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を見て思ったこと。
鯨の肉は美味いし捕鯨賛成派なんだが、捕鯨を正当化出来るかというと難しい。そもそも正当化という行為が、倫理問題の俎上に乗っかることだから、その俎上での敗北は死刑賛成論と同じで目に見えている。
従って、ダブスタになるのは仕方が無いのだ。「Aがやってるんだから、俺だってやっていい」「俺らが批判されるなら、Aも批判されるべき。Aは批判されていないので、俺らは批判される謂れはない。」というのは、屁理屈としては成り立ってるんだけれども、「従って~してよい」といった、行動を正当化する為の規範としてはアウト。これは、「エチオピアがスーダンに侵攻しているんだから、中国は韓国に攻め入ってよい。エチオピアが国際的に非難されているとは言い難いので、中国の侵攻も非難される謂れはない。」という例で考えてみれば、如何にぶっ飛んでるかが良く分かる。
ただ、重要なのは、ダブスタを批判することではなくて、そもそもなぜダブスタにならざるを得ないか、ということを考えてみることだろう。翻って我々の日常を省みてみれば、我々の意識しない常々の営みというものが、如何に危うい非倫理の上に成り立っているかが良く分かる。
近代は、そういう非倫理的な部分、意識されてこなかった「伝統」や「慣習」を日の元に暴き出してきた。
そうして近代において、倫理は引きずり出してきた相手に向かって問う。「自分が正しいと思うならば、それは客観的な倫理に適っている筈だ」と。これは、言い換えれば「自分が正しいと思うならば、拷問にも耐えれるはずだ」という名の下に異端審判をやってきた中世末期と、形式的には変わるところがない。
つまり、倫理の元にさらけ出されたが最期、前倫理的な慣習や伝統というのは、屈するか、諦めてダブスタを取るか、感情に訴えかける位しかないのであって、こんなものはハナから無理な戦いなのだ。
したがって、重要なのは、反対派も賛成派も、この構図、「倫理様には適わない」という厳然たる事実を論を立てるときに意識し、踏まえた上で話をすることであって、特にそうでもしなきゃ、賛成派は、反対派と屁理屈で戯れ、水掛け論をやっているつもりで、いつの間にか駆逐されていくことだろう。