はてなキーワード: 素因数分解とは
量子コンピュータ(に社会が期待していること)に比べたら遥かに実現可能性あると思うぞ。並列に並べるのはおかしい。
量子誤り訂正ができてそれなりにスケールしたとしても、物理的に近傍のqubitを守っているに過ぎないので遠いqubitとのゲート操作は実装できないかできたとしても精度がかなり落ちると思う。
近傍qubitとのゲート操作だけで実現可能な量子回路はそんなになく、それらは古典コンピュータに対する旨味も小さいだろう。
特定用途で素因数分解専用マシンとかだったらあり得るかもしれないけど、汎用で古典コンピュータを圧倒する量子コンピュータというのはまあ…できてもあと100年はかかるんじゃないかな…。
六次の隔たりなんてのが有名な理論になってるのが癪だ。その理論作った人の今頃の承認欲求の満たされ具合を思うとね。
あんなん下手したら本質的に同じような発想は小学生でも過去に思いついてた奴いるだろ。
4桁の素数同士のかけ算は小学生でもできるけど、そのかけられた結果を元の二つの素数に戻すのは東大生でも難しい、という事実も小学生でも気づけそうなことなんだよな。
ようはどの媒体に発表したかってことなんだろ。発表した媒体が幸運だっただけ。
はじめてのお披露目が増田だったら見向きもされてなかったんじゃねーの?
それは、上記のものとは全く毛色は違うけど、ブロックチェーンやABC予想の証明でさえもな。
でも増田で発表したものであろうが等しくグーグル検索にはひっかかるようにはなるのだし、やっぱり価値ある画期的な(←ここ重要)理論は自然とアクセス数が伸びいってついにはより一般的な検索ワードで検索した場合でも上位に表示されるようになっていって有名になっていくって感じなのかな。
今日のオレの気分は、出前のカツ丼の衣のようにグジュグジュだったのだ。どうしてグジュグジュな気分になったかというと、説明は長くなる。時計の針は昨夜の寝る前に飲んだビールの缶を開けるときまで戻さなくてはいけない。
午後に喫茶店での打ち合わせが重なったオレは、3件の打ち合わせで合計5杯のアイスコーヒーを胃の中にぶちこんだのだった。普段からカフェイン中毒になりかかっているオレにしてみれば、そーゆー量のアイスコーヒーのカフェインにジューブンな耐性ができているという自負があったのだが、明日の出勤に備えて床につこうと思ったときには、まぶたを閉じてもオレは寝るんだかんねという強い意志に反して、まぶたは大きく開き続け、目ン玉を通じて体外の情報をオレの頭の中へぶち込み続けようとするのであった。
玄関を抜け、リビングルームのドアを開けると食後のコーヒーをすすっていたワイフが僕に言った。
「目がフクロウのように大きく開いているわ」
今日の昼間の僕の行動を見透かすかのように、今の僕の姿を的確に形容したのだった。
「やれやれ」
これでは、冷製パンプキンスープに浸したバンケットのような僕の気持ちをオープンにすることははばかられた。
死を目の前にするとコーヒーの1杯や2杯余計に飲んだことなど、砂浜の一粒の砂のごとく、些細なこととなる。
平壌から38度線を越えて、着の身着のままで逃げてきたときは、寝るに寝れなかった。コーヒーのカフェインに頼らずとも、夜中になっても目は大きく開き、黒い瞳がまん丸く輝いていた。輝ていたというのは正確ではないかもしれない。獲物として捕食されそうな動物が最後の輝きを放っていたのに近い。ちょっとした運命のいたずらで、絶えてしまう命は、最後の神判を待ちつつも生きたいという方向に傾いていたのだ。
エヌ氏はコーヒーから摂取したカフェインの量が、医師からの警告値を超えているにもかかわらず仕事のためにアイスコーヒーを飲み続けた。午後の打ち合わせ中は、特に体調に変化はなかった。エヌ氏が体調の変化に気づいたのは、日付が次の日に変わろうとしていたときだった。
「おーい、ひつじさん!はじめるよ」
エヌ氏は、大人になってから初めて、羊を数えて睡魔を呼び起こそうとしていた。エヌ氏が大人のプライドを捨て、必死に羊を数えていくのだが、途中の数字が素数だの2の何乗になるのかが気になって、羊のカウントが滞ってしまうのだった。単純に1ずつカウントが増えていけばいいだけの話なのだが、数学に精通したエヌ氏にとって、それぞれの数字には、素因数分解ができるとか2と3と6のどれでも割りやすいとか数字にキャラクターがあるのだった。
ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在の高校数学のカリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。
ユークリッド幾何学が不要だと思う理由は単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学の研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズルが適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの手法は一般的な現象を記述する上で必ず必要になります。
もちろん、たとえば三角比を定義するには、「三角形の内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学の性質が必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:
を証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法や問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。
現状、少なくない時間がユークリッド幾何学に費やされています。数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ、大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています。
高校数学では以下のような事項が重要だと思います。ユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。
これらの分野は数学の手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的な問題を数学や物理の問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベルに重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?
ユークリッド幾何学を初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います。
まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題は証明されるべきものだからです。高校の教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離の公式、三角関数の加法定理、微分のライプニッツ則や部分積分の公式など、どれも証明されています。そもそも、数学の問題はすべて証明問題です。たとえば、関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないかを定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学だけが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。
②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトルや微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理、メネラウスの定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学の手法は問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法は一般に方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学の手法にこだわる理由はありません。
③は単なる個人の思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも、数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要な数学の素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学的直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学を特別視する理由になっていません。
④もおかしいです。そもそも「歴史的に重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的に重要ならば教えるというなら、古代バビロニア、インド、中国などの数学は特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わずに数学を記述するべき理由があるでしょうか。
数学で重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学を擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います。
大昔は代数の計算や方程式の解法(に対応するもの)は作図問題に帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法・重要な結果を導きやすい方法を用いればよいに決まっています(数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。
たとえば、放物線は直線と点からの距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育で重要なのは明らかに2次関数のグラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから、最初から2次関数のグラフとして導入するのは理にかなっています。数学教育の題材は「計算問題か証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。
三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学の範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学で連立方程式を学ぶのに小学生に鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います。
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(*1)
現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに
(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーのデルタ)
で内積が定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間、ベクトル、微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学が不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています。
(*2)
数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題にガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識が必要」というわけではありません。
Amazonのレビューなどに書くと過去のレビューから身バレする可能性があるのと、わざわざ別アカウントを作ってまで批評するほどのものではないと思ったので、こちらに書きます。
初めに断っておきますが、本稿は別に加藤文元先生の人格や業績などを否定しているわけではありません。また、IUT理論やその研究者に対する批判でもありません。「IUT理論が間違っている」とか「望月論文の査読体制に問題がある」などと言う話と本稿は全く無関係です。単純にこの本に対する感想でしかありません。
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加藤文元先生の「宇宙と宇宙をつなぐ数学 - IUT理論の衝撃」を読みました。結論から言って、読む価値の無い本でした。その理由は、
「ほとんど内容がない」
本書は、RIMS(京都大学数理解析研究所)の望月新一教授が発表した数学の理論である、IUT理論(宇宙際タイヒミューラー理論)の一般向けの解説書です。
1~3章では、数学の研究活動一般の説明や、著者と望月教授の交流の話をし、それを踏まえて、IUT理論が画期的であること、またそれ故に多くの数学者には容易には受け入れられないことなどを説明しています。
4~7章では、IUT理論の基本理念(だと著者が考えているアイデア)を説明しています。技術的な詳細には立ち入らず、アイデアを象徴する用語やフレーズを多用し、それに対する概念的な説明や喩えを与えています。
まず、数学科の学部3年生以上の予備知識がある人は、8章だけ読めばいいです。1~7章を読んで得られるものはありません。これはつまり「本書の大部分は、IUT理論と本質的に関係ない」ということです。これについては後述します。
1~3章は、論文が受理されるまでの流れなどの一般向けに興味深そうな内容もありましたが、本質的には「言い訳」をしているだけです。
などの言い訳が繰り返し述べられているだけであり、前述の論文発表の流れなどもその補足のために書かれているに過ぎません。こういうことは、数学者コミュニティの中でIUT理論に懐疑的な人達に説明すればいい話であって、一般人に長々と説明するような内容ではないと思います。もっとも、著者が一般大衆も含めほとんどの人がIUT理論に懐疑的であると認識して本書を書いたのなら話は別ですが。
4~7章は、「足し算と掛け算の『正則構造』を分離する」とか「複数の『舞台』の間で対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズが繰り返し出てくるだけで、それ自体の内容は実質的に説明されていません。
のように、そこに出てくる「用語」にごく初等的な喩えを与えているだけであり、それが理論の中で具体的にどう用いられるのかは全く分かりません(これに関して何が問題なのかは後述します)。そもそも、本書を手に取るような人、特に1~3章の背景に共感できるような人は、ここに書いてあるようなことは既に理解しているのではないでしょうか。特に6~7章などは、多くのページを費やしているわりに、数学書に換算して1~2ページ程度の内容しか無く(誇張ではなく)、極めて退屈でした。
8章はIUT理論の解説ですが、前章までに述べたことを形式的につなぎ合わせただけで、実質的な内容はありません。つまり、既に述べたことを並べて再掲して「こういう順番で議論が進みます」と言っているだけであり、ほとんど新しい情報は出て来ません。この章で新しく出てくる、あるいはより詳しく解説される部分にしても、
複数の数学の舞台で対称性通信をすることで、「N logΘ ≦ log(q) + c」という不等式が示されます。Θやqの意味は分からなくてもいいです。
今まで述べたことは局所的な話です。局所的な結果を束ねて大域的な結果にする必要があります。しかし、これ以上は技術的になるので説明できません。
のような調子で話が進みます。いくら専門書ではないとはいえ、これが許されるなら何書いてもいいってことにならないでしょうか。力学の解説書で「F = maという式が成り立ちます。Fやmなどの意味は分からなくていいです」と言っているようなものだと思います。
本書の最大の問題点は、「本書の大部分がIUT理論と本質的に関係ない」ということです(少なくとも、私にはそうとしか思えません)。もちろん、どちらも「数学である」という程度の意味では関係がありますが、それだけなのです。これがどういうことか、少し説明します。
たとえば、日本には「類体論」の一般向けの解説書がたくさんあります。そして、そのほとんどの本には、たとえば
奇素数pに対して、√pは三角関数の特殊値の和で表される。(たとえば、√5 = cos(2π/5) - cos(4π/5) - cos(6π/5) + cos(8π/5)、√7 = sin(2π/7) + sin(4π/7) - sin(6π/7) + sin(8π/7) - sin(10π/7) - sin(12π/7))
4で割って1あまる素数pは、p = x^2 + y^2の形に表される。(たとえば、5 = 1^2 + 2^2、13 = 2^2 + 3^2)
のような例が載っていると思います。なぜこういう例を載せるかと言えば、それが類体論の典型的で重要な例だからです。もちろん、これらはごく特殊な例に過ぎず、類体論の一般論を説明し尽くしているわけではありません。また、類体論の一般的な定理の証明に伴う困難は、これらの例とはほとんど関係ありません。そういう意味では、これらの例は類体論の理論的な本質を示しているわけではありません。しかし、これらの例を通じて「類体論が論ずる典型的な現象」は説明できるわけです。
もう一つ、より初等的な例を出しましょう。理系なら誰でも知っている微分積分です。何回でも微分可能な実関数fをとります。そして、fが仮に以下のような無限級数に展開できたとします。
f(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ... (a_n ∈ ℝ)
このとき、両辺を微分して比較すれば、各係数a_nは決まります。「a_n = (d^n f/dx^n (0))/n!」です。右辺の級数を項別に微分したり積分したりしていい場合、これはかなり豊かな理論を生みます。たとえば、等比級数の和の公式から
1/(1 + x^2) = 1 - x^2 + x^4 - x^6 + ... (|x| < 1)
arctan(x) = x - x^3/3 + x^5/5 - x^7/7 + ...
π/4 = 1 -1/3 + 1/5 - 1/7 + ...
のような非自明な等式を得ることができます。これは実際に正しい式です。また、たとえば
dy/dx - Ay = B (A, B ∈ ℝ、A≠0)
のような微分方程式も「y(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ...」のように展開できて項別に微分していいとすれば、
よって、
a_0 = -B/A + C (Cは任意の定数)とおけば、
- a_n = C A^n/n! (n ≧ 1)
「e^x = Σx^n/n!」なので、これを満たすのは「y = -B/A + Ce^(Ax)」と分かります。
上の計算を正当化する過程で最も困難な箇所は、このような級数が収束するかどうか、または項別に微分や積分ができるかどうかを論ずるところです。当然、これを数学科向けに説明するならば、そこが最も本質的な箇所になります。しかし、そのような厳密な議論とは独立に「微分積分が論ずる典型的な現象」を説明することはできるわけです。
一般向けの数学の本に期待されることは、この「典型的な現象」を示すことだと思います。ところが、本書では「IUT理論が論ずる典型的な現象」が数学的に意味のある形では全く示されていません。その代わり、「足し算と掛け算を分離する」とか「宇宙間の対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズと、それに対するたとえ話が羅列されているだけです。本書にも群論などの解説は出て来ますが、これは単に上のフレーズに出てくる単語の注釈でしかなく、「実際にIUT理論の中でこういう例を考える」という解説ではありません。これは、上の類体論の例で言えば、二次体も円分体も登場せず、「剰余とは、たとえば13 = 4 * 3 + 1の1のことです」とか「素因数分解ができるとは、たとえば60 = 2^2 * 3 * 5のように書けるということです」のような本質的に関係のない解説しかないようなものです。
もちろん、「本書はそういう方針で書く」ということは本文中で繰り返し述べられていますから、そこを批判するのはお門違いなのかも知れません。しかし、それを考慮しても本書はあまりにも内容が薄いです。上に述べたように、誇張でも何でもなく、数学的に意味のある内容は数学書に換算して数ページ程度しか書かれていません。一般向けの数学の本でも、たとえば高木貞治の「近世数学史談」などは平易な言葉で書かれつつも非常に内容が豊富です。そういう内容を期待しているなら、本書を読む意味はありません。
繰り返し述べるように本書には数学的に意味のある内容はほとんどありません。だから、極端なことを言えば「1 + 1 = 2」や「1 + 2 = 3」のような自明な式を「宇宙と宇宙をつなぐ」「正則構造を変形する」みたいに言い換えたとしても、本書と形式的に同じものが書けてしまうでしょう。いやもっと言えば、そのような言い換えの裏にあるものが数学的に正しい命題・意味のある命題である必要すらありません。本書は少なくとも著者以外にはそういうものと区別が付きません。
ここまでネガティブなことを書いておいて、何食わぬ顔でTwitterで加藤先生のツイートを拝見したり、東工大や京大に出向いたりするのは、人としての信義に反する気がするので、前向きなことも書いておきます。
まず、私は加藤先生のファンなので、本書の続編が出たら買って読むと思います。まあ、ご本人はこんな記事は読んでいないでしょうが、私の考えが人づてに伝わることはあるかも知れませんから、「続編が出るならこんなことを書いてほしい」ということを書きます。
まず、上にも書いたような「IUT理論が論ずる典型的な現象」を数学的に意味のある形で書いていただきたいです。類体論で言う、二次体や円分体における素イデアル分解などに相当するものです。
そして、IUT理論と既存の数学との繋がりを明確にしていただきたいです。これは論理的な側面と直感的な側面の両方を意味します。
論理的な側面は単純です。つまり、IUT理論に用いられる既存の重要な定理、およびIUT理論から導かれる重要な定理を、正式なステートメントで証明抜きで紹介していただきたいです。これはたとえば、Weil予想からRamanujan予想が従うとか、谷山-志村予想からFermatの最終定理が従うとか、そういう類のものです。
直感的な側面は、既存の数学からのアナロジーの部分をより専門的に解説していただきたいです。たとえば、楕円曲線のTate加群が1次のホモロジー群のl進類似であるとか、Galois理論が位相空間における被覆空間の理論の類似になっているとか、そういう類のものです。
以上です。
加藤文元先生、望月新一先生、およびIUT理論の研究・普及に努めていらっしゃるすべての方々の益々のご健勝とご活躍を心からお祈り申し上げます。
増田の不満を素因数分解して、ひとつひとつについて、どう思ってるかどうしたいか決めるといいよ。そうすると、増田が友達に何かを言ったりするにしても冷静に話せるから。
たとえば
友達とよー知らんおっさんのセックス旅行に付き合いたくないというのなら、一緒に旅行してる以上なるべくお互いが不快にならないほうがいいし、そのためのマナーは主張する権利がある。セックスするのは勝手だがバレないようにやってよ、みたいなことは言っても大丈夫だと思う。
友達の浮気するような倫理観が嫌だ、と思うなら、それを旅行中に問い詰めるかどうかを想像してみるとよい。旅行中にやると相当空気が悪くなるだろうから、優先順位(旅行の楽しさ、自分の倫理観、友情、友達の気持ち、など)を決めやすい。
増田にとって友達が本当に大事な親友でどんなことでも話せる、という相手なら、彼氏のことを引き合いに出して諫言をしてもおかしくない。が、まぁ普通の友達なら倫理性まで糾弾するのもめんどうでやっかいだと思うよ。性のものさしは人によって本当に違うし、浮気じゃなくて二股天秤中かもしれないし、不倫何が悪いのさみたいな人もいると言えばいる。
プロ棋士の中には5手先まで読める人がいるらしい。ラマヌジャンは数字を見て瞬時に素因数分解出来たという。カレンダー計算が早いサヴァンの人もいる。
これらの能力は努力では身につかないような気もする。気もするけど、筋の良い訓練と強い関心、情熱によりある程度は目覚めるものもあるのではないか?と思った。
というのも、自分の場合、ふとした瞬間に曲が頭に浮かんで、頭の中で作曲することがある。音楽が好きで、物心つくかつかないぐらいから、クラシックばかり聴いていた。いや、そういう環境だから、好きになったのかも知れない。
友人にこのことを話すと、誰しもがそういうことが出来るわけではないと言う。和音を分解したり、対位法的な旋律を自然には組み立てられないらしい。何をやっても続かないダメな自分だと思っていたけど、人とは違う能力のカケラを客観的に得られて驚いた。
自分から見れば、獲得パスの見えない他人の能力にも、こういう感覚が伴っているのではないか、と思った。つまり、彼らは、自然にそれをやっている (好きだから+苦もなくできるから+いつでも頭の中はそのことを考えている)。
ひよこの雌雄選別の能力は、師匠について2, 3年、その作業を見続けることで涵養されるらしい。
一見、自分には無理だ、と思われる目標も、リラックスして、うまく取り組み続けることで、道が見えてくるものなのかも知れないという希望を抱いた (例え幻想であったとしても)。
社会の最下層に自動的に名づけられるもの、という定義は、少し乱暴な気がする。
昨日、キモ金おっさんを自称する増田がいたが、まったくキモく感じなかった。
キモ要素を除けば比較的シンプルな経済的弱者問題になり、罵りコミュニティであるはてな界隈ですら罵り合い要素などが減少するはずで、
例えば、キモくて金のないオバハンとはむしろ共闘関係が結べておかしくないのだが、キモ金おっさんは「いざとなればウレるくせに」と牙をむく。
エマ・ワトソン的なものへの憎悪の仕方も「お前はキモ金おっさんを選ばないくせに」というセクハラ混じりの悪態になる。
この辺が、「キモ」の発生源でありやっかいさがある。性的な社会階層というか。
社会的階層の最下層であると定義するには、キモくて金のないおっさんの3要素の意味を改めて考えてみる必要があると思う。
おっさん=可塑度・取り返しのつかない度
と、上記のようにに素因数分解し、其々の戦闘力を合計15点(各点5点ずつ。高いほど残念)と設定、
合計10点程度のおっさんAとおっさんBを、仮に勝手に作ってみる。これは架空のおっさんである。
このおっさんAとおっさんのBについて、それぞれ勝手に想像してみる。仮定の架空のおっさんなので許して。
すると、Aのおっさんのほうが深い問題を持っていそうな感じがしないだろうか。
金の無さが最下層でもキモさがマシであると、やっかいさが無さそうだし可塑性が高そうに見えたりしないだろうか。
本増田は、「キモ」が、キモ金おっさん問題の要諦なのではという仮説を立てた。
個人的には、コミュニケーション不全力、それから弱者男性と自己定義する割には過剰なプライドの存在が「キモ」の源泉じゃないかと思っている。
放っておいてくれというスタンスのおっさんは「キモ金おっさん」じゃなくて、「金ないおっさん」なので、ジャンルが違う(シンプルな経済弱者)としてもいいぐらいなのかもしれない。
ちなみに、本増田は、断言はしないが、容姿については「キモくて金ないおっさん問題」のあまり多くを占めていないのではと考えている。
見た目に難があっても性格が魅力的とかそれなりに稼いでるなどのプラス要素によって平穏な家庭を持ってる人は少なくないし、
自称キモ金おっさんたちの意見を読んでいると、おそらく彼らが手に入れたいだろう「旧来的なごく普通の家族」において
夫・父がイケメン、というのは、彼ら自身にとっては必要条件ではないと考えているのではと思ったので。
女性サイドがイケメン要素を求めてくるから悪いんだ!という怒り方をしている意見があるのが、逆説的だが証左になるのではと思う。
自らイケメンでありたいというよりも、市場の要請で仕方なくイケメンを頂点としたヒエラルキーの最下層に閉じ込められたと考えている一群がありそうなので。
したがって、容姿については、キモ・金・おっさんのどれかの改善でカバー可能な従属的要素だと考えている。
もちろん十分条件しては欠かせないのだろうが、それが「キモくて金ないおっさん」状態を解消・軽減するための必要条件ではないというか。
今朝はてブを見てびっくりした。俺のことだった。
加工されていない整数見てすぐにAlfred3から自作の素因数分解GUIプログラム立ち上げてすぐに3417って入力して結果をクリップボードにコピーしてペーストして投稿しただけですごいと言われた。
皆様が想像されていたことと違うので、期待に添えずなんか申し訳ない。
というわけで俺全然すごくないのです。
でも、面白い文章書いてくれて本当にサンクス。おやすみなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20170116210001
20170116210001 = 32833 * 614324497
今日の17時頃ニコニコ実況というサイトでNHKの大相撲を見ながら実況してた。
そこでアナウンサーが
「待機児童の数を都道府県別に見ると、東京都が3417人で最も多く、次いで埼玉県が~」(上記記事から抜粋)
と喋った「数秒もない」うちに次のようなコメントが唐突に流れてきた。
(2017/01/16 17:04:37 http://jk.nicovideo.jp/log/jk1/201701161704-201701161705)
ただそれだけのことなんだけど
”ニュースに出た何の変哲もない4桁の数字をものの数秒で素因数分解して書き込んだ人間を見た”
え?これ何?超人じゃね?数学の天才?リアル『博士の愛した数式』?現代のラマヌジャン?え怖い怖い
俺はとても驚いた。と同時にいろんな疑問が出てきた。
そんなことするやついないだろ、と思いたいが、NHKのニュースが発表されたのは上記のURLからわかるように今日の16時43分
おそらく5時のニュースが初出。まじかよ…(他局、BSで放送してた可能性もあるかも)
例のコメント以外はごくまとも。逆に数字だけのコメントが浮いて見えるっていう
こわいこわい
にしちゃあ過去ログの内容が人間すぎる。それにBOTにする意味が分からん
そうだな、きっとそうだ
お、おれだって51 = 3 * 17 だってことぐらいわかるさ
今日は寝れそうにない