はてなキーワード: 保護観察官とは
俺はアルコール依存症からなんとか立ち直って、今は依存症者の支援をする仕事をやってる。
世間ではあまり知られていないだろうが、依存症から立ち直った俺みたいなやつを雇ってくれる病院や施設なんかがあって、そういう職員をリカバード職員なんて呼んだりするんだわ。
生活保護もらって持ち逃げするやつなんて珍しくない。
保護観察中に保護観察官から連れてこられた奴を面倒見てたら、再飲酒して記憶吹っ飛んで暴力沙汰起こしてまた捕まるとか、日常茶飯事。(実刑確定)
発達障害の依存症のやつなんか、笑顔で心をえぐるようなこと言ってくるし。
こんな奴らのことをくそまじめに考えていたらこっちの精神がおかしくなる。
まあ、こんなやつらはまだいい。
病気なんだから仕方ないし、傷つけられるのも仕事の一部だと思って割り切ってる。
こっちもセルフケアの手法は勉強してるから、なんとかなってる。
問題なのは立ち直ったあとにめちゃくちゃになるやつだ。
アルコール依存症なんだが、こいつは依存症から抜け出したと思ったら、「俺は依存症から立ち直ったから何をやっても良い」と勘違いして職場の上司にたてついて、家から家族を追い出して、職場も家庭も自分からめちゃくちゃにしている。
いや、抜け出したように見えるだけだ。本人が勘違いしているだけだ。酒が止まっているだけで、生き方は何も変わっていない。
ねじ曲がった木のように醜い。
だったら次は、依存症で迷惑をかけた家庭や職場、社会に恩返しする番だろ。
植物に毎日太陽が当たって、適度に水が与えられるように、俺たち職員や社会が適切に接して、少しずつ成長してくように回復していく。
依存症の回復は依存症者本人が成し遂げるものじゃない、周りの協力が欠かせないんだ。
そして、苗が倒れないまっすぐな大木に育った時、依存症から回復する。
だが、上に書いたような、ねじ曲がって育った木はだめだ。
上に書いたようなねじ待った木を、まっすぐに戻す方法はないものか、職員全員で考えたのだが見つからなかった。
結局、この依存症者は、酒は止まったが病院から出て行ってもらうことになった。
きっと、短くて数ヶ月、長くて数年で、再度飲酒するだろう。
社会から孤立して、行き場を失ったアルコール依存症者は、また酒に戻るしかない。
それが現実だ。
俺が持ってる依存症からの回復の方法では、回復までにだいたい半年から1年はかかる。
それも全員に使えるやり方ではない。ある程度の素直さがない奴には効かないし、少しでも知的障害なんかがあると効かないことが多い。
今のところ、俺が担当して「回復の方法をやり遂げた奴は」幸いにしてまっすぐな大木に育っている。(やり遂げるのは10人中1人いるかどうかだ。残りは途中で逃げ出してしまう)
彼らは社会で立派に活躍している。(会社員、職人等の職に就き、きちんと社会的に経済的にも精神的にも自立している)
こいつらが俺の心の救いだ。
アルコール依存症から助けられたものとして、これからも出来るだけ多くの依存症者を助けたい。
内科医へ
肝臓が悪いとか膵炎の患者に「アルコール依存症かどうか」の判定をしてくれ。自分で面倒が見れないなら精神科に回してくれ。アルコール依存症なのに気づかないまま死ぬ奴が多すぎるんだよ!
精神科医へ
依存症の患者を回復させられないなら回復を請け負う施設なり施設を持つ病院に回してくれ。それと依存症の患者に「2度と飲まないなら入院させてやる」とか言うな。そんな約束が出来る奴はいない。そんな約束が出来たら依存症じゃない。そんな台詞で逆に怖くなって飲酒する奴がたくさんいるんだ。依存症者の気持ちがわからないなら下手なこと言わないでくれ。それと安易に処方薬を出すな。処方薬依存は違法薬物依存より厄介なんだ。俺の仕事増やさないでくれ、頼む。。。
更生の可能性は誰にでもあるだと?
問題は、その人を無罪や執行猶予や懲役にした場合、将来、隣人として迎え入れなければならないという点である。
民間人による裁判員制度において重要なのは、前例に従う事や更生の可能性を判断する事や、更生の為の努力を国や保護観察官に求める事ではない。
罪が無い、あるいは、罪を償ったと判断された人と、隣人として付き合っていけるかという点からの判断が、民間人裁判員に求められているのである。
この観点から考えれば、被害者と加害者、どちらが隣人として付き合っていけるかという事以外に、考える事は無い。
隣人として付き合っていける人であれば、情状酌量を認め、そうでない人ならば、求刑を越えてでも死刑を求めるべきであるとなる。
裁判官は、法廷と官舎を往復する生活で、前科者が隣人や職場の同僚や後輩になる可能性がまるっきり無い。それゆえに、性善説で浮世離れした判決を平気で書いてしまう事がある。
民間人裁判員制度は、始まったばかりである。素人の判断には問題があると主張している人がいるようだが、犯罪者の更正において最大の問題は、社会が受け入れるかどうかであり、これは、法曹専門家には判断できない事だから、素人の、市井の人々の、実際に隣人として受け入れる事になる人々の、判断が求められるのである。
無罪や仮出所有りの懲役刑を選択する場合、被告を隣人として受け入れられるかどうかを、改めて問うべきであろう。死刑廃止論者だから死刑にするべきではないが、仮出所されて近所に越してこられるのは困るから、仮出所無しの無期懲役が望ましいなどというのは、刑務所で人間を健康に老衰で死ぬまで生かしておくのにかかるコストを税として負担する覚悟が求められる。
更生の可能性を具体的に考えたければ、自分が同じ犯罪を起こす可能性と、同じと考える事である。この程度の事は、自分でもやってしまうと考えるのであれば、更生の可能性は高くなり、逆に、ここまでひどい事はしないと考えるのであれば、更生の可能性は無いとなる。裁判員には、弁護人の忌避枠によって、女性や若者といった、更生の可能性のような根拠の無い主張に流されやすい人が採用されやすい傾向にあるが、そういう人々にこそ、出所してきた人と隣人として付き合えるのか、健康なままで天寿を全うするまで税金で無駄飯を食わせるのか、といった、本音の議論を与えてみる事である。