はてなキーワード: 力学とは
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素晴らしい職務経歴で彩られてたら「ああ、仕事に生きてきた人なんだなあ」で納得できるけど、
結婚もしてないわ職務経歴も派遣パートばかりだわという人みたら、何でこんな生き方してるんだろうか?
何も考えてないか、本人に問題があるのか?と考える。
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なるほど。
ではanond:20081025175959さんからみると、今フリーターやってる女性が10年後もそのままだとすると
そういう見方をするってことなのですね。
できると思ってるんだ?甘いなあ。
女同士のコミュニケーションよりもドロドロした世界、それが「男同士の権力闘争」。
つまり女は四の五の言わずとっとと結婚しろ、それがいやなら男とガチで勝負する覚悟持て、って言いたいんですね。わかりました。
受験物理は公式の暗記ばかりで、とてつもなく退屈で極まりなかった。
けれど、大学の教養課程で習った力学は、微分方程式を用いることによって、本当にエレガントかつ論理的で分かり易く、あんなに苦手だった物理が、一番、面白い科目になった。
おかげで、数学も好きになってきたので、まだ授業は始まっていなかったのだけど、生協で教科書を買ってきて、微分方程式や偏微分方程式を一通り独習した。
最近、解析力学で習うラグランジュ方程式を見て、胸がときめいている。
ノーベル賞ニュースの直後からネットで物理学のキーワードを読んでたんだけど、気づいたことが一つある。
内容の意味が本当にわからない。
今まで、自分はそこそこ頭が良い、書かれた文章で理解できないなんてことはない、みたいにうぬぼれてたんだけど、そんなことはないんだと実感した。他の理系分野はけっこう理解できるのに物理学だけはウィキペを読んでても本当に一言も理解できない。これから先もわかるようになるなんてことはないと達観させられるような意味不明さだ。これはちょっとした絶望だけど、ちょっとした安心でもある。人生の不可能性を知ることは可能性に想いをはせるよりも大事なことだ。まぁ、これは逃げ口上だけどな。
しかし、物理学の用語はなにを見てもおもしろいものばかりだ。語感がいい。「ケマル・パシャ」やら「世界5分前仮説」やら「童子切り安綱」みたいな言葉を呟くだけで快感にひたれる文学部出身者にはたまらない世界。たとえば「ゼーマン効果」「マクスウェルの悪魔」「クォーク」「不可逆性問題」「量子色力学」「チャンドラセカール限界」「ドリフト電流」「ローレンツ力」・・・とにかくいい。書いていくときりがないくらい魅力的な言葉だらけだ。
文学部を無断で代表して言わせてもらう、こういうの大好きだ。なんでこのフレーズの後にこの言葉がくるの?というサプライズ感がたまらない。口に出すだけで気持ちよくなる。だから許してほしいんだ、エントロピーを日常会話で使ってみたり、生きる辛さを重力に喩えてみたりする無礼を。翻訳がいいんだろうか、よくわからないけど、とにかくあこがれるフレーズには違いない。なにも知らない文系は羨望の気持ちでもって物理学の言葉を盗用する。たぶんこれからも。
もうそろそろ誰も見なくなったと思うので自分の弱小ブログに貼り付けておきました。
ソーカル事件?あれもワクワクしたけど種類が違う気がする。
日雇い派遣は、どう変わっても救われない。まずハッピーケースを提示しよう。次に、バッドケースを想定しよう。最後に、あり得そうな未来と救いの道を模索しよう。しかし、いずれにしても救いはない。(なお、日雇い派遣が禁止されない未来は現状維持のため考慮していない。現状に救いがあると考えるのであれば幸いであろう)
ハッピーケースでは、日銭を稼ぐことが出来る。直接日雇いが禁止されずにいることが福音となる。労働者のデータベースが作られる。データベースを管理する会社が、データを有料で提供する。有料でデータの提供を受ける労働力を必要とする会社が、労働者へと連絡する。直接日雇いが完成することで、給金への対応は各会社の良識に任される。
個人情報そのものであるデータベースの構築維持は、慣れた業界が参入するのが通例だろう。書類を揃えてお上から異議が出ず報道少なく気がつくとそこにいる会社が設立されるのが日本の社会における力学である。つまりカードが労働者の手に行き渡る。クレジットやキャッシングの。
喜ぶべきは、日雇い派遣の柔軟な再定義である。支払日は、雇用企業の支払日でありかつクレジットの支払日であると良い。彼らは日銭を稼ぐのではなく借り、月締めの給金をもらうのではなく返すのである。企業への労働は緩衝地帯を置くことによって柔軟な対価を得ることが可能となる。しかしながら傾向から対策を練るのが常識であるならば、新たな限度額が生まれることは想像に難くなく、そして彼らは使い続ける。救いはない。
バッドケースでは、二極化する。マクロ経済学者が労働者を流動的に扱うモデルが現出する。ある作業に特化した歩合制の組織が設立される。組織は、仕事を請け負う。労働力を必要とする会社が、組織へと連絡を取る。会社間取引によって、労働力は適応する。所謂モデル事務所の業態を真似ることになろう。月額の支払いの運用は、取り締まりと良識と労働者の忍耐との間で綱引きが行われる事が予想できる。
組織の乱立と保護は両立しないことが過去多くあった。未来がそうでないとは楽観が過ぎる。そしてよりはっきりと、日雇い派遣と過去呼ばれた労働者の遠心分離が行われる。階層はまるで義務かのようにその差を開く。救いはない。
あり得そうな未来では、それほど変わらない。明示的か否かを問わず広場に労働者は集まる。集合する労働者を企業がピックアップする。どこに募集があるかの情報を提供する会社が企業から金を取る。労働者は無料の情報を基に赴く。あるものは所属し、又あるものは所属しない。携帯電話がフリーペーパーよりも早く伝達する。情報は価値を持つが労働者の挙手は信用されない。あぶれる予約者にお帰りいただけるよう直接雇用の形態が進化するだろう。救いはない。
救いの道は、救いを期待しないことである。玩具を前にした子供に待てと言うのは躾である。事故にあった後のリハビリは気力が物を言う。しかし不幸は道を閉ざし、Vana'dielは未帰還者を生み出し続ける。あと5分早く家を出れば良いと言うのは持てる者の理屈であり、出来ないから彼らは日雇い派遣なのだ。本質的に彼らを想定顧客とし囲み続ける産業が無くならない限り、彼らは使うことを止めない。テレビのコンセントを抜かなければ、見ないことは意思の力である。意思の力が彼らを窮状から回復する。漠然とした現状認識は人間の美徳であるが、強烈なモチベーションが無いからこその状態であるのならば、卵と鶏の循環を終わらせるには至らない。環境が変わらず主体が変わらなければ、得られる結論もまた変わらない。環境は変容し続けるがその根本は彼らの稼ぐ日銭であり、また彼らは実にしなやかに己をフィッティングさせる。救いはない。
日雇い派遣はどう変わろうが救いはなく、よって彼らに救いはない。
…しかし「彼ら」が「日雇い派遣の彼ら」とのイコールを解消するのであれば、検証は無意味でありそこに新たな地平が開ける。
***
蛇足である。頭の中までの検閲が許可されていないのは夢想家には幸いである。
使い暇が無いか使う場所が無ければ彼らは使えない。まずこれで貯まらないことが足かせである「彼ら」が離脱する。そうでない「彼ら」も労働力の需要と供給を満たすことで社会への貢献と自らの居場所を確保する。何もない場所への貢献と、使う暇のない労働とは、いずれも国際社会からの要請によって旗を掲げることが求められる場合に有効な手だてに近似するだろう。絶対的な境遇が変わらずとも、世のものさしは常に相対的である。観測者は光景を解釈することで理解する。解決策は問題が霧散することで理由を失う。緩やかな淘汰圧による必然よりもガイドレールによる先導は、目に付くだけに自由の強制と捉えられるだろう。
同権は平等を意味せず、均一な社会への夢は遠く、しかして我々はここに居てどこにも行けない。ならば実質的な勝利を目指そうと思うが、水は低きに流れる。
貧困が肥満を助長する滑稽さは、精神への脂肪で精算される。豊かさを定義できないことで自壊する幸福ならば、甘んじようではないか。
ちくしょー、いくらうちの会社の求人票に「急募!」って書いてあるからってよー。なめやがって。
封筒開けたら履歴書にプリクラ写真貼ってあってどっちの人だかわからないとかふざけんなってーの。普段着でピースサインだし。スーツ着てスピード写真でも何でもまあ証明写真のたぐいを貼り付けて来いや。
あと事務職の応募でもPC使うからWordとExcel使える方って書いてあるだろ?なんだよ面接来てからケイタイしか触ったことありませんって。もしくはPOSなら触ったことありますとか。アビバでも何でも行ってこい。
あと機械系エンジニアの募集枠とかCADオペレータの枠になんでアビバでWord勉強しましたっていう感じの文系の人がきてんの?と思ったら、これはこっちの募集の文言が悪かったっちゃあ悪かった。まあたしかに専門卒または4大卒以上の方ってかいてあっけどさ、設計業務とか設計支援って書いてあるべ?力学をかけらもわかんないで技術者面接通ると思ったんすか君。
あとな、メールでも履歴書受け付けるとは言ったよ確かに。でもな、love2sachiko@...とかいうアドレスで送ってきて内容が、pdfでもdocでもdocxでもない添付ファイルついてっと思ったらケータイでとった顔写真がjpgで付いてて履歴書の本文は口語体で高校を卒業して2年遊んでてーハケンでどこどこの県行っててーみたいな、お前ケータイ小説のコンテストに応募する作品かと思ったぞ。んでもってお前住所書いてねえよメールに。というかフルネームがわかんねえよ!sachikoって絶対お前の名前じゃないだろ!誰なんだよお前!会社に履歴書送りつけといて匿名希望かコラ!ざけんなオラ!お前増田だろ!
(この文章は人事部の先輩を酔わせたら出てきたという設定に基づくフィクションであり、細部の事実は原形をとどめていたりいなかったりするわけですがフィクションであり、この怒りの勢いだけは真実ですと言うことを書いているこの私も創作された人物なのですよという予防線をはるチキンという設定なので該当の会社をWEBで探したりしないでほしいですし思い当たるところがあるからといって慌てて応募中の会社に問い合わせたりしても手遅れなのでというかまあフィクションですから気にしないで欲しいのですさらっと流して欲しいのですとお願いしておきます。でも一般論として就職したいならちゃんとしようね)
via : http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数の物理オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない物理の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、物理のことを紹介するために
見せるべき10人を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に物理を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴うマニアックな人物は避けたい。
できれば伝記が出てる人物、少なくともブルーバックスレベルにとどめたい。
あと、いくら物理的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
物理好きが『ケプラー』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
物理知識はいわゆる「ブルーバックス」的なものを除けば、中学校程度の物理は知ってる
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりかよとも思うけれど、「アインシュタイン以前」を濃縮しきっていて、「アインシュタイン以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。知名度もあるし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
情報過多なアインシュタインの業績の数々について、特にリーマン空間上の時空の幾何学という数学的側面が強い一般相対論について、
どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな物理学者(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「物理オタとしてはニュートン力学と万有引力の法則は“常識”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSF物理オタが持ってる時空制御やタイムトラベルへの憧憬と、一方で時間順序保護仮説を唱えるオタ的な理論物理へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもSFオタ的な
の二つをはじめとして、オタ好きのする理論を世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「モーツァルトだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
これほどの変態的天才がその後続いていないこと、これがアメリカでは軍事への貢献で大人気になったこと、
数学から経済学までのあらゆる分野に影響を残した天才ぶりはアメリカなら実写テレビドラマになって、
それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
日本国内でこういう天才が生まれないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり物理は目に見える自然現象を説明するためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「アンリ・ナビエ」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、電磁気学にかけるマクスウェルの思いが好きだから。
(以下思いつかねえ)
今の若年層でオイラーを目指す人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
量子力学よりも前の段階で、力学現象を解析的に取り扱う哲学や位相空間の技法は彼で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの物理学者が数学者の片手間でこの時代に生まれていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく物理好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるニュートン力学でしか物理を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
(還元論的)物理の「本質」あるいは「原理」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「あらゆる基本的な物理量は保存する」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそ理論物理学の最も基本的な量はハミルトニアン以外ではあり得なかったとも思う。
「複雑系を取り扱う新しい物理」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はハミルトニアン(時間並進対称性に起因する保存量)にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に対称性と保存量の美しい関係を楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう純粋数学チックな物理を元文系の天才物理学者が推進していて、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9人まではあっさり決まったんだけど10人目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にファインマンを選んだ。
アインシュタインから始まってファインマンで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、場の量子論以降の
素粒子物理時代の先駆けとなった人物でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい人物がいそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10人目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
10人は疲れるなこれ…。穴だらけだわ。そういう意味では元増田すげえな…。
お返事ありがとう。
まずここで言う「politically correct」とはその場のpoliticsに対する配慮からより適当と考えられる(correctな)言葉遣いを選ぶ、という意味で使っているわけだよね? 場のpoliticsへの配慮というのは、たとえば英語圏にも(程度の差はあれ)存在する、と。けど、そこで言うpoliticsというのはその場にいる人間間の力学に依存するのか、それとも純粋に場に対するそれをも含むのか、よく分からない。
それは定義によるんじゃないのか。聖地の例で言うと、その聖地を「聖地」と見なしている人、あるいはその聖地と敵対している人との関係でそういう「場」ができあがっているともいえるし、あるいは自分の中にそういう視点を見いだして、それとの関係性の中で、ということもあり得る。
ただどちらにしても、「裸の王様」の例にあるように、印欧語圏にも「空気読め」現象があることは間違いないはず。
要は「議論をしない言語(文化)というのはあり得る」ということなんだけれど。
あなたの挙げてくれた例を否定する根拠もないので、だったらそこは保留する。ただ、譲歩したとしても「現代の日本語が議論向きでないとはいえない」というのは確かだと思う。論理的な議論の伝統は古代から漢文を通じて培われてきているし、あらゆる分野で日本語の学会が開かれていることはご存じの通り。また逆に、印欧語で情緒的・象徴的・神秘的な表現が可能なこともご存じの通り。これだけ見ても、日本語より印欧語の方が議論に向いていると考える根拠はないと思う。
二点だけ。
(1)「空気嫁」と"politically correct"
そういう問題がないとは言わないが、"politically correct" っていう言葉が英語にもあるように、程度の差こそあれそういう話はどの社会にも存在する。それは言語の問題じゃなくて文化の問題。
こちらの誤解だったら申し訳ないけど、まずここで言う「politically correct」とはその場のpoliticsに対する配慮からより適当と考えられる(correctな)言葉遣いを選ぶ、という意味で使っているわけだよね? 場のpoliticsへの配慮というのは、たとえば英語圏にも(程度の差はあれ)存在する、と。けど、そこで言うpoliticsというのはその場にいる人間間の力学に依存するのか、それとも純粋に場に対するそれをも含むのか、よく分からない。たとえば秘境の聖地とされる場所に一人で訪れて、その場の空気と一体化する…というのは(それが自分にとって損か得かという問題とは無縁に)politicsと呼べるのだろうか。ちょっと説明が欲しい。
(2)「議論をしない言語」について
議論をしない言語なんてあり得ないよ。
「忘れられた日本人」宮本常一(http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/X/3316410.html)読んでみてくれ。かつての日本の田舎で普通に行われていた「寄り合い」では、「議論」は行われていないのに参加者が全体で「空気」を作り上げることで「決定」がされていた、という話が書かれている。現代の職場の「会議」と称するそれと比較してみるのはなかなか面白い。
また別の話であるが、アフリカのある部族ではもめ事が起こると双方が節に合わせて自分の主張に沿って歌うという解決法を取るという。最初は双方の主張が全然違うから双方の歌声は唱和しないのだが、お互いが歌いながら相手の歌に合わせようと努力し合って、最終的には双方の歌が唱和したところで問題解決、というやり方をするそうだ。これも「議論」とは呼べないと思うがどうだろう。
要は「議論をしない言語(文化)というのはあり得る」ということなんだけれど。
> 富裕層の人がそれだけ高額の収入を得てるのはある意味他の人たちから搾取してるからっていう側面はないのかな。
歴史的には搾取が多かったし、今でもそういう側面はあるだろう。でも搾取が全てじゃないよ。富はゼロサムゲームじゃないからね。
> 「大勢の他の人たち」がいないと彼らはそれだけの金額を得ることはできないんじゃないかと思うんだ。
そりゃそうだ。大勢の観客がいないとショーは成り立たない。だからといって、役者が舞台を降りて観客に混じったら誰がショーをやるの?。役者には役者の、観客には観客の役割がある。お互いを必要としてるからって同じ扱いにすべきと言い出したら、誰も得をしないよ。
使い方をわきまえている人のところにある一億円と、使い方を知らない人のところにある一億円は、価値が全然違ってくる。必要なのはみんなで平等にわけることじゃない。いかにわかっている人にうまく使わせるかだ。税金もそのメカニズムの一つだけど、政治の力学はものごとを変えて行くよりは現状維持の方にどうしても強く作用するから、それだけでは難しい。
なんていうと気に入らない人もいるだろうけどね。俺だって何もかも市場に任せれば全てうまくいくなんて話は信じてない。でもそれと同じくらい、金持ちを一絡げにして「必要以上に持ってるんだからこっちによこせ」っていうのもばかげてると思う。
2008年4月3日。韓国・済州(チェジュ)島では60年前の悲劇を哀悼する祈りの声が響いた。
1948年4月3日に始まった「4・3事件」。2万5千人??3万人という島民が虐殺された事件である。韓国建国前夜、アメリカ主導で進んでいた南朝鮮の単独選挙に対し、南北分断につながるものとして抵抗した島民が警察署を襲撃したのを機に、全島に広がる弾圧に発展した。これまでは、「アカの島」でおきた「共産暴動」と烙印(らくいん)が押され、韓国内でもタブー視されてきた。
しかし、民主化後の韓国で歴史の「見直し」が進む中、2000年、事件の真相糾明と犠牲者の名誉回復を図る4・3特別法が制定。2003年には公式の調査報告書がまとめられ、ノ・ムヒョン大統領による政府の謝罪が実現。そして現在、遺骸の発掘と犠牲者の認定調査が進んでいる。調査は日本国内、特に済州島出身の在日コリアンが多く住む大阪でも進められ、これまで不遇をかこってきた肉親のルーツに関心を寄せる二世三世の若者たちにも波紋を呼んでいる。
番組では、60年の歳月を経てようやく本格化した済州島での調査の動きを追いながら、国際政治の力学の中で、なぜ“悲劇”が起き、そして拡大していったのか、を浮き彫りにし、朝鮮半島分断の“起源”を見つめ直す。
出演:作家・金石範(キム・ソッポム)
語り:広瀬修子
例えば、JavaとかRubyとかVBとかPHPとか、そういう種類の言語一種類しか使えないプログラマがいたらどう思う?あまり難しい仕事任せられないって思わない?
古典が読めるってことはまったく評価にならんだろ。プログラマとしては。
無論、最低限の英語力は必須だし、英語力は高ければ高いほどいいが。
最低限、Cとかアセンブラとかできるだけ低レベルに近い言語はある程度使えてほしいし、できればLispみたいな関数型言語とかOSやコンパイラの理論とか、そういうのを知識としてだけでもいいから知っておいてほしいと思うよね?
そんなの情報系の基礎教養だ。微積分学や古典を勉強するよりははるかに楽だし。
だったらどうして、古文や漢文の勉強が自分には意味ないって思うかなあ?日本語で文章を書くのは、仕事上の重要なスキルでしょ。まずその前提がよくわからない。
ビジネス定型文書くのにはもちろん、企画書や仕様書や技術書を書くのにも、古典や漢文の知識なんぞ必要ないだろ。
別に古典教育がどうなろうが観光ビジネスの改革にはならんだろうに。
日本文学についてはそうかもな。でも、当の近代文学もろくに読んでない奴が、下敷きにだけ手出しても意味ないだろ。まずそっちが先じゃないかな。
それとさー、どうしてあれを教えたらこれを教えるのやめろって話になるわけ?両方教えたらいいだけじゃないの。ただでさえゆとり教育なんだからさ。
教育を強化するなら数学優先にすべきだな。あと英語の強化かな。古典なんか最後でいいよ。
それは単なる君の不勉強でしょ。高校までで役に立つこと勉強したいんだったら高専とか工業高校に行くべきなんだし。普通高校ってのはジェネラリストを育成するところなんだからね。
それに、君はたまたま高校で習った行列計算だけで用が足りてるのかもしれないけど、行列の計算だけできても普通は何の役にも立たない。
足りてるわけねーだろ。仕事やりながら勉強してるような状態だよ。これが、高校でやってなきゃ偏微分とかと同レベルの理解度でしかなかったんだと思うとゾッとするね。基礎だけでも仕込まれててよかった。
というか、固有値やベクトル空間を理解せずにどうやって大学を卒業できたんだ?力学も振動論も微分方程式も統計学も信号処理も量子力学も、何一つ理解できないでしょ、それじゃ。
数学系でも電子工学系でもねーもん。適当に試験前の一夜漬けで切り抜けてた。終わったら速攻忘れた。あと量子力学なんか何に使うんだよプログラマが。
信号処理は真面目にやっときゃよかったなとちょっと思うね。今んとこクリティカルにそういうもんが必要になる仕事はやってないが。
俺が思ってるものと比べてるんじゃない。「古典と」比べてんだよ。ちゃんと答えろ。
なんだ、君、プログラマーだったのか。だったら話が早い。
例えば、JavaとかRubyとかVBとかPHPとか、そういう種類の言語一種類しか使えないプログラマがいたらどう思う?あまり難しい仕事任せられないって思わない?最低限、Cとかアセンブラとかできるだけ低レベルに近い言語はある程度使えてほしいし、できればLispみたいな関数型言語とかOSやコンパイラの理論とか、そういうのを知識としてだけでもいいから知っておいてほしいと思うよね?
だったらどうして、古文や漢文の勉強が自分には意味ないって思うかなあ?日本語で文章を書くのは、仕事上の重要なスキルでしょ。まずその前提がよくわからない。
別に「新たに」なんて言ってないけど。ただし、資源ってのはメンテナンス要員が必要なんよね。現在の教育は、その中から一握りの専門家とそこそこ多くのファンを再生産する役目は果たしてると思うけどな。
あと、日本の観光ビジネスはまだ産業として未熟だよ。ヨーロッパ行ってみるとわかるけど、日本の観光ビジネスは横のつながりが弱くて商売がヘタクソ。たとえば厳島神社なんて世界遺産になってるのに、宝物殿では大した物展示されてないし、宮島にある飲食店はろくなお店がない。
劣るとも思わないけどね。ただね、現代文学は古典文学を下敷きにしてたりするから両方読めると楽しいことは知っておいた方がいいだろうね。
あと、古文とか漢文ってのは現代文と読み書きや文法の体系が少しだけだけど違うから、文法ぐらい教えておかないと、興味を持った人があとで独学たって難しくなってしまうことは理解できるよね。いまの高校の教育はそういう目的で文法だけを中心に教えてるようなもんだよ。
それとさー、どうしてあれを教えたらこれを教えるのやめろって話になるわけ?両方教えたらいいだけじゃないの。ただでさえゆとり教育なんだからさ。たとえば俺は高校時代理科と社会を全科目履修したし、数学も数III数Cまでやったし、古文や漢文だったら例えば岩波文庫の注釈付きなんかで訳なしで読めるよ。
俺も理系人間で、たいして出来がよくなかったから思うんだが、行列は大学入試という重しがある高校生の間にある程度慣れておくべきものだ。
大学で習った偏微分とか周回積分とかいっこも覚えてない俺でも行列演算は一通り出来るし、プログラミングとかで使えるのは、高校でみっちりやったからだよ。
それは単なる君の不勉強でしょ。高校までで役に立つこと勉強したいんだったら高専とか工業高校に行くべきなんだし。普通高校ってのはジェネラリストを育成するところなんだからね。
それに、君はたまたま高校で習った行列計算だけで用が足りてるのかもしれないけど、行列の計算だけできても普通は何の役にも立たない。それに、大学の線型代数やったんなら、高校でやるレベルの話なんて子供だましもいいところだってわかるでしょ。
というか、固有値やベクトル空間を理解せずにどうやって大学を卒業できたんだ?力学も振動論も微分方程式も統計学も信号処理も量子力学も、何一つ理解できないでしょ、それじゃ。
行列と比べてどうなんだと聞いてるんだが。
だから、本来比べるのがおかしいし比べられないと書いたんだが。
ただし、君が思ってるほど高校の行列計算は一般には役に立たないし、観光は大きな産業になり得る。理由は上に書いたとおり。
そりゃ基礎技術力が高く工業力が強いほうが観光立国よりずっといいだろ。
昔高専に通っていた頃、試験前になると有志で勉強会をやっていた。出席率は日(教科)によって変動はあるものの概ね30-40%くらいはあったかと思う。つまり、15人弱くらい。
他の高専はどうかは分からないが、うちの高専は大体試験というと、2ないし3教科×5日、くらいの日程だった。教官も一応考慮してくれているのか、暗記系科目(とにかく覚えていないと話にならない教科)+計算系科目(理解していないと話にならない教科)、という組み合わせになっていることが多かった。3教科の日はこの二つに、教養科目(わりとどうでもよい教科)か過去問依存教科(過去問さえやっていればOKな教科)あるいは今更足掻いても不可能な難問教科、が加わる。
基本的に暗記科目は前日資料を作って覚えて……というわけにはいかない。従って、まじめな人間は一週間くらい前には試験範囲をまとめた資料を作るし、不真面目な人間はそれを入手する(作る過程で覚える事項の方が多いのでかなりダメダメなのだが)。そして暇を見ては眺めることで大体の試験勉強は終了する。あとは試験直前のダメ押しくらいだ。
故に、前日の試験勉強は計算系科目に絞られる。しかし公式を覚えていれば何とかなる教科(これはどちらかというと、暗記系教科に分類されがちだが)はともかく、ほとんどの計算系科目(つまり力学系)は公式を覚えるだけでは太刀打ちできない。公式暗記ではちょっとした(あるいはかなり意地悪な)ひねりに対応できないのだ。しかし授業を聞いても理解できなかった諸々が、突然試験前に一人で勉強したからといってどうにかなるわけがない。
前置きが非常に長くなったが、ここで勉強会の登場である。
大体クラスが40人もいれば、何人かはものすごく飛びぬけてできる人間がいるし、10人も集まれば一人くらいはその教科が好きで好きで堪らない人間がいる。よって持ち回りで講義するのだ。教える人間は教えることで自分の理解を深めることができるし、教えられる人間は教官よりも「分かり易い言葉」で理解を得られる。大昔に理解した人間よりも、最近理解した、まだまだ理解したときのフレッシュさが残っている人間の方が、やっぱり説明はうまいのだ。経験論なのだけど。
なので試験の前日(というか試験期間中)はずっと、放課後の教室で持ち回り講義大会をやっていた。メールで「今日、○○が線形代数の講義するよー」とか、「材力の演習3-1が分からないんだけど分かる人いる?」「分かるから今日の放課後教室でやろか?」「あ、講義するならいく」みたいなやり取りがよく流れていたし、どうしても分からないことがあったりすると誰かが教官の研究室に突撃する→放課後講義大会でクラス全員に教える、というようなルートが確立したりもしていた。あるいは電気系の教科だったりすると、電気科の知り合いにゲスト出演願ったり(これまた機械科が死にそうな目にあってるものだって、電気の人間にすれば「常識常識へのかっぱ」だったりするのだ)。
中学時代なんかは試験勉強というと孤独な戦いだったり、試験勉強会と称したお茶会だったりしたものだけど、高専でようやく、"効率的な勉強"みたいなものを知ったなーと思う。
私はわりと材料力学が好きだったので材料力学担当的な位置にいたのだけど、誰かに教えるとなるとかなり深く理解していないといけないし、何より「教えなければ」と思うと、「責任を持って今回の材力の試験範囲は完璧にしておく!」みたいな心持になったりもする。
結局二年生頃に始まったこの習慣は、五年生で卒業するまで継続した。五年生時は各自の研究室でさまざまに講義大会が開催されて、結構な活発ぶりだった。いい感じであの勉強会は続けられたなあ、と今でも思う。勉強が楽しかった記憶というと、まず最初にこの時代が思い浮かぶくらいだ。
教官方には、「常日頃からそれをやってくれれば……」などと嘆かれることもあったけれど、でも試験勉強、というイベント的なものだからあそこまで勉強にのめり込んだり熱心になったりできたんだろうな、と思う。
ふとした思い出話。
特に人の名前とかそういう理由を見出しにくいものは覚えるとっかかりすらつかめずずっと苦労している。
これすげぇ気持ちがわかるwwww
理由がないとダメだよな。何かもっと単純な法則から演繹できるもんじゃないと。
俺が化学得意じゃなくなったのは、反応式の左辺が与えられたときに右辺が一意に決定する理由がわからなかったから。
化学の先生に聞いたら、それはそういうものですとか、センスがあればわかります、とか意味不明なこと言われて益々わかんなくなった。
その先生本人は微分積分が苦手で…とか言ってるアホだったが…。
物理は覚えること少ないぞ。
高校の力学は原理3つしかないし、波の辺りは波がなんなのか理解すれば公式は全部自明になったと思う。
キルヒホッフの法則とかは要するに電荷が保存しますよって話だし、云々。みたいな感じで…。
なんかもうそんなまるで地動説のレベルで「こういう正しい理論があるのだよ」的に言われてもなw
数パーセントといっても場所によって全然違ってくるし一概にそんな事はまだ言えないのだが……
サイバーカスケードとか、そういうのを最近調べて、得意げに使っちゃってる中学生のようで……いや、バカにする気はないんだけど。新しい言葉覚えたら使いたくなるわな。うん。俺もそうだ。
てか、もしかして文系の方かな?言い方がインチキ科学に似ているね。ネット力学、ねぇ(笑)うんまぁ……まあね。いいんだけど。うん。
昨日から書いてる増田だと思うんだけど、もういい加減ネットの力学を理解した方がいい。ネットとは多数の人間が見てその中の数%が反応して印象が作られるところで、ある話題があったとして、その話題に興味ない人間は基本的にスルーして、その話題に元々興味がある人間か、逆に流れに棹差したい人間だけがコメントする。たとえ数十??数百のオーダーの反応があってもそういうものなんだ。
なんか書いて反応があったとしても、目に見える反応以外に多数の無言の人々が後ろに控えていることを覚えておいた方がいい。多くの参加者は、ネットとはそういうもんだと思って付き合ってるんだ。
筆者の, ゲームに対する感情を, (否定, 中立, 肯定)の 3つで区別するなら, 中立からいくらか否定に近いくらいです. 親はゲームは害であると教えましたし, ファミコン1つ購入するのにも大変苦労しました. ゲームソフトもそんなには持っていませんでした. ゲーセンに入り浸るようなことも経験せずに, たまに友達の家でのプレイにつきあうくらいしかゲームとのつながりはありませんでした. まぁ, 興味が無かったと言うのが, 適切な言い方かも知れません.
そんな筆者ですが, 最近ゲーム機を買いました. スーパーファミコン, プレイステーションそして Wii です. スーファミ, プレステは昔出来なかった思いもあって中古で安く買ってみて古き良きベストセラーなんかを試しにプレイしてみました. まぁ, 面白くはあったのですがやはりすぐ飽きてしまい, 今は押し入れの奥にしまいこんでいます.
Wii を買った動機はそれとはちょっと違っていて, その技術的な素晴らしさに感心して, その将来の可能性を考えたら試さずにはいられない, 出来れば家においていろんなゲームを体感してみたいと思ったからでした.
通例に漏れず, wii スポーツを買い, 家族や親戚と一緒に室内でのプレーを楽しみ, ゼルダ, ドラクエを買い, 週末はずっとゲームばかりしていました. このころまでは, あまり考えもせずに楽しんでいましたが, マリオギャラクシーを買ってプレイしたときに, これは!と思うものがありました.
マリオギャラクシーを遊びこなすことは物理の重力の法則を理解することではないか, と.
みなさんはどうかしりませんが, 自分は高校のとき物理を重力や速度, 加速度といった概念を理解するのに大変苦労するとともにとっても楽しんだ記憶があります. 力学のテキストで書かれていることは, 普段生きている生活からは想像を越えたことであり, 何でこうなっているかな?と何度も考え悩んだあげく, 本当に理解出来ないものは結局そうなんだと信じて,身に覚えさせるしか出来なかった. そういったものの1つがマリオギャラクシーでした. それが, マリオギャラクシーをプレイすると, 普通にマリオが重力の法則を反映して星の中心から引っ張られながら動いている. マリオを操作することで, 当たり前に星の真ん中から人が引っ張られているんだと実感出来る.
ニュートン力学自体の数式は非常にシンプルで, 数学的にもそれほど難しいものではありませんが, 大事なのはそれはいかに直感的に手が届く範囲で理解出来るかだと思います.
マリオギャラクシーをやってみて, 感動するとともに悔しくなりました. こんな手軽に重力の法則を理解出来る環境にある今の子供達がうらやましすぎる.
「苛めた人」の中に100%の悪がある、って説明は、単純すぎて現実に即さないとオレは思う。
たとえば、「最終的ないじめの実行者」の背後に、「それを強制した人(黒幕)」がいるとすればそいつは明らかに実行者よりも悪だよね。
じゃあ、集団のノリで誰かを「からかう雰囲気」ができているときはどうなの? あるいはその「からかわれる雰囲気」を察知してその人が自分以外の誰かをターゲットにしようと動いた場合は? その場合に周囲がソレを見て引いてた場合と必ずしもひいてはいなかった(そのノリについていく雰囲気はあった)場合とでは? 苛められることが分かっていて集団に自分から入っていく人もいるよ。なぜなら「それ以外の人には最初から無視されるから」。ある集団で「ネタにされる」方が「無視される」よりずっとマシだから、イジメと分かっていてもそれを甘受する、その人が甘受することに甘えて集団のいじめが加速する……結果ひどいイジメが発生する、なんてことも現実にはよくある。そういうケースでも「最終的な実行者が100%悪い」で済ませていいんだろうか。 イジメの現場では最終的な実行者がくるくる変化することだってある。画に描いたような分かりやすい「いじめっ子」がいて「いじめられっ子」がいて…というような単純なものではない。たとえば、最終的には自殺した「いじめられっ子」というのが、実は先月まで誰かをひどく「いじめて」いた「いじめっ子」だったせいで、今度は自分がハブられて自殺…なんて場合、本当に悪いのは誰なんだ?
集団力学、社会学、心理学、教育学、哲学、その他諸々の議論がきちんとなされないと、「いじめ」を解決するには至らない。分かりやすい「悪」を見つけて叩くというような稚拙な正義感の発露は、それ自体として否定するわけではないけれど(元ブログのように叩く言い方はやりすぎだろと思うからああいうエントリを自分のブログでやろうとは思わないが)、少なくとも「問題の解決」を真摯に行おうとする努力を静かに見守るとか応援する方向で発揮されるべきであって、特定の「悪」をリンチするような「雰囲気」作りをするのは、余り良いことではないと思う(それが元ブログの意図だったとすれば、それは理解できる)。