維持するためには金がいる。
維持するために金使うのも良いけどその金を別のことに使うとことも出来るわけで
切り捨てるなとか言っている人達も別のところではなくこっちに金使え、と言っているにすぎないので結局別の何かを切り捨てている事になんの違いもない。
中国も似たところがある気がするし、東アジア文化なんだろうな。(もちろん全員がそうとは言わないし増田もそんなこと思ってないだろうが)
自分のあり方自分の態度に自らが責任を持つという発想が無いから、冷酷なことをしても「みんなそうやってたし」と思えば心理的に免責されてしまうんだと思う。
ただ、not for meの増田や他の増田やブクマカの言語化した面白かった/面白くなかったという気持ちを読んで行って、徐々に何がダメだったのかわかってきた。
さよなら絵梨は他の人が書いてるようにとても"余白"の大きい作品だと思う。
解釈は読んだ人に委ねます、といったスタンスで作品自体が明確な答えを用意していない、あえて見せないようにしている。
自分は自己肯定感が低いので、自分に解釈を委ねられてもその解釈を信じられない、間違っていることや頓珍漢なことを考えてしまうのが怖い。
たぶんこの手の作品が好きな人は前提を自分で決めながら自分の解釈に自信を持うことができる自己肯定感が高い人なのだと思う。
そして、それが否定されることを恐れていない、というより否定ではなく"議論"として捉えることができるのだと思う。
自分は自己肯定感が低いので別意見が書かれると、「私の考え方はこうだけど、そういう考え方もあるよね」と思うより「自分が間違っていた」と思ってしまう。
さらに、その"余白"を埋めるために事前知識が必要というのも自己肯定感を落とす要素なので嫌いだ。
自分はこんなことも知らないのか、とダメな自分が見えてしまうから。
そして、極め付けは作品が曖昧だから苦手的なことを書くと「解釈は人それぞれなんだから思った通りで良いんだよ」って言われる。
そういう作品だから無理なんだよ!ってところを優しさやフォローつもりで言われ、更なる断絶が浮き彫りになる。