める再生可能エネルギーの割合を、2020年までに10%程度の水準まで引き上げる。
○環境技術の研究開発・実用化を進めることで、わが国の国際競争力を維持・向上させる。
【具体策】
○世界をリードする燃料電池、超伝導、バイオマスなどの環境技術の研究開発・実用化を進める。
○新エネルギー・省エネルギー技術を活用し、イノベーション等による新産業を育成する。
○国立大学法人など公的研究開発法人制度の改善、研究者奨励金制度の創設などにより、大学や研究機関の教育力・研究力を世界トップレベルまで引き上げる。
【政策目的】
○国民生活の安定、経済の安定成長のため、エネルギー安定供給体制を確立する。
【具体策】
○エネルギーの安定確保、新エネルギーの開発・普及、省エネルギー推進等に一元的に取り組む。
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▽
遠山の金さんといえば庶民感覚で犯罪者を裁いた”名裁判官”として歴史に残る。通俗大衆小説のモデルにもなり、何回かテレビドラマにもなった。
お白砂には花吹雪舞う刺青の松方弘樹扮する金さんが颯爽と登場して悪を懲らしめ、弱き庶民から拍手喝采をあびる。
江戸時代までは検非違使の伝統が息づいていた所為か警察、検察、司法が同じ行政機関で行われた。警察が逮捕し、検察が起訴し、裁判所が法に従って結審するという近代の概念はなかった。火つけ強盗改めの長谷川平蔵も然り。
大岡越前守も温情主義裁判で庶民に人気がある。考えてみれば南町と北町奉行所の同心だけであらゆる民事裁判をまかなっていたのである。
江戸時代を世界同時代的に俯瞰すると日本はたいそう治安が良かった。日本人が裁判沙汰を好まなかった証左にもなる。
水戸黄門様は印籠をかざして即席裁判。これは超法規行為であり、そもそも黄門様は司法の独立って概念を知っていたのかな。
そういうわけだから日本人は争い事が嫌い、裁判は避ける。なにごとも裁判で決着をつけ、交通事故でも弁護士をよぶ米国とは法律の風土が違う。
だが世の中が変わり「国際化」というアメリカ化が進んだ。外国人の犯罪ばかりか、外国企業との軋轢、特許係争が頻発し、あげくは米国からの強い要求が突きつけられる。日本に弁護士が少ない、と。
この結果、二つの政策が実現した。まずは大学に雨後の竹の子のごとく誕生した法科大学院。
そして日本に馴染むかどうか不明な新制度、すなわち裁判員である。しかもこの裁判員が臨む裁判と言えば殺人、傷害致死、放火、身代金誘拐などの重大犯罪であり、死刑か量刑か無罪かを決める「大岡越前」の小型ヴァージョンとなる。実際に最初の判決が八月初旬に実現し「業界予想よりすこし思い」量刑が下った。世間の常識が裁判官の常識を変えた例になった。
ともかく裁判員制度の発足は米国からの圧力が遠因、これに財界の要求が一致し、日弁連が便乗した。奇妙な、面妖な裁判員制度が日本にうまれた。
左右の境界線がないまま賛否両論が渦巻き、「ともかく始めてみなければ分からない」ということになったわけだ。
議論は曖昧なまま、米国へのジェスチャーのごとくに審議が進み、国民が誰も知らないうちに米国流の「陪審員」制度の誕生となったことは述べたが、米国には黒人奴隷制やリンチによる縛り首があった。日本とは異なり犯罪者も多く、弁護士は百万人以上、なかには悪徳弁護士、アンビュランス・チェイサー(救急車を追いかけて患者から事故の弁護士を成功報酬でいかがかと注文をとる)もいれば、マッチ・ポンプもいる。セクハラをでっち上げて日本企業から大枚をせしめた手合いもいる。
だから伝統重視の保守派がいきり立って反対の論陣を張る。教養の低い、裁判官に比べると法律知識のない素人にそんな重大犯罪を判定させて良いのか、それこそ左翼の思う壺ではないのか、と。
第一に無知蒙昧なる庶民が重大犯罪を裁けるのか。冷徹な判断が出来ず情実に走り、死刑を避ける傾向が顕著になるのではないのか。
第二に陪審員は買収されやすく誤審、冤罪が多く死刑執行後に真犯人がでるケースが米国では頻発している。だから「逃亡者」というテレビは大ヒットした。反面で、陪審員を黒人ばかりにして、妻殺しの「無罪」を勝ち取ったO・J・シンプソン事件のような法廷テクニックの悪用がおこる。
第三にこれは基本的に人民裁判であり、ソクラテスの「法は法なり」と言って毒杯をあおいで死ぬようなケース、あるいはマリー・アントアネットのように左翼お得意の人民裁判が復活する恐れはないのか。
▲上告審には適用されず、なんのために必要なのかは不明
細かな問題点はほかにも多々ある。
一、選挙管理委員会のリストを元に無作為に選ばれる「裁判員候補者」は面接で拒否されることもあるシステムとはいえ、拒めば罰金とか、法廷の密室での協議内容は一切喋ってはいけないが、違反した場合、数十万円の罰金とか馴染めない特徴あり。
四、多数決で裁定することが本当に妥当なのか等々、問題点が沸騰する。
ところが新制度では凶悪犯罪の一審でしか適用にならず、高裁から最高裁へと上告するに従い、裁判員はおかれない。どのみち現在の裁判で一審で終わる裁判は稀だから、それならいったい何のためにこういう「改革」が必要かも論議された。
裁判員制度導入に賛成する保守の論客も意外に目立つ。代表選手はコラムニストの高山正之氏だ。
高山氏は産経新聞ロスアンジェルス特派員時代に多くの裁判を傍聴し、陪審員制度に精通し日米の裁判に関連する著作も多い。
法律の解釈しか知らない裁判官、世間知らずの無知な裁判官より大衆の叡智、つまり民度が裁いたほうが適正な判決が出やすく、主知主義、インテリの暴走、左翼優勢といういまの偏向状況を覆せる嚆矢になるかも知れないという。世間智の欠如甚だしきインテリの裁きより大衆のほうが賢いという日本人への信頼がそう言わせるのだろう。これぞまさしく遠山の金さんの時代への回帰ではないか。
ただし米国の陪審員制度といい、今度の日本の裁判員制度といい、これらは民主主義の発展とは相関関係にはない。司法の民主化などというお題目は寝言の部類であり、推進側だったはずの日弁連ですら一部は反対に回っているそうな。
通巻第2702号
「次の総裁候補」ということなら石破をかつぐのが一番いいんだろうが、
「次期エース候補」のまま賞味期限を切らしてしまった額賀や、本人は大物のつもりでいる鳩山弟が石破を後見できるとは思えない。
青木の意向も無視はできないだろうし、ここまで小勢力になっても相変わらず派内統治が難しい。
清和会は「大物」の頭数は揃ってるのに、中堅陣笠はさっぱり人材不足の観があるな。
派内統治は容易なんだろうけど、これがいろいろ容喙すると滑稽観がある。
町村・中川女にはさっぱり落ちてもらって、安部晋三(笑)に禅譲したほうがまだよかったろうに。