親に育ててもらったことへの借りを返す必要はない
自己効力感を奪う親の存在は、人生のかじとりをしていく上で大きな障害である
もしほんとうにヤバいときはこちらから連絡するし、逆の場合も親を受け入れる
もう親とはこれくらいの距離感でやっていこうと決めた
人によっては、このような親離れ・子離れのステップはあたりまえで、無意識的に達成されることかもしれない
しかし、親が自分のことを無力化して自己存在価値を高めようとする以上、こちらから決別するしかない
一度開けてしまったくさいものに再びフタを閉じてしまうことは、もうできない
父親は母を拒絶して家庭に居場所を失い、ワーカホリックとなってうつ病で死んだ
母は勉強しかできない無愛想な自分に、そんな様子じゃ社会でやっていけるはずがないというレッテルを張り続けた
そんな自分は社会参加や人との交流を恐れ、もれなくうつ・ひきこもりを経た。うつはまだ寛解への途中である
ところが、いざ働きはじめてみたら意外となんとかなっていて、業務以外の雑談すらできるようになっていた
それと同時に、母に植え付けられたセルフイメージのせいでずっと苦しみ続けてきたことへの憎しみが抑えられなくなった
正直なところ、自分は軽度のASDかもしれない。いわゆる「愛着障害」というものにも該当すると思う
勉強ができることで親が喜んでいると思っていたら、じつはそんなにデキのいい子どもはいらなかったらしい
世間から見ればうらやまれるような大学に入ってしまったが、そもそも母は「学び」や「教育」に価値を見出していなかった
母は死に体の自分に、生産工場で検査をするような仕事ならいくらでもあるから早くうちに戻っておいで、と言い続けた
そんな自分も、なにかの間違いでいい大学に入ってしまったが、本当は大卒になることすらおこがましい存在であると思っていた
ところが就活・社会参加への恐怖とあいまって、母の望まない学問・研究の道に逃げ場を見出し、博士号までとってしまった
ただし心の奥では、また身の丈に合わない経歴をつくりあげてしまった、典型的な高学歴ワーキングプアの完成である、と自虐していた
重度のうつと復帰のサイクルを繰り返していたころ、幸か不幸か地元にある大学の教員ポストの紹介がきた
そのときはうつ症状がマシだったので、ここで逃げ出してはいけないと思い、紹介を受けた
しかし次第に、また自分の能力とは見合うはずのないところへ踏み出そうとしていることを自問し、うつに舞いもどった
それでも、やっとこれで親を安心させられると思い、安堵している部分があった。面接でも、なんとか健常人のフリをして押し通した
しかし母にとって、社会参加ができない無力な自分は実験の「お手伝いさん」しかできない存在であり、大学教員になるなどとは想像だにしていなかった
不安に耐えきれなくなって母にほんとうの気持ちを打ち明けたとき、なんでもっと身の程を知って行動しなかったのか、と責められた
今度も「お手伝いさん」の仕事をするのだと思っていた、こんなことになるなら、もっとちゃんと話を聞いてわたしが食い止めるべきだった、と言われた
自分も同じように反省した。自らの無力さにもかかわらず、できるようなフリをしてしまったことへの欺瞞からくる罪悪感で、心がツブレた
ところが今どうなっているかというと、上司のボスとは円滑にやっているし、決してデキのいいとはいえない学生たちをいかにモチベートさせるか試行錯誤している
ある日、自分は主体的に考えたり行動する能力がなく、いわれたことすら満足にできない無力な存在であったはずなのに、何かがおかしいと気づいた
たまたま自分に合った仕事につけて運がよかっただけかもしれない。しかしこれまでのセルフイメージとは全くことなる自己の振る舞いに、自分自身がおどろいていた
もちろんクスリで底上げされている要素はかなり大きい。ただそれ以上に、自己像が根本から書き換えられていくようなフローがあり、かつてない大きな地殻変動を感じていた
これまでに双極性の症状を示したことはないが、このある種の成功体験がまた新たなうつの引き金となる可能性は当然あり、注意しないといけないと思う
地元に戻り、母から物理的な縛りつけを受けることによって、これまでの精神的な抑圧やダブルバインド的な母のやり口に気づくようになった
それからカウンセラーやメンターの意見も聞き、たどり着いた自分なりの結論が冒頭のものである