「苛めた人」の中に100%の悪がある、って説明は、単純すぎて現実に即さないとオレは思う。
たとえば、「最終的ないじめの実行者」の背後に、「それを強制した人(黒幕)」がいるとすればそいつは明らかに実行者よりも悪だよね。
じゃあ、集団のノリで誰かを「からかう雰囲気」ができているときはどうなの? あるいはその「からかわれる雰囲気」を察知してその人が自分以外の誰かをターゲットにしようと動いた場合は? その場合に周囲がソレを見て引いてた場合と必ずしもひいてはいなかった(そのノリについていく雰囲気はあった)場合とでは? 苛められることが分かっていて集団に自分から入っていく人もいるよ。なぜなら「それ以外の人には最初から無視されるから」。ある集団で「ネタにされる」方が「無視される」よりずっとマシだから、イジメと分かっていてもそれを甘受する、その人が甘受することに甘えて集団のいじめが加速する……結果ひどいイジメが発生する、なんてことも現実にはよくある。そういうケースでも「最終的な実行者が100%悪い」で済ませていいんだろうか。 イジメの現場では最終的な実行者がくるくる変化することだってある。画に描いたような分かりやすい「いじめっ子」がいて「いじめられっ子」がいて…というような単純なものではない。たとえば、最終的には自殺した「いじめられっ子」というのが、実は先月まで誰かをひどく「いじめて」いた「いじめっ子」だったせいで、今度は自分がハブられて自殺…なんて場合、本当に悪いのは誰なんだ?
集団力学、社会学、心理学、教育学、哲学、その他諸々の議論がきちんとなされないと、「いじめ」を解決するには至らない。分かりやすい「悪」を見つけて叩くというような稚拙な正義感の発露は、それ自体として否定するわけではないけれど(元ブログのように叩く言い方はやりすぎだろと思うからああいうエントリを自分のブログでやろうとは思わないが)、少なくとも「問題の解決」を真摯に行おうとする努力を静かに見守るとか応援する方向で発揮されるべきであって、特定の「悪」をリンチするような「雰囲気」作りをするのは、余り良いことではないと思う(それが元ブログの意図だったとすれば、それは理解できる)。
そいつらが苛めを止められたかもしれないからって理屈なんだよね? 「止められたかもしれないのに止めなかったのが悪い」と。 これって苛められてる奴が「何かしら手段を講じれば自...
「苛めた人」の中に100%の悪がある、って説明は、単純すぎて現実に即さないとオレは思う。 たとえば、「最終的ないじめの実行者」の背後に、「それを強制した人(黒幕)」がいると...
(煽りの入った)傍観者とか黒幕とかね、そういう話を持ち出したらそりゃ責任は分散してくさ。 あくまで概念の話だよ、被害者加害者傍観者ってのは。その概念をどのように割り振るかっ...