はてなキーワード: イノベーションとは
住み分けいいと思うよ。
いいけどさー
その程度の人がイノベーションとまで標榜してるとなんかモニョるなぁ
イノベーション起こすならもっと貪欲になって欲しい
子供が小学6年生なんだが、卒業間近の今になって、ようやくシャープペンシルが使えるようになるらしい。それも使いたいか調査するためにアンケートをとったりと非常にめんどくさいことをやったみたいだ。調べてはいないがいまだに全国どこの小学校でもシャーペンは禁止なんだろうな。アホらしい。鉛筆を削るという行為自体に意味を持たせるような精神主義的でくだらない事をこぞってやっておる訳だ。揃いも揃って。
父親のおれが学生の時でさえ中学になってシャーペンを使えるようになった時、「今までのめんどくささ、大変さはいったいなんだったのか。バカみたいだ」と思った。だいたい鉛筆ほど使いにくいものはない。削るのがめんどくさいしすぐ線が太くなるし手が汚れるしすぐ折れる(これはものによってはシャーペンも同じだけど)。材木を伐採するので自然環境にもよくない。合理的に考えて、今わざわざ鉛筆を使う意味がどこにあるのか。誰も答えられないだろう。
鉛筆が好きというヤツは別に自由に使わせてもいいが、シャーペンを禁止する理由など何もないはずだ。「昔からそうだから」という理由で誰も何も変えようとしないから、意味のない不自由なシステムがそのまま幅をきかせているのだ。そんなことで何がイノベーションだ。シャーペンくらい自由に使わせろバカヤロウ。
とにかくいまの日本の「閉塞感」とやらは
ぜーんぶ「気が小さい」のが原因なんだ。
仲間はずれになるのが必要以上に怖いから
一人で失敗するのがこわいから自分で物を考えない。
エイズより何桁も罹る可能性の少ない
まともな投資家がいなかったりするのもみんな
「気が小さい」せいなんだ。
失敗を恐れずやらなきゃいけない事とかはもちろんのこと
ちょっとでもリスクが頭の隅にある限り
みんな怖くて夜も眠れないんだ
「自己責任」の四文字が恐ろしくて何もできないんだ。
この今の日本人の「気の小ささ」をどうにかしないと
もちろんおいらも気が小さい日本人の一人だからして
なんとかしてくれるのを希望したいところだけど
不可能だろそんなの(共産主義?)
気の小ささってどうにかなる物なのか?
できたとしてもおいらが生きている間には
間に合わないんだろうな、、、
エスカレーター式私立中学校に通う男子のプログラミング独習記。(Scheme/DrScheme)
本来高校受験を目の前に控えているはずなんだけど、怠けの坊ちゃん学校にはそんなものもなく教室の空気は緩んでいる。
3年前になんだかんだで部活動に入りそびれた僕は、際立ってダラダラなカテゴリに属す。
ベタにギターをやってみたり、携帯のオンラインRPGにハマったり、プロフで女の子と会ってみたけどあまりしっくりこない。モバも飽きた。
唯一ハンズで買った財布づくりキットみたいなヤツをきっかけに革を触って何か作ったりするのは続いてる。革の裁断面を磨きまくるコバ磨きをしていると何故だか落ち着く。
僕のことばかり書いてても仕方ないな。で、なんか中学生活で達成したとかそんなの全然ないし、高校生活に胸をときめかせるとかもなくて。
それじゃああんまりだと言う事で、何か新しいことを始めたいなぁと思ってたんだ。
ちょうど親がプログラマーで、(全然パソコンには詳しくないけど)モノをつくるのも好きだし、やってみようって気になった。
昨日親に話してみたら、Structure and Interpretation of Computer Programsっていう本を勧められて、MITっていう大学(?)のサイトで見てみたけど難し過ぎた。
ってそのままお父さんに言ってみたら今度はHow to Design Programsっていうもっと入門編の本を教えてくれて、これ以上簡単な解説書はないからもうこれでわからなかったら諦めろと。
なんだか悔しいし、どうにかしてモノにしたい。早速MITのサイトから100ページ分ぐらいダウンロードしてみた。
親に聞くのもイヤだし、(いつの間にかできるようになってたい)2chもそれ関係のスレはマニアック過ぎて謎過ぎたからここで書いてみる。
書いてることが間違ってたらぜひぜひ教えて欲しいです。
今日は最初の12ページ分。なんかプログラミングって何?とかプログラミングを学ばなきゃいけない理由とかが書いてあった。
プログラミングって、職業的なスキル以上のものになってきてる。
すごく楽しいし、創造性のはけ口になるし、抽象的でふわふわしたアイデアを目に見える形で表現できちゃったりする。
(このアイデアを形にする手段、っていうのはなんかイイなと思った。やっぱりなんかひとりでモノをつくれる人は尊敬できるなぁ。)
プログラミングはクリティカルリーディング、分析的思考、創造的統合(?)、細部へのこだわりを教えてくれる。
(創造的統合って何だろう?creative synthesisっていわれるとイメージはできる気もするけどうまく言葉にできない。
複雑なものをformingするってことだよね。多分...)
さらに何がイイかって、すぐにフィードバックが返ってくるところ。
冒険的、実験的になれるし、自己評価もできる。達成感を味わうっていうのもあるみたい。数学のドリルをするより全然。(確かに目に見える何ができるって励みになりそう)
この本ではプログラミング言語の細かいところとかにはあまり触れずに、デザインプロセスに焦点を当てる。
つまり問題定義からオーガナイズドされたソリューションまでの一連の流れについて語る。
2つのイノベーションがこの本にはあって、以下。
まず一つ目。今までの本は抽象的でクソみたいな定義の提案しかしてこなかった。例えば「デザインはトップからボトムに」とか「構造的にデザインしろ」とか。
この本には明確なステップがあって、読むこと、分析すること、組織化すること、実験すること、システマティックに思考することを学べる。
二つ目は、初心者向けのプログラミング環境であるということ。既存の本は周りにプログラミングのプロがいて、すぐにその人に質問したりできることを前提に書かれていた。
この本はそういった意味の分からない前提は捨てて、独習できるように設計してある。
1. 問題のデータのかたまり(problem dataってなんだ?)を記述する
3. 挙動を図にしてみる(例をつくる)
4. プログラムの型(program templateってなんだ?)やレイアウトをきっちりつくる
5. テンプレートを変形して、完全な定義をつくる
(なんかプロセスとしてはわかりやすいけど、抽象的でプログラミングしたことのない僕には雲をつかむような感じ...
inputデータの記述からどうやってprogram templateが得られるんだろう?1→2がよくわからない)
1. ある数とある数を関係づけること
2. 名前の代わりに値を用いることで、関係を評価する
ってこと。(これもわかったようなわからないような。1はinputとoutputの間の話?2は数値化するってこと?)
最初はトラップやドリブル、パス、シュートの仕方を学んで、次はあるポジションの役割を学んで、戦略を学んで、どの戦略を選ぶかを学んで、時々新しい戦略をつくったりもする。フィットするヤツがない場合はね。
彼らが楽器の技術や書く技術、建築の技術を学んでアイデアを形にするように、プログラマーもプログラムを学んでモノをつくる。
この本ではSchemeというプログラミング言語を使う。開発環境はDrSchemeで行う。
ただこの本はSchemeの解説書ではないから、Schemeの構成概念の6つだけを使う。
function difinition、application、conditional expressions、structure definition、local definition、assignmentsだ。
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とりあえず1回目はこんな感じ。
まだ全然良く分かってない。ただ親が使ってるのがlispっていうプログラミング言語で、Schemeはその方言みたいなものってことは今調べてわかった。ふーん。
まだ何がわからないっていうか全部わからないので、アドバイスのしようもないとは思いますが、最初はこれやっとけ!とかこのサイト読めとかあったら教えてください。
スイーツ側の人は業務内容が密接にプロジェクトや会社の中の話と結びつくことが多いので、はてな界隈ではなかなかスイーツ側の人はスイーツ側の濃ゆい話を書くことが出来ないことが多いようだ。圧倒的にスイーツ側の人間がはてなを始めとしたブロゴスフィア全体で少ないなぁとつくづく思う。QAも少ないけど。この辺をアツく語るブロガー出てこないかなー。
私は200X年に今の会社に入社して、数年間WEBアプリケーションの開発をやった。多くはJavaの案件だった。最後の案件は去年の夏ごろだ。前任のPMが逃げるように辞めていってしまい、非常に複雑なロジックを自分が担当することになった。1500行越えktkr。それを参考にして(これが大間違いだったんだよセニョールorz)2週間かけて作ってみたはいいものの、テストを繰り返しているうちにどんどんボロがでて、結局その当時のPMとパートナーさんに相談して設計からやり直した。パートナーさんの英知を借りて結果としてコード数が半分以下になり相当イケてるコードになった。今となっては英断だったと思うがその代償でほとんど土日を使い潰してしまった。コードの怖さを思い知った夏でした。
昔話はこれぐらいにしておいて、と。
でもって今は仕事ではコードを書かずにひたすらPowerpointに魂を込めるプレゼンの日々を過ごしているのですが、これはこれで意味のある仕事なんだなと思っている。この業界においてスイーツの人はやっぱり必要なはずなんだと思う。全員が全員エンジニアだったらビジネスにならないと思うのです。技術それだけでは1円も生み出さないのだから。私はずっと内製回帰すべきであると言い続けているけれど、誰かがスイーツを着なくてはならないと思っている。マネージャは必要なはずだと思ってる。誰かが顧客と向き合わねばならない。誰かがチームをまとめあげなくてはならない。できれば、その人は技術も業務も語れるハイブリットな人材が望ましい。このあたりの議論はSIerの中では絶対出てくるはず。
ただ回りを見渡してみれば、はてな界隈でフルボッコされている「スイーツなおやぢ」がマジョリティなのも事実。技術のこと、実装のことを肌で感じることができないし、感じようともしない。大規模になれば細かい所なんて見れるわけが無いので僕の仕事は工数を管理するだけなのでーす、という立ち位置の人間が多いのも認めざるを得ないし*1、そういうスキームになっている部分も否定できない。ごくまれにコードが好きだけど年齢的に管理職になってボヤいているなんて人もいるんだけどね。それにひたすらプログラマー現役続行状態でリスペクトされている方もいるのも事実。今あなたが立っている場所によって全然見え方が違う。
以前エジケンがニッポンIT業界絶望論の中で受託開発にはイノベーションなんてねぇよと切り捨てたけど、本当に革新的なものを生み出すことが全てでは無いだろうとも同時に思う。イノベーションは結果であって目的では無いだろうという見方もあるんじゃねーの、と。これは賛否両論だろうね。コードでなければ世界を変えられないとはてなおやは言うけれど、コードよりも何よりも人間を動かせばすぐに世界は変わるだろうとも同時に思うのです。
スイーツ寄りの人間が最もやらねばならないのは、人を動かすことだと思うのです。顧客を動かす、チームを動かす。プロジェクトが成功する方向に。人を動かすために必要なスキルと、システムを動かすために必要なスキルは全く別物です。Powerpoint1つとっても、結構ディープだよ。言いたい事を正確に伝えるのはスイーツでもエンジニアでも必要だと思うけど、そこで真剣勝負をする人は少ないのが残念。また、スイーツとエンジニアの間にはお互いリスペクトがあればそれだけでいいはずなのですが、上流から下流にお金が流れていってしまうため立場的に下流側にしわ寄せが来る。職業に貴賎は無い。技術神経が死んでいるおやぢほど技術者を十把一絡に捉える傾向が強い。これはガチだと思う。
スイーツにも新陳代謝が必要なんです。むしろ、スイーツにこそ新陳代謝が必要なはずなんです。政治家・似非管理者としてのスイーツが全てではないだろう、と。「ウェブ・リテラシー」を持っているスイーツが色々と面白い企画を立ち上げていく。会社を、回りをよりよい方向に持っていく。そういうスイーツがこの業界にはもっともっと必要なんじゃないでしょうか、と。そういうスイーツにはこれから色んな「けものみち」があるんじゃないだろうか、と。私はずっとエンタープライズにいる人間ですが、技術リテラシーが死んでいる人間が立ち上げたプロジェクトが砂上の楼閣のように崩れ落ちていくプロジェクトをそれなりに見てきたし経験してきました。だからこそ、そういうスイーツが要るんじゃないか、と。エンジニアがスイーツになってもいいと思う。エンジニア寄りのスイーツってめっちゃ希少価値高い気がするけどなぁ。いざとなれば自分でコード書ける自分でありたい。そこは失いたくない。
全然考えがまとまってないんだけど、スイーツはスイーツで結構奥深く多面的に色々なことを求められるのが本筋であり、スイーツにはスイーツのロールモデルがあって然るべきだってことが言いたいのです。スイーツ着たら負けだと思いたくないのです。そういうことを語り合いたい!!
結局のところ、日本の指導的ポジションにいる老人達は円環的時間のなかに子どもを閉じ込めて、自分達の予期可能な範囲のことしか出来ない人々だけを生産したいってこと?
イノベーションとか口先だけだよね。社会を変革できるような人材、したいような人材は、叩き潰したいと思ってるんじゃないかというか。もちろん、子どもの親は、彼ら老人より若いので老人達とは考えが違うので、信用されていないし、決定権も奪われている。「モンスターペアレンツ」って、要はそういうことだ。親としての当然の権限・権利行使にはモンスターのレッテル。
梅田もっちーとか、エンタメとしては読まれても、あそこで肯定されているような人材がうまれやすい環境作り、なんて話は、フルボッコで否定だよね。うちの会社も、もっちーを社内講演に呼ばなくなったな。もっちーから切った可能性もあるが、どうも会社的にああいう話は禁句になったっぽい。一次元の価値観の中で、ある層以上は官僚か大企業サイコー、地方では地方公務員か教員、これ。そこからこぼれそうな人達は、それなりに。さらに下に非正規雇用。「けものみち」なんてものは、あってはならない。あったら生コン流し込んでおけ。「学習の高速道路」?日本にあるのはアメリカのフリーウェイじゃなくて、料金所がたくさんある有料道路。そして、学歴という通行許可証を集めないと、通ったことにはならない。
そして、ネットのコミュニティ、なんてものからは子どもを切り離せ!!!という大合唱。もちろん、大人になっても、ネットのコミュニティに参加しない、参加しても二次的、というのがいいこととされている。コミュニケーションは、地縁・血縁・学閥・職縁つながり。結婚はもちろん、そういう縁つながりの見合いが恋愛結婚より格上、ネット恋愛とかは論外、という価値観。
それで、どう世の中みんなが食っていけるのか、よく分からんけどさ、経済のパイを増やすよりも、そういう序列と秩序の維持のほうが上、という空気が、最近満ち満ちているように感じる。
閲覧権は単純なダウンロードの違法化なんだろうか?「閲覧権って違法コンテンツのダウンロードの違法化なんだろうな」という話がある。確かに閲覧権という字面から判断すれば、確かに違法コンテンツのダウンロードの違法化に見える。しかし上記の記事は角川グループの会長の意図を読み誤っているのではないか?元のプレゼン資料によれば閲覧権は二つのリスクと二つの誤解をなくすためのものである。二つのリスクとは
であり、誤解とは
である。この二つのリスクと二つの誤解をなくすための閲覧権を提案しているのだ。この意図を踏まえるとこれはYouTubeやニコニコ動画から著作物の管理する手間をなくすためのものではないだろうか。現状無断アップロードは違法であり、アップロードした人は犯罪者であり、キャッシュを保存して見せる検索サイトや動画投稿サイトは違法となってしまうことが多い。そのため検索サイトや動画投稿サイトはやりにくい。その反面、コンテンツを利用するユーザーは何の罪にも問われない。これを逆転させるのが閲覧権ではないか?確かに閲覧権ができれば、違法コンテンツのダウンロードは違法化されるだろう。しかしそれと同時に公衆送信権などを廃止してしまえば、検索サイトや動画投稿サイトは合法化され「制度イノベーション」ができることとなる。ただ配信する側が合法になっても現実的に考えれば、権利者に動画投稿サイトの事業者などは閲覧者の代わりにお金を払うことになるのだろう。JASRACとニコニコ動画のように。しかしその場合でも権利者による訴訟リスクはなくなり、現在よりはやりやすくなる。二つのリスクと二つの誤解をなくすための閲覧権を提案していることを踏まえると、現在「配信違法・受信合法」という法体系を「配信合法・受信違法」という法体系にし、ネット上のイノベーションを起こしやすくするのがが本来の目的なのではないだろうか。
ただ上記の記事のとおり情報が少ないので、あまりこうした議論をしても無駄になるだろう。もうちょっときちんとした情報の開示がほしいものだ。
法体系がデジタル化の流れから取り残された著作権管理。現行法を前提に運用すると、法律違反を覚悟してコンテンツビジネスを実施するか、時代錯誤の陳腐なコンテンツ提供を我慢するかという二律背反に悩むことになる。現実には、あちらこちらで法と現実との相克に陥っている。
http://www.waseda.jp/rps/oip/seminar2007_03report.htmlなんていってるんだから、全部公開してくれたっていいのに。早稲田も器が小さいなぁ。
アメリカは製造業はもうだいぶだめだめで、金融とITが強いんだと思う。
(製造業とかは賃金安い海外に出ちゃうし。近年サービス業まで出てるけど。)
イノベーションも、金融とITでは、アメリカからの情報を一番目にするし、
その分野では、アメリカが一番だと思うけど。
んー、個人的には、その金融とITも最近どうなのよ?みたいな印象を受けるんだけれども。
詳しい人に聞かないとだめかも知れんね。
携帯電話に漢字が表示できるようになったのは、ドコモで言えば P206 HYPER のころだったと思うが、モノクロ液晶機については割愛する。
i モードサービスが始まってしばらくすると F502i や大ヒットした N502it といったカラー液晶搭載機が登場する。 ただしこのあたりの機種については画面解像度が 120x120 とか 120x160 などの小サイズで、フォントもモノクロ機と同様のものを使用していた。
ソフトバンクの前身のボーダフォンの前身の J-PHONE が写メールサービスを開始するころ、シャープが LC フォントを開発している。 LC フォントは携帯電話などの低解像度液晶で表示するために作成されたビットマップフォントで、文字ごとに部首のバランスを整え、低解像度時につぶれやすい文字のふところ部分を広くとることで視認性を向上させている。 このフォントの見やすさは当時の他機種のフォントとは一線を画しており、後継の LC フォント .C/B を含めてシャープ製端末だけでなく他社製端末にも採用されていた。
LC フォントの登場以外には特筆することはないが、 SO503i のフォントは LC フォントに近い丸ゴシック系フォントで見やすかった。
順位を付けるとすれば SH>SO>N>P>D>それ以外 と言ったところだろう。
ドコモ以外のキャリア用の端末もシャープ以外は似たり寄ったりで、東芝製端末のフォントもこのころは (解像度が低いため) まだ見れるものだった。
ドコモのハイエンドが 5xxi シリーズから 900i シリーズに移行して QVGA 液晶がスタンダードになりそうなころ、市場でもビットマップフォントの見づらさがクローズアップされるようになってきた。
シャープは LC フォントにサブピクセル描画技術を盛り込んだ LC フォント .C を開発。 これも実物をひと目見れば誰にでも美麗さがわかるだろう。 LC フォントを採用しているという理由で端末を選択するという「フォント買い」まであったとかなかったとか。
のちに、 LC フォントは .B に進化している。 中心線のみのアウトラインデータからフォントを生成するというもので、可変フォントサイズ対応によるビットマップ容量増大を抑える一方で、低解像度向けの描線省略技術を盛り込んでいる。
ドコモ端末では SH と N と P が LC フォントを採用。 F と D と SO が相対的にショボく感じられるようになった。
ドコモ以外のキャリアでは、東芝製端末のフォントの汚さが最高潮に達している一方、日立・カシオ・三洋・京セラの端末では独自の丸ゴシックフォントを採用して視認性をかなり向上させている。
そして、携帯電話フォントに第三のイノベーションが発生し、 F と D が逆転ホームランをはなつ。 F901iC にモリサワ製のアウトラインフォントが採用されたのだ。
KeiType と命名されたこのフォントは同社製アウトラインフォントを携帯電話向けに最適化したもので、 F901iC に搭載されたモリサワ新ゴは、もはやビットマップ系フォントは旧世代と言い切って過言ではないと思わせるものだった。
もっとも、 F も D も端末自体がもっさりすぎてフォントの美しさに完全に負けていたが。
QVGA 世代の終盤になって、 P が LC フォントを捨てて丸ゴシックに移行している。 低解像度で見やすくするという思想の LC フォント .B は線を 1 ピクセルで描くことを基本としており、フォントサイズを大きくしたときの描線の細さが指摘されていた。 これから訪れる高解像度時代に対応できないと踏んでの移行であろう。
そして時は現代に移り、 905i シリーズが発表されていよいよ携帯電話の液晶は VGA (WVGA) がスタンダードとなりつつある。
パナソニックが懸念したとおり、ここに至って LC フォントの天命は完全に尽きた。 ソフトバンクの VGA 端末で使用されていた LC フォントはアウトライン展開されていたがやはり描線は細く、ビットマップ表示に最適化された部首のバランスはかえっていびつに感じられた。
引き続きモリサワフォントを使用している F と D は強い。 アウトラインフォントは解像度が上がれば上がるほど有利に働き、フォントそのものの美しさが強調される。
P は丸ゴシックのアウトラインフォントを使用。 N も LC フォントを捨ててアウトラインの丸ゴシックを採用した。 SO はモリサワとは違う角ゴシックのアウトラインフォントを採用している。
シャープも、 LC フォントと名前は付いているが完全に別物の丸ゴシックフォントを使用している。 視認性はかなり改善はされたが、どうも文字間の間隔が開きすぎていて読みにくい感じがする。
他キャリアはまだ VGA 機が少ないためアウトライン化の波は押し寄せていない。
東芝端末は最新の 920T (ソフトバンク) で VGA 液晶を採用しているが、いまだに QVGA 時代のド汚いフォントを四倍拡大して使用している。 どうかしているとしか思えない。
遠くない将来に、携帯電話は全キャリア全端末で VGA 以上の液晶になるだろうと思われる。 おそらくすべてアウトラインフォント搭載となり、フォントの優劣を比較という行為も鼻で笑われるような時代になるだろう。
http://japan.cnet.com/blog/kenn/2007/11/09/entry_25001425/
↑これについての考察です。
アメリカなら、ソフトウェアの世界で本来の意味でモノ作りに携われる仕事がたくさんある。グーグルとかマイクロソフトとか、メジャーどころを足し上げていくだけでも10万人以上の雇用吸収力があるから、ごく平凡なスキルのプログラマでも大企業でそういった仕事に就く機会がある。それなりにいい給料で、ステータスもあって、定時に帰るという満足な生活を営むことができる。そういう意味では、外国人労働者との競争とかレイオフみたいな要素もあるけど、アメリカ人にとってのソフトウェアエンジニアという職業は日本に比べたらずいぶん楽できているのは間違いない。
これは極端な例を挙げているに過ぎない、日本だけそうであるとは到底考えられない。更に下の引用のように(日本の)IT業界が忙しいのは競争が働いていないからではない。(詳しくは下に書く)
しかし、本来ならそんな生産性の低い企業は市場メカニズムによって退場させられるはずなのだけど、なぜか日本ではそういうことが起きない。情報大航海プロジェクトみたいなのに代表されるトンデモなバラマキ政策などで植物状態にもかかわらず酸素だけは供給されているから、もうそろそろ死なせてあげるべき企業が死ねてないのだ。みじめとしか言いようがない。
これも視野が狭い。今の社会では政府の役割として市場の原理から競争力の無い人を守る仕事が含まれる。なぜ今、格差社会がこれ程大きな問題となっているかという現状が少しも理解できていない。赤城智弘が『若者を見殺しにする国』で戦争するしかないとまで切実に訴えているようなワーキングプア、働いても働いても楽にならない人たちがいるということを今この時期に見落としているのは最早致命的だ。
更に言うと見通しが浅すぎる。明石散人が『日本語千里眼』で書いているように、250年の平和を維持した江戸時代は敢えて「不便」を採用した。大きな川に橋を架けないことにより宿場町をつくり、参勤交代により街道を賑わした。それに日本には馬車がなかった。そして、この不便がバッファとなり明治維新の原動力となっていく。江戸幕府が先を見据えて「不便」を信条としていなかった可能性と、今の政府がバッファ(産業のパイの大きさ等々)を作り出すために非効率な施策を打っている可能性が同じくらいだったとしても、少なくとも市場による競争原理を至上とするネオリベラリズム全開の考え方は明らかに偏っている。
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先に書いた「IT業界が忙しいのは競争が働いていないからではない」これも当にこのことによる。1つ例を挙げると分り易いと思う。「米の品種改良が奇跡的に進み、苗作りから収穫までが1ヶ月で行えるようになった。」この時、稲作農家の仕事は楽になるだろうか?米の収穫が年10回になり、稲作農家が今の数倍多忙になることは想像に難くない。市場の競争原理とはそういう風に働くものだからだ。
IT業界の忙しさは上の例の歪(ひずみ)だ各産業は市場競争に勝利するために何をするか?宣伝と効率化、落ち着くのは大方そういうところだろう。各産業の各社が効率化、IT化を図る。スピード勝負だ。それも1回こっきりではない。繰り返し何度でも効率化する。当然、IT業界(SI)の開発納期は短くなる。新しい技術など導入している暇が無い(あるいはそれを突破するほどの技術革新は起こっていない)、技術者(管理者)は忙しい、労働時間は必然的に長くなる。そしてまた「宣伝」もITの分野となった。
上で引用したアメリカのメジャーどころが楽に仕事をしているとすれば、間違いなく競争しなくても勝てるところまで成長しているからだ。金持ち喧嘩せず。ある意味、市場競争というスゴロクでアガリになった企業だからだと言える。余暇にこそ文化的な創造が可能になるということの緩い体現なのだ。
ネオリベの支配は相当だ。外国に行ったくらいで逃げられるはずが無い。それがグローバリゼーションだ。IT業界はなかなか滅びないだろう。ネオリベという軍隊の尖兵だからだ。新兵がいなくなることは有り得ない。(不人気の煽りで金銭的な待遇は今より良くなる可能性はある。ただ、今は技術者の質を落とすことで凌いでいるようだが・・)
その結果、そもそも本質的には供給過剰だった多くのSI企業は倒産するか併合され、おそらく数社の大手ブランドと超小規模なブティックに収束することになるだろう。そして一時的には今以上に「見かけ上のサービス供給不足」が起きるが、ユーザ企業はむしろ「無きゃ無いで、割と平気だったのね」という真実に気付かされるだろう。
こんなハッピーエンドは無邪気すぎる。
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だからと言って全てを否定する分けではない。
こういうことを切実に考えるSIerがいることは、事実なのだろう。上の2つの問い、これは重要だ。これを憂うべき問題として表出させたことには大きな意義がある。そして、これを解決し「イノベーション」や「エキサイティングな革命の歴史」を実現すれば仕事の忙しさ、辛さに耐えていけるのだ!!・・・一時的に。
上に書いた米(こめ)の例を顧みるまでもなく「イノベーション」や「エキサイティングな革命の歴史」がIT業界を楽にすることは無い。ネオリベの新兵に休息は似合わない。ここまで読んできて大袈裟なと考える人もいるだろう。けどそれは、これらの自体を大袈裟だと感じてしまうほどネオリベに染まっているのだと言っておきたい。
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ただ、上の絶望は(SIerである)私の絶望ではない。IT業界の絶望でもない。ネオリベラリストの絶望だ。勿論、市場経済、資本主義の全てを否定する気はさらさら無い。今の社会でその生活は辛すぎる。しかしかくのごとく、ネオリベの果てには救いが無い。
私はもっと別のことを考え続けたい。(世界に)救いが無いわけでは無いと。1つ言えるのは、極端なところには答えが無いということだろう。
http://japan.cnet.com/blog/kenn/2007/11/09/entry_25001425/
SIerに勤務する知り合いを見てると、そんなに絶望的な感じはしないんだけどな。
プライドもって働いている気がする。まあ、勤務先は元請け会社っぽいので、状況はちょっと違うのかもしれないけど。
でね、思うんだけど、江島さんはSIerにいた方が高いバリューを発揮できたんじゃないかなぁ。
自分で企画するんじゃなくて、ひとから要件をきいてモノを作る方があってるんじゃない?
江島さんの過去の成果についてはよく知らないけど、少なくともLingrからはイノベーティブな才能は感じないな。
小技は効いているのかもしれないけど、コンセプトレベルで目新しい点はなさそう。
ああ、こういうのが欲しかった、と思わせるにはひと味もふた味も足りない気がするし、理解を超えた新しいコンセプトみたいなものもない。
(例えばTwitter。個人的にはTwitterの面白さは理解できないけど、マイクロブロギングという分野を確立したという意味ではイノベーティブだよね。)
別のエントリで新生銀行のオンラインバンキングについてどうこう言ってるけど、はっきり言ってかなりどうでもいい話。
いいサービス作りたいなら、そんなどうでもいいこと考えてないで、自分が作りたいサービスについて考えなよ。
イノベーションなんて既存サービスの分析からは生まれないんだからさ。
一連のエントリをみていると、この人は「イノベーティブな自分」を実現したいだけなんじゃないかな、という気がしてくる。
世の中をこうしたい、この課題を解決したい、という目的があって、手段としてイノベーティブな技術なりアイデアなりがあるんじゃないのかな。
江島さんが3年石にかじり付いてでも実現したサービスって何?アメリカでイノベーションにチャレンジする、ってことが目的化してない?
江島さん、これはエールです。
[これはひどい](笑) [これはすごい](笑) [あとで読む](笑) [あとでチェック](笑) [まとめ](笑) [雑学](笑) [トリビア](笑) [tips](笑) [興味深い](笑) [参考になる](笑) [これは便利](笑) [哲学](笑) [すばらしい洞察](笑) [人生](笑) [人間](笑) 自己表現(笑) マスゴミ(笑) リテラシー(笑) MTG(笑) バーター(笑) ペイパブ(笑) バイラル(笑) クチコミ(笑) はてな(笑) はてブ(笑) はてダ(笑) 増田(笑) バズ(笑) FNP(笑) アルファ*(笑) アジャイル何とか(笑) CSS何とか(笑) 神田何とか(笑) あちら側(笑) こちら側(笑) スキルアップ(笑) twitterの何気ない呼びかけで集まったoff(笑) 有名ブロガー(笑) カリスマブロガー(笑) インフルエンサー(笑) トラバ(笑) 仕事が早い人(笑) コード(笑) イノベーション(笑) プレゼンスキル(笑) ローンチ(笑) パワポ(笑) マインドマップ(笑) ビジュアライゼーション(笑) ビジョン(笑) ブランディング(笑) アソシエート(笑) パーソナライゼーション(笑) プロシューマー(笑) コンサル(笑) 個人メディアにシフト(笑) 高いベネフィット(笑) ブログ(笑) twitter(笑) tumblr(笑) ustream(笑)
どうやらこれで決定らしい。
経済産業大臣:マーガレット・サッチャー 民間 (英国)
国家公安委員会委員長・防災担当:ウラジーミル・プーチン 民間(ロシア)
内閣府特命担当大臣(金融):アラン・グリーンスパン 民間(米国)(兼)
内閣府特命担当大臣(規制改革): マーガレット・サッチャー 民間 (英国)(兼)
内閣府特命担当大臣(経済財政政策): アラン・グリーンスパン 民間 (米国)(兼)
内閣府特命担当大臣(科学技術・イノベーション): ビル・ゲイツ 民間 (米国)
西暦2026年。日本にある奇妙な現象が起こった。出生率が激減したのだ。
もちろん、出生率の低下はつい最近に始まったことではない。前世紀半ば1970年ごろの、いわゆる第二次ベビーブーム以来日本の出生率は一貫して下がり続けていた。だが、2026年に起こった出生率の低下はそれを凌ぎ、前年度の半数以下にまで落ち込んだのだった。だれもが首を傾げ、専門家も市井のブロガーも、ありとあらゆる人がこの問題の分析を議論した。
21世紀の情報化社会にあっても、丙午の女性は男を食い殺すほど強い、という迷信が健在なのだというトンチンカンな分析をする社会学者も居た。
O社というある小さな会社の出した女性型ロボットが、その原因らしい。
そもそも、人間の基本的な欲求、適応度を上げると言う意味で生物的に基礎的な欲求は、あるレベルを超えれば経済学で言う収穫逓減の状態を示す。水も空気も食品も、あるいは快適な生活空間も人間の生存には無くてはならないが、ある一定以上を求めることは無い。もうおなかいっぱい、と言う状態が存在する。だが、男性の性的な欲求だけは例外であって、際限が無い。
三大欲求という言い方がある。食欲、睡眠欲、そして性欲を指すのだそうだ。このうち、食欲と睡眠欲は自身の存在を存続させる欲求、性欲は自身の存在を拡散させる欲求であると言い換えられる。では何故自身を存続させたいと思うのだろうか? それは、自身の存在を拡散させるため、自身の遺伝子のコピーを広げるためであると言える。生物の存在という目標のためだけに生物は存在し、またその目標が無ければ生物自身も存在し得ない。果てしの無い自身の再生産のためだけに生物は存在する。
男女の愛に関する悲劇の全ての源泉は、男女によって生物学的な適応度を高める方法が違うということに由来する。女性はいくら多くの男性と関係を持ったとしても、直接には子供の数を増やせないが、男性は数多くの女性と関係を持てば、原理的にはほぼ無限に多くの子供を持つことができる。それゆえ、自身の適応度を際限なしに高めることができる。だから、男性の性欲には限度がない。1000人、あるいは10000人と関係を持ったとしても、1001人目、10001人目の女性とセックスできるだろう。
だが、一般的な水準の容姿と金銭と道徳観念を持った男性にはそんなことはできない。だから、売春が生まれ、ポルノが生まれた。英語で"the oldest profession"「最古の職業」と言えば、売春のことを指す。古くは版画やグーテンベルグの発明から映画に至るまで、あらゆるメディアにおいてポルノは存在した。ビデオデッキの規格戦争においてVHSが勝利したのも、その影にアダルトビデオがあったのは有名である。軍事的な目的のために開発されたインターネットを一般人に普及させたのもポルノサイトがあってのことだ。ありとあらゆる技術は、男性の性欲を満たすために使われてきた。人間の経済活動は、男性の性欲に由来している。いや、そもそも言ってしまえば経済活動も含めたあらゆる人間の活動は、究極的に突き詰めれば、この男性の性欲の限度の無さに由来するのだ。人間の無限の欲望も、背後にある原動力として性欲によっている。もし人間から性欲が無くなれば、あらゆる種類の人間の活動は全て無意味になる。
たとえば、車は分かりやすいステータスシンボルであり、セックスアピールである。移動手段としては不相応なまでの高級車を持ち、ガソリン代、車検と不必要なまでのコストを掛けることは、生物学でいうハンディキャップ理論の表れであると言える。食欲を満たすという目的のためにはあまりに高級すぎる、人気のデートスポットであるフランス料理店。これも性的な欲求を含めなければ説明がつかない。動きにくく実用的でない服装や、映画や絵画といった美術ですら、究極的に突き詰めれば性欲に由来する。男性が権力や高収入を求める欲求が女性より強いのも、それが歴史的に女性を得る手段に直結していたからである。歴史を紐解いてみればいい。権力者、独裁者はほぼ例外なく側室を持ち、多くの子を残している。アメリカの元大統領のクリントンのように、権力者が複数の女性と性的関係を持つことが倫理的に許されないことになったのは、ごく近代のことでしかない。日本ですら、戦前までは政治家や財界人が愛人を持つことは当然のことであったし、社会通念的にも認められていた。明治天皇や大正天皇ですら、嫡出子ではなく側室の子であった。「英雄色を好む」という言葉があるが、これは生物学的に見れば一種の逆転である。英雄と呼ばれる人間だけが好色なのではない。そうではなく、あくまで権力を得た人間は自身の欲求を実現する方法をも同時に得られるということでしかない。
しかし、人間は婚姻という他生物には見られない独自の制度を持っている。世界中どこを見ても、結婚制度が存在しない社会は存在しない。「交尾でオスの役割は終わり」という生物とは違い、どんな社会においても、人間の男性は自身の妻や子供を養育する義務を持っている。(蛇足だが、人間の男性が若い女性を好むのも、長期にわたって一人の女性と性的関係を築く婚姻制度によって生じたものである。その証拠に、交尾でオスの役割は終わりというチンパンジーの一種は出産、育児経験のある中年のメスを好む。なぜならそのほうが自分の子供が生き延びられる確率が高いから)それゆえ、近代のテクノロジーが発達する以前の社会においては、自身の限度の無い性欲を満たせるのは、社会的に成功したごく少数の男性だけだった。付け加えて言うならば、有史以前、人間が貨幣を持つ前の狩猟採取社会においては、どうやら一夫多妻制度はまれであったらしいと言うことが分かっている。多くの皮肉屋の主張とは違い、資本主義の発達により貧富の差が生まれたことによって、多数の妻を養うことが可能になったようだ
だが、大容量のインターネット回線と、テレイグジスタンス、バーチャルリアリティ、そして人型ロボットの研究が男性の際限の無い欲求を満たすことを可能にした。
月々数千円も出せば、海の向こうの幼い少女からディスプレイの中にしか存在しなかった理想の美少女まで、ありとあらゆる女性とのバーチャルな性行為が楽しめるのだ。お互いの性器に装着したネットワーク対応の性器具と、データグローブとボディースーツ、そしてヘッドマウントディスプレイによって、その場に存在するような臨場感を持って、バーチャルセックスを体験させるサービスが提供されていった。インターネットのサービスは、地理的な障壁や囲い込みがないため、常に、全世界が競争相手であるし、容易に相手のイノベーションを取り込めるので、リアルでは考えられないほどのすさまじい速度で進化していくのが常だが、ネット経由の売春も、その例外ではなかった。
そして、流れが決定的になったのは、前年に発売された女性型ロボットだった。
ちょっとした高級車を買うくらいのお金を出せば、文字通り女性を所有することができるのだ。しかも、現実の女性と違って妊娠することも浮気をすることも歳をとることもない。なにより、飽きて捨てたとしても何一つ文句を言わない。
しかも、簡易ではあったが会話もでき、(ちぐはぐな受け答えが、逆に幼さを感じさせるとして喜ぶ男性も居るようだ)食事や掃除と言った家事をすることもできた。妻を持ちたくない、または持てない男性にとっては正に福音であった。
いや、もてない男性だけではない。中間層の普通に交際相手が居る男性にとっても救いであった。彼らは常に女性のご機嫌を伺い、足代わりに使われ、食事を奢らされてまで、不確実なセックスにありつくことに疲れ果てていたのだ。彼らにとっても、女性型アンドロイドの登場は救済であった。何も要求せず、見返りの無い愛を注いでくれる、いつまでも無垢な女性。有史以来の男性の永遠の理想の体現であった。
だがしかし、その後不可解な面白い現象が起きた。一体何が起きたのか?
数年間のうちに、出生率がV字回復したのだ。ちょうどそれは、60年前の丙午の翌年に起きた出生率の回復のようだった。
例え人形であっても、女性と生活を共にする以上、身だしなみを整え、生活習慣もきちんとしなければならないという男性が多少は増えたのだ。現代の情報化社会の中で、不当に抑圧され、自己肯定感を失っていた若い男性が、たとえそれがロボットであっても、全面的に肯定されることで自信をとりもどしたのだ。不当にワガママな女性に対しては、いつでもアンドロイドに戻れる、ということをほのめかし、恋愛において男性が女性と対等な立場で渡り合えるようになったのも大きい。
そして、性欲は人間の本質的な欲求であるが、それと同じくらい、子供を持ちたい、家族を持ちたいという欲求も本質的なものであるらしかった。擬似恋愛という一種のカンフル剤で人間性を取り戻した男性が、次々に現実の恋愛、結婚へと戻っていったのだった。
しかし、再び恋愛市場の中に戻っていったのは、男性全体から見ればごく一部でしかない。彼らはもとから女性に相手にされるだけの財産なり顔なりを持っていた幸運な男性なのだとも言える。大部分の男性は、そのまま「戻ってこなかった」 なにせ、どれほどのキモメンであろうと、振られる事はありえないのだ。大部分の男性は、理想の彼女と一緒に、自閉的な生活を送るようになった。それでも彼らは満足しているようである。
こうして今や、少数の結婚市場に復帰した男性と、大多数の「降りた」男性たち、そして、理想の彼女との競争に晒される女性だけが残った。出生率が回復したと言っても、日本の出生率は世界最低レベルを走り続けている。どうやら経団連は、労働力不足を補うために本当に移民の受け入れを考えているらしい。このままでは1半世紀しないうちに日本人は消滅すると予測している学者も居る。
しかし、再び現実の恋愛へ戻っていった男性も、擬似恋愛を楽しんでいる男性も、それぞれに幸せなようだった。
だが、、、これは本当に人類の進歩なのだろうか? はたして、テクノロジーは本当に我々を幸福にしたのだろうか? 科学技術の進歩によって、最後に生み出されたものが「自由意志による断種」「幸福に包まれた自死」でしかなかったとしたら、数千年に及ぶ人類の歴史は一体何だったのだろうか? 今後の人類の未来を考えるにつけ、私は絶望的な気分になる。