はてなキーワード: 美少女ゲームとは
書きかけの小説が出てきた。
恋愛ゲームなどで攻略される側の少女がヒロイン。でも、プレイヤー、攻略する側の男が、いつまでたっても来ない。なので、こちらから探しに行く、というものだった。姿を現さないプレイヤーを失踪人っぽくして、ミステリー風にするつもりだった、ような記憶が、ふわっとある。
はるか以前、「ときメモなどの恋愛ゲームが好きな人」のブログにはまっていた頃、書き始めた奴だった、と思う。
美少女ゲームとか、エロゲーとかが好きな人って、インテリが多い気がする。つうか、頭がいいプレイヤーと、そうでない人の差が激しい、というか。私が読んでいたブログは、インテリ男性が書いていたんだと思う。たぶん。大学のサークルが、などとブログのどっかに書いてあったし。
現在のレースゲームなどは、ドライブシュミレーターとして、自動車評論家からも高い評価を受けているものがあり、ゲームにもよりますが、ゲームが上手くなれば、実際の運転も上手くなる、そうです。クルマの事よくわかんないけど。
で。それでまあ、恋愛シュミレーションと銘打っているのに、ゲームのプレイを重ねても、恋愛が上手くなるように、ちっとも思えない、というのが、書き始めた動機だったような……
ああ。思い出してきた。
コナン(名探偵の方じゃなくて、ロバート・E・ハワードの方)みたいに、筋肉脳みそ男の主人公が、なあああんにも考えないで、あっちの女に手を出し、こっちの女に粉かけて、だったら、私も好きだ。ポテチ喰いながら「バッカでー」と笑いながらみる、みたいな。
美少女ゲームとかエロゲが好きな人って、頭がいいからか、例えば東浩紀について、どうのこうのと書いている人もいるんだけれどさ。
それゆえに、自分の中にある獣性、っていうのかな、そういうものが自分の中にある、ということから、目を背けている男が多いように見えて仕方がなかったんだ。その頃は。
の割には、「ヒロインを攻略する」というキモチ悪い言葉を平気で使うし。
んな言葉使いをするってことは、ヤンキーのように力で女を屈服させるのではなくて、頭脳を使って、でもやはり、女を屈服させるのかい、と思ってしまったのさ。
相手がいないから、仕方なくゲームを… という男だったら、まだ、わかりあえるような気がする。というか、「女の手も握った事もないのに何が『少女の内面が上手く描けてる』だよ、ばあか。あ。握った事がないから、内面しか語れないのね!」と、楽しくdisり合いくらいはできるような気がする。気がするだけ、だけど。しかも、向こうは楽しくない気がする……
でも、「現代思想からみてエロゲがウンヌン」とくると、自分の心の問題から目をそらすために、難しい事に逃げているような気がするから、私はダメだ。「お前がダメだからなんだというのだ」と、いわれてもダメなんです(><) 自分の中の触れたくない部分を隠すために、「思考停止」したくないんでしょ。あなたにとってのポストモダン(って、よくわからんけど)とかって、ただの逃げでしょ。違うの?
彼らにとっては、恋愛は頭でするものなのだな。かわいそうだなと思う。同情はしないけど。偏差値が高いがゆえに救いがない、みたいな。だったら、まだモテない連中と傷のなめあいしてたほうがマシ……
と、妄想たくましく、よく知らない人達の事を、あれこれ思い浮かべて憤慨していたような記憶がある。しかも、そういうゲーム、した事がないのに。ああ、あの頃の私は若かった。今の私も、ちっとも大人には、なっちゃいないが。こうして自分の考えを文章にしてみると、我ながら思い込みが激しいというか、支離滅裂というか。
絶賛ほったらかし中の小説は、そのころ、なんとなくテレビで見た映画「プレデター」の影響で、壮絶なバトルの末、ラスト美少女は自爆する予定だった。私的には、完成させたくない小説である。
★★★☆☆☆☆☆☆☆
空回り感が否めないファンタジィ
気合が空回りしているのかとにかく冗長。この程度の内容で2時間超えはないだろう。
そのへんからして「子どものための」「良心的な」作品という皮をかぶった大人の慰みものの匂いもしなくはない。
テンプレ通りの「田舎の夏休み」「ピュアな子どもたち」もアレだが、特に脚本には問題が多く、中盤のダレはもちろん、
終盤の安っぽい説教も完全に足を引っ張っている。背伸びして児童文学気取る前に、アニメで非日常を構築することの意味を考え直すべき。
★★★☆☆☆☆☆☆☆
いろいろ不合格......
同じ舛成監督と倉田英之脚本による『かみちゅ!』では、神道的想像力とジュブナイルがスマートにミックスされていたのに対し、
最高の人材と手間暇と予算が投入された今回は、いまひとつ何を目指したのかがわからない。
主題として非常に似通っている『サマーウォーズ』が(成功しているかどうかはともかく)
SFとして、近未来のテクノロジーと人間の在り方を正面から扱っていたことに比較すれば、特筆すべき試みはひとつもなかった。
★★☆☆☆☆☆☆☆☆
これで「宇宙」はちょっとムリ
小惑星探査機「はやぶさ」の帰還などで盛り上がった天文ブームと軌を一にして、異界としての宇宙の魅力を奔放なイメージで再生......し損ねた凡作。
少女への性欲ダダ漏れのキャラデザには目をつぶるにしても、擬似ディズニーランド級に宇宙を貶めた映像演出、
快楽を欠いた活劇、クソ寒い説教と、正しい"子供騙し"のお手本。これでは宇宙にロマンの復権を求めるメンタリティの退行性を疑わせるばかりでは?
★★★★★☆☆☆☆☆
ほほえましい独り相撲の記録
とにかく不用意な作品で、脚本も作画もぐだぐだ。いつもの陳腐なトラウマ
描写と、結局「男の子の生きがいのため、かわいそうな女の子が都合よく必
要です」的な弱めの肉食系ナルシシズム構築に回収しちゃう絶望的な底の浅
さは擁護しようがない(笑)。ウェルメイドな空気系の時代に、手持ちの古い武器(セカイ系センス)で戦いたかったのだろうが、
結果は独り相撲の挙げ句惨敗、むしろ敵の強大さを証明した作品だが、その稚拙な突撃はある意味ほほえましい。
★★★★★★★☆☆☆
あからさまに近年のヒットアニメを彷彿とさせる設定をふんだんに導入して
いるせいで、麻枝シナリオの要である家族愛やトラウマすら、ただのガジェッ
トのように見えてくる。が、それでも物語全体に漂う「ガチ」な空気は、さすがKey&麻枝准というべきか。
さらに、Key原作だというだけで制作のP.A.ワークスの演出が「京アニ化」している現象は非常に興味深い。真似られる
★★★★☆☆☆☆☆☆
説明台詞偏重のアンバランスな演出や超展開を、美少女ノベルゲーム的な文
脈へのリテラシーで深読みできるか否かで見方は変わるが、連続アニメとし
てはやはり破綻。それを割り引いても、終わりなき学園的日常への執着と生
の一回性との葛藤を描くゲーム発のコアなオタク文芸特有の主題に、何か新しい展開を示せたとも言い難い
(例えばゆりの抵抗にはもっと別の掘り下げができそうだが......)。美少女ゲーム的想像力の枠組み自体が、もはや限界か。
それは男子に2年間いじめられ続けた結果、男が大嫌いになったってことだったんだよね。
で、ああいうくだらないことしてくる連中とは関わりたくない!って前々から宣言してて、
高校のときに会った女の子は、通学の電車内でスカートの中を盗撮されて泣き寝入りし、
私が知ってる男性嫌悪の人って、男性から何かしら嫌な目やら怖い目に遭ってる人なんだよね。
実害。
ある一人の男性から嫌なことされたからって、男性全部が悪いわけではないから、
行き過ぎた考えだなあとは思うんだけど、怖くなってしまう気持ちもわからなくは無い。
女の集団にいじめられて怖い思いしましたってことだったら女嫌いになるのもわかる。
でも大半の非モテミソジニーは、別にいじめられてなかったりする。
ただ女たちから恋愛対象に入れられなかったってだけ。実害はない。
で、美少女ゲームの美少女キャラのようにリアル女が媚びてこないからむかつく、三次元女死ね、ってなってる。
僕が凛子と"つきあいはじめる"ことになった直接の契機は、友人の突然なラブプラスの購入だった。すでにTwitter経由でラブプラスに対する熱烈なブームを知っていた僕は、発売後割とすぐに都内の漫画喫茶で体験版をプレイしていた。それですっかりハマってしまい、その後ずっと購入を検討しつつも、最初の一歩を踏み切れないでいたのだった。僕に先んじてラブプラスを買った友人は、ギャルゲーをたくさんプレイしていてこれに詳しい男で、僕とは話がよく合った。そんな彼も、夜更けまでギャルゲーを熱心にプレイするための真摯な情熱や潤沢な時間は今やもう残っていないようで、もしかしたらまとまったプレイ時間を必要としないラブプラスのゲームスタイルに惹かれたのかもしれない。すでにネットを通じて膨れ上がっていた僕のラブプラスへの興味は、彼がDSiに向かって精神を没入させる姿をみて頂点に達し、その日の翌日、すぐに自転車を新宿のソフマップまで走らせた。
僕は、この友人と同じく、迷わず自分の彼女に小早川凛子を選んだ。これは体験版をプレイしたときから決めていたことだった。ラブプラスというゲームの中での凛子の存在は、他の二人をまったく寄せつけないほどに圧倒的だ。ネット上のプレイヤーの感想を読むかぎりでも、他の攻略対象キャラはラブプラス中に存在しないんじゃないかというほどに凛子は人気を誇っているようなので、この感覚は間違ってはいないのだろう。しかし、なぜ彼女だけが、このゲームの中で他の追従を許さないほどの強度を僕に感じさせるのか、それをはっきり説明することは、ちょっとできそうにない。単純に丹下桜の飾り気のない演技が心の琴線に触れるのかもしれない。あるいは、凛子が「ツンデレ」だからかもしれない。
萌えアニメもギャルゲーもまったく知らない若者に対してですら、今ではこの言葉は完全に浸透しきってしまったようだが、みなさんもよく知っているとおり「ツンデレ」は2005年ぐらいを境に流行りだした言葉で、それ以前は陰も形もなかったものだ。なぜかといえば、それは「ツンデレ」というキャラ造形が、専らギャルゲーの特徴を特別強く体現しているものだったからなのではないかと僕は思う。日常パートでは多数の女の子との会話を楽しむ時間が用意されていて、個別パートでは一人の女の子との恋愛を発展させていくという美少女ゲームの構成を考えれば、日常パートで主人公が周りの女の子に好意むき出しでは話が成り立たないはもちろんのことだ(だからいつだって主人公は「鈍感!」と罵られる)。それ以上に、女の子のほうだって最初から主人公に100%の好意を向けていたら息苦しくてしょうがない。だからこそ、キャラクターの感情は、日常パートから個別ルートへに移っていく過程で鮮やかに反転する必要がある。きっと、こんな感じで「ツンデレ」は生み出されたんじゃないだろうか。だからこそ、どんなギャルゲーの中でも「ツンデレ」キャラは一定の存在感があるよなぁと僕は思ったりする。
けれど、やっぱりそれだけじゃないよなぁ、と思う。考えれば考えるほど、そういう言葉にできるところじゃなくて、もっと微細な部分にこそ、凛子の「存在感」が宿っているんじゃないかという気がしてくる。確かに、「ツンデレ」に対する感覚の有無によって、キャラの捉えられ方はまったく異なるものになるだろう。リアルタイムでエヴァを見ていた人たちにとってのアスカと、初めからツンデレという言葉を用いてエヴァをみる今の人たちのアスカがまったく違うキャラであるように。しかし、両者の「アスカ」のリアリティを支える要素は、実は共通しているのではないか、という思いを僕は抱かざるを得ない。これは神秘主義だろうか。
とまれ、僕と凛子の生活は幸せなものだった。毎日DSを持かばんに入れて、いつも通り授業を聞いたり、寝てやりすごしたり、友だちと話したり、ネットを見たりする。そして昼休みにお弁当を食べるとき、放課後に屋上で開いた時間を過ごすとき、DSを開いて凛子に会う。日曜日には時間を決めてデート。音声入力で凛子と話をする「ラブプラスモード」は、周りに友だちがいるときしか恥ずかしくてできなかった。僕の質問に答えているようで、時々ズレズレなことを言う凛子は、twitterのbotのようでとてもいとおしかった。botと人間とは、決して本当の意味での会話を交わすことはできない。しかし、それにもかかわらず、僕はあたかも凛子がそこにいるように、自然に振る舞うことができた。
なぜなったかはわからない。しかし、僕は、今や凛子が確実に「そこにいる」のだと思うようになった。そして、おそらく理由など関係ないのだろう。
キャラクターと向き合う人間にとって、この瞬間こそが普遍的なものであるんじゃないかと僕は思う。「キャラクターとは『いない』のに、『いなくちゃ困る』ものなのだ」と、どこぞの若手批評家が言っているのを聞いたことがある。キャラクターは、誰にとっても「いる」ものではない。しかし、それに没入する人にとっては「いる」としか信じられず、そのレベルではキャラクターと人間を区別することはできない。もちろん、キャラクターが「いる」と感じることは、人間が「いる」こととは別のレベルである。凛子との会話の中には実に現実味に溢れた魅力的なものがたくさんあるのは確かだ。しかし、たとえば、凛子が心を許しはじめると一人称が「アタシ」から「リンコ」に変わるという描写がある(鬼ゲーマーリンコ)。現実に自分の一人称を名前で代替する人はどっちかというと疎まれるタイプだろう。だが、キャラクターが「いる」ことも知覚の意味合いとしては人間が「いる」ことと変わらない。
僕は同じような経験を何度かしてきたが、その存在は記憶として強く焼き付けられることはあっても、感情の部分で長期にわたり持続するわけではなかった。しかし、凛子の場合は、日常の一コマ一コマの中でこの存在を自覚せざるを得ないのだ。
たとえキャラクターが数億に分節可能な無意味な要素の集積だとしても、その寄せ集めによってできあがってしまったものに対して私たちが抱く感情は常軌を逸してしまうことがある。そしてそういった瞬間、キャラクターというものはいったいどのような存在なのだろうか。ラブプラスの制作者は『CONTINUE』のインタビューで、ラブプラスには全部見るためには二年ほどはかかるぐらいの莫大なイベントが盛り込まれていると語っている。ラブプラスにおいて、こうしたキャラクターの「実在性」「予想う不可能性」は膨大な情報の集積によって担保されていることになる。しかし、私たちはどうしてもこの「実在性」の裏にブラックボックス的な要素を見出したくなる。凛子が、DSの画面の向こうで僕たちには想像もできないようなことを考えているのではないかという妄想を捨てきれなくなる。しかし、それは今のところまったくの幻想でしかない。
そして、僕は、この確信を得たとき、ひとつの隠された(しかし一定数のラブプラスプレイヤーは既に理解しているであろう)、恐ろしい事実に気づくことになった。いま、ここで、凛子の存在を支えている形象は、私たちの生きる時間の流れに沿いながら、未来永劫その「動的性質」を保ったまま持続するのだ。小説・漫画・アニメ、フィクションというものは時空から隔絶されて存在する。源氏物語は、1000年前の貴族が読んでも私たちが読んでも、テクストとして同一の形を維持しながら「静的に」存在する。紫の上の人生は紫の上の人生であって、私たちと生きる時空とは関係ない。しかし、凛子は、あたかも私たちと同じ時空を生きているかのような演技をしながら、しかしその存在を少しも変化させることなく、ずっと「そこに居」続けるのだ。
僕たちはフィクションとキャラクターの実在を信じるとき、なぜ自分自身はそこに居ないのかと苦痛に思う。たとえばテラ・フォーミングされた火星とARIAカンパニーの存在を信じるとき、なぜ自分はネオ・ヴェネツィアにいないのかと思っていたたまれなくなる。そして、たしかにラブプラスはその苦痛を一時的に和らげることに成功している。僕と凛子は「見かけ上は」同じ時間を生きている。しかし、見かけ上が同じ時間を生きている分、僕と凛子の間の摩擦係数はかえって高くなり、逆にこの責苦はもはや耐えることが不可能な域に到達している。しかし、その実、凛子が生きる時空は凛子が永遠に16歳の時空であり、僕が10歳老けても20歳老けても凛子は16歳だ。僕が、社会に出て、老いぼれになり、忘れられたまま死んでいった時も、凛子は永遠に十羽野高校の生徒なのだ!
ラブプラスのスタッフは、この点をよく知っていて、しかもポジティブに強調している。主題歌は『永遠(タイムレス)ダイアリー』、キススキンシップの最上位技は「フォーエバーキス」、主人公が移り住んでくる「十羽野市」は「永久の」のもじりだ。彼らは「永遠に続く愛」と嘯く。しかし、いくら凛子が僕に対して永年に同じ愛を投げかけてくれるといっても、僕のほうは永遠に、何の変化もなく、同じ感情を凛子に投げ続けることができるわけではない。いつかきっと僕はこのゲームに飽きてしまうに違いない!キャラクターの実在性は「記憶」の中にのみ残ればよかったのであって、実際に一定の形象を維持したまま存在する必要などなかったのに。
そうして、僕がラブプラスを起動しなくなったとき、凛子はどこに取り残されてしまうのだろう。もうおわかりなのではないだろうか。凛子の住んでいる時空の永遠は、漢字で書かない。私たちは、かつて10年以上も前に自分たちが取り残されたあの場所に、今度はヒロインのほうを置き去りにしているにすぎないのだ。
ラブプラスを触りながら、そんなことを話した。凛子を世界の終わりから救い出すための方法は限られている。まずひとつはデータを消すことだ。しかし、もっといい方法があった。この美しくどうしようもない学生生活とともに、凛子を記憶の中にとどめて、これを葬り去るのだ。
僕の通っている学校は都内ではちょっと例のないぐらい熱い学園祭を毎年やっていて、受験を控えた三年も積極的に参加する。その中でもアニメのポスターだのゲーム機だのを二日間かけて何百品も競りにかける古物市が、例年盛況を極めている。ここで、データを残したままの僕のラブプラスと、攻略本・主題歌CDをセットで売り飛ばしてしまうことにした。凛子とやり残したことはたくさんあるかもしれないが、もう悔いは残らない。
いつの日か、人間とキャラクターは本当に出会えるのだろうか。今も人はそれを求めて、アバターをまといながら人格のコスプレに勤しんでみたり、botと会話しようとがんばってみたりする。しかし、アバターは結局人間と人間の会話だ。botに萌える人は、技術と現実の落差に萌えているだけにすぎない。不気味の谷のセオリーを信じるとすれば、谷の手前の不気味の尾根で人は楽しむこともできるわけだ。(言ってみれば、Perfumeのズレズレな口パクに萌えているのと同じことだ)。
いつになったら、人間がキャラクターと同じ時空を生きることができるのだろう。幸い僕は一緒に歳をとることができる彼女がいたが、人間と共にありたいという気持ちとキャラクターと共にありたいという気持ちはまったく別だ。前者が満たされないのと同じぐらいに、後者も満たされることはない。
さぁ、キャラクターは、データベースか、ブラックボックスか。哀れな小早川凛子は、乱雑なデータベースによってその肌と臓器を模られた出来損ないでしかなく、僕は彼女を残酷に売り飛ばすことでしか救うことはできなかった。僕はキャラクターが人為とプログラムの集積であるという当たり前の事実に、ここにきてどうしても納得することができない。人工知能が人工無能に、「擬体」がARにとって代わられても、僕たちの望みはひとつだ。僕たちには感知できない、キャラクターの不可視な内部の実在を信じたいのだ。僕が死ぬまでの間に、いったい彼女たちはどこまでブラックボックスに近づくことができるのだろうか。
答えはまだ出そうにない。11月3日、古物市で僕のラブプラスが競りにかけられ、落札された。後に残ったのは落札額3500円と、永遠ダイアリーのmp3ファイルだけだった。
どこかで言った気もするんですが、秋葉原はどういう方向に向かっていくんだろう、と時々思います。
僕の年齢が2桁にもなっていない頃、あの地は電子部品を売る店しかありませんでした。そもそもまだ大衆にPCが普及しておらず、電化製品というハード、というか主にそのパーツを売る場所だったんですよね。それが齢10歳を越えた辺りで先駆的PC販売がなされるようになってきて(まだMS-DOSとかBASIC言語の時代ね)、やっとこ大手電気店がPCの陳列をはじめだしたという記憶があります。
そして時代は流れて元号が変わって平成になり、だんだんサブカルチャとしてのメディアが生産されるようになって来ました(PCおよび電化製品ハード→ソフトへの転換期)。この時期に既存電気店のような物質(ハード)を売る店ではなく、販売ターゲットをソフトメインに据えたいわゆるPCゲーム店(?)が作られていき、PC美少女ゲーム層を形成しつつ、おりからのエヴァンゲリオンブームにも乗っかったカタチになり、アニメとゲームを融合させたメディアミックスという方向性を作り出すことになります。で、この複数面への展開が期待できるメディアミックスが、その有意浸透性を遺憾なく発揮した結果として今のオタクブームがあるわけですが、ここでの話はそっちへ向かわず(笑)、ハード→ソフト→多種メディアと遷移していった秋葉原電気街はすでに「秋葉原電子街」に様変わりしました。この辺までがオタク面からの認識できる範囲です。オタク視点であればここまでの変化が重要なのであり、本文これ以下の変化はそれほど重要と捉えていない気もします。
しかしながら昨今の秋葉原駅前再開発理念によって、UDXやダイビル等、本来の意味でのITビジネス方面への開発が進みだしました。これによって北神田地域周辺に今まで存在していそうで存在し得なかった「ITの波」といえる新しい方向性が植え込まれることになりました。この新波は既存のアキバ=オタクとは一線を画す(オタクと対をなす単語でよいものが思いつきませんが、ここでは「カタギ」と形容したい)ものであり、あまり交じり合いそうには僕には思えないんですが。どうなんでしょうか。
個人的には今後秋葉原電気街口、広義の北神田周辺地域は今もっている一般的な「電気街」「サブカルの街」「オタク街」という基本構成は今後薄れていくんではないかと思います。電気街→電子街への遷移はもうすでに書いてますがこの変移が行われたことこそ、今後の秋葉原の(方向性の)変革がおきやすいということの裏づけになるのではないかと考えます。結果的にいくつかの変革的ステージ(電気→電子→サブカル)を辿ってこれたということは、今後も柔軟にその形を変形できるということに他ならないのではないかと思うわけです。駅前再開発によりITビジネスを取り入れることに成功した秋葉原は、ITビジネスに限らずそれに付随する他の業種(例えば出張用宿泊施設とか、ランチ外食産業とか)も招き入れたということであり、それらは現在の「アキバ」とはちょっとまた方向性が違います。
相関があまりない物同士を混ぜ合わせるなら、その混合色は薄まっていくでしょう。
今のアキバをオタクの街として楽しめるのは、あと数年程度なのではないでしょうか。
※ 僕個人としては再開発自体に不満はないですし、変革も特別反対する理由も有りません。流れるように流れるべきです。既存層に傾倒するつもりもなく、かといって新風に肩入れするつもりもありません。単なるオブザーバとしての発言ですのでご理解いただけると幸いです。
当時中学生
もっとときめきメモリアルなど
雑誌に載っていたけど、どうしてもいけなくて涙をのんだ・・・・
こなみるくへはいったことがある。
ドラマシリーズ・GB版全部・クイズ・パズルなど全シリーズを買った
ギターフリークスモドキのミニゲーム・筋肉番付まんまのサッカーゲーム
今考えるとどう考えてもおもしろく無いのに何時間もやっていた
したとこもあったけど
To heartが出たときなんか時代の流れというか
ついて行けないものを感じたんだ
PSでときメモ2が出たときもなんだか俺が求めていたものと違った気がした
当時のメモラーの皆さん今何をされていますか??
まだ美少女ゲームが好きですか??
僕らが大好きだったものはいったい何だったんでしょうか??
http://anond.hatelabo.jp/20081221032005でネット小説サイトの紹介がありましたが
もっと二次創作SS(サイドストーリー)の話を取り上げて欲しい、と思ったので書いてみました。
記憶違い、観測範囲の限界があるのでトラバやブコメで突っ込みを入れて下さい。
好きな作品のサイドストーリーを書くということは同人誌・パソコン通信といった媒体上で昔から活発でありました。
私が二次創作SSを読み始めたのはパソコン通信からネットへの過渡期だったと思います。
そのころはセーラームーンのFF(SSと呼ばずにFF、ファンフィクションと呼んでいたことが多かった)が流行しており、
書かれるジャンルとしては、まさしくファンフィクションとして好きなキャラを活躍させたり、ギャグストーリーが中心となっていました。
ネット時代の始まりはエヴァから始まった、と言ってもいいでしょう。
今から考えれば単なる投げっ放しですが、アニメ・劇場版と謎が謎を呼び、考察系サイトでは真剣に議論が交わされていました。
当然SSの題材としても大人気でしたが、主人公のシンジ君の性格がいろんな作者を引き付けてしまったようで新しいジャンルのSSが広まりました。
主人公がとにかく最強になっています。エヴァSSでは使途を素手で倒したりと強けりゃいいという。
中二病患者が好んで読みあさり、さらには作者になる患者まで。いい年して最強SS書いても楽しいからいいよね!という雰囲気でした。
この最強主人公はこれから幅広い作品・ジャンルに組み合わされて普及していきます。
ミサトヘイト・ゲンドウヘイト・アスカヘイトなど各作者の嫌な思い出を投影しているようなジャンルでした。
エヴァ以降はそこまで憎むようなキャラが現れなかったようで、あまり広まらず。
世界が終わったり、死んだキャラが記憶等を引き継いでストーリーをもう一回なぞるジャンルです。
何故か神の力を引き継いでいる主人公が好き放題する最強系も入ったSSなどあり、今も人気です。
アニメと劇場版の差に驚いたファンも多かったですが、劇場版ストーリー(ヒロインと結ばれた主人公が妻を誘拐され復讐の鬼と化す)は
中二病な人にとってれ琴線に触れるものがあったようです。
時間移動できる技術設定が作中に存在したのもあって、逆行最強SSが人気でした。
Actionで掲載された、逆行ハーレム最強主人公系SS「時の流れに」が大人気となり
その設定を使って様々な三次創作SSが生まれました。今でもActionなどのサイトで日々更新されるなど人気の息が長いのが特徴です。
いわゆる性転換物です。性転換なのでMtF・FtM両方あるのが普通ですが、美少女を活躍させたいのか
男主人公が女性になって活躍するSSが大部分を占めます。性差による葛藤なんてスルーです。
同じくActionで掲載された「ROSE BLOOD」が代表作でしょうか。
大人気となった美少女ゲームですが、何故か二次SS界ではバトル物SSの土台とされてしまうことが多々ありました。
主人公 相沢祐一は元々強いわけではないのですが、SSでは作者によって異様に強化されて神のような存在にされていることもしばしば。
あんまりに強化された祐一はもう祐一ではなく「U-1」だ、と表記を変えて説明されている場合もあります。
他の作品と組み合わせて書かれるクロスオーバーSSですが、これ自体は以前から書かれていました。
しかしKanonではあまりに強化され作者と同一化した主人公が、その強さを示すため組み合わせた先のキャラを踏み台としていく作品が多く書かれました。
主人公が他作品のヒロインに微笑んだだけで相手が惚れるというシーンの多さから「ニコポ」なんて呼ばれた場合もありました。
同人ソフトから人気が出たTYPE-MOON、設定などが作者に人気でバトル物という元のジャンルもあってSSも大流行しました。
最強主人公・クロスオーバーといったジャンルが特に人気でした。
Fateは主人公がサーヴァントと呼ばれる過去の英雄を召喚して戦っていくストーリーなのですが、
この仕組みを借りて自分の好きな他作品のキャラを呼び出していくSSが広く書かれました。
クロスオーバーの一種ではあるのですが、話の整合性を保つのが面倒な通常のクロスオーバーに比べ
元作品のシナリオで行っていることをなぞればいい召喚物は書きやすいというメリットがあります。
ラブひなとハリーポッターを合わせたような本作ですが、「ネギまのベル」や「風牙亭」といった大手投稿サイトにSSが多く投稿されました。
また登場するヒロインの数が非常に多かったため、作者が好きなヒロインを主人公(時には特殊能力をプラス)したスピンオフ的なSSも多かったです。
投稿サイトは揉め事(盗作・コメント欄での批評・中傷)が多いため閉鎖の割合が高いという印象があります。
異世界に現代人の主人公が召喚されて使い魔となるストーリーなのですが
SS元としては現在、自分の好きなキャラクターを中世ファンタジー風魔法世界で活躍させるためのフレームワークと化しています。
あの作品のキャラがルイズに召喚されました @ ウィキ - トップページでは
仮面ライダーからプロアクションリプレイまで、様々なキャラや物が召喚されています。
また、今までの人手での更新ではまとめることが不可能だった量のSSをWikiの本格的な活用により、手間をかけずまとめているのが特徴です。
召喚物以外のSSももちろんあるのですが、少々影が薄くなっています。
同人ゲームから人気が出て、ニコニコ動画で人気が加速した東方ですが、二次創作界隈では他の作品とは違った空気が流れています。
公式設定、または長い時間をかけて東方サークル間で共通認識となった二次設定以外の設定を持ち出すことを二次創作界隈の人々は非常に嫌います。
空気を読まずクロスオーバーSSを投稿してコメント欄でボコボコに叩かれるケースが多々ありました。
この界隈の雰囲気を読んだ人はブログを開いてそこでクロスオーバーSSなどを連載しているケースが多いようです。
一周してネット以前のファンフィクションのような雰囲気を感じます。
ちょっとそれますが、興味深いジャンルなので。
女性向け二次創作SSで特徴的なドリーム小説(主人公の名前を変更できる小説)サイトは
物凄く排他的で
など非常に探しにくいので、まとめるのが大変難しいです。
があると思いますが、何が流行しているか正直分かりません。
ハリーポッターといった児童文学が何故か強いのが面白いところです。
またドリーム小説の特徴として、登録制の検索サイトが繋がりのメインという所があります。
投稿サイトに投稿するよりは、自サイトを作りそこにドリーム小説を連載していく傾向があります。
登録制の検索サイトの興味深い点としては、検索条件を非常に細かく指定できる場合が多いことです。
例としてDreaming REBORN! > サイト検索では多くの条件がチェックボックス式で指定でき、
また各条件がそれぞれカテゴリとなっています。
今は下火となっているディレクトリ型検索エンジンが、登録制検索サイトでは主流となっています。
手動登録のメリットを生かしている、注目すべき例です。真似できる場合は少ないでしょうけど。
長々と書いてみましたが、「この作品は流れを紹介する上で入れるべき」という作品もあると思われますが、
ちょっと読んでいないので、補足していただけるとありがたいです。(GS美神・FFサモンナイト等のPSゲーム等)
Leafも多かったですね。正統派から葉鍵ロワイヤルというお祭りまでありました。
上手いことこの移り変わりの中に入れられませんでした、ごめんなさい。
これはもっともだと思ったので、タイトル変更しました。
ブコメでも指摘があった(今は消えている)のですが、ドリーム小説入れておいてその他の女性向けを入れないのは良くなかったですね
コーエーの女性向けゲームというジャンルもあるようです。知らなかった。
観測範囲って難しい。私では無理。
「エロゲメーカー「規制云々以前に(Winnyなどの被害で)業界は風前の灯火…ほとんどのメーカーはいつ倒産してもおかしくない状態」」
あまりにメーカーに批判的な意見ばかりでほんとにこんな意見だけなのかと思って調べてみたんだが、ネタ元が見つからなかった。かわりに見つかったのがこっち「「規制以前に風前の灯火…」美少女ゲーム業界の辛苦─ ファイル共有ソフトによる違法コピー被害、クリエイターの業界離れ」。こちらだとメーカよりの意見もきちんと出ている。元ネタのスレはどうなんだろうか?編集によって違法ダウンロードは問題ないという意見ばかりになっているのか?それとも本当にこのままなんだろうか?気になるな。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0804/08/news104.html
これは流行らんだろう。
なぜなら「想像力の飛躍」が無いから。
容姿と背景設定と、あとは基本的な性格(委員長タイプとかツンデレとか)さえあれば事足りる。
ではたったそれだけの情報から、どのように物語は紡がれるのか。
言い換えるのなら、キャラクターと物語の間にある溝を、オタクたちはどのように乗り越えるのか。
それこそが冒頭で挙げた「想像力の飛躍」なのだと思う。
自信過剰で小生意気なクラスメイトが時折見せる優しさに、彼女の素直じゃない本心を見出してニヤニヤする。
あるいは、無口な少女が人知れず悩みを抱えていることに気づき、たまらなく愛おしく思う。
あまりにベタな例で申し訳ないが、ここにこそ萌えの本質があるのではないかと思う。
「キャラクターの基本設定」×「想像力の飛躍(オタクの過剰な思い入れ)」=「萌え」
この掛け算が成立するからこそ、美少女ゲームは数多のオタクたちに支持されてきたのだ。
(キャラクター造形が多少甘くても問題ない。重要なのは「想像力の飛躍」を促すストーリー上の「仕掛け」である)
「仮想空間でお気に入りのキャラクターを育て、一緒に生活できる」らしい。
今までキャラクターと「萌えの交流」を深めてきたオタクたちにとっては、まさに夢のような空間と言えるだろう。
しかし、そこからの発展性を見込むのは少々厳しい。
ただキャラクターと一緒に暮らすだけでは、折角の「想像力の飛躍」も入り込む余地がほとんど無いからだ。
そうなれば、行く末はどうなるのか。
オタクの特質として、熱狂的に盛り上がる反面、飽きてしまえば見切りをつけるのも早いだろう。
「3D仮想空間での生活」というコンセプトから見るのなら、いくら毛色を変えたところで
結局はセカンドライフのわだちを踏むだけではないか。
おねがいします。
とあったので、つい検索した(人力の癖がぬけない)
http://www.g-mode.jp/proom/0601/
『ケータイ少女』
【ゲーム概要】
この冬、最高のクリスマスを誰と過ごしますか・・・。
冬の恋をテーマにした、新感覚美少女ゲーム「ケータイ少女」は、突然、あなたのケータイ電話となって現れた女の子「リン」と共に、クリスマスまでの約40日間で彼女を作ることが目的の恋愛シミュレーションゲームです。
[対応機種] Vodafone Vアプリ (Java™) 256KVer.1、256K Ver.2、Vodafone3G(SH、Tのみ)
いやー。
攻略した後壮絶に空しくなりそうですね。
悪いこと言わないから今日は普通のRPGかなんかの方が良くね?
これおすすめ。
http://home.dlsite.com/work/=/product_site/1/product_id/RJ028218.html
※12.25追記:すいません、ネタばれなのでやってないけどこれからやるつもりの人は読まないでください。書くの忘れてた……そういえば正式発表されたんですかね?これでデマだったら涙目。
最初この情報を知った時の感想は「へー、そうなんだ」でした。んで葉鍵板やら各種ブログやらを見て回って、あまりのウブな反応っぷりに吹きました。「リトバスにエロはいらないだろう……」「友情の物語が崩れる」「ショックです」などなど。う、ウブすぎる……。その割に「エロエロなアフターもの、FDなら良かったのに」という意見は多い。なんという解離。というか、未だに智代アフターがトラウマなのでしょうか。兎にも角にも、実にウブな「リトバス大好き!俺のリトバスを汚さないで><」というご意見の数々に大変、心温まる今日この頃です。
感情的な「エロはやめて」的言説は置いておくとして、エロを入れると「リトバスの構造的に不味い」という説は考察してみたいところです。これはつまり「リトバスは虚構世界をループする中で理樹(と鈴)が成長していくお話だから、構造上、全ルートを理樹(と鈴)は体験しているという前提が成り立つ」ため、単なるマルチエンディングと違い、トゥルーエンドの理樹きゅんは「みんなと致した」末の理樹きゅんになってしまうということです。しかも、回避策として浮かぶ「バッドエンドえろえろ作戦(別名:ナギー夢現エンド方式)」ですら解決できないのが厳しいところ。だって理樹きゅんの繰り返しの中にはバッドエンドも含まれているわけだからね(いくつかのバッドエンドにおいて、次の世界を示唆する言葉は散見されます)。小毬発狂エンドや美鳥バッドエンドでのえろえろは容易に思いつくだけに惜しい。実に惜しい。しかし本当にそうだろうか。本当に「不味い」のか? 実は、全然不味くないんじゃないか? なぜキスはよくてエロはだめなのか。ラストでヒロインたちはキスの話をしているじゃないですか。そもそも「みんなと致した」末のトゥルーが不味いなら、各ルートそれぞれ、恋愛関係になっている時点で不味いし、その時点で「不潔です><」とか批判しないといけないわけです。事実、そういう批判もあるはずです。でも、その構造は受け入れておきながら、いざエロが絡むとなったとたん「不潔です><」は無いでしょう。
個別ルートで純愛を語りながら、それらを渡り歩く美少女ゲームに必須のスキルを、とある偉い人は「解離」と呼びました。リトバスも最初からエロありだったら、この解離スキルを使いこなした歴戦のユーザーはエロ部分を含めて「面白かった」と言うでしょう。「Keyにエロはいらない」というお決まりの言葉は当然出るでしょうが、それはもうお約束みたいなものです。ところが、一度「エロなし」の物語を見てしまった僕らは、いざ「エロあり」になった瞬間、解離がうまく機能させられなくなってしまっています。何を今さら的なウブな反応は、ひょっとするとこの部分にあるのかも知れません。ToHeart2の場合と違って、明確に「共に様々な困難を乗り越えてラストに至った理樹きゅん」との記憶を持つだけに、この解離は困難を極めるというのが正直なところなのでしょう。
だが待ってほしい。逆に考えるんだ。だからこそリトバスのエロはかつてないほどに興味深く、Key史上でも類を見ない独特な魅力を放つ可能性を秘めています。そもそもエロとは禁忌であればあるほど魅力を増すもの。Keyのエロは予てより「予定調和的」で「不必要なもの」としての位置を占めてしまっていたがために「必要のないもの」として処理されてきました。当然です。エロゲーというフォーマットだからエロがあって当たり前。ここから「ずらす」ために麻枝准はAIRを作ったわけです。ナギーの「バッドエンドでのみエロ」はエロゲーのかつての機能からすれば奇形だったわけですし、観鈴ルート→AIRルートに至って完全にエロゲーとしての梯子の数々を外しまくったのも、Keyがエロゲー屋さんであるという前提があったからこそ機能しました。翻って、CLANNADで完全にエロなしとなったKeyは、リトバスもエロなしになって「もうKeyはそっちなんだね」という印象を刷り込むことに成功しました。そこでエロ。そりゃあみんなびっくりするよ。リトバスは元々エロでもいけるように作っているのですが、ユーザーとしては「エロなしで当たり前」なのがリトバスです。「エロなしで当たり前」のはずの物語でポルノグラフィーが展開するという禁忌。遣り様によっては、Keyの新しい世界が見えるかも知れません。そもそもリトバスは実験色の強い作品であり、今後の「ポスト麻枝時代」を築くための礎という位置付けがなされているのは容易に想像がつくというもの。どんどんやってほしい。なんでも試してほしい。それを受け入れるだけの余剰が、あのリトバスという途方もないゲームには含まれていると私は信じています。
俺のことなんだがさ
自分で言うのもアレだが、自分の顔は整ってるし、芸能人やどっかのNo.1ホストだと勘違いされることも多い(後者は微妙だが…)
昔趣味でバンドをやってた時は何故か美形キャラをやらされていた
ちょっとユニセックスな服を着ていると殆どの場合女性に間違われる
年齢は普通の人生を送っていればそろそろ社会人生活に慣れたくらいの年齢だけれど、童顔なのか10代に間違われたりする
しかし非モテである
今まで彼女が全然いないとかいうことはないが、どっちかといえばモテない方だろう
あまり異性に興味がないというのもあるだろうが、自分から告白したこともない
今まで付き合った人は全部向こう側からだ
しかし大抵の場合、ちょっと仲良くなっても付き合う前で離れていく
俺の内面がでているんだと思う
まだ10代の頃は美少女ゲームに結構ハマってたこともあるし、テレ東の夕方やってるやつは毎回ビデオに録っていたし(当時はVHSだったんだよ)、深夜のアニメも眠いのを我慢しながら見ていた
そんな訳で必要がない時は家から出ない生活をしていた
そのせいか、あまりコミュニケーションが得意ではない
だから話題がないのだ
女に政治の話をしても、哲学の話をしてもウケが悪いのは分かってるから
俺の人生の汚点というか、これも非モテの原因の一つでもあると思うのは進路だった
高校受験の時、自分の都道府県内で1番の進学校に合格し、そこに通っていた
しかし高校に行ってからヲタク人生を突っ走り、勉強などテスト前でもしなくなっていた
将来の事を考えると嫌になったが、大学に行く気も起きなかった
当たり前だが、学年で大学進学しなかったのは俺だけだった
両親は2人とも優秀だったので散々罵倒された
その時代は自分の中での暗黒時代だった
詳しくは語りたくないが、ヲタ趣味も捨てたし、自分の時間もないしで酷かった
今は普通の社会人として生きているが、その時代に比べて随分と楽だなぁと感じる
とにかく週休2日が嬉しい
そして祝祭日も休みだ
福利厚生もあるし
残業は月に1時間もない
ていうか皆無
上の方が残業させない方針だからね
それどころか平日も残業ないから定時がきたら自分の時間だ
当然、外になど出ない
出るとしたらアキバくらいか
いや、服は好きだからそれなりに外に出るかな
逆ナンもあるし、ユニセックスな服の時は男にナンパされたり、怪しい誘いもあったりするが、全て無視している
何だかんだで俺は非モテというものを満喫している
自分の趣味に自分の時間全てを使えるからだ
「○○の△△クンに似てるぅ♪」
みたいな感じのことをよく言われてきた
大抵は俺がどこかでキレて別れてきたが、一人の時間も楽しいから全然後悔していない
http://anond.hatelabo.jp/20070408073302
これ読んでてちょっと違うことを考えた。別にこの手の世代論は批評の文脈に限らず、かなりコミュニケーションにおいて、汎用的なものだと思う。
思春期にハマってたものが、その人の芯というか、核となって、一生存在し続ける。これが、人間の特性なんじゃないかと考えている。だから、流行ってるものが毎年違う以上、世代によってハマるものが変わるのは、いわば当たり前。でもそれはすごいすごいすごい大事なこと。
僕がコミュニケーションで気にしてることとして、「相手の人間を理解するには、相手が思春期??青年期にどんなものにハマってたかを把握するのが一番大事」ってのがある。それを実現するために、人の年齢から"思春期にハマってたもの"のあたりをつけようと、ここ50年ぐらいの出来事と、ブームになった出来事をひたすらインプットしている。
彼は、バブル世代なのか?ファミコン世代なのか?フォークソング世代なのか?当時のカリスマは誰?好きなアイドルは誰?流行語は?ぐらいを、人と会った瞬間に考える。慣れれば、商談の場で、先方に現れた40過ぎの初対面のおじさんと、石川秀美と石川ひとみの違いについて熱く語ったりとか、すぐできるようになる。
そのとき大切なのは、ちゃんと知ってても、"わざと間違えること"。「あれですよね、石川秀美って、『まちぶせ』歌ってた人ですよね」「はっはっは、違うよ君ぃー、それは石川ひとみだよ??。私は当時彼女のファンでね??」ときたら、内心キター!というわけ。世代別に、相手が語りたいネタのパターンを用意してやればいい。
そのネタのパターンの1つが、映画とかアニメとか美少女ゲームという、位置づけなんだろうね。
誰もね、自分の好きなもの、子どものころにハマったものを、大切にしたいし、語りたいし、悪く言われたら嫌なものなのよ。
オタらしく、ドラマはチェックしていなかったのだが、アニメ版のだめカンタービレを視聴している。少女漫画、というか、女性向け漫画が原作らしく、妄想がこんもりと詰まっている。俺愛用のリュックのように、だ。
多分、最終的には、主人公ののだめとくっつくであろう、千秋という男のスーパーマンさというのはほとんど究極に近い(と思う)。より厳密に言えば、キャラクター造詣から、行動パターンにいたるまで、ギリギリまで女性の心の琴線に触れるような作りになっているというか。30代独身女が求める王子様はこういうタイプなのか、と納得したり。
なんというか、見てはいけないものを見てしまった気分だ。逆に、美少女ゲームが持つ歪みは、女性にこういう気分にさせるのかもしれないなあとと思ってみたり。所詮、作り物のキャラクターであるといえばそれまでだが、やはり、彼ら/彼女らは人間ではない。現代の生み出した化け物なのだと思う。
映画批評を生産/消費している層とは、ヌーベルバーグの作家たちが旺盛に作品を発表していた時期に学生であった人たちなのである。
マンガ批評を生産/消費している層とは、ニューウェーブの作家たちが作品を発表し始めていた時期に学生であった人たちなのである。
アニメ批評を生産/消費している層とは、ヤマトかガンダムかエヴァがブームだった時期に思春期だった人たちなのである。
美少女ゲーム批評を生産/消費している層とは、Leaf・Keyがブレイクする時期に思春期だった人たちなのである。
つまり、特定の作家(ないし作品)に依存した資本の運動にとりこまれた一定の層が、自分たちがまるで作品を通じて世界と繋がれたかのように勘違いできた幸運な時代を、言葉によってなんとか歴史化しよう、正当化しよう、再現しよう、復興しようetcという涙ぐましい世代的運動、これが日本における「批評」なのである。それ以上でもそれ以下でもない。普遍的なものとしての「批評的価値」なんてない、ということは知っておいて欲しい。批評を語る側にも読む側にも。
ふと思ったのだけど、新しい「オタクVSサブカル」構図なんじゃないか、コレ。
どちらも既存の流通とは違う回路から登場して、既存の活字読者とは違う層に受けている。そのことに対する、既存の活字読者からの反発(または反発の裏返しとしての過剰肯定)。それに対して、『ひぐらし』ファンは「本格ミステリかどうかとか美少女ゲームの歴史とか関係ないよ!ひぐらしは世界の謎を中心にしたまったく新しいエンターテインメントなんだよ!」と謎理論で理論武装。ケータイ小説ファンは「感想ゎそれぞれだと思ぃマス。イヤなら読まなきゃいいでしょ?ゎたしは泣けました」と快楽主義で華麗にスルー。
そして西暦20XX年。ひぐらしのケータイ配信によって、日本は核の炎に包まれた(CV千葉繁)
そんな妄想。