異性愛だとか同性愛だとか、対象を探す必要があるなら仲間をみつけやすいのかもしれない。
僕の妄想では結構同類っているものだと思うのだけれど、今のところ会えたことはない。
叶うならば、アメーバのように分裂して、僕と一緒に暮らしたい。
女僕でも男僕でも、無性僕でもいい。
好きな人はすごく近くにいるのだけれど、一生触れ合えないのはさみしさがある。
さみしいので、適当に恋人を作る。知らない僕に会えるという点でも、恋人という存在は素晴らしい。そんな感じで、見た目上では両性愛者になる。
恐怖を克服した人類というのは、例外なく多様性に対する理解や想像力に卓越した人類であるはずである。
逆に言えば、そうした理解や想像力が育ちきっていないうちの子供たちの視点では、世の中に恐ろしい人がたくさんいるように感じられるだろう。
んなもん電通のおかげに決まってら
育ちが知れてるな
哲学の域に及ぶほどの話ではない。
なぜスターが嬉しいと思うのか。
それはその人が、スターを貰いたいと思ってスターを貰えるような文章を書く意識を持ちながらはてなを利用しているからではないのか?
だが、スターを貰うことを主目的としてはてなを利用していない人もいる。そういう人にとってスターは興味がないか、不気味な存在でありえる。
そもそも、素性の知れぬネットの他人からの評価を喜ぶということは、自己認識がネットの他人と同列かそれ以下の人間であるということだ。
スターを喜んで集めようとしている人は、暗黙にその「俺たちがネットユーザーだ」の如き認識を共有しているつもりになっているが、自分に一つでもネットの大衆の認識と相容れないスペシャリティを持ったことがある人であれば、そのような認識を共有する前提でもってスターを無条件に肯定的に捉える発想がいかにナンセンスなものであるか感じるところがある人も少なからずいるはずである。